エピローグ
「入るぞー」
ノックをせずにドアを開けた。
天井も壁もリノリウムの床も、いかにも病院らしい白色で統一されている。二人部屋は右も左も薄緑のカーテンが引かれ、室内が廊下の延長のように細長かった。
向かって左のそのカーテンを、無造作に開ける。
「来てたのか」
窓際の白いチェストの上に、コトリが花を飾っていた。わざわざ花瓶まで持参したらしい。カスミソウに囲まれたオレンジのマーガレットが、午後の柔らかい日射しに良く似合う。
「ちょっと、ノックぐらいしてよ。あと、入院患者の前なのにガサツすぎ」
「良いだろ、もうひとつのベッドは空いてんだし」
「牧野ちゃん起きたらどうするのよ」
実質一人部屋のようなものだ。オレのアパートよりもよっぽど広々としているのが悲しい。
顔にガーゼを張り付けた律が、いつもの無表情さで静かに寝ている。真っ白い布団の上に行儀よく出されている手は、指先まで包帯でぐるぐる巻きにされていた。その包帯から透明なチューブが一本伸び、点滴へとつながっている。
「にしても、なんで単独行動なんかしたわけ」
ベッドわきに置かれたパイプ椅子に腰掛けて、コトリが言う。オレが内緒で光下先輩と会ったのが気に食わないらしい。
「言ったら付いてくるだろ。おまえも律も、もしケンカが始まったら真っ先にやられそうじゃないか」
「そんな私に助けられたのは誰?」
あのとき、六宮のマンションの玄関で、オレは死んだはずだった。
黒いステッキを振り上げて、警察を呼ぶからと光下先輩を威嚇してくれたのは、ほかでもないこのコトリだ。
「悪かったよ、ありがとう。で、何で居場所が分かったんだ?」
もうひとつのパイプ椅子をコトリの横に並べ、腰を下ろす。
「携帯のGPSについて説明するとき、亮介の携帯でも実験して見せたでしょ」
「……おまえ、絶対こういうことに使うつもりでやって見せただろ」
「さあ、何のことかな」
悪びれもなくそう答えながら、コトリは律を幸せそうに見つめた。骨折箇所が多いものの、容体はすでに安定している。
「あのあと……先輩はどうなった?」
最も気になっていたことの一つだった。コトリの声を聞いて気が抜けたのか、その直後気を失っていたのだ。
光下先輩が人殺しであることに変わりはないし、律を傷つけたことも許せない。しかし、どこか同情的な気持ちもあるのが正直なところだ。
「私が来た時点で、亮介を諦めてどっか行ったよ。私にぐんぐん近づいてきたときは殺されるのかもとか思ったけど、そのまま涼しい顔で横をすり抜けて行っちゃった」
学校にいるミノルにも訊いてみたが、光下先輩は登校してきていないらしい。
何となく、このまま学校から姿を消すのではないかという予感がある。
「ねえ亮介。先輩の誘いに乗らなかったのはどうしてか、訊いて良い?」
少し神妙な顔で、コトリが言った。
「さあな。あのときは頭ん中がぐちゃぐちゃで、ちゃんと考えて結論を出したわけじゃないんだ。直感的って言うか……。あれで良かったのか、ってずっと思ってる」
同志がいることを心の拠り所にしていた先輩は、また一人になった。
愛する女性も失った今、生きる気力を失わず生きていこうと思い続けることが出来るだろうか。
「私は良かったと思うよ。亮介からその話を聞いて色々考えたんだけどさ」
珍しく、コトリは慎重に言葉を選ぶように言った。いつもなら言いたい放題言うくせに、こういうところでは気遣いを忘れない。
「亮介の話聞いて、ちょっと引っかかったんだ。訊かれてもいないことはたくさん喋るのに、牧野ちゃんをここまで痛めつけた理由は曖昧なままだなって」
律は、自分の話をされていることなど全く知らない様子で目を閉じている。本当に眠っているのか、寝たふりなのか。
