二日目
次の日が来た。
朝日が昇り始めていた。チャイムは鳴り続けていた。律は起きるそぶりすら見せなかった。
ドアスコープを覗くと、今日のドアチェーン男は、茶色のパイピング加工が施された白いパーカーを着ていた。何気におシャレさんか。
すでに五十回以上は連打されているであろうチャイムを聞きながら、オレは考えた。
ヤツの目的は、死体の女だ。だとすれば、普通に出て引き渡してしまえばいいのではないか? 死体は消え、安眠妨害からは解放され、一石二鳥だ。
……しかし、いくらオレが男だとは言え、異常者を部屋に招き入れるのは抵抗がある。襲い掛かられたところで律が役に立つとは思えないし、警察沙汰になれば、最悪の形で事件が明るみに出るのだ。
「いますよね。やっぱりそこにいるんだ」
例の声が、たったドア一枚しか隔てていない向こう側から聞こえてきた。
「ルカ、ルカ、迎えに来たよ、ルカ」
ルカ。これが、あの女の名前か。
再びチャイムが連打される。チェーンをかけ、ドアだけは開けたほうが良いだろうか。
「答えてください。なぜぼくの言葉を聞いてくれないのです」
ドアノブに手をやり、思い切って開錠する。
「悪魔めえええええええ火の池にいいいいいいいいい落ちろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
オレは再び鍵をかけた。
背中で呪詛を聞きながら、部屋の隅で寝ている律の毛布を剥ぐ。
「……今何時?」
「五時だ。お客さんが来てるぞ」
「知ってる」
「出てくれ。おまえと良い友達になれそうな気がする」
「やだ」
「オレだって嫌だ!」
思いっきりベッドに倒れ込んで泣きわめきたいのに、それすらも今は出来ない。なんだかもう、全てが嫌になった。
剥ぎ取った毛布を蹴り、そこら辺にあったクッションを蹴り、ぶつ切りの右手につまづいて転んだ。
自分でもよく分からない奇声を上げ、チェーンをはずし、思い切りドアを開けると、思いつく限りの罵声を浴びせかけた。
男はもういなかった。
太った男がおびえたような目をしながら、正面の部屋へと飛び込むように消えた。どうやら、向かいに住む学生らしい。騒ぎを聞きつけて起きてしまったようだ。
部屋に戻ると、猫が耳を寝かせたときのような表情で、律が見ていた。
「カルシウムいる?」
「アレの骨からカルシウムを取るくらいなら、殺した方がマシだ。おまえを」
「だって最近怒りっぽいから」
誰のせいだと思ってるんだ。
カーテンを開けると、太陽はすっかり昇りきっていた。
西のほうには低い山が見える。西山公園という、なんのひねりもない名前の大きな公園だ。
外はまだ、ほとんど人通りがない。唯一見えるのは、眼下の住宅街を、ジャージ姿でウォーキングしている男性だけだった。
この部屋の外は、こんなにも平和なのに。
学校に行こう。今日は誰かに泊めてもらおう。食パンも、明日までくらいは持つはずだ。女二人のいざこざなんて、律と死体に比べればマシだろう。
オレはのっそりと布製の鞄に教科書類を詰め込み、肩にかけた。律に一言も声をかけることなく、ゾンビのように部屋を出る。
二階の粗大ごみ置き場スペースに置かれた洗濯機を数回蹴り上げ、つま先の痛みに後悔しながらアパートを出た。
研究室では、今日もコトリが黙々と実験をしていた。帽子の代わりに、ゆるく巻かれた黒髪をツインテールにしている。
「おはよ……亮介、それどうしたの?」
「アパートの入り口でコケた」
顔と手に擦り傷ができ、ジーンズのヒザ部分は黒く汚れていた。
「牧野ちゃんみたい」
「それについての話をオレに振るな」
流しに目をやると、昨日残して帰ったはずの洗い物が消えていた。顔を上げると、水切りかごの中に全て納まっている。
「洗ってくれたのか?」
「今日早く来すぎちゃったから」
「ありがとな」
「ん」
コトリは鞄を抱えて探し物をしながら、そっけなく返事を返してきた。見た目とは正反対だ。今日の白衣は膨れていないが、えり首からは白いレースをのぞかせ、黒く厚く頑丈そうな光沢のある靴を履いていた。
オレは顔と手の傷口を洗い、ジーンズの汚れを取りながら、久しぶりに落ち着いた気分になった。
そうだ、コトリやミノルとならイライラすることは何も起きないんだ。
一年前、律と共同生活をするようになってから、望まない波乱万丈の生活が始まった。何度、律を迎えに交番まで行ったか分からない。おかげで最寄の派出所からは、害のない不審者とその保護者として顔を覚えられるまでになった。
