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七日目



 いったん布団に横になれば、すぐに朝はやってくる。

 寝る準備を始めた律に食パンを与え、学校に向かう。さやかとどういう顔で会ったらいいものかと考えながら、学校の駐輪場に自転車を止めた。

 一緒に映画を見たりプリクラを撮ったりしていたのが、金曜。

 異常な行動を光下先輩から知らされたのが、土曜。

 彼女は、きっと何が良くて何が悪いのかが理解できていないのだろう。そのときの感情に任せて行動しているだけだ。

 飲み会でオレに馬乗りになったときだって、デートの約束をした途端に上機嫌になった。金曜日のデートでそのことを話題にした時も、気まずい表情一つ見せずに『それは亮介くんが悪い』と言い放った。ルカの死亡推定時刻のアリバイを聞いたときなど、悪びれもせずに深夜オレのアパートの前に来ていたことを申告した。

 ……そして、突然のキス。

 きっと、さやかを理論的に説き伏せるのは無理だ。感情のおもむくまま行動する彼女に、理論で納得させるのは難しい。あいつの異常行動をやめさせるには、感情に訴えるしかない。かといって、オレが自身の感情に任せて叱りつけると逆切れされるだろうから、それは避けなければいけない。

 オレが馬乗りになられる分にはまだ良いが、怒りの矛先がコトリに向いた場合、光下先輩が危惧するような悲惨な結末を迎えるかもしれないのだ。

 席に着いてからも、そんな思いがぐるぐると頭の中を廻っていた。授業内容などさっぱり入ってこない。悶々と考え続けていたせいか、九十分の授業はとても短く感じた。

 次の遺伝子工学の講義を受けるため、教室を移動する。たしかこの授業はコトリも取っているはずだ。あまり無茶なことはしないよう言わなければ。

 普通の教室よりも小さめの部屋に入る。まだコトリの姿はないものの、すでに半数――十人くらいの生徒は席についていた。

 オレたち生徒の座るデスクは据え付け式の三人がけ用で、縦に二列、横に三列に机が設えてある。

「よっ」

軽く声をかけ、壮太の隣に座った。いつも彼は、人目を避けるような位置に身を置きたがる。講義のときも、決まって一番後ろの左端に座っていた。かといって授業中は寝るわけでもなくまじめに授業を受けているのだから、偉いと思う。

「あ、亮介」

なぜか彼は体をびくっとさせた。考え事でもしていたのだろうか。

「何で驚くんだよ。ってか、何それ」

「ああ、貰ったんだ」

壮太は手に持っていた小さな包みを慌ててカバンに入れた。透明な袋に入れられピンク色のリボンでラッピングされたそれは、手作りのクッキーのようだった。

「おっ、誰? 壮太って地味にモテてんだな」

「そんなんじゃない。お礼としてもらったんだ」

その言葉には先ほどの焦りがない。どうやら本当のようだ。

「へえ、誰から?」

「それは……」

壮太は聞こえないほど小さな声で、ごめん、と謝った。

 何が? と訊き返そうとしたとき、思い切り背中をたたかれた。

「このカバン退けるぞ」

ミノルはオレの背中を平手打ちしたことなど忘れたかのように、壮太の逆隣りに置いておいたオレのカバンを退けた。

「で、亮介はあれからどうなった?」

「何が?」

「さやかちゃんだよ。デートしたんだろ?」

野次馬根性丸出しの顔がにやりと笑う。

 そういえば、飲み会の後に公園で会ったとき、わざわざタクシーでさやかを送ってくれたんだった。

「ああ、おかげ様でな」

「で、どこまで行ったんだ?」

「ミノルが期待するようなことはなかったし、これからもするつもりはない」

「おまえ坊さんみたいだな」

ミノルはつまらなそうに息を吐いた。

「デートしたんだ」

壮太が誰に言うともなく言った。意外というよりも、やはりそうか、といったニュアンスだ。

「成り行き上、そうせざるを得なくなったんだ。接待みたいなもんだ」

妙な誤解をされたくないので付け足しておいた。特に、誤解させる気満々の筋肉馬鹿がいるのだから。

「その接待感覚ってのがたまらないんだろ? 亮介はドMだからな」

「たまらないからおまえに譲ってやるよ。浮気癖が治って、新しい境地が開けるかも知れないぞ」

「おまえみたいに衆道に目覚めそうだからやめておく」

「黙れバカ、変な噂を立てるな」

「……あのさ」

静かながらもしっかりとした口調で、壮太が割り込んできた。

「あんなことがあったのに、デートしたのか?」

「するつもりはなかったんだ。けど、そう約束しないと帰らないって言ってきかなかったからさ。ほら、飲み会の夜」

確かあの夜、オレにもう一度会うまで帰らないと駄々をこねるさやかを、壮太も途中まで面倒みていたはずだ。

「そうか。あのときは大変だったな」

頷きながら、壮太は続けた。

「けど、もう期待させるのはやめた方が良い。ずるずる付き合ってたら、亮介自身も辛いかもしれないが、さやかさんも辛い」

「そのつもりだ。一昨日もそのことについて光下先輩に注意されたしな」

「そうか。口出しして悪かった」

「いや。しかし、おまえがこういうことに意見言ってくるのは珍しいな」

「ん? ああ……」

壮太は言葉を濁しながら、ノートや教科書を取り出し始めた。

 時計を見ると、あと一分で授業が始まる。オレもカバンから必要なものを取り出し始めた。

「あれ?」

ない。いくら探しても、教科書が見つからない。

「亮介、どした?」

「教科書忘れた。多分研究室だわ、ちょっと取ってくる」

確か、実験中の調べ物をするときに取り出して、そのまま研究室の自分の机の引き出しに仕舞ってしまったのだ。

 席を立った瞬間、授業開始のベルが鳴る。

「オレの一緒に見るか?」

壮太が自分の教科書を差し出してきた。表紙にフルネームで名前を書いてあるあたり、いかにも真面目だ。

「いや、どうせあの先生いっつも遅れてくるだろ」

そう言って席を立ち、教室を後にする。

 良くて五分、ひどいときには十分以上も遅刻する教授だ。しかもここは専攻科棟の一階で、オレの研究室は同じ建物内の二階だ。

 念のため廊下を小走りで移動するが、まず間違いなく教授が来る前に戻れるだろう。

 もともとこの棟を利用する学生は少ない。専攻科生自体の人数は五十人ほどいるのだが、この専攻科棟には微生物実験施設などの限られた施設しかなく、機械科や電気科などを専門とする学生は、専攻科生であってもほとんどここに用はない。

 逆に本科の五年生であっても、寺田先生のように専攻科棟に教官室を持つ教授のもとで卒業研究を行っている学生――オレやコトリは、結構この棟に入り浸っているのだった。

 そんなわけで、人がいない。授業開始後というのも手伝って、一歩教室から出ると廊下は完全に無人だった。普段は気にしないのに、一段ずつ階段を上る足音が響いて妙に気になる。コトリはオレたちが話している間に来て席についていたし、さやかたち四年生もほかの授業があるだろうから、卒研室にも誰もいないだろう。