「亮介に迷惑かけてるからなんて、理由にならないよ。だとしたら亮介だけ自分の手元に置けば済む話だし、始末するって意味なら、さくっと殺さずにいたぶった意味がない」
「そういう性癖を持ってるからだろ」
「確かに、二人ともセックス・サディストだってのは分かる。けど、だとしたら余計におかしいでしょ? 牧野ちゃんは男なのに」
「オレが昔同級生の首を絞めたみたいに、代替行為ってことはないか?」
「あのときの亮介は、状況が特殊だったじゃない。
性的にまだ未熟な小学生だったし、理由だって無神経なことを言われたからってのが第一でしょ。首を絞めたあとに良いかもなって思っただけで、自分から気持ちよさを求めてやったわけじゃ無い」
「確かにそうだな……」
「だから、副次的な意味でならサディスティックさの表れってのも理解できるけど、絶対ほかにメインの理由があると思うの」
窓の外はうららかで、青空にはゆったりと雲が流れている。この病院は大通りに面しており、時折クラクションがここまで聞こえた。
三階にあるこの部屋からは、正面にある歩道橋を見下ろすことが出来る。
「単なる個人的な意見なんだけど」
やけに丁寧な前置きをして、コトリは続けた。
「今まで、牧野ちゃんはストッパーになってたと思うんだ」
「ストッパー?」
「亮介が暴走しないように止める役割。光下先輩も、そのことに気づいてたんじゃないかと思う。亮介が編入してくるまでは、先輩が牧野ちゃんのお世話係だって言ってたから」
光下先輩を呼び出す前に、鳥島先輩とした電話を思い出す。
彼らがSMクラブに入り浸るようになったのは約一年前――律が学校を辞め、オレと暮らすようになってからだった。
「お世話してたようで、実は逆だったんだよね。私もそうだから分かるの。牧野ちゃんと出会う前、私すっごい斜にかまえた嫌なヤツだったから」
律と出会ってからのコトリしか、オレは知らない。
彼女もまた、律に出会って変わった人間の一人なのか。
「……でも、SMクラブに通う前までは光下先輩だって押さえが利いてたんだろ?」
中学までは順風満帆の日々だったはずだ。可愛い彼女だっていたと言っていた。
「これも私の予想なんだけど。中学校時代の彼女、暴行されたって言ってたよね?」
「ああ」
「犯人……光下先輩なんじゃないかな」
唖然としてコトリを見た。
彼女は、困ったように少し眉根を寄せる。
「穿った見方かもしれない。でも、そう考えるとしっくり来るんだよね。先輩と彼女が一緒に下校したときに限って付きまといがなくなったのはどうして? 当時はもう携帯があったし、二人が一緒に帰る日が全部バレてるなんておかしいじゃない」
「言われてみればそうだが……」
「嫌がらせの全てを先輩がしたとは思わない。むしろ、先輩はそれに乗じたんじゃないのかな。光下先輩自身が言ってたんでしょ、『犯人は単なる通り魔でも、振った女に頼まれた男でもない』って」
先輩の言葉を思い出す。
――それはおまえの知り合いかもしれない。いつも一緒にいる友達かもしれない。恋人や兄弟や、信頼している誰かかもしれない。
――自分にとっては些細でしかない何かが切っ掛けになって、身近な誰かが、おまえの大切な何かを破壊していくんだ……
「あれは、オレに対する警告だってってことか?」
しかし、どうしても先輩のことをそんな風には思えない自分がいる。同じ苦悩を持つ者として、光下先輩に感情移入しているのだろう。同情的になるのは仕方がなかった。
「警告って言うより、宣告かな。……光下先輩はきっと、亮介を自分の思うがままにしたかったんだと思うんだよね」
オレの想いとは関係なく、コトリは独自の推理を語る。
「今回の事件だって、殺人罪に問われないよう相当手の込んだことをやってるよね。セックス・サディストなら絶対にこんな殺し方をしないし、苦しみながら死ぬところを見ないなんて有り得ないよ。それは亮介が一番分かってるんじゃない?」