「牧野ちゃんとケンカでもしたの?」
いつの間にか、コトリがすぐ側に立っていた。
ピンク色のバンソウコウを差し出している。
「コケたのは本当だ」
「分かってるよ、牧野ちゃんは暴力振るうような人間じゃないから」
バンソウコウを受け取り、手のひらに貼り付けた。
実験に支障が出そうだ。厄介なところに傷を作ったな。
「あいつが殴りかかってきたところで、すぐに転んで自滅するだろうよ」
「で、ケンカの原因は?」
ひと揉めしたことがなぜわかったのだろう。そういえば、感情が顔に出やすいやつだとミノルに指摘されたことがあった。
しかし、何がどうであれ本当のことを言えるわけがない。
「ああ、いつも通りのくだらないことだった」
「何隠してるの?」
勘の鋭いやつだ。
「律が……大きめのやつを部屋に連れ込んだんだよ」
「大きめの、何?」
「あー……あれだ、キュウリの苗」
「バッカじゃないの」
こいつ、ときどき攻撃的だな。
「もう良いよ、牧野ちゃんに聞くから」
「おまえ、番号知ってんの?」
むしろ、律は携帯電話すら持っていないはずだが。
「帰りに寄れば良いじゃん」
それはまずい。とてもまずい。
かといって、理由を言わずに来るなと言っても、聞く耳を持つかどうか分からない。
そして、正直に『死体があるんです』とは言えない。
「オレ……今日は帰るの遅いんだ」
「私も遅いよ。ってか、いつものことじゃん」
「その上、今夜はミノルのとこに泊まろうと思ってる」
完璧だ。
夜に男女がひとつの部屋で一対一になる……こんな状況を、前日からの心の準備なしに迎えられるわけがない。
「良いよ。私が会いたいのは牧野ちゃんだし」
オレはコトリを見損なった。
「まあ最後まで聞けよ……あのな、オレがミノルんちに泊まる理由はな……アレだよ」
アレって何だ。
「アレって何よ」
全くだ。
「アレだ、女だ。律が部屋に女を連れ込むんだ。つーか、もう今朝ベッドに連れ込んでたぞ」
汁が垂れてたり手が取れてたり、いろいろと不具合はあるが。
コトリはきょとんとした表情で、オレの顔を見つめ続けていた。意味が良く分からないのだろう。
オレだってそうだ。
「それ……冗談?」
「冗談だったら嬉しかったんだが」
ここは本心だ。
「あのさ、じゃあさ、その人って……牧野ちゃんの、彼女? なの?」
「さあ、互いに不干渉だからな」
「んー……」
コトリは表情を曇らせると、無言で自分の実験机に戻った。その背中に、いつもの凛とした佇まいはない。
オレも、なんとか上手く行ったのでホッとしながら作業に取り掛かる。いつもとは違う、妙な沈黙だった。
正面にある実験棚は、一番下の段が空洞になっており、水切りかごなどが収納されている。その隙間から、少しだけ向こう側が見える。コトリの白く細い手は、開かれた参考書の上で全く動かなくなっていた。
……どうしたもんかな。
多少の罪悪感はあったが、もう一人のオレが『嘘なんてついていないんだから』と無責任なことを言う。
心から実感した。
アイツが関わると、ろくなことがない。
昼休み開始のチャイムと同時に、オレはミノルの研究室へと向かった。
ミノルは、動物細胞の実験をしている。微生物系であるオレの研究室とは別の建物だ。
途中で売店に寄ってカップラーメンを買った。ミノルの研究室に電気ポットはないが、ガスバーナーとビーカーはある。それで湯を沸かそう。ガラス棒は使いづらそうなので、割り箸は持参だ。
外に出ると、銀杏並木は私服と制服の学生がごっちゃになってあふれていた。まだ肌寒いのに、置かれたベンチで昼食を取っている者もいる。
ふと視線を前にやると、向こう側から女子三人組が来るのが見えた。その中に、さやかがいる。
「あっ、亮介くん」
「おう」
軽く返事だけして、通り過ぎようとした。
「ちょ、ちょっと待ってー」
ふり向くと、さやかは友人たちに手を振り、先に行くよう言った。
「ね、一緒にランチ食べよっ」
「友達は?」
「食堂で食べるんだって。あたし、お弁当だから」
気持ちは嬉しいが、ミノルのところに行かねばならない。
今夜泊めてくれるように頼みたいのだ。
「悪い、ミノルと食べることになってんだ」
「えー。どこで?」
「タモ研」
本当は森田教授の研究室なのだが、いつしかタモリ研究室と呼ばれ、ついにこんな略称がついた。
「ふぅん……わかった」
さやかの背中に謝り、再び歩を進めた。
それにしても、いったい何のつもりだったのだろう。コトリの愚痴でも聞かせるつもりだったのだろうか。
