七日目・後編
朝の授業を終え、ひとりで学食に向かった。
昼からは卒業研究だ。担当教官はそれほど研究室に来ないほうだから、抜け出していても気づかれる心配はない。だから、昼に"あの人"と待ち合わせをしたのだ。
今日会ってカタをつける。これで全てを終わらせるつもりだった。
頭を整理しながら黙々とうどんをすすっていると、目の前に誰かが座った。細かい刺繍が施されたヘッドドレスに長いストレートヘアー。いつも通り場違いすぎるドレスを着た、黒づくめのコトリだ。
「なーに辛気臭い顔してるの」
「おまえ……弁当派じゃなかったっけ」
「そだよ。ほら」
どん、とテーブルに二段になった弁当箱を乗せる。こんな小道具まで黒い。
「今日は友達に見放されたのか?」
「珍しく亮介とお弁当って気分だっただけ」
にこりともせず、淡々と弁当のふたを開ける。箸を持って小さくいただきますをしたあと、オレには目もくれず卵焼きをほおばった。
「気遣いならいらないからな」
今日はさやかの姿を見ていない。
それがたまたまなのか彼女の故意によるものであるのかは分からない。しかし、お互いに気まずく思っているのは確かだろう。コトリはそのことを気にかけ、間を取り持とうとしているのではないか。
「ああ、さやかちゃんのこと。忘れてた」
「……嘘つけ」
「そんなことはどうでもいいの。鳥島先輩に話を訊いたんでしょ?」
なんだ、そっちに興味があっただけか。
「訊いた。が、結局分からなかった」
「何よそれ」
オレは昨日会ったことを話した。
本当は今回の事件のあらましが大体分かりかけてきているのだが、そのことについては伏せておく。乱闘になるようなことはないだろうが、万が一荒っぽいことになったとき、こいつを巻き込むわけにはいかない。
「めちゃくちゃ怪しいじゃない、先輩」
「まあ、そうだな。少なくともこれでルカが事故死って風には考えられなくなった」
「ねえ、今日これからまた作戦会議しない?」
「悪い。用事があるんだ」
「何、研究? せっかくここまで盛り上がってるのに」
「いや、ちょっと人と会う約束をしてる」
「この事件に関すること?」
「いや……それが終わったら電話するから、会えたら会おう」
コトリは何か言いたげな表情をしていたが、結局それで納得したようだった。
「良いもん。先に牧野ちゃんと作戦会議してるから」
結局そこが目当てか。
昼食を終え、お先に、とコトリに断って席を立った。外に出ると、幾分冷たい風が緩やかに吹いている。
肩にかけた、通学用のカーキの布製バッグを開ける。そこに携帯電話が入っていることを確認した。今のところ、メールも着信もない。待ち合わせの時間まで、あと二時間ほどある。時間つぶしも兼ねて、研究を切りの良いところまでやっていよう。
そう思って研究室に向かったとたん、嫌なことを思い出した。カラのパン袋だ。
「面倒くさい……」
もちろん部屋にはインスタントラーメンもあるし、野菜や肉だって冷蔵庫に入っているが、間違いなく律は食べていないだろう。
飢え死にさせるわけにもいかないので、仕方なく食パンを届けてやることにした。高いベーカリーの食パンなどではなく、どこにでも売っている安い食パンを好んでいるのが唯一の救いだ。
何でこのタイミングで思い出したんだろう、と後悔しながら、近くのスーパーで食パンを二つ買った。店内は主婦ばかりで、オレだけ浮いている。気恥ずかしさを覚えながらも自転車にまたがり、アパートに帰った。
時間的にはまだ一時間ほど余裕があるから、予定を変更して部屋でコーヒーでも飲んでいようか。
アパートの階段を上りながら、そんな気楽なことを考えていた。部屋の前に立ち、バッグから鍵を取り出す。
「あれ?」
鍵穴に差し込んだとき、違和感を感じた。
鍵が開いている。
「閉め忘れたか……いや、律かな」
毎朝閉めて出かけているのだが、今日はたまたま忘れてしまったのかもしれない。それとも、律が珍しく正常な時間帯に活動しているのだろうか。
たいして気にすることなく、部屋に入る。いつも通り静かと言うことは、律はまだ寝ているようだ。ただの閉め忘れだろう。
狭く短い廊下を進み、一つしかない部屋へと向かう。毎日歩く、ほんの数秒の距離。しかし、今朝見たばかりのはずの部屋は、酷く荒んで見えた。
いや、見えたわけではない。実際に荒れていた。
コタツのテーブルは中心からだいぶずれた所にあり、その上に置かれていたコップや本が落ちて散乱している。
ハサミやペットボトルが無秩序に転がる床は、何かがのた打ち回ったかのような茶色のあとが残されていた。
そして、部屋の中央には律がいる。
「おい……律?」
近づくと、それは寝ているわけではないことが分かった。
片目は腫れ上がり、口からは血が出ている。めくれた服から覗く肌には、おびただしい殴打の跡があった。
「律! おい、しっかりしろ!」
上半身を抱き起こすが、反応がない。ぶらりと垂れ下がった左腕の指が三本、あり得ない方向に曲がっていた。
「生きてるんだろ! 律、答えろよ!」
空しく響く声が震える。
おぼつかない手でバッグから携帯電話を取り出すと、救急車を呼んだ。コトリにも電話をし、今すぐ来てくれ、とだけ告げる。
こんなはずじゃなかった。
