五年前
ページをめくる音と鉛筆を走らせる音だけが、学習室に響く。
勉強をするため施設内に作られたこの部屋は、広さこそ中学校の教室の半分程度だが、クーラーが効いているのがありがたい。今日の勉強をひと通り終え、図書館から借りてきた参考書を布の簡易なバッグに仕舞う。
今年はいよいよ高校受験だ。誰も引き取り手がつきそうにないオレが生きていくためには、少しでもレベルの高い学校に行き、就職につなげることが不可欠だった。そのためには、夏休みだからといって休んでなんかはいられない。
あかねさんのように、住み込みでパチンコ屋に勤めるのは最終手段だ。収入の面で不安があるのも理由の一つだが、出来れば生物学を学べる学校に進学し、遺伝子の研究をするのが夢だった。
部屋に戻るため、長い廊下を歩く。蛍光灯は薄暗く、節電のためかところどころ抜かれていた。
左側に並んだ窓からは、欠けたおぼろ月が良く見える。
「あら」
廊下の先から、黒い影が現れた。顔は良く見えないが、その声とずんぐりしたシルエットで分かる。厚木さんだ。
「亮介くん、勉強してたの」
小走りでオレのそばに来ると、当然のように腕をつかむ。
「はい、受験生なんで」
「偉いわねえ」
その手は、腕から徐々に移動していく。
腕から背中へ。
背中から腰へ。
「疲れたでしょ。内緒で夜食食べさせてあげようか」
その言葉に、オレは弱い。厚木さんはそれをよく承知していた。
「おいで、ほら。大好きなチャーシューたっぷりのラーメン作ったげるわよ」
太い指が、ぐっとオレの腰を押す。迷いながらも結局付いていくるというのは、経験的に承知しているのだろう。
もう夜の十時だ。こんな時間に外出をしてはいけないことなど、二人ともよく分かっている。そして……女性職員のマンションに、オレが入ってはいけないことも。
だけどオレは抵抗しない。彼女はいつもお気に入りの児童には気前が良いのだ。
オレに夜食を食わせ、自分は横でビールをあおりながら、気分が良くなってくると千円ていどの小遣いをくれることもある。
最初は確かに躊躇した。しかし、彼女はそのためらいを消し去ってしまえるだけの魅力的なえさを、常に用意していた。おかげで、バイトの出来る年齢に達していないオレでも、わずかながら貯金をすることが出来ていた。
何としてでも大学に行きたい。それには、金は不可欠だった。
いつも通り助手席に乗せられ、車で数分程度のマンションに着く。エレベーターで四階まで登ると、もうオレの頭の中にはラーメンと金しかなかった。
厚木さんの部屋は、四十代の女性にしてはおおよそ不釣り合いなほど可愛い。ピンクのレースカーテンに真っ白のラグ。部屋の向こう側に置かれたベッドのカバーはフリルがたっぷりで、ハートのクッションが添えてある。家具は全て猫足で、明るめのオークで統一されていた。
おしゃれなガラステーブルに乗せられた熱々のラーメンが、何だか場違いで面白い。
「今日は強めの飲んじゃおうかなあ」
厚木さんが浮かれた声で冷蔵庫の酒を物色している。
「あんまり無理しちゃだめですよ」
「だって亮介くん来てるし。あ、ジンにしよ」
「何ですかその意味不明な言い訳」
「良いじゃん良いじゃん」
安っぽいグラスと共に、透明な液体が入った瓶がやってきた。座るなり酒を注ぎ入れると、少なめのトニック・ウォーターで割る。適当にグラスを振って混ぜ、水でも飲むように流し込んだ。
「いつもビールばっかだったのに、どうしたんですか」
「友達に貰ったんだよね。こんな強い酒いらないって」
「酔っちゃったら車の運転出来ないですよ。オレ帰れなくなっちゃいます」
「帰らなくて良いんじゃない?」
すすっていたラーメンが気道に入った。むせるオレの背を、厚木さんが太い指で撫でまわす。
「て、テレビつけて良いですか」
「ん? どーぞー」
妙な雰囲気を吹き飛ばそうと、バラエティ番組を探す。芸人たちの体を張ったギャグを見ながら、何だか落ち着かない気分になった。
さっきから、厚木さんの手が離れない。
すっかり咳も落ち着き、その必要もないのに、彼女の左手はいまだオレのわき腹をさすっている。ラーメンを食い終わっても、その手は生温かい体温をもって、ぴったりと密着していた。
クーラーは寒いほど効かせてあるのに、こめかみを汗が伝う。
テレビがばかばかしいことを言うたび、オレは無理やり笑い声を上げる。そして、一向にテレビに集中する様子のない厚木さんの様子をうかがうのだ。