色々と考えながら歩き続け、階段を上って二階に行く。すりガラス窓のついたクリーム色のドアが見えた。『ネズミに感謝 森田研究室』、と書かれたプレートが掲げられている。
「おっす、ミノ……」
オレの第一声は、ミノルの怒号でかき消された。
「なめた真似してんじゃねえぞ!」
広めの研究室の中央、実験机の前で、ミノルが下級生と向かい合っていた。
「ご、ごめんなさ……あたし分からなくて……」
「それ以前の問題だろうが!」
怒鳴られてすっかり萎縮しているのは、背が高い細身の女子生徒だった。派手めで華やかな、ミノルの好きそうなタイプだ。ふと、あの死体の女と雰囲気が似ているな、と思う。
女子生徒は言葉も返せずにうつむいた。どうやら、泣いているようだ。ミノルはなぐさめるでもなく、さまざまな実験器具が置かれた机を片付け始めた。
「おい、昼飯食おうぜ」
「……おお、亮介か。待ってろ、片付けてくる」
机の真ん中には、染みだらけのぞうきんが置かれていた。火が消えたガスバーナーの上には、透明な液体の入ったビーカーが乗っている。ご丁寧に、そのビーカーの上にもぞうきんが被せられていた。
居心地が悪いので、ドアの外に出る。
何をするでもなく待っていると、再びドアが開き、涼やかな声が後ろから聞こえた。
「よっ、亮介」
肩を叩かれて振り返ると、光下先輩が屈託のない笑顔で立っていた。
「疲れた顔してるぞ?」
「ははは、まあ……」
先輩の後ろでは、なぜか手のひらサイズの猫のぬいぐるみを握りしめた鳥島先輩が立っている。
これが美少女だったらまだ絵になるんだろうが、残念ながら先輩は、すでに額が頭頂に達しつつある鶏ガラのような成人男性だった。
「ふふっ、律君だろお」
銀縁眼鏡の奥で、眼球に皮を被せただけのような目が動いた。さすが、律が留年するまでの三年間を同じクラスで過ごしていただけのことはある。
「今はどうしてるんだ? まだ引きこもりか?」
光下先輩が尋ねた。
「まあ、そんなもんですね」
「頭は良いんだから、どこかに復学させたら? あれだけの成績だったんだから、奨学金くらい簡単に貰えるだろ」
「残念だけど、本人のやる気がゼロですから」
「確かになあ……」
端正な顔の眉間にしわが寄った。
オレの境遇を知ってか知らずか、他研究室の先輩でありながら、いつも何かと気にかけてくれる。ミノルに会うために、こうしてタモ研へと来るようになったのがきっかけだった。最初こそ近寄りがたかったが、今では親近感すら覚えていた。
「彼、周りのことは全然考えないからな。亮介も、自分を犠牲にしてまで我慢することないぞ」
「よく見てますね」
「三年も一緒にいりゃ誰だってわかるよ。担任から世話役にさせられてたし」
「そうそう、律君が授業サボると、光下君がなぜか呼び出されてたんだよねえ。
必死で探し回ったら、ずーっと食堂のそばの池で金魚見てたんだったよなあ」
「いや、あれ金魚じゃなくて藻を見てたらしいぞ」
「モ?」
「うん、藻」
先輩たちのやり取りを聞きながら、この場で土下座したい気分になった。
「しかし、今じゃ亮介がお世話役か。お互い苦労するな」
「……ですね」
光下先輩のさわやかな笑顔に苦笑いを返すと、ふと、鳥島先輩が後ろのドアに目をやった。片づけを終えたミノルが、まだ不機嫌さを残した顔で出てきたところだった。
「じゃあ食堂行くから。あっ亮介、明日の飲み会、買出し忘れんなよ。オレのアパート知ってるよな?」
「大丈夫っす」
「亮介君、今度猫の写真あげようか?」
「……いや、それは」
仲良さげに歩き去る二人を見送りながら思う。光下先輩、今度は鳥島先輩のお世話役なのか……。
ミノルは先輩たちを目で見送りながらも仏頂面のまま、おまえの研究室で食べよう、と言って歩き始めた。
確かに、泣く女の前で食事する気にはなれないだろう。自分が泣かした張本人ならばなおさらだ。
「で、さっきのアレは痴話ゲンカか?」
「それならもっと上手く収めてるっつの」
女遊び歴が長いと、扱い方も上手い。学外に高校生の彼女がいるくせに、いまだに落ち着く気はないようだ。
「まだ出会い系やってんのか?」
「おうよ。一人身だからバリバリだ」
「あれ? あの可愛い彼女は?」
「別れた。可愛いのは顔だけだったもんでな」
贅沢なやつだ。
「夜中にいきなりコンビニまで押しかけてきて、騒ぎ出しやがって。変な男は連れてくるし」
「彼女の浮気相手か?」