ルカが殺されたのは、怨恨のはずだった。だから、犯人を突き止めて連絡を取ったとしても、こんな報復をしてくるなんて思わなかったのだ。呼び出すときの電話だって、何気ない風を装った。その場で会うまでは、待ち合わせの真意を隠しておきたかった。
――今の矛先が別のところに向くことになるとしたら……
三日前に聞いた、光下先輩の声が蘇る。
こうなることは予想できた。充分に回避できることだった。それなのに、律はほとんど家から出ないからと、コトリのことしか心配していなかった。
――オレの二の舞にはなるなよ。
先輩の声が頭から離れない。
回避できた、はずだったのに。
「ごめん……ごめんな」
結局オレは誰も守れないのだろうか。人殺しの子は、誰かを傷つけることしかできないのだろうか。
だとしたら、やはりあのとき死ぬべきだった。律を殺してまで、オレは生かされるべき人間ではないのに。
「ん……」
微かな声がした。見ると、律の目がうっすらと開いている。
「おい、大丈夫か!」
声をかけると、右目だけがきょろきょろと声の主を探す。左目は腫れのせいで開かないらしい。
「オレだ、亮介だ。今救急車を呼んだ、しっかりしろ!」
声をかけるが、返事はない。その目がオレを見ているかどうかも怪しかった。
もしかして視力をやられたのだろうか、と思ったとき、ようやく小さな返事が返ってきた。
「……おかえり」
何事もなかったかのように、そんなことを言う。ろれつが回っていないくせに。
「しっかりしろよ。すぐ病院に連れてってやるからな」
「ただいまは……?」
「ああ、ただいま。元気になったら何度でも言ってやるよ」
コンコンと階段を駆け上る音が聞こえてきた。段々それは近づき、ドアから勢いよくコトリが入ってくる。
「亮介、上がって良い? どうしたのよ」
「こっちだ。早く来てくれ」
少し訝しげな、威勢のいいコトリの声がする。
「いきなり電話なんか――」
言いかけて、彼女は絶句した。抱きかかえている律を見て、元々白い肌からさらに血の気が失せる。
「牧野ちゃんっ!」
駆け寄ってきたコトリに、律は一言「ん」と言った。
「どういうこと! なんで牧野ちゃんがこんな目に遭わなきゃいけないの、なんで!」
取り乱すコトリの肩を片手でつかむ。手荒だが、今は律を彼女に託すしかない。
「良く聞け、今から救急車が来る。おまえの携帯番号を教えてあるから、病院まで付き添ってやってくれ」
「どういうことよ、説明してよ! 亮介は――」
「落ち着け! ……時間がない。オレはカタをつけに行く。ぶっ殺してでもあいつを止めてやる」
コトリの大きな目から、ぼろぼろと涙がこぼれる。
律をコトリに抱かせてやると、オレは立ち上がった。
「全然分からないよ。どこ行くの……あいつって誰……」
「全部終わったら、オレも病院に行く。そのときに全部話す」
近づくサイレンの音を聞きながら、唇を噛んだ。
「どうして……どうして牧野ちゃんがこんな目に……」
律はあれきり目を閉じて、一言も喋ろうとはしない。苦痛の表情すら浮かべず横たわる姿は、魂の抜け落ちた人形に似ている。
救急隊員をが到着すると、外に出て室内に誘導した。大体の状況を説明し、律が担架で運ばれるのを見届ける。後はコトリに任せ、携帯電話とルカのバッグを持って部屋を出た。自転車にまたがり、目的地へと向かう。
もしかしたら、オレも律のような目に遭うかもしれない。だが、オレは武器を持たない。
死んでも良い。むしろ、殺されるなら本望だ。
ルカに、そして律にしたことの代償を、鉄格子のなかで償わせてやる。
昼なのに、空は暗い。低めの空は絶望的なほどに灰色で、笑ってしまうくらいオレの心境とマッチしていた。
路肩に寄り、自転車を停める。左前方に見えるのは、いつか三人で来たメゾネットタイプのマンションだ。六宮は今もルカの死体を置き続けているのだろうか。
あの夜を思い出す。
彼は一体どんな気持ちでルカに金づちを振りおろしたのだろう。部外者が見れば、狂気としか言いようのない光景だ。けれど、きっとそこには愛情があった。本人たちにしか理解し得ない、狂おしいほどの愛が。あれは、異形の神を信じた六宮なりの、最大限の愛情表現だったのだ。彼は今、愛する人の命を奪った者に何を思うのだろう。
白いフェンスで囲われた敷地に入る。手前には横一列の駐車スペースがあるが、車は一台も停まっていない。その向こうにはマンションがあり、その一番奥が六宮の部屋だ。
ここを待ち合わせ場所にしたのは、オレではない。相手からこの場所を指定され、何やら裏がありそうだとも思ったが、それでも行くことに決めた。今さらオレがどうなろうが構わない。
六宮のマンションのドアは、相変わらず鍵がかかっていなかった。
緊張しながら、ゆっくりとドアノブを回す。わずかに開いたところから、すでに腐臭が漂ってきた。
「遅かったな」
ゴミの散乱する玄関の向こうに、靴を履いたままの男が立っている。
「先輩……」
「あんまり遅いから、どうしようかと思ったよ。臭いのは苦手なんでね」
涼しい顔で、光下先輩は言った。
人の良さそうな笑顔は、こんな場所でさえ爽やかさを感じさせる。
「どうして……あんなことをしたんです!」
怒鳴りそうになるのを堪えながら言った。途端に、先輩は困ったような顔で訊き返す。