未開封だった酒瓶の中身はいつしか半分ほどに減り、もう飽きたのかそれ以上飲む様子はない。初めは手のひら程度だった密着部分も、じわじわと広がっていった。
厚木さんはオレの右肩に頭を預けながら、上半身を抱き込むように背から腰にかけて腕を回している。熱っぽい手は左腰をさすりながら、徐々に尻へと下りてきた。
「……あ、あの、そろそろ」
切り出すが、厚木さんは頭をどける気配がない。
「帰って寝ないと……もうちょっと勉強したいし」
それが単なる言い訳であることはバレバレだった。だが、気まずいながらもこれで帰れるだろうとは思っていた。
彼女がオレに何かを強要することはないだろうし、そんなことをしてはならないと自覚している――大人とはそういうものだ、とどこかで信じていた。
「今日、泊っちゃいなよ」
厚木さんはぼんやりとテレビを見ながら言った。その表情とは裏腹に、たっぷりと肉がついた手は、より一層熱を持ってオレの腰に絡みつく。
「え? でも、規則――」
「そんなん関係ない。今までだってそうだったでしょ」
何も言い返せなかった。オレは、知りながら何度も規則を破っていたのだ。
気分が良いときに手渡された飴やクッキー。手伝いの見返りに貰った百円玉。買い物に付き合ったからとおごってもらった食事。マンションから帰るときに渡された小遣い。
見返りが徐々に大きくなっていくことに、不安がなかったわけでもない。ただ、そんなものは目の前のえさに比べれば些細なものだった。いつか良からぬことになるという予感は、何かを貰うたび黙殺されていた。
今までは。
「帰らなかったら春川君にも不審に思われるし、やっぱ……明日、また来ますから。ね?」
「お酒飲んだから、もう運転できないよ」
「今までも飲酒運転してたじゃないですか」
その言葉に、厚木さんは答えない。
この会話に意味がないことが分かっているのだ。お酒を飲んでいようといるまいと、オレを帰す気はさらさらないのだろう。
このままでは、もうらちが明かない。
「送ってもらうのが無理なら、歩いて帰ります」
邪魔するようにへばりつく彼女の手を、無理やり引き剥がす。立ち上がって背を向けたオレに、驚くほど低い声で厚木さんが言った。
「……あんた、そんな風にあたしを扱っていいと思ってるの」
玄関に向かう足が止まる。
「金も食い物ももうやらないよ。あんたの待遇だって、あたしがいたから良くなるようにしてやってたんだ。施設長は昔からの知り合いだし、ユウジにちょっと言えばあんたを毎日ボコらせることくらい簡単なんだからね」
嘘だ。
施設長は、こんな横暴を許すような人には思えない。それに、ユウジは不良ではあっても、施設職員に媚を売るようなまねはしない。
それよりも驚いたのは、彼女がこんなあからさまな脅しをしてきたということだった。
「……それなら、ユウジをこの部屋に呼んだらいいじゃないですか」
強がる一方で、不安が少しずつ広がっていく。
もし本当に施設長が昔からの知り合いだったとしたら、オレよりも厚木さんの言うでたらめを信用してしまうことがあるのではないか。
ユウジにそれなりの金を渡せば、誰かをいじめさせるのも出来るのではないか。
「あら、なあんだ。亮介くんヤキモチ焼いてるの」
勘違いしたのか、それまでの能面のような顔を緩ませた。しかし、今となってはそれも気持ちの悪いニタニタ笑いとしか感じられない。ちぢれたパーマに縁取られた顔は、水に浸けたまんじゅうのようだ。体だってすっかり張りが失われ、肉と言う肉が弛んでいる。この『おばさん』のどこにヤキモチを焼く要素があると言うんだ。
「ユウジには興味ないからね。ただ、あんまりひどいこと言うならそうなっちゃうよって言っただけ」
厚木さんは立ち上がると、オレを背中から抱き、頬ずりをした。
「ね、亮介くん。あたしの気持ち、分かるでしょ?」
今すぐ振り払ってしまいたかった。なのに、いろんなしがらみが頭から離れない。
施設での暮らし。高校受験。進学のための資金。
ああ、今すぐ父さんが迎えに来てくれたらどんなに嬉しいだろう。誰でもいい、ここからすぐに助け出してくれたなら。
シャツの裾をくぐり、厚木さんの指が這い上がってくる。外へと続くドアはすぐそこなのに、身体がすくんでいて動かない。
恥ずかしげもなく涙をいっぱいに溜めながら、なぜかオレはあかねさんのことを思い出していた。