「だったらまだ分かるんだがな。何をトチ狂ったか知らんが、その男は元カノに惚れたあげく、オレの女遊びに文句を言うために、わざわざ夜十二時に付き添いでコンビニまで来たんだ」
「片思いどまりか。対決して、彼女を横取りしたかったんじゃないか?」
「かもな。なぜかサシの戦いを挑んできたし。戦国武将かっつの。ちょっと凄んだらあっさり引いてたけどな」
「不戦勝か。良かったな」
「良かねえよ、バイト中に抜け出さなきゃいけねえ羽目になったしさ。つーか最初から遊びはやめねえっつって付き合ってんだから、わざわざ部外者同伴させてまで来るなって話だよ」
目を細めて、ミノルは短くため息をついた。
「で、その場で同伴男に彼女を譲ったのか?」
「おう。それで男は上機嫌になったんだが、今度は元カノがギャンギャン言い出してさ。殺してやるとか何とか……」
殺す。
一瞬反応してしまったが、死体の女はミノルの元カノではなかった。ミノルに襲いかった元カノが返り討ちに……というわけではなさそうだ。しかし、その元カノがミノルの遊び相手に殺意を抱く可能性も……
いや。いくらなんでも考えすぎだ。
犯人はドアチェーン男だと分かりきっているのにこいつまで疑うなんて、どうかしている。たかが『殺す』という一言にここまで反応するとは、相当神経が過敏になっているようだ。
「ま、適当になだめて帰したけどな。女を本気で怒らせたら、男の比じゃねえし」
「実感こもってるな」
「経験者なめんじゃねえよ」
軽く笑っているところを見ると、上手く手を切れたようだ。甘い言葉はお手の物のようだし、歯が浮くようなセリフを並べたんだろう。オレには真似できない芸当だ。
寺田研究室に戻ると、二人の学生がいた。
コトリとさやかだ。
奥の窓際で、イスに座ったコトリをさやかが見下ろす形になっている。ただでさえ不穏な組み合わせなのに、なにやら話をしていたらしい。繋がっていた二人の視線がぱっとはじけ、オレたちに注がれた。
「あ、亮介くん」
さやかが嬉しそうに駆け寄ってきた。コトリは座ったまま、無表情で窓の外に目をやる。
「ミノル君もいるー。一緒にランチして良い?」
「おう、ちょうど男二人で味気ねえと思ってたんだ。良かった良かった」
満面の笑みで、二人は部屋の奥に進んだ。オレも、彼らの後に続く。
左側ではコトリがまだ黙り込んだまま、頬づえをついてた。
「ほらコトリ、メシ食うぞ」
「……えっ? あ、うん」
軽く笑いかけると、コトリに表情が戻った。
「あ、でも私、美由紀たちと約束があるから。ありがと」
黒い鞄を持ち、コトリは部屋を出た。少し気がかりだが、仕方ない。結局、昼食は三人でとることになった。
研究室の隅にある冷蔵庫の上に、電気ポットが乗っている。カップラーメンに湯を注ぎ、席に着く。
「……で、あの騒ぎは何だったんだ?」
さっきの、タモ研での出来事が気になった。
「あいつらの学生実験に付き合ってたんだが、エーテルの入った溶液を直火で焚きやがってな」
エーテルは、引火性があるうえに揮発性が高い。つまり、放っておけばどんどん気体になり、うっかり火でも近づけようものなら爆発的に炎上することもあり得るわけだ。
「だから濡れぞうきんが散らばってたのか」
「おう、かがり火みてえだったよ。溶液にエーテル入れすぎたから、気化させて調整しようとしたんだと」
「なかなかミラクルな発想だな」
「オレがキレたのはそこじゃねえ。そんな実験しながらタバコ吸おうとしてたとこだ」
「まだ未成年だろ」
「突っ込むところ違うっつの」
さやかは話を聞きながら、ころころと笑っていた。取り留めのない話に相づちを打ちながら、彼女の横顔を見る。
子供のように無邪気な笑顔。オレが見る限り、こいつはいつだって笑っている。
だからこそ一瞬見えた、コトリと対峙しているときの顔が忘れられない。コトリと同じ無表情であっただけなのに、なぜなのだろうか。
「……で、おまえは?」
一瞬の間が生まれ、会話が自分に振られたのだということに気付いた。
「……え? 何が?」
「聞けよ。合コン来るかって話」
「いつ?」
「だから、今夜」
なんだこの突発的イベントは。
「亮介君が行くならあたしも行くー」
「いや、やめとく。それよりミノル、今夜泊めてくれ」
「あーもう、ちゃんと聞いてたか? 今夜は合コンだっつってんだろ。部屋に一人で戻る保障はねえよ」
「一人じゃなくてもいい」
「三人でか? オレにそんな趣味はねえ」
何を想像したのかは大体予想がつくが、それでも三人のうち一人が死んでるよりはましだ。