「彼は無事かな?」
「まずは答えて下さい! どうして律を」
「すまないと思ってるよ」
目を伏せたその横顔に影がさす。男のオレが見ても美しいと思えるほど、さまになっていた。
「そんなつもりはなかった。ただ、パニックだったんだ。訴えられても当然だと思っているし、出来る限りの償いはさせてもらうよ」
「……パニック?」
あまりのしおらしさに拍子抜けした。こうして会うまでは、殴り合いになっても当然だと思っていたのに。
「鳥島から聞いたんだ。おまえの部屋で、アオイが監禁されてるらしいってね。言っただろ? オレは彼女を守るためなら何でもする」
「待って下さい。彼女がすでに死んでることは分かってるんでしょう? だからここを待ち合わせ場所に指定したんじゃないんですか」
「五分五分だと思っていたよ。だから、覚悟はしていた。ここはアオイの家だから、もう一度来たかったんだ」
話がかみ合わない。オレは間違っていたのだろうか?
「彼女を殺したのは、先輩じゃないんですか?」
「亮介にそんなことを言われるとは思わなかったな」
光下先輩は苦笑いをしながら、困った風に頭を掻いた。
死臭の漂うこの空間で、彼の振る舞いは日常的過ぎた。それがどうしようもなくちぐはぐで、正体のない焦りを覚える。
「それより、まずオレを呼び出した理由を教えてくれよ。その様子じゃ、彼女を殺した決定的な証拠をつかんだから、って感じだな」
「え、まあ……そんな感じですが」
「じゃあまずは聞こうか。あまり空気が良くないから、手短に頼むよ」
彼の様子は、学校で話すときと何も変わらない。すえた臭いの充満する廊下で、ゴミと腐った汁に囲まれながらする会話には思えない。
戸惑いながらも、オレは話を始めた。とにかく、真相をここで突き止めるよりほかはない。
「始まりは、一週間前に律が見つけた死体でした。それがルカさんだったんですけど」
「うん」
「オレのアパートの前に倒れていて、発見時はすでに死んでいたそうです。最初は首を絞めた跡があったので絞殺されたのかと思いましたが、直前に先輩と店で会っていたと聞いたので、きっとそのときに付いただけのものだと思います」
先輩はあくまで真面目にオレの話を聞いている。その目は真剣そのもので、いつも通りの彼だ。
「死亡当日、死体発見現場付近は、知り合いの巡査と律がそれぞれ歩き回ってました。誰かが死体を運びこめば、どちらかに見つかる可能性が高い。それにルカはオレのアパートの前で携帯で写メを取ってました。誰にも見つからずそれをやってのけるのはほとんど不可能だし、巡査が付近を見回ってる日をわざわざ選んでチャレンジする必要はない。とすると、彼女は一人でオレのアパートの前まで来て、一人で死んだと考える方が自然です。死斑からも、ただの病死じゃないかと思うようになりました。でも……」
「でも?」
「昨日、鳥島先輩に会ったんです。それまではいつも通り上機嫌だったのに、ルカの話をした途端怒りだしてしまいました。それで、もう一度考えてみたんです。本当に他殺の可能性はないのか、って」
「ああ、鳥島が言っていたな。怒ったことまでは知らなかったけど」
「それで、ルカのバッグから財布を出しました。律が死体と一緒にバッグも拾ってきていたので。それで調べてみると、カード入れのところがパンパンでした。どこかの店のポイントカードとか、会員証とか……でも、オレが探してるものがなかったんです」
「探してるもの?」
「病院の診察券です。バッグに入ってたピルケースから、彼女が眩暈に苦しんでいることは分かっていました。とすれば、どこかの病院にかかっているはずです。ネットでも調べましたが、あの薬は、市販されているようなたぐいのものではなかったですから」
先輩は頷いた。予想通り、そのことはすでに知っていたのだろう。
「些細なことなので、最初にそれを見たときは何とも思いませんでした。けど、今思うとそれが鍵だったと思うんです」
心臓が驚くほど早鐘を打っている。濃厚な腐臭をたっぷりと吸い込んだ上の緊張で、頭がくらくらとしてきた。
「彼女は眩暈の薬を、病院ではないどこかで手に入れました。診察を受けずにね。つまり、彼女にその薬を渡した人間がいるんです。そして、その人はその薬がどういう性質のものかを知っていた。どういうタイミングで服用するかも」
静まり返ったこのマンションで、オレの声だけが響いていた。
六宮は外出中なのだろうか。それとも、本当は別のところに住んでいるのか。
「もちろん毒薬ではないので、それを飲むだけでは何ともありません。けど、だとしたらどうしてこの眩暈の薬は医者でしか処方されないのか。……簡単です。用法や用量を守らないと、途端に身体にとって悪い影響を及ぼす危険があるからです」
「なるほど」
「おそらく、ルカの知り合いにそうした薬を入手できる人物がいたんだと思います。そして一週間前、彼女が風邪をひいていることを知っていて風邪薬も渡した。もちろん、それを飲めばどうなるか、その人物は知っていました」
「……遠回しなことはやめよう。亮介はそれがオレだと思ってるんだろ?」
怒っている風でもなく、淡々と先輩は言った。落ち着いた、柔和と言っても良い表情だ。
「はい。先輩の母親は、確か内科医でしたよね」
