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五年前

 毎日が、死んだような日々だった。

 あの日以来、オレの成績は教師も驚くほど落ちた。受験校を変えろと言われ、考えてもいなかった高校を受ける羽目になった。それなのに、以前の勉強量とは到底比べ物にならない程度しか勉強できない。

 学習室に行っても、いつの間にか手が止まっていた。ぼーっとしていることに気づいて我に返り、慌ててさっきやろうとしていたことを思い出す。そして勉強をしているうち、気づくとまたぼーっとしている……その繰り返しだった。

 今日の昼、あかねさんがここへと遊びにきた。仲の良かった女の人たちはもちろん、春川君なども彼女のもとに走り寄っては話しかけていた。

 少し前までは、オレもそうしていた。けれど昨日は、それを廊下の角から見つめているだけだった。

 楽しそうな春川君たち。楽しそうなあかねさん。

 やましいことのない人間しか近づけさせないようなオーラが、そこにはある。

 だから、あかねさんがオレに気づいたときにはそこから逃げ出してしまったし、誰かが探しに来ないよう、トイレの個室に隠れた。そのときのみじめな気分を思い出しては、また手が止まる。

 もう、勉強しようとするだけ無駄なのかもしれない。

 あきらめにも似た自暴自棄に陥りながら、部屋に戻って自分のベッドに潜り込んだ。図書館から借りて来たSF小説を引っ張り出すが、単に文字を拾っていくばかりで、内容がさっぱり頭に入ってこない。

 ――ほとんど病気だな。

 あまりの不甲斐なさに、自分のことながら苦笑した。本を閉じ、仰向けになって目を閉じる。何もかも忘れて眠ってしまいたいのに、目だけは冴えていた。

「おい。起きてるか」

近くで声がした。

 返事はせずに横を向くと、春川君が少し屈みながら、オレのベッドを覗きこんでいる。

「亮介。何で今日来なかったんだよ」

「何が」

「しらばっくれんじゃねえよ。あかねが来てただろうが」

自分の中で、理由は何となく分かっていた。ただ、それを言葉に出すことは出来なかった。彼にそれを知られることも嫌だったが、言葉にすることで、自分がひどく惨めで汚らしい存在に成り下がる気がしたからだ。

「知らなかったんだよ」

「嘘つけ。廊下にいたとき目があったって、あかねが言ってたぞ」

ふと、彼とこんなに自然に喋ったのはいつ振りだろう、と思いがよぎる。

「春川君さ」

「な、何だよ」

「オレがどうしてココ来たか、知ってるんだっけ」

少しの間、春川君は考えているようだった。

 彼がオレを避け始めたのは、人殺しの子だと知ったからではないのか。そうだとすれば、なぜ、今になってこんなに構ってくれるのだろう。

「知らねえけど」

春川君が言った。

 どうして、泣きそうな目をしているのだろう。

「けど……オレのせいだ」

春川君の頬が、みるみる赤くなっていく。

 この四人部屋の他のメンバーは、みな学習室に行っている時間だ。二人だけの空間で、胸のつまるような雰囲気が充満する。

「何のことだ?」

「オレ、知ってたんだ。亮介がどうなるか分かってて、身代わりにしたんだ」

「身代わりって何のことだよ」

何のことを言っているのか、さっぱり分からない。どうして彼がここまで気を病んでいるのかも。

「あいつだよ。……厚木のこと」

充血した目が、オレに向けられる。きっと彼の見たオレの顔からは、血の気が引いていたはずだ。

「えさで釣って気に入ったやつ食うの、知ってたんだ。何度もおまえに忠告しようと思った。思ってたけど、出来なかったんだ」

鼻水をすすりあげながら、春川君は懺悔を続ける。その声は嗚咽と入り混じり、悲鳴のような痛々しい響きがあった。

「脅されてたんだ。黙ってれば、亮介が次のターゲットになるから、言うなよって」

誰が脅したかは、大体想像がついた。ユウジか、ユウジの近くにいる誰かだ。

 以前から、やつらがオレを気に入らないのは知っていた。おそらく、厚木さんの裏の顔を知っていた誰かからそのことを知らされ、普段気に入らなかったオレを懲らしめる作戦に出たのだ。オレと特別仲の良かった春川君を脅して自分の傘下に置いたのもそのためだろう。