「もー、なんの話してるの」
後頭部をぺしっと叩かれた。オレが言ったわけじゃないのに。
「台所で寝るから」
「せっかく連れ込めても、他の男がいたら女の子引くだろうが。……その点じゃ、おまえには同情するが」
「律のことなら、それ以上の同情すべき点を毎日作ってるよ」
うんざりしながら、ずるずると麺をすする。
「ねえねえ、今日泊まるとこ探してるの?」
さやかが顔をのぞきこんできた。
「あたしんちに泊めてあげよっか」
べしゃり。
箸が麺ごと落ちた。
「おまえ……動揺しすぎ」
ミノルがあきれた声がした。えへへ、とさやかが笑う。
貴重な昼食の十五パーセントは、机の上で死んだ。
「……やめとく。それから、同じことを絶対ミノルには言うんじゃないぞ」
「そんな赤ぇ顔したヤツに言われたかねえよな」
「うるさい」
いきなりこんなことを言われるなんて思わないじゃないか。
さやかは、悪びれもせずに笑っていた。
コトリといいさやかといい、最近の女どもには全く勝てる気がしない。
本日最後のチャイムがなり、校舎からはいっせいに生徒たちがあふれ出た。
一年から三年までの下級生たちが、次々と下校していく。年代としてはちょうど高校生、十六歳から十八歳の生徒だ。
四年生の下校時刻は、研究室ごとにさまざまだった。月に一回ほどしか顔を出さず、五年生の卒業研究開始となってようやく研究室に通い始める場合もある。
オレの所属する寺田研究室や、ミノルのタモ研は、数ある研究室の中ではちゃんとしたほうだった。特にタモ研は、夜七時が定時の帰宅時間だが、その時間を過ぎたとしても教授が帰宅していない場合、生徒はいつまでたっても帰れない。親の手伝いでコンビニのシフトに入らなければならないミノルも、例外ではなかった。
オレはといえば、悩んでいた。
すでに研究室内は、例の三人になっていた。この研究室では、四年生に対して定時は決められていない。その上さやかは、残ってはいるものの実験すらしていない。一方、オレとコトリの五年生コンビは黙々と実験作業を続けていた。
コトリの卒業研究は、『環境汚染物質分解菌の探索』である。要するに、エコロジーな微生物を探し出す、ということだ。この『探し出す』という作業が厄介で、いろいろなところからお目当ての菌がいそうな水や土を取ってきては、使えるかどうかをチェックする。見つかれば大成功なのだが、そうそう上手くいくわけもなく、見つかるまで延々と同じような作業を繰り返さねばならない。まさに、宝探しのような研究である。
壁掛けの時計を、ちらりと見た。いつの間にか六時四十分になっている。
今日という今日は帰りたくない。しかし、ミノルの部屋には泊まれそうもない。ほかの男友達は実家暮らしか寮生ばかりだし、さすがに女に泊めてもらう気にはなれなかった。かといって、家では、とろけたような脳みその持ち主二人が待っている。
いっそインターネットカフェで一晩過ごそうか。
……いや、奨学金を貰っている身で、こんなつまらない出費は控えたい。だいたい、今日帰宅しなかったところで、明日はどうするんだ? さらにとろけた女の死体が、相変わらず待ってるだけかもしれないじゃないか。
滅入った気分のまま、そっと室内を見回した。
左隣の机、ほんのイス二個分ほど離れたところに、さやかが座っている。相変わらず教科書を開いたまま、レポート用紙の前で頬づえをついていた。すぐに彼女の目がオレに向き、あわてて視線を外す。
何か気を紛らわせるものはほかにないか、と見渡すのだが、これと言って変わったこともなく、コトリは席を外していた。彼女は、取って来た菌を『使えるかどうかチェックする』ため、隣の部屋にあるクリーンベンチという設備を良く使う。そうすると、必然的に研究室内はさやかと二人きりという状況になってしまうのだ。
「……あいつ、まだクリーンベンチんとこか」
何気なく呟いた。
「北條さんなら帰ったよ」
「え」
「だから、帰ったの。さっき荷物片付けてたじゃん」
普段コトリとしか呼んでないオレは、北條さんと聞いて誰のことか分からなかった。そういえば、あいつが『北條琴理』という名前だったのを思い出す。
それにしても、コトリの話題になるとさやかは不機嫌そうだ。
「早ぇな、七時前なのに」
いつもなら、八時過ぎまで残っているはずだ。昨日なんて九時だった。
嫌な予感がした。
コトリには確かに釘を刺しておいた。女がいるから部屋には行くなよ、と。
いや、行くなとまでは言わなかったか?