「こっそりくすねたって言いたいのか。しかし、実際のところは病院の管理体制なんてそんなに甘いものじゃないんだけどな」
「いいえ。家にはきっと専門書があるはずです。だから、どんな症状を訴えたときにどんな薬が処方されるか分かります。自分の親がやっている病院なら、診察時にどう言えばどういう薬が処方されるかも分かっていたでしょう」
「ああ、そうか。それで?」
「ルカが飲んでいた眩暈の薬には、塩酸イソプロテレノールという物質が含まれています。そして、風邪薬の中には塩酸エフェドリンが含まれているものがあります。
多分先輩は知っていてこの塩酸エフェドリンが含まれている薬をルカに渡したんでしょう。この二つが併用禁忌であることを知りながら」
併用禁忌。文字通り、決して飲み合わせてはいけない薬の組み合わせだ。
塩酸イソプロテレノールと塩酸エフェドリンを併せ飲んだとき、相加的に交感神経興奮作用が増強され、致死的な不整脈を引き起こす。
ルカの死因は、これによる心停止だったのだ。
「眩暈の薬をルカが一日三回、朝昼晩に飲むことは、渡した先輩自身が良く知っているはずです。だから、彼女にいつ風邪薬を飲ませればいいか、そして、いつ死ぬことになるか、先輩は大体知っていました」
たとえ死に至らなくても、先輩にリスクはない。また次の機会を作るだけだ。
「オレの母親が医者ってだけで、誰にでも出来たことをオレのせいにするのか? その気になればいろんな薬がネットで売り買いできる時代だし、風邪薬だってドラッグストアでたくさん売ってるぞ」
「いえ、先輩を疑うことになったきっかけはあります。このあいだ飲み会の買い出しをしたときのこと、覚えていますか?」
「ああ、おまえと律の三人で行ったな」
「律はそのとき、先輩の車であるものを拾っていました。そのときはただのゴミだと思いましたが」
ポケットから二枚の紙きれを取り出す。そのうち一枚を広げると、印刷面を突き出した。
「病院の領収書です。律がたまたま拾って取っておいていました。先輩の車で拾ったのに、ここに書かれている患者名は光下先輩ではなく鳥島先輩になっています……そして、ここ。投薬のところに点数が書かれています。つまり、薬を処方されたということです」
取り出したもう一枚の紙を広げ、先ほどの紙と並べるようにして見せた。
「そして、こっちの紙は鳥島先輩の車のダッシュボードに入っていたものです。病院でもらえる、処方薬の明細書です。薬の見た目や効能、副作用などが詳しく書かれているもので、領収書とは別に貰えます。この二枚は日付が一緒なことから、同じ時に渡されたもの、つまりペアであることが分かります。そして、処方された薬……プロタノールSです」
プロタノールSは、ルカが持っていた眩暈の薬だ。他にも徐脈や気管支喘息などの治療薬として使われている。
「光下先輩。あなたはあらかじめ鳥島先輩に頼んで嘘の病状を言わせ、病院でこれを処方されるよう仕組んだんです。おそらく鳥島先輩は、領収書は代金を返してもらうために薬と一緒に光下先輩に渡し、処方薬の明細書は不要だと思って先に抜き取っておいたのでしょう。どう言ってこの薬をルカさんに渡したかは分かりませんが、間違いなく併用禁忌の話などはしていないと思います。それどころか、用量や用法を間違うと危険であることも知らせていなかったんじゃないでしょうか。なにしろ、ドラッグストアなんかで売られているサプリメントと一緒に、アルミのシートから出してまとめてピルケースに突っ込んであったんですから」
「なあ、やっぱり良く分からないんだが」
光下先輩が口を開いた。
「そんなまどろっこしいことをしなくても、オレ自身が病院を受診すれば良いんじゃないか? どうして鳥島に頼む必要があったんだ」
「先輩はこの薬を処方してもらうことが出来ないんです。ルカを殺すときに使われた併用禁忌薬のもう一つは、風邪薬ではありませんでしたから」
「さっきは風邪薬だと言ってたけど」
「風邪薬にも塩酸エフェドリンに似た有効成分は入っています。が、実際に入っているのはdl-塩酸メチルエフェドリンという、薬効をよりマイルドにした誘導体です。これでも充分に併用して服用するのは危険ですが、確実性は塩酸エフェドリンよりも低いでしょう。だから、先輩は塩酸エフェドリンが入った薬を風邪薬と偽ってルカに渡したんです。死ぬ確率を上げるために」
「その塩酸エフェドリン入りの薬さえ手に入れられれば、犯人がオレである必要はないように思えるんだが」
「確かにそうです。でも、これは非常に手に入れるのが難しい薬なんです。ドーピングとして使用することもできるし、何より覚せい剤の原料になりますから。これを処方してもらうのは簡単なことではありません。ただし、一部の喘息持ちの人に対してのみ、病院で処方してもらうことが出来ます」
光下先輩の目が、わずかに見開かれる。
オレは昨日調べたことを必死に思い出しながら続けた。
「先輩は、わざとかどうかは知りませんが、一般的に喘息の人に投与されるシーサール錠やアドエアは効かない、と医者に言ったのでしょう。これで、塩酸エフェドリンを含む『ナガヰ錠』を処方してもらうことが出来ます」
「まるで見てきたように言うじゃないか」