 案の定、卒研室のドアにはめられたすりガラスからは、ほの暗い自然光しか漏れてきてはいなかった。さっさと教科書を取って帰ろう。



 ノブをひねってドアを押し開け、大股で中に入る。

 その瞬間、短い悲鳴が上がった。

「きゃっ」

「うわっ」

電気のつけられていない実験室に、女がしゃがみ込んでいる。

「な……さ、さやかか?」

動悸を落ち着かせながら相手を見た。状況がいまいちつかめない。

「び、びっくりしたぁ」

「オレのセリフだ……って、何してんだ」

ただしゃがんでいるように見えたが、さやかの手には雑多な紙束が握られていた。目線を少し上にやると、オレの机の引き出しがすべて開けられている。

 目的の教科書は無造作に床に放り出されていた。

「もー、ちゃんとノックぐらいしてよね」

「いや、その前に何してるんだよ」

彼女がオレの私物を漁っているのは疑いようもない。自然と口調がきつくなる。

「あ、勝手に開けちゃった。ごめんね」

「おまえ、自分が何してるのか分かってるのか」

「ごめんってばぁ。反省するから、怒らないで」

さやかは立ち上がり、上目づかいにオレを見上げながら、拗ねたような口調で言った。反省どころか、悪いことをして見つかったときの気まずさのようなものすら感じられない。

「おまえはやって良いことと悪いことの区別もつかないのか」

「見てただけだもん、何も盗ってないよ。安心して」

「そんな問題じゃない!」

さっきまでは冷静に説き伏せようと思っていたのに。怒鳴られて泣きそうな顔をするさやかを見ながら、後悔した。

 しかし、こんなことまでするとは思わなかった。

 叱っても会話がかみ合わない。オレの意図を全く汲もうとしない。会話や勉強は問題なくできるのに、こいつには決定的な何かを理解していない。

 怒りもあったが、何よりオレはさやかの中に不気味な何かを感じつつあった。

「……怒鳴ったのは悪かった。だが、おまえはそうされても仕方ないことをしてたんだぞ」

「だってえ」

「どうしてこんなことをしたんだ」

さやかは何も答えないまま視線を落とした。その手に握られていたプリント類などの紙束がバサバサと落ちて床を滑る。

 ずず、と鼻水をすすりあげるような音がした。

「言ってくれないと分からない。どうしてだ」

「だって、亮介くんが言ったんだよぉ」

「何をだ?」

「亮介くんが生まれてからどうやって今まで生きてきたか、さやかは全然知らないくせに……って」

オレを見上げながら、どこか文句を言うような口調で言った。その目の端には涙がたまっている。

「そんなこと言ったか? オレが?」

「言った! 公園でデートの約束する前、あたしにそう言って怒った!」

西山公園。飲み会のあと、さやかを連れたミノルと会うはめになった場所だ。確かあそこでもオレはさやかに平手打ちを食らった。

 ……ああ、思い出した。

 あまりにも鬱憤が溜まっていたオレは、その瞬間キレて言い返したんだった。そのときに、そんな意味合いのことも言ったかもしれない。それで、結局オレが『女と付き合うのが怖い』ということをカミングアウトしなければならなくなったのだ。

「そう言えば、そんなこともあったな」

「もお、忘れてたでしょ」

「そんなことで、オレの周りを嗅ぎまわってたのか。光下先輩にまで迷惑をかけて」

「そんなことじゃないもん、大切なことだもん」

ふざけてる。

 飲み会のときだってそうだ。勝手にミノルから情報を訊きだして、準備の手伝いもせず、周囲の了解も取らないで飛び入りで参加してきた。さらにオレにビールをかけ、わめき、暴れて、飲み会そのものを潰した。挙句の果てには駄々をこね、延々とミノルたちを手こずらせた。

 本人に悪気はないのかもしれない。感情に任せて突っ走っているだけかもしれない。

 それでも、やって良いことと悪いことがある。悪気がないからといって、彼女を許す気にはなれなかった。

「だって、光下先輩なら何か知ってそうだったから。そんなに迷惑かけてないし」

「迷惑? 勝手にやって来て上がりこんで、そこら辺じゅう引っかき回すことのどこが迷惑かけてないんだ」

「ちゃんとお邪魔しますって言ったよ。勝手に探すから、手伝わなくて良いからって言った」

「同じことを先輩にされたらどう思う? 勝手に押し掛けてきてそんなことをされて、迷惑じゃないわけないだろう」

「だって亮介くんと仲良いじゃん、ちょっとくらいあたしに協力しても良いじゃない! そんなのずるいよ」

話にならない。このまま冷静に対応できたとして、状況は好転するのだろうか。

 段々とさやかが人の皮をかぶった別の何かに思えてくる。

「いいか、光下先輩と知り合ったのは一年ほど前だ。オレがこの高専に編入した去年から一緒にいるおまえやミノルのほうが、先輩より付き合いは長いんだぞ」

「だけどぉ……」

「それに、オレは去年県外の高校を卒業して、編入でここに入学してきたんだ。それまではずっと県外で暮らしてきた。だからいくら調べ回ったって、この学校には昔のオレを知るやつはいない」

そうだ。だから、オレはここで普通の暮らしを送ることが出来ているんだ。

 近所の人たちも幼馴染も、誰も自分を知っている人がいない場所。ここ最近の自分しか知らない人たちだけのいる土地。

 それこそが、オレがここにいる理由だ。

「亮介、抜けてるんだぁ」

突然、さやかは嬉しそうに笑った。

 一体何がおかしいんだ。この状況で笑える神経が理解できない。

「気づいてないみたいって壮太くんが言ってたけど、ホントに気づいてないんだね」

壮太? なぜ、今その名前が出てくるのだろう。

 さやかは子供のように無邪気な笑顔のまま、得意げに続けた。

「壮太くん、今は普通だけど昔は太ってたからいじめられっ子だったんだよ。よくズボン下げられて泣かされてたって」

どこの小学校でも見かける風景だ。

 なのに、このいやな予感は何なんだ。

「ほかの子たちは笑って見てるだけだったけど、亮介くんは違ったって。いじめっ子たちを注意して、やっつけてくれたって」

足元がぐらついた。

 なぜだ。どうしてそんな話を知っている。

 壮太はこの土地の人間ではなかったのか?

 そう言えば、彼はあまり自分のことを表に出さない。普段話している割に、壮太のことについて知っていることは意外と少ない。

 壮太。

 さっき教室で話したとき、誰かに貰ったクッキーを持っていた壮太。そのことについて訊くと、なぜかオレに謝ってきた壮太。

 さっき彼が差し出した教科書。そこには何と書かれていた?

「本当に覚えてないんだ。小学校のとき、途中まで一緒のクラスにいたんだよ」

武田壮太。岡村にいじめられ、ズボンとパンツを下げられて泣いていたあのころ。

 坊主頭の肥満児だった当時の面影はもうない。それでも、どうして気付くことが出来なかったんだろう。何より、それだけは絶対に気づいておかなければいけなかったのに。

 こんなに近くに落とし穴があったなんて。

「……何て言ってた」

「亮介くん、具合わるい? 顔色良くないよ」

「壮太は何を喋った」

動揺を悟られまいと、精一杯腹に力を込めて訊いた。なのに、語尾は自分でも驚くほど震えている。

 さやかは心配そうな表情を崩し、母親のような笑顔で言った。

「亮介くん、もう怖がらなくて良いんだよ。あたし全部分かったから。亮介くんがどうやって育ってここまで来たか、ぜーんぶ受け止めてあげるから」

ゆっくりと近づいて、オレの懐に身を寄せる。成長した息子にでも接するように、背伸びをしながら頭を撫でてきた。

 冷や汗が頬を伝う。いつかのときのように、視界がどんどん狭まっていくような感覚にとらわれた。

「辛かったんだよね。まだ小さい小学生なのに、人が殺されるところに出くわしちゃったんだもんね」

嫌だ。その先は思い出したくない。

 あの風景が、あの事実が、あの感覚が、今のオレのすべてを壊す。

「お父さんが浮気しちゃって、それだけでも辛かったのに、お母さんが愛人を殺すところまで見ちゃうなんて」

家族のことは二度と口に出すまいと思っていた。

 働き者の父と、優しい母。それだけを、幼少期の思い出の全てにするはずだった。

 事実、やっと最近は立ち直れてきたのだ。バイトの合間を縫ってアパートを探し、施設長に頭を下げて保証人になってもらい、必死の思いで地元を捨てて、あらゆるものをを断ち切り再出発するつもりだった。

 ……それなのに。

「しかも目の前で、お母さん、殺されちゃったんだもんね」

どうして、放っておいてくれないんだ。どうして、知らないふりを続けてくれないんだ。

 オレはただ、平凡に暮らしていたいだけなのに。

「ね、亮介くん。あたし全部知ってるよ」

満足げな笑みを浮かべ、さやかはその口もとをオレの顔へと近づける。

「それでもまだ、亮介くんのこと大好きなんだよ。たとえ亮介くんのお母さんが――」

腐った果実のような甘ったるい声が、吐息とともに耳朶を打つ。

「人殺しでも、ね」

その瞬間、抑圧していたものの全てが弾け飛んだ。頭の中が真っ白にスパークし、全ての音が遠ざかる。

 一瞬ののち、オレは右手でさやかの顎を掴みあげるようにして口を塞いでいることに気付いた。

 突然のことに目を見開きながらも、さやかは何とか逃れようと身をくねらせる。

 空いた左手で彼女の肩をつかみ、研究室の壁に押し付けた。さやかは喋ることもできず、自分の口を塞ぐ手を必死で引き剥がそうともがきながら、無防備な白い喉を晒していた。

 痺れるような感覚が、既視感を伴って蛇のように這い上がってくる。

 ああ、こんなに憎いのに。こいつが嫌でたまらないのに。

 そっと右手を口から離す。さやかは大きく息を吸い、ほっとした表情を浮かべた。

 そしてオレは、その手を下に移動させる。和らいだ彼女の表情が、すぐに硬くなった。

 頭のすみで押し殺していた感情が、鎌首をもたげてあふれ出す。

 あのときもそうだった。こういう女は苦手なのに。それなのに――

 首を絞めただけで、とたんに愛すべき存在になる。

「っく……う……」

口を開けてはいるが、気道を塞がれて声が出せないようだ。血走った眼は見開かれ、見る間に顔が赤黒くなる。ほんの少し前まで余裕のある笑みを浮かべていた顔は、その片鱗すら残さず苦痛にゆがんでいた。