 その結果、オレはまんまと厚木さんのえさに食いつき、逃れられないところまでいった。ユウジのたくらみは見事に成功したというわけだ。

「春川君が悪いわけじゃない。結局、オレがえさに食いつかなきゃこんなことにはならなかったんだ」

自嘲気味に言った。それは安心させるための建前なんかではなく、正直な気持ちだった。

 このことで、彼が責任を感じる必要なんかない。

「それより、オレと話すとユウジさんが何か言うかも知れないぞ。今のことも、伏せておいた方が良い」

「い、嫌だ……」

「別に良いんだよ。どうせ自業自得なんだし」

ぐしゅ、と鼻をすすって春川君が顔を上げる。三年前、まだあかねさんがいてオレたちが仲良くやっていたころの目の輝きが、そこにはあった。

「嫌だ……ビビっておまえのこと売るの、もう嫌だ」

施設というこの小さな世界では、常に権力の存在がちらついてくる。

 一つは先輩。もうひとつは施設員。

 春川君が厚木さんを避け始めたころ、ちょうど良くオレは厚木さんに気に入られた。彼はユウジの暴力だけでなく、厚木さんにも怯えていたのだ。

「汚いもんに目ェつぶって、汚いことして……これじゃオレもユウジも一緒になっちまうよぉ」

オレと同じ十五の少年が、まるで幼子のように泣いている。

 彼を苦しめているのは良心だ。自分だけが小遣いを貰い、食べ物を貰うことを良しとしていたオレにはなかったものだ。彼は善人であるがゆえに泣いている。

 親に捨てられ、親戚に見放され、それでも善き人であり続けようとした彼に、この場所は厳しすぎた。

「良いんだ」

どうしていいか分からず、そっと肩に手を触れる。その手から伝わってくるのは、小刻みな震えと心地よい温かさだ。

「ごめん……」

「ううん。ありがとな」

そう言うと、オレは春川君の手を取った。仲直りと、そして、これから共にユウジと闘っていくという握手。

 二人なら、きっと抗えるはずだ。上級生の暴力からも。施設員の横暴からも。

 握手をする手に力を込めながら、彼がオレの過去を知らないことに感謝した。


         * * * * *


 いつものように、オレはピンクのベッドに腰掛けていた。フリルまみれのベッドカバーは、見ているだけで胸が悪くなる。

 厚木さんは今、バスルームでシャワーを浴びている。いつも通りなら、後数分でバスローブ姿になって出てくるだろう。

 今日こそ言うんだ。今日こそは。

 両手からじんわりと汗がにじむ。

 どうやって切り出すか、ずっと頭の中で繰り返し練習していた。いくら冷静に伝えても、間違いなく脅されるだろう。しかし、たとえ施設で冷遇され毎日ユウジに殴られるようになったとしても、それは今までこの状態を続けてきた罰なのだ。甘んじて受けなければいけない。