先輩が苦笑した。
しかし、実際にオレは"見た"のだ。
「このあいだの飲み会で、さやかにビールをぶっかけられて先輩の寝室に入らせてもらいましたよね。あのとき、律がゴミ箱をひっくり返したのを覚えていますか?」
「ああ。……まさか」
ポケットに入れていたアルミのシートを取り出す。錠剤は全て押し出されていたが、裏側のアルミ面に薬の名前が印刷されている。
「そうです。あそこでも、律はごみを拾って持ち帰っていました。ここにしっかり『ナガヰ錠』と印刷されています」
律の迷惑な癖が、こんなところで役に立つとは思っていなかった。
それは、光下先輩も同じだったらしい。呆れたように言った。
「良くそんなものを取っておいたな」
「先輩もオレが入学する前まではあいつの世話係をしていたから、こういうろくでもないことをするやつだってのは分かってるでしょう?」
だからこそ、ここまで答えを導き出すことが出来た。
この場にはいないが、確かに律のやったことは生かされている。
「もちろん、ナガヰ錠とプロタノールSが併用禁忌であることは、医者なら誰でも分かります。だから、鳥島先輩に頼む必要があったのです。たとえ光下先輩が嘘をついて違う病院でプロタノールSを貰ったとしても、ルカが死んだときにこの二つの薬のせいだということがばれれば、入手経路であるあなたの身辺も調べられます。あなたが二つの薬を違う医者から処方され、併用することなく無事に生きていれば、ルカさんに故意に飲ませたということは明白になってしまいます。だから鳥島先輩を使って受診させた……彼なら同じクラブに通っていてルカと接点があるうえ、光下先輩の指名した嬢を指名しますから、口止めさえすれば鳥島先輩が直接ルカに薬を渡したのだと思わせることが出来ますしね。ルカ自身を医者に掛からせなかったのは、使用上の注意を聞かせないようにするためでしょう」
深く息を吐いた。鼻が慣れたせいか、腐臭が幾分和らいで感じる。
「光下先輩。あなたの計画はほとんど完璧でした。律の妙な癖がなければ、誰ひとりこんなことには気づかなかったでしょう」
「不幸な偶然だった……アオイが風邪でひどい咳をしていたから、ついオレの薬を渡してしまっただけだ、と言ったら?」
「……警察が調べても、先輩が問われるのは薬事法違反程度で、殺人自体は証拠不十分になる可能性もあるでしょう。なにしろ、先輩は二つの薬を別々に渡しただけなんですから」
唯一先輩が予想外だったのは、ルカがナガヰ錠を店の帰りに飲んだということだけだろう。
ルカとのプレイ中に薬を渡した光下先輩は、その直後の鳥島先輩とのプレイでルカを死なせるつもりだったのだ。だからこそ、普段はやったことのない五時間プレイを予約なしで急遽入れた。
「つまり、今までの長台詞はただの予想と言うわけだ。物証は何もない」
「今のところは、ってだけです。警察が本気を出して細かい捜査をしたらどうなるかは分かりません。日本の警察は優秀なんでしょう?」
無理やり笑いかけると、応えるように光下先輩も笑みを漏らした。
勝利を確信したからなのか、それともオレの強がりに苦笑いしたのか。
「なあ亮介。アオイのことはどこまで知っている?」
彼は透明な笑みをたたえたまま、ふいにそんなことを言った。
「先輩の彼女であり、オレのストーカーであるところまでは」
「あいつの心は常におまえに向いていたよ。オレといるときも」
先輩の視線がゆっくりと落ちる。低く響く心地いい声が愁いを含んでいた。
「最初からアオイがおまえにしか興味がないのは知っていたんだ。合コンでミノルに近づいたのも、店の客として来ていたオレと付き合うようになったのも、全てはおまえと接点がある人間だからって理由だけだ」
昨日のミノルとの電話で、すでにそのことは知っていた。オレと同じ学校に通っていると知ったとたん、ルカはミノルに対し積極的に誘ってきたそうだ。
彼女との付き合いはその晩限りで、個人情報は漏らしていないから心配するな、とミノルは言っていた。しかし、会わないと突っぱねたのにも関わらず、たびたび誘いのメールが入ってきていたという。
「彼女が欲しがったものなら、どんなものでも買い与えたよ。百万以上のバッグだって、その場で買って渡した。けど、何をプレゼントしても表面上でしか喜ばない彼女が、安い携帯電話をプレゼントしたときだけ泣いて喜んでたんだ。なぜだと思う? あらかじめ、オレがおまえの寝顔写真を入れておいたからさ」
彼女の携帯電話にオレの写真が入っていたのは、こういうことだったのか。
好きな女を喜ばせるサプライズのために、別の男の写真を取らなければいけないとき、先輩はどれほど苦しんだのだろう。
「なあ、亮介。あいつの財布のカード入れの中に、どこかの会員証があったと言ってたよな?」
「はい」
「そこの氏名欄には何と書いてあった?」
記憶を辿る。
確か、六宮と同じ名字だった。それを見て、すでに二人は結婚していたのだと知った記憶がある。
「明子……ロクミヤアキコでした」
「ああ、そうも読めるな」
そう言って、先輩は右手にあるドアを見やった。ルカが潰された部屋だ。
「"明"は、"明かす"とも読める。そして、"子"は干支にもある通り"ね"とも読むんだ」
どういう意味だ?