 今なら思える。

 さやかは、誰よりも美しい。

「亮介!」

その瞬間、脳が激しく揺れた。

 床には黒い厚底ブーツが転がっている。これが頭に直撃したようだ。

「何してるのよ!」

見ると、研究室の入り口には靴を履いていないコトリがいた。それしか武器が見つからなかったのだろう、右手にはもう片方のブーツを握りしめている。

「ち、違うんだ……」

そう言いながら、自問した。

 何が違うというんだ。

「早く、さやかちゃんから手を離して!」

鋭い声に気圧され、さやかの首から強張った手を外す。

 直後、彼女は激しく咳き込みながらへたり込んだ。

「そこを離れて! 早く!」

及び腰ながらも、コトリの口調は毅然としている。それは、悪者に立ち向かう勇敢なヒロインのようだった。剣か銃のようにブーツを突き出す姿は、痛々しいほど健気だ。

 足元にうずくまっているさやかを見下ろす。泣いているのか、その呼吸はいまだ激しい。オレを見上げる彼女の目には、すでに先ほどの色はなかった。

 今そこにあるのは、怯えと恐怖だ。自分を殺そうとしたものに向ける拒絶だ。

「離れてってば!」

悲鳴のようなコトリの声に、オレは何も言えなかった。

 そんなつもりじゃない。

 違うんだ。

 話をきいてくれ。

 そう伝えたくてコトリに近づくと、彼女は怯えたように後ずさった。その目は、憐れみと敵意の色が入り混じっている。オレがしたことに対する、断罪のまなざし。

 耐えきれず、オレは部屋を飛び出した。

 ……オレは知っている。

 あれは、人殺しを見る目だ。





 逃げるように部屋に戻ったオレは、着替えもせずフローリングの床に倒れこんだ。律がかぶっていた毛布を脱いでこちらを見ているが、相手にする余裕はない。

 何もかも、終わった。

 気づいていないわけではなかった。自分の中に忌まわしい欲求が息づいていることは、あのときから分かっていた。だから、ずっと恐れていたのだ。

 ……ああ、そうか。

 今さら気づく。オレは、女が怖かったんじゃない。女を苦しませて殺したくなる、自分自身が怖かったんだ。

 それでも。

 それでもオレは、ずっとうまく抑え込んできたはずだ。過去を捨て、恋人を作らず、ひっそりと暮らしてきたはずだった。

 どこで間違えてしまったんだろう。結局、オレはどうすれば良かったのだろう。

 自分の異常な願望を押し殺してさえいれば、皆に混じって生きていくことができると思っていた。平凡に生きて行けさえすればいい。ただひたすら凡庸な人生が、オレにとっては目指すべき最高の幸せだった。

 だが、そうはいかなかった。

 もともとオレは欠陥品だったのだろう。人殺しの母から生まれた、忌まわしい遺伝子を持つ子供だったのだ。

 さやかのせいではない。さっきの一件がなかったとしても、遅かれ早かれこうなっていたはずだ。ルカの死体が現れたときに気づくべきだった。アパートの前。絞殺。女。どれをとってもオレは疑わしい。

 さっき浴びせられた、コトリの視線を思い出す。きっと、オレは軽蔑されているだろう。

 やはり、ルカはオレが殺したのか。今の状況では、そう考えるしかない。自分に致命的な欠陥があることは自覚していた。けれど、まさか殺した相手の存在すら覚えていないほどだとは思わなかった。いよいよ、自分は狂ってきたのかもしれない。このままどんどんおかしくなっていくのだろうか。全てを忘れ、捕まるまで人を殺し続ける殺人鬼になっていくのか。

 もしそうなら、これ以上は誰にも迷惑をかけることはできない。今ならまだ間に合う。オレに理性のかけらが残っているうちに、自分の手で後始末をしなければいけない。

 警察に行けば良いのだろうか。しかし、数年後に釈放されることを考えるとぞっとした。まともな人間からすれば、またいつ殺人を犯すかもしれない男を野放しにするなんて迷惑な話だろう。

 律にしたってそうだ。オレが捕まれば、きっと肩身の狭い思いをする。それなら、まだ自殺してオレの罪をあやふやにしておいた方が、まだこの先生きていきやすいのではないか。

 それに、オレだって。

 親と同じ人殺しと罵られ、後ろ指をさされ、狂った欲求を抱えたまま、それでもこんな人生に未練たらしくしがみ付いているよりは、自分自身で終わらせた方がきっと楽だ。

 せめて、願いがかなうなら……次こそはまともな人間に生まれ変われるように祈ろう。

 倒れこんだまま頭だけを持ち上げる。いつの間にか、しゃがんだ律がオレを見下ろしていた。

「……出かけてくる。留守番、頼むな」

律は答えなかった。答えないまま、ただじっとオレの目を見つめている。

 見抜かれているのか?

 そう思ったが、もはやそれはどうでも良いことだった。

「そこのカバンの中に、財布入ってるから。帰りが遅くなって腹が減ったら、自分で何か買いに行け」

何気ない感じを装いながら立ち上がる。しゃがみ込んだままの律に背を向けると、後ろから声をかけられた。

「どこ行くの」

考えてみれば、オレは明らかに不審だった。学校に行ったばかりなのに、すぐ帰って来ては、カバンを放ったまま出かけると言い出す。

「学校サボって、ミノルたちと遊びに行くことにしたんだ。だから、帰るのはかなり遅くなると思う」

「いつ帰ってくる?」

「……さあ、分からない。だからおまえは、一人で自分の食事くらいなんとかするんだ」

振り向いてそう言ったが、律は分かったのか分かっていないのか、相槌すら打たずしゃがんだままオレを見返していた。

「昼には帰ってくる?」

「いや」

「夜は?」

「……さあ」

「ぼくが散歩するころは?」

いい加減にしろ、と言いたいのをこらえる。こいつはどこまでオレに頼っていれば気が済むのか。

「とにかく、自分のパンは自分で調達しろ。それからバイトでも探して、そろそろ一人で生きられるようになれ」

律は答えない。都合の悪いことは聞こえていないふりをしているようだ。

「光下先輩が言ってたぞ、おまえくらいの頭があるなら今からでもまた学校に入れば良いのにって。今からでも、奨学金を貰う手続きをしてもう一度高専に……」

「どこ行くの?」

どこまでも人の話を聞かないやつだ。死ぬ前に一度殴ってやりたくなった。

「どこだって良いだろ、そんなもん。都合悪いからって話を逸らすんじゃない」

「どこ?」

何を考えているのか分からない目がじっとオレを見ている。いつも他人には関心が薄いくせに。

「そんなの、おまえには関係な――」

「楽しい?」

「ひとの話を切るな。楽しいってなんだよ」

「そこは、楽しい?」

言葉が詰まる。

 こいつは何を考えているんだ。

「ああ……きっと楽しいだろうよ」

「楽しくないかもしれない」

「そうかもな。どっちにしろ大人しく留守番してろ」

「楽しくないなら、行かなければ良い」

律はきっぱりと言った。

 まさか、こいつは今からオレが何をするか勘付いているのだろうか。

「でも、行かなきゃいけないんだ」

「亮介がそう思い込んでるだけだよ」

「……何が言いたい」

おかしい。

 律の方からこれほど食いついてくることはあまりないのに。奴なりに、何か普段とは違うものをオレに感じているのだろうか。

 しかし、だからと言ってここで踏みとどまるわけにはいかない。出来るだけ早く決着をつけなければ、手遅れになってしまう。

 もし、またオレが誰かを殺したら?