どっちにしろ、普通の人間ならそこで遠慮をするはずだ。オレだって、今夜ミノルの部屋に行き女との間に割って入る勇気はない。第一、やつなら門前払いするだろう。
しかし。
コトリと律だ。
オレやミノルのように、普通の考え方をするとは限らない。いや、律に比べればコトリはまともなのだが、なぜか律に関することになると別人になる。
「亮介くん、もう帰るの?」
「ああ」
気がつくと、焦っていた。フラスコなどの器具を洗い、薬品を戸棚にしまい、机の上を片付ける。
『あれ』を見られたら終わりだ。
いくらコトリでも、いくら律が好きでも、殺人を見逃すわけがない。正確にはオレたちが殺したわけじゃないが、どう考えたってそう取られるだろう。
気ばかりが急いて、ノートを床に落としてしまった。オレはいつも、焦っているとき格段にミスの量が増える。かえって遅くなってしまい、そのたびに自己嫌悪に陥るのだ。
イライラと床に手を伸ばし、ノートを拾い上げようとする。
が、その動作は突然阻止された。
「北條さんが帰ったから?」
さやかの手が、オレの二の腕をきつく握っていた。服一枚をへだてて、薄い爪が食い込んでくる。
「だから帰るの?」
「……何言ってんだ?」
「どっかで待ち合わせしてたりして」
ふっくらとした唇の端を持ち上げていたが、目は笑っていない。
待ち合わせ?
誰とだ?
何の話なんだ。
乱れる思考を、腕の痛みがさらに妨げる。たかが女の、それもこんなに小柄なやつの小さな手が、どうしても払えない。
オレたちは、無言で見つめ合っていた。
さやかの顔からは、ゆっくり、ゆっくり、じらすように笑みが消えていく。失望にも似たすがるような表情が、次第に露呈した。
そしてついに、ふっつりと糸が切れるように、オレをつかんでいた手が離れた。まるで死体のように、白い手が力なく垂れる。
オレとさやかをつなぐものは、何もなくなった。
「……また、明日な」
カバンとノートを引っつかむと、しゃがんだまま動かないさやかを残し、追われるように学校を後にした。
駐輪場までの距離を歩きながら、悶々と考える。
あれは何だったんだろう。
正門の左側に建っている自転車小屋。トタン屋根のもと、蛍光灯が蛾を寄せ集めながら瞬いている。
夜ともなれば、すっかり自転車はまばらだった。それでも、捨て置かれたか、まだ実験をしている学生のものか、十数台の自転車が停まっている。手前にある、銀色の塗装が施されている荷台のないものがオレの自転車だ。
どこにでも売っていそうな、安っぽい車体。この高専に編入した当時は、そんなものですら買うのが大変だった。オレには、奨学金とバイトからの収入しかない。生活は正直ぎりぎりだ。遺された金は、大学院に進学するには心細い額だった。
……いつもなら、晩御飯の内容でも考えながら帰路についていたのに。
後ろに広がる夜闇にさやかがいるような気がして、漕ぐ足に力が入る。
「くそっ」
ああいう女は苦手だ。頭の片すみで、必死に押し殺していたものが動き出すから。
消し去りたい記憶。
九年前のあの日が、ヘドロのように柔らかく、生暖かい体温を持って、オレの意識にまとわりつく。
惨劇と憎悪の中で起こったあの出来事が、今でも忘れられない。
小さく首を振ると、立ち漕ぎでスピードを上げた。
空気を裂いて走るびゅうびゅうという音が、よどんだ脳に響く。少しでもヘドロを意識内から追い出したかった。
おかげで、着いたころには息もあがり、うっすらと汗ばんでいた。体を動かしたことで、気分も入れ替わっている。
しかし、オレは大切なことも忘れていた。マンションの前に見慣れた車が止まっているのを見て、やっと思い出したのだ。
いる。
コトリが、ここに来ている。
実験室を出たときのように、荷物を引っつかんで自転車から飛び降りた。
しかし服の端が自転車のハンドルに引っかかり、車体はオレの腰を強く打った挙句、大げさな音を立てて倒れこんだ。痛みと失態でイライラしながらも、アパートの自室を見上げる。
律、どうか追い返していてくれ……。
三階建てアパートの階段を、ひたすら駆け上る。オレの部屋は最上階、三階だ。
つまづきそうになったが持ち直し、なんとか二階の踊り場までたどり着いたところで、かすかに声が聞こえた。
女の悲鳴だ。
二段飛ばしで上り、ようやく三階にたどり付いた。左を見ると、向かいの部屋の住人がちょうどドアを開け、何が起こったのかと飛び出てきたところだった。
「あ、あっ」
オレを見るなり、おびえるように激しく視線をさまよわせた。おそらく、今朝のことを思い出したのだろう。
「どうも朝はすみませ……」
言い終わらないうちに、男は肉を震わせながら、激しくドアを閉めた。『三匹のこぶた』のオオカミ役にでもなった気分だ。
しかし、今はコトリの方が先だ。あの男への言い訳はそれからでも遅くない。
右手にあるオレの部屋のドアは、鍵が開いていた。玄関には、厚底の黒い靴が行儀良くそろえられている。
遅かった。
部屋に入ると、ドアの音に気付いた二人が同時にこちらを向いた。
どう説明しよう?