訳が分からず、先輩の言った通り名前を読み直してみる。
直後、痺れるような衝撃がオレを襲った。
「まさか……ルカは、あの人は」
「そう。六宮あかね――おまえと同じ養護施設にいた、あの少女だ」
ぐらりと足元が揺れた。
どうして今になって彼女が、しかも死体となってオレの前に現れなければならなかったんだ。
そして、なぜ先輩は昔のことを知っているのだろう。
「六年近くも経てば、女の顔は変わるよな。髪型や化粧だって変わったし、何より、彼女はおまえに気づかれないように振る舞っていた」
「どうしてそんな……」
「施設にいたころ、彼女はおまえが好きだったんだろう。そのまま六年間ずっと想っていたのかもしれないし、過去の幸せな日々の象徴として亮介を見るようになったのかもしれない」
優しくはかなげなあの眼差しを思い出す。施設での思い出を幸せと感じる彼女のその後は、一体どんな人生だったのだろう。
「どっちにしろ、アオイはおまえに憧れていた。あの状況から進学して真っ当な学生生活を送っているおまえにな。それに引き換え、あいつはすぐにパチンコ屋を辞めて寮を追われ、そのまま風俗に流れ着いた。そんな姿を見られたくないと思う気持ちは、オレでも分かる」
あかねさんは兄弟がいて、いつかその兄弟と一緒に暮すんだ、と言っていたのを思い出す。六宮は彼女の恋人や夫などではなく、その兄弟だったのだ。
元々違う名字だったあかねさんが六宮の姓になったのは、養子に貰われ名字の変わった弟の姓に入ったからだろう。
姉弟として同じ名字でありたい、という思いは、オレにも痛いほど分かる。
「弟の六宮俊太郎は、精神を患ったために養子先から疎まれていた。そこにアオイ――姉であるあかねが来て、彼を連れ出し二人で住むことを決めた。姉の顔すら覚えていなかった六宮俊太郎にとって彼女は、施設での生活から自力で抜け出し自分を地獄から救ってくれた、いわば神のようにも思えたんだろう」
"偽りの牢獄である楽園"。前に、六宮が過去にいた場所をそう表現していたのを思い出した。
施設での暮らしは、それなりに快適だったのだろう。しかし、そこは普通の子供たちが暮らす家庭ではない。
「アオイは、彼にとって全ての始まりを与えてくれた女神だった。だから、敬意をこめて"ルカ"と呼んでいたんだ」
「キリスト教の聖人から取ったんですか?」
「おまえも生物学専攻だろ。ピンとこないか?」
六宮の部屋に生物学の本が転がっていたのを思い出す。彼はそこから彼女の名を取ったのだろうか。
全ての始まりを与えてくれた生物。それは……。
「LUCA……Last Universal Common Ancestorですか」
生物進化の大原則として、『単純な生物から複雑な生物へ進化する』というものと『原核生物から真核生物が生まれた』というものがある。この原則に基づいて系統樹を作ると、枝分かれした生物たちが同じ祖先となり、その祖先たちも同じ祖先に……という具合に、一点に向かって収斂していく。
こうして生物進化をさかのぼったすえに行きつく一点が『共通祖先』、すなわちLUCAだ。
「正解」
「それで、六宮は……彼女の弟はどうなったんです」
先輩はゆっくりと右の部屋の前まで進んだ。ドアノブに手をかけ、何かを覚悟するように目を細める。
「この世を作ったのが神ならば、祝福されない異端児にとって生きることは罰そのものだ。グノーシス思想は、そんな彼らにとってぴったりの物語だった」
「あかねさんも、六宮の妄想を信じていたんですか」
「フォリア・ドゥという言葉を知っているか? 直訳すると"二人狂い"という意味だ。二人の繋がりが強ければ強いほど、妄想は感染していく」
皮肉な話だ。
ずっと会いたくて仕方なかった弟と会ったとき、さぞあかねさんは喜んだだろう。どんなに月日が流れ、病が弟を蝕もうと、六宮への深い愛情は薄れることがなかった。
彼の妄想すらも受け入れてしまうほどに。
「グノーシスにおける肉体は、愚かな悪の象徴だ。そして六宮俊太郎は、自分のすべてを受け入れた姉の幸せを願った」
ゆっくりと六宮の部屋のドアが開けられる。カーテンを通して差し込む日に照らされた乱雑な室内から、すさまじい悪臭が放たれた。
「これが、二人の幸せな結末だ」
その光景に、脳が鈍痛を覚えた。
口を手で押さえ、這い出るように出口へと向かう。足がふらついたせいで上がりかまちで派手に転んだが、それでも出来る限り遠くへ逃げたかった。這い出るようにタイル張りの玄関から顔を出したところで、たまらず嘔吐する。
部屋の中は地獄だった。