 きっと律も、共犯者のように白い目で見られるようになるだろう。母が人を殺したときのオレのように、こいつもまた、オレと同じ苦しみを味わうことになる。

「本当は行く必要のないところに、亮介は行こうとしてる」

「知った口をきくな。頼むから、もう黙って行かせてくれ」

「それはぼくのせい?」

唐突に訊かれ、困惑した。

 律は何を言っているんだ。今さら、死体を持ち帰ったことを反省しているのだろうか。

「だったら、ぼくが代わりに行くよ」

違う。

 律のせいではない。律はただ持ち帰っただけだ。オレが死なない限り、また死体は現れる。死ななければいけないのは、オレだ。

 律はすっと立ち上がると、ためらいなく玄関に向かった。

「おい、待て」

慌てて止めるが、振り向こうとはしない。彼の肩を手でつかみ、無理やり引き止める。

「待てったら!」

感情の読めない目が、瞬きもせずオレを見返す。

 何か言おうと口を開いたとき、律の指が一本、オレの発言を止めるようにピンと立てられた。

「お客さん」

「……へ?」

気づかぬオレを咎めるように、チャイムがもう一度、元気よく来客を知らせた。



 誰が来たか確認すらせず、律は無防備にもドアを開け放した。六宮に襲われた時の教訓は、今も生かされていないらしい。

「おはよ」

律がのんきな声を出す。

 それとは対照的に、切羽詰まった表情でなだれ込むように入ってきたのはコトリだった。

「亮介!」

興奮した様子で靴を脱ぎ捨てると、ずんずんとオレに迫ってきた。

「こ、コトリ……」

「きっちり説明してもらうからね!」

「ちょ、落ち着けって」

「何が落ち着けよ!」

耳鳴りがするほどの大声で一喝された。そのままオレは彼女に襟首を掴まれると、ずるずると引っ張られてワンルームの床に座らされた。

 もちろん座布団はない。

「何がどうしたのか知らないけど、後先考えて行動しなさいよ! あの状況、全部私ひとりで収めて来たんだからね!」

「収めた……?」

「そうよ! さやかちゃんは泣きわめいてちっとも話にならないし、何にもしてないのにフラスコばんばん投げられるし、ようやく落ち着いてきたと思ったら先生が来ちゃって、一応うまく切り抜けられはしたけど、いつさやかちゃんがバラしちゃうんじゃないかって気が気じゃなかったんだから!」

あまりの勢いに気圧され、何も言えない。しかしコトリはそれが気に入らなかったようで、さらにヒートアップする。

「ちょっと、聞いてる? 私が頑張らなかったら、亮介あの場で警察に突き出されてもおかしくなかったんだからね! 鼻水べちょべちょのさやかちゃんに抱きつかれながら脳みそフル回転させてた私の気持ち、ちゃんと分かってる?」

コトリの胸元を見ると、フリルとレースがたっぷりの黒いブラウスが、ところどころテカテカと光っていた。

「いや……というか」

「なに!」

「何で、警察に突き出さなかったんだ?」

いつコトリに噛み付かれるかとびくびくしつつ、話を続ける。

「あの状況見たら、誰だってオレが殺人犯だと思うだろ。普通、あの時点で警察を呼ぶんじゃないのか?」

「勝手にさやかちゃんを殺さないで。まだあれは殺人未遂よ」

「いや、そうじゃなくて……」

コトリの思考回路がいまいち理解できない。

「あれ見たら……誰だってオレがルカを殺した犯人だと思うだろう」

第一、この間まで彼女はオレを疑っていたのだ。今日の事件で確信していてもおかしくないのに。

「私をバカにしないで」

しかし、そんなオレの考えと関係なしに、コトリは顔色一つ変えない。キッとオレを見据えたまま、高飛車と言っても良い口調で続ける。

「この間、ルカさんのことなんか知らないって言ったの亮介じゃない。あれは嘘だったの?」

「嘘じゃない。ただ……オレがイカれてて、覚えていなかったってふうにも考えられるだろ」

「何よその三文小説みたいな発想。だいたい牧野ちゃんが亮介はやってないって言ってるんだから、亮介はやってないに決まってるのよ」

「何だその発想……」

つくづく、こいつは律のこととなるとバカだ。さっきの光景を見ておきながらまだこんなことが言えるのか。

 呆れながらも、心が少しずつ溶けていくような気がした。

 自分さえ信じられない状況の中で、バカ正直にもまだオレのことを無実だと思ってくれているやつがいる。それが、恥ずかしいながらも嬉しかった。

「とにかく、こうなった責任は全部亮介にあるんだからね。わかった?」

「分かったよ、分かった。ちゃんと責任を感じてる」

「だったら全部説明して。どうしてこうなったのか。全部ったら全部だよ。まだ何か私に隠したら許さないからね」

オレは、とうとう観念した。自分の口からあの一連の出来事を他人に告白するのは、初めてだった。

 母のこと。

 養護施設のこと。

 そして、オレの歪んだ願望のこと。

 不思議と、言葉は流れるように出てきた。まるで架空の出来事を語るように、どこか冷静な自分がいた。

 厚木さんとのことも、迷ったが、全て隠さずに話した。軽蔑されるかもしれないとは思ったが、こんな状態のオレでも信じてくれた人に対して、全てを包み隠さず話すことが最大限の礼儀であるような気がしたからだ。

 律は、相変わらず部屋の隅でオレたちを見ていた。コトリは驚いた顔をしていたが、終始真剣な顔で聞いてくれた。引かれたり蔑まれたりしても仕方ないと思っていたが、そんなそぶりは一切見せない。

 全てを話し終わったとき、オレの頭は、詰め込まれていた汚泥が取り除かれたような爽快感を感じた。

「……これで全部だ。何か質問はあるか?」

「うん。いくつかあるけど、まず一つめ」

コトリはやや首をかしげながら、何かを思い出すように言った。

「亮介はI県から引っ越してきたのよね。で、ここには引っ越してくる前の知り合いは一人もいないはずだった、と」

「そうだ。壮太が小学校時代の同級生だなんて、さやかから聞くまでは知らなかった」

「ほかに、実は亮介と地元が同じって人がいる可能性はないの?」

「さあな。このF県とはそんなに離れてはいないから、可能性としてはいるかも知れない。ただ、高専に編入してからそれらしいやつに会ったことはない」

「編入してきたのは去年だけど、中学校時代までの同級生なら顔を見れば分かりそうだしね。ただ、壮太くんみたいに小学校の同級生ともなると、なかなか見分けるのは難しそう」

「ああ、壮太は飲み会やら一緒にしてたくらいだったのにな……確かに体型は変わってたし、性格が控えめだからってのもあったんだが」

「にしても、名前で気付かない? 普通」

「もともと、人の顔を覚えるのは苦手なんだよ。女ならなおさらだが、男だって髪型やまゆ毛なんかいじるだけで相当印象が変わるだろ。いろんな学校やら施設やら行ってたってのもあるし、小学校時代にちょっと助けた程度の同級生の名前まで覚えてない」

「言い訳ね」

コトリは一言で切り捨てると、話題を変えた。

「あと、もうひとつ。事件にもかかわってくることだから、真剣に答えて欲しいんだけど」

「何だ?」

「亮介の、その性癖について。女の人の首を絞めたくなる、って言ってたよね」

「……まあ、そんな感じだ」

「それは男女関係なく殺したいってこと? それとも、女の人限定なの?」

この話をするのは、正直辛い。自分の心の中で考えることですら避けていたくらいだ。

 だから、この欲求がどういう性質のものか、言葉で表すのは初めてだった。

「男……は、それほどピンと来ないな。小学校のときにムカついた同級生を絞めたことがあるが、代替行為みたいなもんで、女と比べるとやっぱり劣る……気がする」

「じゃあ、首を絞めるっていうのは? たとえばナイフや銃があったとしても、やっぱり首を絞めて殺したい?」

今朝のさやかを思い出す。

 あの場に銃やナイフがあったなら、オレはどうしていただろうか。

「いや、首を絞めると思う。ついでに言うと、殺したいってのは微妙に違う」

「どういうこと?」

「結果的には一緒なんだが、殺したいわけではないんだ。目的は首を絞めることだけだと思う」

「じゃあ、首を絞めてる女性が、たとえば死んじゃったりして反応がなかったら?」

「全く楽しくないだろうな」

「だろうね。つまり、ちょっと激しめのサディストってことじゃない?」

考えて、なるほどなと納得する。

 結局のところ、オレが求めているのは女性の苦しむ姿であり、『スカーレット・スレイヴ』に通う客と同じなのだ。

「実際に首を絞めたことがあるかどうかは別として、程度の差はあれサディストってそこまで珍しいものじゃないと思うよ。ただ、亮介はお母さんのことと結び付けて考えちゃっただけで」

「……そうかも知れない」

本当は、オレはもっと早くに自由になれていたのかもしれない。気づかないうちに、自分で自分を『人殺しの子』という呪縛で縛りつけていたのだ。

「スナッフビデオを見る人たちなんかもサディストの一種だろうね。ちなみに、相手を傷つけることで得る快感が性的なものであればセックス・サディストっていうんだけど」

「スナッフ……ああ、あの殺人シーンばっかり写ってるビデオか。見たことはないが」

「そう、セックス・サディストは殺人にまで発展するケースがあるの。常識的に考えて、苦痛を与え続けてたらいつかは死ぬのが当たり前だよね。で、ルカさんのケースなんだけど」