いつも冷静だったコトリの目は丸く、驚いたようにオレを見つめていた。
いっそ、本当のことを話そうか。律の性格を知っているから、もしかしたら理解してくれるかもしれない。
死体を見られた以上、それしかないのだ。下手に嘘をつけば、すぐに見抜かれるだろう。
「亮介、これって……」
「違うんだ、聞いてくれ。実は彼女は……」
言いながら、ベッドを見た。相変わらずベッドに横たわったままの、美しい女性。
ただし肌は青黒くくすみ、布団に接する下部分にはアザが出来ていた。辺りにはうっすらと異臭が漂っている。
「彼女……? 亮介の彼女なの? 牧野ちゃんのじゃなくて?」
「どっちも違うが、おまえが気になるのはそこか?」
「あと、死んでるんだよね……」
二日目の夜ともなれば、さすがに眠っているだけには見えない。その上、手まで もげているのだ。
「律、そういえば右手はどこにやった?」
「捨てた」
こともなげに言った。
「おまえは刑法を良く学ぶべきだ」
「死体遺棄?」
「そうだ。死体損壊も忘れるな」
「ちょっ、なんの話してるのよ」
あせったようにコトリが割って入る。
「律、おまえからコトリに説明してやれ」
促すと、律はぐるりと首を動かしてコトリを見た。見つめられて動揺しているコトリは、まるで純情な中学生だ。
「外で拾ってきた」
説明になってない。
「えっ、そと?」
「うん。綺麗だったから」
「……牧野ちゃん、こういう顔が好みなんだ」
気にするべきポイントはそこではないと思った。
「昨日の午前一時ごろに、アパート入り口で倒れているところを運び込んだらしいぞ。ご丁寧に、オレに添い寝させやがった」
「そういえば、昨日"変な人がドアを揺らしに来た"って言ってなかった? それって何か関係あるんじゃない?」
さすが鋭いな。
というか、あっさりオレたちの話を信じるとは思わなかった。
「あのときは言えなかったが、そいつはずっと女を返せってわめき散らしてたんだ。
確実に関係者だろう」
ドアチェーン男とのやり取りと、この死体が部屋に運ばれてきてから、腕が折られ、今に至るまでのことを詳しく話した。
コトリは聞きながら、何かを考えているようだった。その表情に、もう動揺の色はない。
「罠ってことはないの? 死体をなんとか出すように仕向けて、証拠を押さえたところでハイ逮捕、とか」
「それはないだろ。逮捕したいだけなら、素直に通報すればいい。毎朝毎朝、ご丁寧に起こしに来る意味がわからん」
彼女はどうやらまだ納得がいかないようだった。しかし、言い返さないところを見ると、的確な反論も見つけられてはいないようだ。
しばらく考えるように黙っていたが、やがて吹っ切れたように話題を変えてきた。
「それで……自首する気はないのよね?」
「犯罪者みたいに言うな。冤罪にならない保障があるなら、今すぐにでも警察に届けたいさ」
「だけど、発見してから時間が経ちすぎてる。腕も取れちゃったし。無理ね」
あっさり断言すると、コトリは立ち上がった。そのままベッド脇に行くと、死体へ手を伸ばす。
「おい、触るのか? せめて手袋しろよ」
「もう二人とも直に触ってるんでしょ? 今さら手遅れよ」
「死体の状態を保つためじゃなくて、指紋だか何だかが付いたら、おまえまで巻き添え食うだろうが」
コトリは目をしばたかせると、意外そうに言った。
「今のって、心配してくれたんだ」
「いくらなんでも、殺人事件に巻き込むのは出来ない。死体に触りたければ、代わりに」
律の腕をつかみ上げて、続けた。
「こいつがやってくれるから」
いまいち状況に付いてきていない律が、面倒くさそうにオレを見る。
「なに?」
「コトリの指示通り動いとけ。死体を調べたいらしい」
「ふーん」
ひょこひょこと近づくと、律は怖がる様子もなく死体をあれこれ触り始めた。あいつに欠けているどこかの神経は、こういった状況では不要らしい。
昔から思っているのだが、神経が細いのか図太いのか、本当に分からなくなる。今『本当はぼくが殺しました』と告白されたとしても、納得してしまいそうだ。
……いや、律が殺人をしたら、こんな『至って普通の』死体なんか出来上がらないか。
「牧野ちゃんの知り合いじゃないのよね?」
「うん」
「ってことは、その、恋愛関係とかはないのね。あっ、なんでもない」
コトリがなにやら独り言を言っている。
「ついでに聞くけど、亮介は?」
「見たこともない女だ。ついでって言うな」
「一応ね」
この扱いは何なんだ。
「女の子ならバッグとか持ち歩くよね? 身元を確認できるようなものはないの?」
「バッグか、気づかなかったな。律、いっしょに拾わなかったのか?」
