六年前
「ありがとう亮介くん、助かっちゃったわ」
朝日を浴びながら、施設員の厚木さんが嬉しそうに言った。
「いや、土を運ぶのくらい軽いもんです」
ビニール袋に入った園芸用の腐葉土を肩から下ろす。施設の入り口にある花壇に花を植えるためのものだ。全部で八袋も運んだ。
厚木さんは、肉付きこそ良いものの、背はオレよりも低いおばさんだ。結婚はしていないらしいが、五人くらい子供がいてもおかしくなさそうな見た目をしている。
どう見ても天然パーマにしか見えない茶色の髪は、本人いわく『おしゃれなサロンでトータルプロデュースしてもらった』らしい。
「良かったら花壇に土を入れるのも手伝いますよ」
「あらぁ、悪いわね。せっかくの日曜日なのに」
「どうせ予定ないっすから」
あたりで楽しそうにはしゃいでいる子供に目をやる。小学校低学年の小さな子もいれば、オレと同じ中学生くらいの者もいる。
施設の門から建物までは、立派とは言えないものの、元気に走り回ることができるだけのグラウンドのような広さはあった。花壇は、オレたちの生活の場である建物に沿って、細長く配置されている。
「じゃあ、お願いしちゃおうかな。本当はユウジくんたちに頼んだのに、全然言うこときいてくれないんだから」
ユウジは、オレよりも遅くこの施設に来た男だ。オレより三つ上の十七歳で、とにかくガラが悪い。小さな子は怖がって近寄らないし、ユウジからも近づかないのだが、オレくらいの年の者には金や物をせびりに来ることがある。
「なんか、ユウジさんが来てから春川君たちも変わりましたね」
ちょうど反抗期に差し掛かっていた男子の一部は、悪ぶっているユウジに感化され、粗暴な態度を取るようになってきた。春川君もその一人だった。
それでも、この施設で大きな権力を持っていると言っても良い施設員に反抗的な態度を取る者は、今までほとんどいなかったのだが。
「そうなのよ。前はそれなりに可愛いやんちゃ坊主だったのにね」
土の入ったビニールの口をハサミで切りながら、厚木さんが言った。
「でも規則は規則よ。お手伝いを破った罰はちゃんと受けてもらわなきゃ」
土を受け取り、花壇にざあざあと流し入れていく。
なぜ彼らは、罰を受けると分かっていて反抗したがるのか。こんな作業など大した労働ではないし、のちに反省文だの外出禁止だのを食らうことと比べれば、拘束時間だって短くて済む。
ユウジならともかく、春川君はそんな頭の悪い男ではなかったはずだ。
「これくらいの作業ならオレ一人でも大丈夫ですよ」
「ほんっと、亮介くんは頼もしいわぁ」
「休日に遊んでくれる相手がいないだけです」
冗談めかして言ったものの、その半分は本当のことだった。入所当時から仲良くしていた春川君とは、最近どちらからともなく距離を置くようになってきた。
あかねさんは、ここを出てからもたまに遊びにやってくる。でも仕事が忙しいから、いつも長居はしなかった。
ほかにも仲の良いやつらはいるし、声をかけて遊びに行くこともできたのだが、厚木さんがユウジたちに手伝いを頼んだ時点でバックレられるのは目に見えていた。どうせ明日だって休みなんだし、連日遊びに行くと金がかかる。
それに、正直に言うと、たまに内緒でくれる厚木さんからのお菓子やお小遣いが目当てでもある。
「またまた、亮介くんは友達いっぱいいるじゃない。でも、もし明日ヒマなら買い物に付き合ってくれると嬉しいなあ」
「なんかの買い出しですか?」
「ううん、完全にプライベート」
そして、ニヤリと笑ってオレに耳打ちをした。
「お礼に、美味しいもの食べさせてあげる」
金のない食べざかりの中学生が、この言葉になびかないわけがない。質より量だが、質も量も良いのなら大歓迎だ。
もちろん快諾したオレは、うかれながら花壇づくりに精を出した。
***
夜の自由時間は、自室で本を読むのが日課になっている。
といっても、あまり堅いものは好きじゃない。ドラマの原作小説だとか、最近話題のエッセイだとか、アニメのノベライズだとか。近くの図書館に行けばただで読み放題なので、とても重宝している。
相変わらずオレは手狭な四人部屋の、二段ベッドの下で寝ていた。上の段が春川君ということも二年前と一緒だが、彼がベッドのはしごを登るときにオレに話しかけなくなったのは、割と最近の話だ。
何があったわけではない。特別嫌いでもないが、特別好きでもなくなっただけだ。これが彼の思春期ってやつなんだろう。どこか達観したように、オレはそう思っていた。