「これもその手の快楽殺人だって言いたいのか?」

「ううん、その逆。今の話で、ルカさんの死因についてもう一回考えた方が良いんじゃないかなって思ったの」

彼女が殺された方法。今までオレたちは、首につけられた手形のあざを見て絞殺だと決めつけていた。

 しかし、ルカはSMクラブで働いていた。美叶流華の話によれば、彼女はマゾヒストとして客と接していたらしい。

 とすれば、彼女はマゾヒズムを持った女性だったと考えられる。

「あの首の絞め跡は、SMプレイの最中に付いたものじゃないかってことか」

「その通り。ただ、いつ付けられたのか、なんだよね」

「殺された当日、光下先輩と店であったときで間違いないだろう」

「どうして分かるの?」

「ユナと話したとき、ルカの様子で変わったことはなかったかも訊いたんだ。そしたら、風邪をひいてて咳をしてた、って言っていた。普通、首にべったり絞められた跡がついていたら、そっちの方が記憶に残ると思わないか?」

ユナが当日ルカに会ったのは、お互いに出勤したときだろう。

ルカはそれから鳥島先輩の相手をしてから帰宅したが、ユナはルカとのプレイを終えた光下先輩と五時間ものプレイをしたのだから、帰宅時間がかぶるはずはない。

「でも、SMのお店なんでしょ?」

「首絞めみたいな危険な行為は、あの店では出来ない。前も言っただろ」

「あ、そっか。でも、恋人である光下先輩なら、こっそりお店ですることが出来たってことね」

「そうだ。二人は商売じゃなく恋人としてあそこで会ってたらしいからな」

とすれば、そのときに首にあざが付いたことを証明出来る人間がいる。

「鳥島先輩に訊いてみれば、そこははっきりするだろう」

「光下先輩の直後にルカさんと会ってるんだもんね。何てったってルカさんが最後に担当したお客さんだし、とにかく一度話を聞いておいた方が良さそう」

「そうだな。番号知ってるし、また確認しておこう」

あまり考えたくはないことだが、もしルカが他殺だとしたら、光下先輩にご執心だった鳥島先輩も犯人である可能性も出てくる。

「鳥島先輩が、すでにルカさんの首にあざが付いていたことを証言すれば、今までの推理は全部ひっくり返るってことね」

あのあざが事前に付けられたものだとすれば、当然死因も変わってくる。

 結局、何が彼女を死に至らしめたのだろうか。

「おい、律」

毛布から顔だけを出し、カラのパン袋をひらひらさせながらこちらを凝視している律に声をかける。予備知識なしにこの光景を見たら妖怪だと思うだろう。

「ん」

「あの死斑、窒息死のほかにどんなときに現れるんだった?」

前も言った、とばかりに面倒くさそうな声が返ってくる。

「心臓病、窒息、脳出血」

その言葉を聞いて、コトリが軽く首を傾げながら言った。

「うーん、あんまり面白くない」

「何だよ面白くないって」

「だって、心臓病なんてただの病気じゃない。どこに殺人の香りがするってのよ」

「殺人事件じゃないならその方がありがたい。あの状況から言って、アパート撮影中に発作が起きた、って流れは確かにしっくりくるな」

人目がありそうな通りでの殺人より、よほど可能性が高そうだ。

「でも、心臓病の人がSMクラブに勤めてても大丈夫なの? 絶対負担がかかると思うんだけど」

「自殺行為だな。それに、鞭でぶたれたり首を絞められたりしても大丈夫な心臓が、住宅街の静かな夜道で止まるってのも不自然だ」

せっかく穏便な死因になると思ったのに、残念だ。

「だったら脳出血はどう? 後ろから殴られたとか」

「死体の頭からは血なんて出てなかったぞ。死体の状態は、コトリと律が最初に散々調べてただろ」

律が面倒くさそうに付け足す。

「それに、昨日の電話でアパート前の人の出入りは制限されてたって亮介言ってた」

何かを訴えるようにカラのパン袋をゆらゆらさせていたが、敢えて無視した。

「そう言えば、巡査とこのあたりの住民のことを調べるって言ってたやつ、あれはどうなったんだ?」

「取りあえず昨日巡査にだけ当たってみたんだけど……何かぱっとしないんだよね。最近夜中に見かけてた不審者は女だって言ってたからルカさんに間違いはないんだろうけど。子供はいないらしいんだけど巡査は奥さんと二人暮らしで、毎週のようにデートしてるって話だよ」

「何だか、疑う余地もなさそうだな」

近くの住民を調べたところで、きっと同じような結果だろう。

 探偵じゃあるまいし、警察でもない一般市民がひとり頑張って調査したところで、何か特別なことが分かるわけはないのだ。

「それに、絞殺以外の可能性が高くなって来たんだろ。巡査や近所の住民が誰にも見つからずにルカに近づけたとして、結局どうやって殺したんだ?」

「うーん……出血しない程度に殴るとか……ないか」

可能性が低いと思っているのだろう、彼女の語尾は自信なさげなつぶやきになっていた。

 叫び声を立てられず、引っかかれることもなく、出血さえさせずに手早く殺す方法。

 真っ先に思いつくのは毒殺だが、今度はどこで飲ませたのかという問題が出てくる。いや、飲ませられたとしても、死斑をごまかすことはできない。

 死因によって色が変わるのなら、薬物中毒で死んだ場合、彼女の死斑の色はそれ相応の色でなければならないのだ。

 と、そこまで考えて、ふとあることを思い出す。

「なあ、前にルカのバッグからピルケースが出て来たよな」

「うん、あったね」

オレは、隠しておいたルカのバッグを押し入れから出してきた。

手にハンカチを巻き付け、それをビニール袋から出す。

ピルケースをバッグから取り出すと、書き込まれている字を確認した。

「なになに、どうしたの?」

コトリが覗き込んできた。律も興味を持ったようで、首を伸ばしてオレの手元を見ている。

「メマイって書かれた薬があるだろ。もしあれが眩暈に効く薬だったとしたら、ルカは病的な眩暈に苦しんでたってことになる」

「薬まで飲んでるんだからそうだろうね。……って、もしかして」

「そう! オレのアパートを見上げながら撮影してる最中に眩暈を起こして、倒れた拍子にコンクリートに頭をぶつけたとしたら。しかも、うまいこと血が出ない程度に頭をぶつけて失神し、そのまま脳内出血で死んだとしたら!」

「……」

「……したら……良かったのになぁって……」

コトリの視線が痛すぎて、オレの語尾も空気に溶けるように消えた。

「いや、でも事故の可能性だってあるだろ。ないか?」

「あるかもしれないけど、きっとこれは殺人事件よ」

「なんでだよ」

「その方が燃えるじゃない」

結局は希望的観測か。

 もっとも、オレの事故説だって希望的観測なのだが。

「それに、ルカさんには殺される理由があると思うの」

コトリは今思いついたように付け足した。

「どんな理由だ? 光下先輩の彼女だったってことか?」

「そう。けど、本当は六宮さんと結婚してた」

「やっぱり、光下先輩とルカの関係に怒った六宮が……」

「ルカさんが既婚者だっていうのを隠してたなら、光下先輩だって怒るでしょ。騙されてたことが分かったら、殺したいほど恨むかもしれない。六宮さんだって選択肢から外したわけではないけどさ」

「光下先輩にはアリバイがあるだろ。第一、犯人だったとしたらオレに『スカーレット・スレイヴに行っててルカと付き合ってた』なんて、わざわざバラす意味がない」

「アリバイか……今のところ、確実なアリバイがあるのは私と光下先輩だけなのよね」

「まあ、深夜の出来事だからな。ミノルの"コンビニでバイトしてた"ってのも、そのときの防犯ビデオを借りて見せてもらえばアリバイの確実性が出てくると思うが」

何だか混沌としてきた。とにかく何も分からない。

 せめて事故死でさえあればどうでもいいような気がしてきた。

「煮つまっちゃったね。せめて死因だけでも特定できればなぁ」

珍しくコトリがため息をついてぼやく。

 大きく伸びをして、そのままコテンと横に倒れた。

「おい、パンツ見えるぞ」

「見えないもん。ドロワーズ履いてるもん」

「本当だ。何だその装飾過多なズボン」

「ちょっと、人の下着じろじろ見ないでよ!」

「下着なら隠せよ!」

むくれながらコトリは再び起き上がった。

 混沌からダラダラとした雰囲気に移行した今、もう色々と面倒くさくなってきた。このままルカの一件は放置してなかったことにしたいくらいだが、それはそれでオレの心にしこりが残る。