「捨てた」
「断言するぞ、お前は人生における全ての選択を誤ってる」
せめて財布の中身を拾ってきてくれたなら、上等の食パンを食べさせてやったのに。
諦めてコトリを見ると、ハンカチで鼻と口を軽く押さえていた。
「よく死体なんかと同じ部屋で寝られたね」
「オレたちは唯物論者なんだ」
「幽霊の心配じゃなくて、このニオイのことを言ってるのよ」
「保冷剤はばら撒いておいたんだが、もう溶けてるな」
かと言って、溶けたものを再回収して、食品類の入った冷凍庫に入れる気にはならない。スーパーかどこかで氷でも貰ってこよう。
「あとは消臭剤も必要ね。……牧野ちゃん、死体を横に向かせてくれる?」
律が背中の見える形に死体を傾けると、コトリは、臆する様子もなく死体に顔を近づけた。
「かなりひどいアザが広がってるね」
「うん。死斑」
「初めて見た、内出血みたい」
「内出血は特定の箇所に出ることはないよ。こんなふうに低位部にだけ出るのが死斑」
確かに、今まで下にしていたうなじや背中、ふくらはぎなどの箇所にのみアザは広がっていた。律、余計な情報だけは持ってるな。
「確か、死斑で死因が分かるのよね?」
「死因も何も、首筋にベッタリ指の跡が付いてるぞ。完全に絞殺だろ」
オレが口を挟むと、冷静な声が返ってきた。
「私は牧野ちゃんに聞いてるの」
「大雑把な死因しか分からないよ」
一呼吸置いて、律は続けた。
「暗褐色の死斑が強く出てるから、心臓病、窒息、脳出血あたりだろうね」
「ほら見ろ、やっぱ首を絞められて窒息したんだ」
「そんなに参加したいならこっち来なさいよ。綺麗な子と触れ合えるチャンスよ」
「瞳孔の開いてない、心臓が動いている子が好きだ」
オレは二人に背を向け、携帯電話をいじり始めた。
「瞳孔、濁っててよく分かんない」
律の言葉に、思わず生々しい想像をしてしまう。あまり見ないようにしていたが、やっぱり死体というのはいくら美人のものであっても不気味だ。しかも首に絞め跡をつけた他殺体なのだから、なおさらだ。
おそらくはあの狂った男に押さえつけられ、逃げることも適わず息絶えたのだろう。そう思うと、いくら生前を知らないとはいえ可哀相だなと思う。最期はどれほど苦しかっただろうか。
「……あっ!」
思わず座りなおし、二人のほうを見た。コトリたちも、突然声を上げたオレに驚いたようだ。
「いきなりどうしたのよ」
「絞殺なら、爪の中に犯人のDNAサンプルが入ってるんじゃないか?」
すっかり忘れていた。
オレも死体の側に駆け寄り、二人の間に割って入る。ブランドのロゴにダイヤがちりばめられたネックレスを絡みつかせた、青い喉。
予想通り、手形のアザは正面からつけられていた。
「やっぱり犯人は、真正面から首を絞めたんだ」
「そうだね」
律が、全く感情のこもっていない相づちを打った。
「いいか、真正面から殺られたってことは、女も多少反撃をしてるはずだ。つまり、犯人の腕や身体を引っかいたはずなんだ」
「つまり……彼女の爪の間に犯人の皮膚が詰まっていたなら、それが犯人の証拠になるから、冤罪の心配はなくなるってこと?」
「完全になくなりはしないかもしれない。が、犯人が手袋をしていなかったなら、犯人の指紋もセットで首に付いてるはずだ。DNA鑑定と併せれば、オレたちが特殊な被害者だと分かってくれるかもしれない」
言った後、ふと気付いて付け加えた。
「もちろん、被害者っていうのはオレとコトリのことだぞ。おまえは違うからな」
「なんで?」
「警察に届けるどころか、死体を持ち去った上に腕を折ったからだ」
「ふーん」
「……オレの言葉、本当に理解した上でのその反応か?」
律は死体のほうに興味が行ったままらしく、検死官のようにさまざまな部位を調べている。コトリは、見守るようにそれを眺めていた。
「自分だけ逃げるつもりなんて、最初っからないから」
言いながら、死体の左手首を持ち上げる。
止めようと焦ったが、遅かった。
「この先どうなろうと、牧野ちゃんを見捨てるくらいなら巻き添え食った方がマシよ」
「運命共同体か。ラブラブだな」
「心にもない冷やかし言ってないで、亮介自身はどうするか決めたら?」
どうするもこうするもない。
ここはオレの部屋だ。はなから逃げられるわけがないのだ。
「見つかったら、狂ったカップルに脅されて部屋を提供しましたって言うよ」
「結局牧野ちゃんが心配なんでしょ? 素直になればいいのに。……それよりこれ、どう思う?」
コトリは死体の指先を凝視していた。彼女の肩越しに覗き込む。
きらびやかなネイルアートが施された女の爪には、何ひとつ挟まってはいなかった。