九年前
お母さん。
ぼくはその後ろ姿を見失わないようにしながら、電柱のかげで息をひそめた。
お母さん。
どこへ行くんだろう。何をするんだろう。
すらっとした足が、だれかの家の前で止まった。白いカベとこい茶色の屋根がある、ふつうのおうちだ。
お母さんの顔は、国語の授業でならった昔話のオニにそっくりだった。
ぼくの頭をなでながら、また百点取ったの、本当に良い子ね、って言ってくれた顔からは、想像も出来なかった。
ぼくが好きなお母さんの部分が全部流れ出した、抜けがらみたいだ。
細い肩にさげられたハンドバッグ。白くて、ぴかぴかしてて、とっても似合ってた。
でも、ぼくはその中に何が入っているのかを知っている。
お母さんがインターホンを押すと、女の人が出てきた。遠くてよく見えないけど、年はお母さんといっしょくらいだ。
お母さんがろくに話もせず、家に入り込んだ。女の人は何かしゃべってるみたいだけど、お母さんが止まらないから、あわてて中に入った。
ぼくは背を低くしながら走って、あとを付けた言い訳はなんて言おう、なんて考えながら、家の門をくぐった。
鍵のかかっていないドアノブに手をかけた瞬間、叫び声が聞こえた。
家族三人で動物園に行ったときに聞いた、興奮したサルそっくりだ。
「お母さん」
家の中に足をふみ入れた瞬間、ぴしゅ、と温かい液体が頬にかかった。
ぼくにケーキを作ってくれたとき、たっぷり果物が入ってたほうがおいしいのよね、って言いながら、イチゴをスライスしてた包丁。
それが今は、赤くてらてらと光りながら、女の人の体に刺さったり抜けたりしている。
階段へと続く廊下で、女の人におおいかぶさっていたお母さんが目を上げた。
ぼくを見て、おどろいたような、困ったような顔をしている。
足の力が抜けて、なんだか良く分からないけど、涙がいっぱい出てきた。
いつの間にかズボンの股がぬれて、透明な液体がおしりと玄関をぬらした。
「りょ……すけ……」
かすれた声は、ぼくの知ってるお母さんだった。
良かった。
やっぱり、お母さんはお母さんだ。
「お、おうち……帰ろうよぉ……」
ぼくはなんだかほっとして、でも、なぜか舌が上手く動かなかった。ひくひくとノドが動いて、すごく弱っちい声にしかならない。
そのとき、お母さんのほかにもう一人、ぼくを見ている人がいることに気づいた。
廊下の突き当たり、壁際のすみっこ。ぼくと同じくらいの男の子が、しゃがんでいる。なんだかあわてた様子もないし、無表情で、人形なのかなと思った。
もしかしたら、お母さんと女の人は、人形を使っておしばいの練習をしてたのかもしれない。
だって、こんなことがあるはずないんだ。
お母さんは、いつだってきれいで、優しくて、にこにこしてて、だれよりもカンペキなんだから。
「ゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
突然の声に、ぼくの目は女の人にクギ付けになった。お母さんがぼくに気を取られたすきに、女の人が暴れだしたのだ。
急に繰り出された頭突きでゆるんだお母さんの右手を、女の人は見逃さなかった。包丁をもぎ取り、必死の形相ででたらめに振り回した。
お母さんの肩が服ごと切れて、ふわふわした水色のニットに赤黒いしみが広がりだす。ひるんだお母さんを突き飛ばし、今度は、女の人が馬乗りになった。
……ああ。
首をふりながら暴れるお母さん。
包丁で刺されるお母さん。
身をよじって、それでも逃げ出せないお母さん。
血と涙にまみれて絶叫するその顔を、ぼくは、きっと一生わすれない。