 やはり、ルカはオレが殺したのではないという確信を得たかった。

「とにかく、いったん話をまとめるぞ」

咳払いをして、コトリと、ついでに律に向かって話す。

「まず、鳥島先輩とルカのプレイが終わったのが十一時半。そしてタクシーでオレのアパートに向かって、携帯で部屋を撮影したのが十二時十六分。ここに四十六分の空白の時間があるが、オレのアパートまでは車で二十分かかってもおかしくないし、帰り支度だのタクシーの乗り降りだのがあっただろうから、妥当だと思ってる」

「つまり、途中で殺されたって可能性はないってことね」

「そうだ。もし途中で殺されたんだとしたら、わざわざオレのアパートの写真を撮ったりだとかの工作をしなきゃいけない。しかも美濃巡査とランダムに出没する律をかいくぐってアパート前に置かなければいけないから、とてもこんな短時間で出来る芸当じゃない」

「それに、前に亮介が言ってた通り、敢えて巡査が巡回する日にする意味もわからないしね」

「ああ。ルカの仕事終わりの時間からして、洗濯機に隠れる時間の余裕もない。だから、ルカが死んだのはアパート前で間違いない」

コトリはうなづいた。

「で、牧野ちゃんが死体を持って帰ったのが大体一時、と。ここの時間がもうちょっと厳密に分かると嬉しいんだけどな。牧野ちゃん、思い出せない?」

二人から視線を注がれるも、律はどこまでも他人事のように「さあ」と言った。

「何か特定する方法はないかなぁ」

オレも必死で考えてみるが、そもそも寝ていたときにいつ何が起きたかなんて分かるわけがない。オレが記憶を掘り起こすことが出来るのは、朝日を浴びつつ起きたところからだ。

 ……いや、待てよ。オレは、朝日を浴びて起きたのか?

「なあ。あの日、雨が降ってたよな」

確かに、オレが起きたとき太陽は昇り切っていた。しかし、窓から見た景色は『朝日に照らされた町』と言えるほど清々しいものではなかった。薄暗くよどんだ、灰色の景色だ。

「ルカの死体は濡れてなかった。真横に寝かされたんだから間違いない」

そして、再び律に訊いてみる。

「おまえ、何時から雨が降り始めたかなんて覚えてないよな?」

「うん」

せっかくのチャンスも潰す男だ、こいつは。

「ちょっと待って。私覚えてる!」

コトリが興奮気味に口をはさむ。

「ファミレスでレポート書いてたって言ったでしょ。確か窓際の席で、雨が降り出したのを見て"車まで歩く間に濡れるのやだな"って思ったの覚えてるよ!」

「時間は?」

「十二時半……ううん、もうちょっと前だった。次の日学校だし、時間をケータイでチェックしながらやってたの。あんまり遅くまでいないようにしなきゃって思って……あと数分で十二時半になっちゃう、って思った記憶がある」

「十二時二十分から十二時半の間、ってことだな」

場所的にも、コトリがいたと言っていたファミレスとここはそう遠くない。

雨は同時刻に降ったと考えて良いだろう。

「ルカさんは、十二時十六分から三十分の間の十四分間の間に死んだ……

これで、死亡時刻はずいぶん絞れたね」

「次は死因だな。死斑から考えられるのは、心臓病、窒息、脳出血らしい。けど、あの死体じゃそれ以上のことは分からない」

「ルカさんの爪は綺麗だったでしょ。やっぱり、窒息死ってことはないんじゃないかなぁ」

そこまで言うと、コトリは黙り込んだ。

 残された死因は心臓病と脳出血。素人目に見るとだが、どちらも事件の臭いはしてこない。誰それのアリバイうんぬんより、そちらの方がよっぽど重大だ。

「これって……単なる病死じゃないのか」

オレが言うと、案の定コトリは不満げな顔をした。

「病死に見せかけた殺人とか、あるかもしれないじゃない。ねっ牧野ちゃん」

「諦めろ。せいぜいが眩暈で転倒したことによる事故死ってところだろう」

悔しそうなコトリの脇をすり抜け、律が手を伸ばしてきた。ルカのピルケースを手に取り、両手に持ったまま凝視している。

「おっ。何か新たな発見でもあったか?」

普段は役に立たないどころか諸悪の根源だが、ごくごく稀に良いアドバイスをすることがある。そう思って声をかけてみたものの、律は返事することなく部屋の端に戻った。そのまま観察していると、おもむろにコレクションしていたゴミの中にピルケースを加え、満足そうに眺めた。

 期待したオレがバカだった。

「ねえ、関係ないかもしれないけど」

コトリが思い出したように言った。

「結局、どうして六宮さんは亮介のアパートに来れたの? ミノちゃんをカッターで殺そうとしたのはどうして?」

「ミノルに関してなら、ルカに手を出したからじゃないか。ユナの話だと、合コンでミノルに持ち帰られたらしいし」

「ってことは」

コトリはルカの携帯を手に取ると、メール画面を表示させる。

「この"るんるん"って人、ミノちゃんのことじゃない?」

オレも携帯を取り出すと、アドレス帳の『ミノル』を捜し出す。『るんるん』のメールアドレスと比べてみると、見事に一致した。

「この文面から行くと、ルカの方がミノルを誘って断られたようだな」

「何で断ったんだろ」

「直接ルカのことを言ってたわけじゃないが、前に『金でなんとかならない女を落とすのが良い』とか言ってたぞ」

それにしても、ルカは六宮と結婚しながら、ミノルを積極的に誘っていたわけだ。さらに光下先輩と付き合い、なぜかオレのストーカーまでしていた。ルカが何を思ってこんな行動を取っていたのか、さっぱり分からない。

「六宮がルカのことでミノルを恨んでいたとするなら、光下先輩やオレも恨んでるんだろうな」

「恨んでる相手の部屋くらいなら知っててもおかしくない、ってこと?」

「買い物なんかは出来なくても、ふらふら出歩くくらいなら出来そうだが……にしたって、どうやって調べたんだ」

「ルカさんのあとをつけたことがあったんじゃない? その気になれば、亮介の顔写真を持って聞き込みって手もあるけど」

「いや、オレの部屋の場所もそうだが……」

なぜ六宮は、あのときオレのところにルカがいるということを知ることが出来たのか。

 オレのほかにも、ルカはミノルや光下先輩と接触していた。なぜ彼はオレの部屋だけを訪れたのだろう。

「一番最初に六宮がオレの部屋に来たときミノルに話したが、自分のところにも六宮が来たような反応じゃなかった。それどころか、西山公園で襲われたとき、初めて六宮を見たような反応だった」

「六宮さんは、最初から亮介の前にしか現れなかったってこと?」

「だと思う」

六宮は、ルカがオレの部屋にいるということを確信していたのだ。

 誰かから伝え聞いたのだろうか?

 確かに、ルカがここに運ばれてから六宮が来るまでにはブランクがあった。六宮の性格からいって、『夜中は非常識だから』という理由で朝に来訪したわけではないだろう。だからと言って、誰かが六宮にこのことを伝えたという可能性は低い。前にコトリの車の中でもこういうことについて話をしたが、結論は出なかった。

 だが、あのときとは違ってきているところもある。以前は六宮が犯人だと決めついていた。けれど今は、そうではないのかもしれない、という思いが湧きあがっている。

 ルカの死体を潰すとき、いつも無表情だった六宮が泣いていたのを見たからかもしれない。

「ねえ亮介、例えばだけど、バッグに盗聴器とか入ってたりしないかな」

「六宮が常にルカの動向をチェックしてたってことか?」

確かに、あれほどルカに執着しているのだから、それくらいしていてもおかしくはないだろう。

 しかし、そうすると矛盾が出てくる。

「確かに、タクシー内での会話を盗聴していてオレのアパートの前に停まったのが分かったとすれば、ここに真っ先に来る理由にはなる。が、それならルカが運ばれてすぐ、夜中に来るんじゃないか?」

「うーん……だよね」

コトリは眉根を寄せながらきょろきょろと部屋を見回した。

 部屋の片隅に置いてある黒いボストンバッグを見つけると、中から目の覚めるようなピンク色のバッグを引きずり出す。

「ルカのカバンか。ここにあるのを忘れてた」

「一応、なんかそれっぽいのがないか調べてみようと思って」

カバンをひっくり返し、中身を全て出す。

カバン本体に何かが埋め込まれていないか丁寧に調べてみたが、それらしいものはなかった。

「うーん、やっぱ無いか」

腕組みをしてコトリがうなった。

「中に入ってたやつも、前にチェックしたときと同じだしなぁ」

「ガムの包み紙やエステのビラが重要な何かなんてこともないだろうしな」

女のカバンは、どうしてこうも雑多なものが入り混じっているのだろう。

分厚い財布やハンカチ、ミュージックプレイヤー、ピルケースはまだ良い。しかし、中身がぎっしりと詰まったメイクポーチやヘアスプレー、大きすぎる手鏡や文庫本などは、家に置いてきた方が身軽になれると思うのだが。