薄暗い室内に横たわる男は、間違いなくもう死んでいるだろう。その男の傍らにあったのは、かつて人間だったものだ。腐って変色した肉はあらかた無くなり、骨も金づちなどで砕かれていた。
それでも辛うじて彼女の身体に残されていた肉片には、無数に喰いちぎられた跡が残されていた。二人を中心に広がるドロドロとした液体は、色々なものが混じっているのだろう。
腐敗した肉。吐瀉物。そして糞尿。
腐りきった彼女の身体を食べることで、六宮は姉の肉体をこの世から消し去ろうとした。
自分を助け、無償の愛を注いでくれた姉への恩返しなのだろうか。毒に等しいそれを、彼は死ぬまで食べては吐いた。彼の死に顔を見てはいないが、安らかであるに違いない。
「大丈夫か?」
後ろから声がした。振り返ると、腰をかがめながら先輩がハンカチを差し出している。
「……う……」
何度もこみ上げる吐き気と闘いながら、それを受け取った。ブルーのハンカチで口元をぬぐう。
光下先輩の持ち物にしては安っぽいな、と関係のないことを考えた。
「なあ亮介。オレたちは似てるよな」
言い聞かせるように先輩は言った。まるで何も見ていないかのようにのんびりとしている。
今までに何度となく聞いているそのセリフに、妙な違和感を覚えた。
「……どういう意味です」
「おまえと出会ったときから、そう思ってたんだ。おまえは素行も成績も優秀で、皆に好かれてるクラスの中心人物だった。オレとはえらい違いだったよ」
「ちょっと待って下さい、それは逆でしょう?」
「いや、オレはおまえのことなら何でも知ってるよ。ストーカーみたいな真似をしてすまなかった。でもオレは、ただ知るだけでよかったんだ。友達になろうとか、話をしようなんておこがましいと思った。ただおまえが仲の良いクラスメイトと話したり、どこかの書道コンクールで賞を取ったり、マラソンで一番になったりするたび、何だかとても誇らしい気分になった。それで充分だった」
マラソン? 書道? 一体いつの話をしているんだ。
訳が分からなくなり、ハンカチに目を落とす。すでに汚れてしまったそれには、白い飛行機の絵が描かれていた。
「それ、オレの宝物なんだ。今日この日のために、ずっと大切にしてた」
オレはこのハンカチを知っている。
まだ何も知らず幸せだったころ、オレは一目見てこれを気に入った。仕方ないわね、と母が言い、自分の選んだストールと一緒にレジへと持っていく。
――そうだ。
これは、オレのハンカチだ。
「忘れたことはなかった。あれからどんなにいじめられても、これを見て乗り越えることが出来た」
泥団子を食べさせられ苛められていた、知らない少年。お気に入りのハンカチは盗まれ、その後彼に会うことはなかった。
たまたま通りかかったから助けただけの、気まぐれな体験。
「あのときの亮介がずっと忘れられないんだ。覚えてるか? いじめっ子たちと対峙し、闘って、やつらを殴ってるときのおまえは……」
先輩が笑う。
世界でたった一人の味方を見つけたような、無邪気で屈託のない笑顔だ。
「とても……とても楽しそうだった」
彼は幼いながらに気づいていたのだ。初めて会ったばかりのオレに、自分と同じサディスティックな性癖があることを。
「お互い名前も知らないけれど、同じ血が流れてる仲間だ。一目見てそう思った。だからオレはおまえのことを調べたんだ」
光下先輩は誰よりもオレのことを調べつくしていた。あかねさんがプライベートで付き合うようになったのは、それもあったのかもしれない。
「そうしてるうち、あの事件が起こった。亮介がいるからある程度の報道規制が敷かれていたが、オレは親父を通じて事件の詳細を知ることが出来た」
先輩の父親は警視監だということを思い出した。
「それを知って、オレは確信した。同時に羨ましくもあったよ。だから、いつかはオレも同じことをしてみたいと思った」
「どういうことですか」
「どういうって、動機だよ。あかねを殺した動機も知っておきたかっただろう?」
「動機? 同じことって、どういうことですか。オレの母は浮気相手に刺し返されて……」
「知ってるさ。だが、亮介の母親はその時点ではまだ死んでいなかったんだ。手負いの女の攻撃なんて、たかが知れてるだろうしな」
「何を今さら……母はあのとき死んだんだ。調べてみれば分かる。むしろ、生きていたらどんなに――」
玄関にへたり込んでいるオレの目線に合わせるように、先輩はしゃがんだ。
「そう、間違いなくあのときあの場所で死んだよ」
だったら何を、と言おうとしたオレより先に、先輩は続けた。
「自分の息子の手によって、ね」
理解が出来なかった。
息子。
母の息子は、オレ一人なはずだ。
だったら、母を殺したのは誰だ?