 砂嵐のような音を立てていたシャワーが、ぴたりと止まった。ドアが開く音と同時に、ばかばかしいほど陽気な鼻歌が聞こえてくる。

 安っぽいピンク色のバスローブ一枚だけをはおり、厚木さんはオレの前に現れた。

「亮介くんも入るぅ?」

上機嫌でオレの隣に座る。ベッドが大きく沈み込み、スプリングが悲鳴じみた音を立てた。

「いえ……」

「そうなの? まあ、汗臭いのも嫌いじゃないけど」

「……あの」

立ち上る湯気を左腕に感じながら、己を奮い立たせる。

 今言わなければ、オレは一生このままだ。

「なあに?」

当然のように、芋虫のような指先がシャツの裾から侵入してくる。とっさにその手を払いのけると、驚くほど低い声で厚木さんは言った。

「何よ」

「もう……こういうことは」

床から目を上げられないまま、必死にそれだけを絞り出した。見なくても、肉に入れた切れ目のような細い目がこちらを睨んでいるのが分かる。

「辞めさせてください。お願いします……」

覗き込むように寄せられていた彼女の身体が、すっと引いた。全体を見下すように見ながら、施設では聞いたこともないような声音でオレに言う。

「今さらふざけんなよ」

「ごめんなさい……ごめんなさい」

「理由は?」

「もう無理なんです。こういうことを続けるのは……もうしたくないです」

しばらく無言でねめつけられたあと、いきなり頭を鷲づかみにされ、ベッドの下へと投げ落された。無様に転がったオレは、それでも彼女を見上げることすらできない。

 床に這いつくばりながら、縮こまるように土下座をした。

「すみません……もう、許して下さい。許して下さい」

屈辱的でないわけはない。ただ、それでもこの状況に身を置くよりはましだった。

 これで全てが終わるなら。

 引き換えに自由になることが出来るなら、恥を捨ててでもオレはこの女に土下座をすることを選ぶ。

「ねえ亮介くん、あたし言ったよね。どういう目に遭うか分かってんの」

「……はい」

「ああそう、分かってんの。なら良いよ、帰れば」

驚いて、思わず顔を上げた。厚木さんは嘲るような笑顔のまま、ドアの方へと顎をしゃくる。

「……良いんですか」

「良いよ。可哀想な子だね。これから施設を出るまで、あんたの居場所は無くなるよ」

「覚悟してますから。それでは」

一礼し、この女の気が変わらないうちにと玄関に向かう。その背中に一言、厚木さんは追いうちのように浴びせた。

「あのことも、皆に知られちゃうねえ。可哀想に」

足が止まった。

 ゆっくりと振り返ると、ニタニタ笑いのまま彼女は続ける。

「せっかく県外の施設まで来たのにねえ。ご愁傷さま」

「何の……ことです」

「何のことだろ。あんたが一番良く知ってるんじゃないのぉ?」

――せっかく県外まで来たのに。皆に知られる……。

 考えるまでもない。

 こいつが何を言いたいか、嫌というほど分かる。

「あんたの母親、人殺しなんだろ。ダンナ寝取られたあげく包丁持って浮気女のところ乗り込んでさ」

楽しそうに、本当に楽しそうに厚木さんは続けた。

「ダンナはダンナで子供捨ててトンズラってんだから、切り替え早いよねえ。本妻も浮気相手も片付いて、あとは邪魔者のあんたを施設に押し込めば、また別のところでやりたい放題やれるもんねえ。死んでくれてありがとうってとこだ。ほんと、ご立派な親を持ったもんだよ」

女はだらしない肉を震わせ、くっくっと笑った。青ざめたオレを見て、ますます上機嫌になったようだ。

「そんな立派な両親なんだから、みんなに知らせたらきっとびっくりするよ。これからの扱いも変わるだろうね。なんたって、そんな両親の血を引いた子なんだからね」

――もう良いや。

 誰かがそう呟いた気がする。

 そう思ったとき、オレはすでに彼女に大股で歩み寄り、バスローブを掴んで押し倒していた。

「あっ」

一瞬女が見せた期待したような表情は、真正面から振り下ろされたこぶしで瞬時に潰れた。肉団子のような鼻は曲がり、汚らしい血が辺りを汚す。

 自慢のベッドカバーが台無しだな、と思いながら、もう一発を顔のちょうど同じ場所に叩き込んだ。

 ぎひいぃぃ、うぎいぃぃぃ。

 容姿も声も、もはや人のものではない。何かに似ているとするなら、屠殺前の豚だろう。それでも戦意だけはあるようで、でっぷりと肉のついた四肢をでたらめに振り回し、何とか振り落とそうとしている。

 必死で押さえ付けるオレの身体も痛いはずだが、不思議とそれを感じない。半ば楽しみを捜し出すように、右手をそっと首に乗せた。分厚い脂肪で守られた喉もとに、少しずつ力を入れていく。太い舌を突き出しながら目を見開く厚木さんは、初めて魅力的に見えた。

 腕が引っ掻かれ血が滴ったので、一旦首から手を離す。勢いよく空気を吸いながら咳き込む彼女の頬と額を、気の向くままに何発か殴った。シミだらけの肌にこびりつく赤黒い血は、もはやどちらのものか分からない。それを洗い流すかのように流れる涙が、とても美しかった。

 改めて首を絞めると、今度は先ほどのように抵抗しなかった。苦しそうに顔をどす黒く染めながら呻くだけだ。

 死んではいない。

 けれど、全く抵抗しない。

 波が引くように、すっと熱が下がる。再びこぶしを振り上げたとき、ベッドのどこかからラジオのような人の声がした。

「け……さつ……」

うわ言のように呟く女の左手には、枕の影になっていた彼女の携帯電話が握られていた。三秒、四秒、と通話時間を機械的に刻んでいる。

 それ以上動こうとしない厚木さんから身を起こし、再び玄関に向かう。いまだ手の傷から血が流れているが、全てがどうでも良かった。

 結局、オレは人殺しの子だ。穢れた血を受け継いだ、忌まわしい人間だ。

 玄関のドアを閉め、蒸し暑い夜を歩く。

 遠くにサイレンを聞きながら、この先あかねさんと顔を合わせる勇気があるだろうか、と自問した。




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