――最愛の女をその手で殺せたんだ。オレには、それが羨ましくて仕方なかった。
先輩はそう言っていた。
認めたくはないが、今ならはっきりと違和感を感じる。それが本当なら、彼は捕まる危険を犯してでも彼女の死にゆくさまを見届けただろう。
サディストとしての本能が彼女を殺したなら、もがき苦しむところを見てこそ意味がある。しかし、先輩はそれをしなかった。
「あかねさんを殺した理由は、他にあったってことか」
「そう、牧野ちゃんとあかねさんには共通するものがあった。だから先輩は攻撃した」
「共通するもの?」
「二人の共通点は、亮介の心の支えになってたってこと。辛いとき、ルカさんや牧野ちゃんを思い出したりしなかった? そういう人がいなくなると、亮介をコントロールしやすくなると思うの」
心臓を締め上げられた気がした。初めて厚木さんの部屋に泊ったとき、絶望の中で思い出したのはあかねさんの顔だったのだ。
二日前、光下先輩と対峙する前夜のことを思い出す。
オレはずっと気になっていた。なぜさやかは、壮太がオレの幼馴染だと知っていたのか。手当たり次第オレの友達を当たったのだとしたら、壮太よりミノルやコトリのほうが先になるはずなのに。
「亮介に憧れてたってのは、本当かも知れない。だとしたら、先輩は亮介が仲間に囲まれながら平凡な幸せを手に入れるところなんか見たくなかったんじゃないかな。亮介を同じところに引きずり込みたかったのかもしれない」
壮太とさやかに電話し、嫌な予感は当たった。
確かに、さやかが光下先輩のもとを訪れたのは『手当たり次第』だった。しかし、次に壮太を訪ねたのは『光下先輩にそう教えられたから』だ。過去のことを誰にも話していない壮太に怪しまれないようにするため、さやかに口止めまでしていた。
あのさやかに、どうしてオレの過去を知らせようとしたのか。
修羅場になることなど目に見えている。人一倍頭の良い先輩なら、こんな簡単なことを分からないはずがない。可能性があるとするならば、たった一つだ。
先輩は、ああなることを望んでいた。
「だとしたら、オレはもっと早く気付くべきだった。そうしたら、あかねさんや律がこんなことにならずに済んだのに」
「気づけるわけないじゃん、こんな変な発想する男の暴走なんて。亮介が防げるようなことじゃなかったんだよ」
「いや。自分の母親を殺したやつが、幸せになって良いわけはなかったんだ」
ベッドに横たわる律を見る。
こいつだって、オレさえいなければこんな目には遭わなかった。
「オレがこいつの代わりになれば良かったんだ」
唇をかみしめながら、その寝顔に呟く。起きていたら、とてもこんなことは照れくさくて言えない。
しかし突然、何の前触れもなく両目がぱちりと開いた。
「うぉっ」
電源が入った人形のようだ。
「あ、牧野ちゃんおはよう! うるさかった?」
「パンは?」
起きて第一声がこれか。
しぶしぶ、オレは持ってきたレジ袋からパンを取り出す。病院食は全然手をつけないくせに。
「なあ、律。訊いても良いか」
ひとつ、はっきりとさせておきたいことがあった。包帯とギプスで不自由になった手でパンの袋と格闘している律に言う。
「オレが母親を殺したところ……おまえ、見てたんだろう」
ビニールを喰いちぎろうとする口を止め、丸い目でオレを見た。
「なにそれ」
「十一年前……オレたちは初めて出会った。お互いの母親が殺しあってるところでな」
人形のように動かなかった少年。
彼は、事件の一部始終を知っているもう一人の証人だ。
「あの事件のあと、別々に事情聴取を受けた。オレが生き残った自分の母親を殺すところを、おまえは見ていたはずだ。なのに、どうしてそのことを証言しなかったんだ?」