だから今日、オレが寝そべって本を読んでいるとき、久しぶりに春川君が声をかけてきても、特別な思いはなかった。ああ珍しいな、くらいのものだ。
「亮介、おまえさ」
だけど、彼は違ったようだった。いきなり話しかけられ、振り向くと、表情を硬くした春川君が棒のように突っ立ったまま言った。
「オレらがサボった手伝い、やったのか」
「ああ」
「厚木さんに頼まれたのか」
「いや、違うけど。何だ?」
春川君はどこか気まずそうな顔で、オレとは目を合わせようとしなかった。もう厚木さんに叱られたのだろうか。
「あのさ……」
「ん?」
本を脇に置いて、寝そべらせた体を春川君に向ける。しゃべる気がないのかと思うほど間を開けた後、ぎこちない口調で彼は続けた。
「あんま、そういうことしない方が良い」
何を言い出すかと思えば。
「何でだ?」
「いいから。もう、おまえはそういうことすんな」
ぶっきらぼうにそれだけ言うと、用事は終わったとばかりにベッドのはしごに手をかけた。
さっぱり意味が分からず、追いかけるように彼に尋ねる。
「そう言えって、ユウジさんにでも頼まれたのか?」
はしごを登ろうしていた彼の体が止まった。
ユウジがオレの行動を快く思っておらず、春川君を使って釘をさしたのか。それとも、ユウジに目をつけられる前にオレのことを思って忠告してくれたのか。
「そんなんじゃねえ」
「じゃあ何だ? はっきり言ってくれないと分からない」
ユウジが関係ないとすれば、何が問題なのだろう。職員と仲良くするのを、春川君自身が気に入らないのだろうか。
「おまえさ。何でココ来たの」
さっきにも増して、彼の口調はぶっきらぼうだ。その顔は上の段へと続くはしごと重なって、表情が読めない。
「え?」
「ここに来た理由。あんま人に言えねえ理由なら、そういうことはやめろ」
今度は呼び止める間もなく、するすると上の段に上って行った。下からいくら呼びかけても、一向に返事をしない。
ここに来た理由。
もちろんそれは、母があの事件を起こしたからだ。それが切っ掛けで母は死に、父はオレをここに預けてどこかへと消えた。
このことは、施設の誰にも言ってはいない。施設の職員たちも、事情が事情だけに誰にも漏らしてはいないだろう。
だとしたら、あの春川君の口ぶりは何なんだ。
得体の知れない不安に襲われる。まるで、何かを知っているような言い方じゃないか。
確かにあの事件は当時大きくメディアに取り上げられた。オレの家は報道陣に囲まれ、テレビをつければ嫌でも事件の詳細が耳に入ってきた。地元のニュースは長い時間を割いて、過激な煽り文句を交えながら放送した。そのせいで、当時のクラスメイトや地元の人々などにはすぐに噂が広まってしまった。
とはいえ、当然ながらオレの顔や名前はどこにも出てはいない。名字だってありきたりだし、事件が起きてから施設に移るまで時間的にブランクもあったから、オレとあの事件をつなげる直接的な証拠はないはずだ。しかも、わざわざ地元の噂の届かない県外に出てきたのだ。
では、春川君はどうしてあんなことを言ったのだろう。
一年ほど前、中学に上がりたてでまだ春川君が『かわいいやんちゃ坊主』だったころ、彼は厚木さんに可愛がられていた。今のオレと同様、内緒でお菓子やお小遣いをもらっては、ごく簡単な手伝いをしていた。
もちろん、施設の決まりとしては特定の子供にだけそんな接し方をするのはご法度だろう。しかし、施設職員の中でもそこそこ古参で、どこか有無を言わせない物言いをする厚木さんに、そのことを注意する人は誰もいなかった。
それに、ひいきと言っても百円玉やクッキー程度のものだ。表ざたにするほどのことではなかった。
しかし、彼は変わった。
それがユウジの来る前だったか後だったかは分からない。施設職員と距離を取るようになり、ひいきにしてくれていた厚木さんからも離れて行った。彼がそれを心のどこかで後悔しているのなら、先ほどの発言も頷ける。
そして……考えたくはないことだが、もし過去の事件が春川君に知られたのだとしたら、それはそれで説明がつく。
人殺しの子。
春川君がオレと距離を置くようになったのは、それを知ったからではないだろうか。
上のベッドから、かすかにきしむ音がした。あいつは何を知ってるんだろう。そして、オレをどうするつもりなんだろう。
……もし彼があの事件を知っていたなら。
仰向けになって寝転がった。楽な姿勢とは裏腹に、心臓がきりきりと痛む。
目を閉じて、誰に言うともなく呟いた。
「もう、ここにもオレの居場所はない」