「そう言えば、ルカさんの携帯あんまり鳴らないね」

「あれ以来何も来てないな。死後に来てた着信やメールも店関係のやつらからだけだったし」

アドレス帳を見ても、光下先輩とミノル以外は、プライベートでの付き合いがある人はいなさそうだった。よっぽど寂しい交友関係なのか。

「オレの両親はいないも同然だが、それでももう少し活用してるぞ」

たとえ友達が少なくても、親元を離れて暮らしているなら、家族からの連絡があっても良さそうなものだが。

 女の子なら、なおさら親が心配するだろう。

「ってことは、これ仕事用なのかもね」

コトリが、ピンク色の安っぽい携帯を見て言った。

「もう一個別に持ってるってことか」

「バッグに入ってないってことは、家に置いてきちゃってるのかな。プライベートのときにしか持ち歩かないとかかも」

わざわざ分ける意味が分からないが、携帯電話を複数個持つ人もそれなりにいる、という話を前にテレビで見たことがある。コトリが言うように仕事とプライベートで分ける人や、浮気を隠すためにという人もいるようだ。

「サブの携帯だから、機能が少ないキッズケータイでも良いってことか」

「防犯ベル機能がついてるらしいから、そういう目的で買ったのかも……あ」

「何だ?」

コトリが自分の携帯を取り出し、何かを調べ始めた。

「分かったかも」

「何がだよ」

しばらくしたのち、コトリの携帯の液晶画面にはキッズケータイについての説明がずらりと並んだ。

「キッズケータイの、最大の魅力。忘れてた」

白い指先が、画面の中の一単語をこつこつと叩く。

「GPSで、いつでも相手の位置情報が分かるの」

なるほど。

これで、六宮がなぜオレの部屋にルカがいることを知ることが出来たかが分かった。

「GPS機能って、普通の携帯電話でも付いてたよな」

「でも、相手の同意が必要みたいよ。ちょっと貸して」

コトリはオレの携帯を手に取ると、すばやく操作する。自分の携帯も何度かいじったあと、両方の液晶画面をこちらに見せた。

「ほら、こんな感じ。相手の携帯が"知らせても良いですよ"って状態にならないとだめみたいなの。インターネットでは所有者に知られないようにこれをする方法も書かれてたけど、そういうことを六宮さんが出来たかどうかは疑問だし」

「つまり、いつでもルカのいる場所が六宮に分かるってのは、ルカの同意の上だったってことか」

「みたいだね」

おそらく、ルカの仕事が終わるころには六宮は寝ていたのだろう。そして翌朝、彼女が帰宅していないことに気付き、自分の携帯電話でルカの居場所を突き止めた。オレの顔を知らなかったとしても、ルカの撮影したアパートの写真を見たことがあるなら、六宮だって部屋まで来れるはずだ。

あの写真に写っている窓明かりからは、オレの部屋が何階のどこにあるかがばっちり分かる。

「なんか、不思議な関係だね」

コトリがぽつりと漏らした。

「六宮とルカか?」

「うん。

ルカさん、一方ではたくさん浮気してるのにさ、もう一方ではすごく正直っていうか」

自分の位置情報をリアルタイムで教えるほど、六宮とルカの関係は深かった。ミノルとの合コン場所や光下先輩とのデート現場さえ、六宮は随時知ることが出来たのだ。

 ルカは何を思ってずっと自分の居場所を知らせ続けていたのだろうか。そして、六宮はルカのふるまいをどう思っていたのだろう。

「……なんかさ。ルカさんがどういう人だったのか知らないけど、彼女にも私たちみたいな人生がぎっしり詰まってたんだよね」

オレの方を見るでもなく、コトリが口を開く。

「それが突然、私たちが過ごしてきた何でもない平凡なある日に全て終わらされたって考えるとさ……全然知らない人だけど、やっぱ悲しいよね」

「何だよ、突然」

「いや、何となくそう思って。こうやって事件のこと調べてるとさ、自然とルカさん自身のことも色々分かってくるじゃない。最初はテレビの向こう側の人みたいな感覚しかなかったけど、こうやって色々調べてるうちに、実はこっち側の人だったんだみたいな……。同じ世界で生きてる、例えば、一か月前に出会ってたら友達になってたかもしれないような人だったんだ、って思って」

遠くを見るようにそう言うコトリは、少し意外だった。

 さっきまで『殺人事件じゃないと面白くない』と言っていた彼女が、見ず知らずの女の死を悲しんでいる。それは、いつでも強くある普段のコトリで隠されていた、内側に眠るプライベートを覗き見た感覚だった。

「ごめん、つまんないこと言った。じゃ、私そろそろ行かなきゃ」

スイッチが入ったように立ち上がると、彼女は携帯で時間を確認した。その表情には、さっき滲ませていたやるせなさの片鱗もない。

「もう一時過ぎじゃない。お昼食べ損ねたの、亮介のせいだからね」

「悪かったよ。ファミレスでよけりゃおごるぞ」

「いいって、たかろうと思って言ったわけじゃないから。悪いと思ってるなら、きっちり犯人探しの方進めておいてよね。私、これから卒研しなきゃだし」

「分かった。これから鳥島先輩に電話する」

「よろしく。……じゃ、牧野ちゃんまた会おうね! バイバイ」

コトリは最後だけとびっきりの笑顔になると、元気いっぱいに帰って行った。

声をかけられた律本人は、死にかけのダニのように手を振り返した。


 夕方にかけた電話は、意外なほどすばやく繋がった。

 鳥島先輩は、ミノルと同じタモ研に所属している。数ある研究室の中でも、オレの所属する学科では一番と言っていいほど厳しい研究室だ。

 そんなタモ研に所属し、毎日夜九時ごろまで研究をしている鳥島先輩だから、繋がりにくいだろうと思っていたのだが。

「あ、オレですけど」

「おお亮介くん、珍しいじゃないか。さあさあ何でも言ってごらん」

「……ちょっと訊きたいことがあるんですけど、今、実験のほう大丈夫っすか?」

「ちょうど液クロが終わったところだよ。なんなら寺研に行っても良いよ」

「いや、今は家にいるんです。すぐ終わるんで、電話で――」

「それなら話は別だよ、特別に今から研究室を抜け出そう。確かアパートは……」

「こ、来なくて良いです。電話で話し――」

「じゃあぼくの部屋で話そう。車でそっちに迎えに行くから、二十分ほど待っててくれたまえ」

「いやいや、だから電――」

「場所は光下くんに聞くから大丈夫だよ。遠慮することはない、特別にぼくのベッドに寝られる権利を与えよう」

「部屋はアレなんで、近くの喫茶店かどこかで――」

「じゃあ今から愛車を飛ばすよ。貴重な猫写真ファイルも楽しみにしててくれたまえ」

「いや、だから――」

オレの答えを待たず、電話は切れてしまった。このままだとオレは別の事件に巻き込まれるかもしれない。

 一応部屋の隅にいる律に「一緒に来るか」と訊いたが、「やだ」という返事が返ってきただけだった。オレだって嫌だ。

 出かける用意を終え、どう言えば先輩の家に行かずに済むかを考えていると、ドアチャイムが鳴った。全ては遅かったようだ。

 諦めて鳥島先輩の軽自動車の助手席に乗りこむ。フロントガラス付近には、カラフルなフィギュアがぎっしりと並べられていた。

「これ、すごいですね。運転の邪魔になりません?」

「ふふ、亮介くんは女の子におっぱいが付いていたとして、それを不必要なものだと思うかい?」

意味が分からない。

「さて、それでは発進するよ」

「いやあの、ひとつだけ質問に答えてくれたらそれで良いんですけど」

「それじゃぼくのベッドに横たわる権利第一号の取得者になれないぞ」

「いや、良いです」

「秘蔵の猫コレクションファイルも見られないし」

「残念ですが、一向にかまいません」

鳥島先輩はションボリした。よっぽど部屋に遊びに来て欲しいらしい。

「しょうがないなぁ、本当はこれ、入門編程度の量しかないんだけど」

しぶしぶ、といった様子で、彼はオレの目の前にある収納ボックスを開けた。ガソリンスタンドのカードやクーポン、何かの明細書に混じって、ここにも猫耳少女のフィギュアがあった。