「意味が……分かりません」
そんな突飛な話を信じろと言う方が無理だ。何より、オレは一部始終を見ていた。先輩なんかよりもずっと事件に詳しいはずだ。
「オレの父親が警察だってのは知ってるよな。九年前、まだ親父が警視監じゃなかったころ、ちょうどおまえの事件の担当になっていたんだ」
曇りのない目で見つめられる。嘘をついている人間が、こんな目になるだろうか。
「亮介の母親の身体には、たしかに刺し傷があった。しかし、致命傷ではなかったんだ。直接の死因は、首を絞められたことによる縊死だった」
父を奪い母を殺したあの女がやったのだろうか?
二度と思いだすまいと思っていた当時の凄惨な状況を、無理やりに思い起こす。
「浮気相手の女じゃないことは明らかだった。その手形は、小学生くらいの子供のものだったからな」
思い出した。あのとき、廊下の突き当たりに律がいるのを見た。
「母親を殺された浮気相手の子が、報復でやったってことですか?」
「オレの父親もはじめはそう思ったよ。だが、亮介の母親の首に残った掌紋と皮膚細胞は、亮介のものと一致した」
「何を……。助けることはあっても、殺す必要なんてどこにもない!」
「親父たちもそれが分からず、皆首をかしげたそうだ。結局はおまえが錯乱し、蘇生させようとしたあげくに失敗したのだという見解に達した。こんな説明が無茶苦茶だってことは、誰にでも分かるのにな。それでも、当時のおまえの嘆きようや、素行の良さ、動機から考えても、母親を殺す理由なんてなかった。しかもまだ小学生だ。結局このことは公にせず、二人の女性は互いに刺しあって死んでいった、ということにしたんだ」
力なく開いたドアの向こうは、昼間とは思えないほどの静けさだ。ほとんど住人がいないマンションが、こんなにも心許ないものだとは思わなかった。
「大人たちは誰も分からなかったけど、オレには分かってた。母親を殺したのは、やっぱり亮介だ。おまえは罪に問われることなく、最愛の女をその手で殺せたんだ。……オレには、それが羨ましくて仕方なかった」
目の前の先輩に、焦点が合わない。頭の中身が視界と共にぐらぐらと揺れているような錯覚に襲われる。
最愛の女。
先輩は、オレが小学校のとき書いた作文を読んだことがあるのだろうか。
どんな子供でも一度は抱く、他愛ない幻想。母と結婚したいと言ったあのころ、自分の想いが何を招くかなんて想像だにしていなかった。
「……嘘だ……」
「同じものを共有している者同士なのに、嘘をつく必要なんてないよ」
「……違うんだ……違う、オレは人殺しなんかじゃ……」
視界も思考も、水の底にいるように滲んでいた。勝手に涙と鼻水が垂れ、ぐしゃぐしゃになった顔で先輩を見上げる。
「そうだ……律に訊けば分かる。オレは何もしてない……何も……」
「確かに、律なら『亮介は何もしていない』と言ってくれるだろう。だけど、それはどうしてだか分かるか? あいつは働きもしないで、ずっとおまえに依存して生きている。律じゃなくたって、今さら快適な生活が破綻するようなことを言う人間はいないさ」
子供のように泣きじゃくるオレは、どうしようもなく惨めだ。しかし、そんなことすらも自分で分からないほどに追い込まれていた。
「分かっただろ? 律はおまえにとって何の役にも立たない。それどころか、親の援助がなく困窮するおまえを食い荒らしてるじゃないか」
先輩がゆっくりと立ち上がる。慈悲深ささえ感じる表情でオレを見下ろしながら、手を差し伸べた。
「亮介、オレと一緒に来い。もう日蔭者で居続ける必要はないんだ。これからは、オレがおまえを支える」
ほこりと吐瀉物で汚れた右手を、ぎこちなく持ち上げる。
オレが来ることを確信したような光下先輩の手は、どこか満足げでもあった。
そして。
「嫌です」
パチン、という軽快な音とともに、その手を叩いた。
一瞬、先輩が怪訝な表情を浮かべる。眉根を寄せ、少し悲しそうな顔で彼は言った。
「……残念だよ」
選ばれることなかった手が、ゆっくりとオレに近づいてくる。どうなるかは直感的に分かっていた。
――これで良かったんだ。
目を閉じると、全てが優しい闇で満たされた。腐臭のせいか、酩酊したように頭がくらくらとする。
可哀想な先輩。
オレと同じ苦しみを持ってこれからも生き続ける先輩。
せめて、幸せな人生を送れますように。
オレを殺してくれて、ありがとう。