律がオレの行為を証言していれば、母の首に残された掌紋や皮膚細胞と併せて、オレは追及を受けただろう。
警察が母の首に残された証拠を黙殺したのは、律から証言が得られなかったからだ。
「光下くんがそう言ってた?」
「ああ、律なら『亮介は何もしていない』と言ってくれるだろうって言ってたよ。だけど、もう隠すな。どうしてオレのやった殺人を隠してた」
律は瞬きひとつせず、包帯でウィンナーほど太くなった人差指をオレに向けた。
「単純」
……何だかオレ、前にも言われた気がする。
「う、うるさい。早く答えろよ」
「この袋開けてくれたら」
この会話のシリアスさを分かっているのだろうか、こいつは。
しぶしぶ袋を開けて手渡してやると、さっそく食べ始めた。いいから喋れ、このやろう。
「光下くんの話、信じてる?」
「それは……だって、首にオレの掌紋とかが残ってるって……」
「見せて貰ったんだ?」
言葉に詰まる。確かに、あのとき証拠となるものを見たわけではない。
「ぼくより光下くんを信じるんだ。ふーん」
「ち、違……だって、あの状況であんなことを言われたら信じるじゃないか」
「ふーん」
パンをかじりながら見つめられた。少しニヤついているように見えるのは気のせいだろうか。
便乗するように、コトリが追撃してきた。
「だいたいさ、いくら息子でも、警視監ともあろう人が事件の詳細なんかペラペラ教えるわけないじゃん」
言われてみればその通りだ。たまたま通りかかった公園でいじめられていたことからして、昔も先輩はオレの近所に住んでいたのだろう。地元ではあの事件は有名だったから、先輩はいろんなところから噂を聞きつけ、それをつなげて最もらしい話を作ったのかもしれない。
「だ、だけどオレがやってないって証拠もないだろう。律はオレの弱みを握ってりゃ、ずっと居候できるってメリットがあるけど……」
「で、ぼくがその話で亮介を脅したことがあった?」
「う……」
「じゃあ、これから脅そう。そうしよう」
「や、辞めてくれ」
律がオレのマンションに転がり込んできたとき、居候をさせたのには理由があった。
一つは、養子縁組をさせてもらうことを条件にしたおかげで、忌まわしい思い出を持つ名字から解放されるから。
そして、もうひとつは……。
「牧野さん、お薬ですよー」
軽やかなノックと共に看護師が入ってきた。落ち着いた雰囲気と清潔さを感じる、オレより少し上くらいの女性だ。
「あら、お見舞いの人がたくさん来てくれてるんですね。彼女さんと、あなたはお友達?」
照れているコトリの横で、オレは答えた。
「……弟です」
「あら、そうでしたか。じゃあ、お兄さんにきっちり飲ませてくださいね。お薬、全然言った通り飲んでくれないんだから」
笑顔で部屋を出て行く看護師に、兄がすみません、と声をかける。
確かに、母親は違う。しかし一年前、母を亡くし父に捨てられて天涯孤独となったオレのところに律がやってきたとき、本当は少し嬉しかったのだ。
そんなこと、悔しくて絶対に口には出せないけれど。
「なあ、律。光下先輩がやろうとしてたこと、おまえなら分かるか?」
「お友達が欲しかったんじゃない?」
彼は今どこにいるのだろう。これからどうするつもりなのだろうか。
窓際に立ち、外の世界を見下ろす。
こんなに穏やかで気持ちの良い空の下にも、孤独の果てに道を誤った男がいる。
視線を落とすと、歩道橋には人がまばらに行き交っていた。どの通行人も足早で、行くべき道へと迷いがない。
「ぼくが友達じゃだめだったのかなあ」
律の声を背中で聞きながら、その中に一人だけ立ち止まっているのを見つけた。見覚えがあるような姿は、ひどく寂しげで頼りない。
どこかへと歩き出す直前、彼がそっと手を振ったような気がした。