 その下に、小さな手帳が敷かれている。

「ほら、ちょっと遠いけど勝山市にね、猫カフェがあるんだよねえ」

中身は全て猫の写真だった。それをぺらぺらとめくりながら、先輩は得意げに続ける。

「ずっと白黒のアルンちゃんラブだったんだけども、おデブなヤムヤムちゃんも最近気になって来てさあ。すごくぼくに懐いてくれるんだよ、触っても全然逃げたりしなくって、相思相愛っていうのかなあ。新人のマールちゃんも、ちょっと臆病なところがなかなか――」

「そ、その話はまた学校で聞きますんで」

「そうかい? 種族を超えたぼくたちの物語はこれから始まるんだけど、残念だねえ」

「残念です」

大真面目な顔をしながら、ちっとも感情がこもっていないセリフを吐いた。

 先輩から手帳を受け取り、目の前にある収納ボックスに戻す。その手帳で隠すようにして、下から収納ボックスに会った紙を抜き取った。

 鳥島先輩はそんなことに全く気付かない様子で、ゆるゆると車を発進させる。

「それで亮介くん、何かぼくに話があるんだったよね」

「そうなんです」

「告白されるときって、きっとこんな感じなんだろうねえ」

「……ですかね」

なぜか先輩はしみじみと言った。勘違いされる要素はひとつもないはずなのに。

「とにかく、ちょっと聞きたいことがあったんですよ。大したことじゃないしすぐ終わるんで、もう全然電話でも構わなかったんですけど」

「ほうほう。言ってみたまえ」

どういう風に訊けば良いのだろう。一瞬考えたが、そのままストレートに訊くことにした。

「スカーレット・スレイヴのアオイって子、最後に指名したときのこと覚えてますか?」

鳥島先輩が、珍しく間をおいて答える。

「良くぼくの通ってるお店が分かったねえ。本人から訊いたのかい?」

「いや、同じ店にいるユナって子と最近知り合ったもんで」

明らかに、先輩の目は泳いでいた。質問の答えが返ってこないので、促してみる。

「確か月曜日、最後にあの人を指名したのが鳥島先輩ですよね。彼女、何か普段と変わったところありませんでした?」

まるで聞こえていないかのように、窓の外の空を眺めている。

 住宅街を抜けた大通りでは、家路につく人々を詰め込んだバスや車が行き来していた。西の空には、ようやく腰を下ろした太陽が火照ったように赤く輝いている。

「普通に……元気そうだったよ」

ようやく、先輩はそれだけを言った。

「他には、何かありませんでしたか?」

「他って……さ、さっきからプライバシーを侵害しているぞ」

まるで答えになっていない。しかし、それがかえって充分すぎるほどの答えになっていた。

「アオイさんのことで、他になにか気付いたことがあったら教えて欲しいんです」

「だから、特にないって言ってるじゃないか。しつこい男は嫌われちゃうぞ」

これ以上喋るつもりはないようだ。仕方がないので、少し揺さぶりをかけることにしよう。

「元気そうだった、って言いましたよね」

「そ、そうだよ。どうかしたのかい」

「ユナが言うには、当日彼女は風邪をひいてたみたいなんですよ」

「……い、言われてみればそうだったかもしれないけど……そんなの言うほどのことじゃないだろ」

「どうしてですか」

「だって、風邪くらい誰だってひくだろう? 命にかかわるわけじゃあるまいし、それくらい――」

「風邪ならそうでしょうね」

もう少し攻めてみる。

先輩には申し訳ないが、怒って冷静さを欠けば何かを言ってくれるかもしれない。

「ど、どういう意味だい亮介くん」

「彼女に、"命にかかわる何か"の問題を感じませんでしたか?」

先輩は黙り込んだ。

 彼が何かを隠しているのは間違いない。問題は、それがいったい何なのかだ。

 光下先輩が風俗通いをしている、という事実であれば、すでにオレは知っているし、事件にも関係はないだろう。

 しかし、もしそれがルカの身体的な問題に関する何かだったら。例えば、脳出血や心臓病にかかわる何かであるなら、それこそが一番知りたいことだ。

 病死や事故死でも一向に構わない。オレが知りたいのは、『オレが殺したのではない』という事実だけなのだ。

「最近店に来てないって言いたいんだろう? フフ、そんなの簡単さ。あの女はもともと仕方なく働いていただけで、そんなに熱心なわけじゃなかったのだよ」

「単に、店長に何も言わずバックレてるだけってことですか」

「そういうことだな」

鳥島先輩は急ごしらえの笑顔を向けた。

 おそらく、彼はルカに何があったかを知っている。ただ、死体が見つかったという報道がないので、事が発覚していないと思っているのだ。

 しかし、ここで『律がその死体を拾って、夜中にこっそり運び出しました』なんて言うわけにもいかない。とすれば、嘘をついてでももう少し先輩から話を聞きだす必要がある。

「今まで黙ってて悪かったんですが」

「ん、何だいいきなり」

「アオイさん、実はうちにいるんです」

彼の顔に、焦りと驚愕がない交ぜになったような色が浮かんだ。

 ……ルカは、病気で死んだわけではない。

 オレは確信した。

 例え病気だったとしても、それを後押しされ、死に追いやられたのだ。

「そんな……亮介くんの部屋になんか、まさか」

「うちのアパートの前で倒れていたのを、律が見つけたんです。

保護して、すぐに救急車を呼ぼうかって言ったんですが、本人がどうしても嫌だ、と」

鳥島先輩は退路でも探すかのように、落としがちな視線をさまよわせている。その口は半開きで、くちびるが白くかさついていた。

「それで、彼女は何かに怯えてるみたいなんです。……本当に、何か知りませんか?」

答えの代わりに、車が路肩に停まった。目を伏せながら、先輩が早口でまくし立てる。

「知らないよ、何も知らないから! ぼくは用事があるから降りてくれないか」

「彼女が先輩のことを言ってました。何があったか教えてくれませんか」

「降りてくれったら!」

ぐいぐいと押され、無理やり助手席のドアを開けられた。歩道を歩く通行人が、奇異な目でオレたちを見ている。

「最後に一つだけ。彼女の首に、絞められたあざはありましたか?」

「うう、うるさい!」

泣きそうな表情のまま、鳥島先輩はオレを押し出した。

 『うるさい』なんて言葉が彼の口から出るとは思わなかったが、そう言わざるを得ないような必死さが感じられる。

「誰が彼女の首を絞めたんですか」

その言葉を叩き切る勢いで、車のドアが閉められる。タイヤが空回りせんばかりの勢いで、鳥島先輩は車を発進させた。後方から激しいクラクションが起こったが、多分そんなことを気にする余裕はないだろう。

 さっき起こったことを、頭の中でゆっくりと思い出す。

 ダッシュボードに入っていた『もの』。ルカが持っていた『病』。

 鳥島先輩は、それらが何を意味するかを知っていた。だとしたら、ルカを殺したのは……。

 ようやく何かを掴みかけながら、オレは夕暮れの街を後にした。


 色々なことを考えた挙句、帰りに交番に寄った。ちょうど巡査がいたので、しばらく話をし、帰路に着く。

 部屋に戻り、出がらしの茶を飲みながらひとしきりパソコンで調べ物をしたあと、携帯電話を取り出した。アドレス帳に目を通し、まずはミノルに電話をかける。三十分ほどで電話を終え、今度は光下先輩と鳥島先輩、そして壮太にも電話をした。それから、だいぶ迷ったのち、さやかにメールを打った。どう書いて良いか分からず、何度も消しては書きを繰り返して、送った。しばらくして返信が来た。あんなことをされたのにも関わらず、ちゃんと返信をくれたのがありがたかった。

 やるべきことをすべて終え、床に寝そべって伸びをする。

 明日、一連の問題にけりがつこうとしている。なのに、この嫌な感覚は何なのだろう。

 ただの勘違いかもしれない。明日オレは大恥をかき、笑われるかもしれない。ひょっとしたら、軽蔑されるかも。

 それでもオレは呼び出した。明日直接本人に会って、全てを問いただすことを選んだ。

 事なかれ主義のオレをそうさせたのは、ほかでもない、あのルカだ。

 このことは、コトリには伏せておいた。全てが終わったら話すつもりではいる。しかし、この段階で話してしまえば、本格的にコトリを巻き込むことになる。あいつなら、上等だと言って笑うかも知れない。だが、知っていてなお危険な目に会わせるわけにはいかない。

 律にも、何も言わないでおいた。今の電話を聞いていたらと思い様子をうかがったが、いつも通り部屋の隅で丸くなっていた。寝ているのだろう。このまま、何も知らせずに明日を迎えたい。

 明日だ。

 明日で、多分全てを終わらせることが出来る。








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