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一日目


 本当に嫌な朝だった。

 外は雨が降っていた。目覚まし時計は壊れていた。パンはカビていた。その上、ベッドでは眠り姫のように美しい女性が添い寝をしていた。

 多分、オレは恋をしていただろう。この女性が死体でなければ。

「な……な……」

 白い首には、ピンクダイヤのネックレスと内出血によるアザが付けられている。

 目元を強調した派手めの化粧に、明るく染めた長い髪。どこかで見たような、整った顔立ち。ブランド物らしき高そうな、そして露出の高い服が目を引いた。腰の辺りが少し浮いているのは、下で布団が丸まっているのだろうか。

 強めの香水が、寝ぼけた鼻を刺激する。ぴったりと密着している華奢な腕は、ゴムタイヤのように硬かった。

「り、律!」

誰の仕業かはすぐに分かった。この部屋のもう一人の住人、牧野律だ。

 無愛想で気まぐれ。偏った才能の持ち主。カビたパンでも平気。おまけに、部屋の隅が大好きだ。オレが起きたときだって、タンスと窓との間に出来た角から、細い足を手で抱えてじっとこちらを見ていた。

「何なんだ、この死体は」

すっぽりとかぶった毛布の下から、無造作な黒髪とアーモンド形の目が覗く。

「拾ってきた」

彼は無表情に答えた。「キレイだったから」と言葉を付け足した。

 オレも綺麗なもんは大好きだ。そりゃ、宝石が落ちていれば拾ってくるだろう。だけど死体だ。宝石みたいに光らない。売れない。保存がきかない。

「もうひとつ。なんでオレの隣に置くんだ」

「お礼。いつもここに居させてもらってるから」

「おまえはネコか? ネコだってもっと片付けやすい物を置くぞ! せいぜいネズミの死体だ。嬉しそうに見せに来るが、こっちはいい迷惑だ。だいたい何でおまえは迷惑ばっかりかけるんだよ! 二十一歳のくせに無職、居候、おまけに家事も満足にできない。役に立つことって言ったら、カビたパンの処理くらいだ」

まくしたてたあと、オレは想像した。

 警察に捕まる自分。手錠を付けてカメラのフラッシュを浴びている。同じ牢獄の中にこいつがいて、部屋の隅からこちらを見ている。

 まずい食事――肉は薄い。野菜はしなびている。骨が圧倒的に多い魚。米は臭い。パンはやはりカビている。

「喜ぶかと思った」

律は言った。

「嫌なら、元の場所に返してくるよ」

「どこで拾ってきたんだ?」

「道」

「どこの!」

「忘れた」

忘れたくせに、返しにいくも何もないもんだ。通報されるのがオチだろう。

「……殺人って知ってるか?」

「馬鹿にしてる?」

彼は真顔で答えた。脳の血管が切れた気がした。

「もし! お前が朝から死体を引きずって歩いてたら、だ。それを見たやつはどう思う? 殺人事件だと思って100%通報されるんだ、警察に!」

「証拠もないのに?」

「証拠はおまえが引きずってる」

「じゃあどうすれば良いのさ」

こっちが聞きたいくらいだ。

 二十年間生きてきて色々なやつの尻ぬぐいをしてきたが、これほど絶望的な事態は初めてだった。

 一年前に普通高校から高専へと進学したオレは、慣れない環境と数少ない編入組だったのもあって、心身ともに弱っていた。でなければ、こいつとルームシェアなどすることはなかったはずだ。

「……まずは、この死体をどうするか考えよう。明るい未来のためだ。このまま二人で死体を引きずれば、間違いなく現行犯逮捕される。キレイだから持ち帰ったんです、って理由は不可だぞ。悪けりゃ実刑、良くても精神病院行きだ。おまえには有効な治療をしてくれるかも知れんが、オレは逆に発狂するだろう」

「考えるんだね」

思いっきり無視しやがった。が、オレも構わず話を進める。

「一番望ましいのが、おまえが警察に出頭することだ。何が良いかって言うと、オレに迷惑がかからないことだ。家賃、ガス代、電気代、その他雑費を面倒見てきた年下の貧乏学生に、少しでも報いる気があればお勧めだ」

「二番目の案は?」

「おまえがこの死体を引きずって、どこか遠いところへ行くことだ。県内じゃだめだ。国外であればさらに良い。おまえと出会ったこと自体が夢だったと思わせてくれ」

「三番目は?」

「まだ必要なのか!?」

涙が出そうだ。

 どうしてこいつは、常に汚れた尻を突き出すだけなんだろう?

 どうしてオレは、毎回それを拭いて回るハメになるのだろう?

「じゃあ道端にでも捨ててくるよ」

「おまえと出会った瞬間にそうするべきだったんだ!」

「過ぎたことを悔やんでも意味がないさ」

律の正論ほど胃が痛くなるものはない。

 窓の外では、いまだに雨が音を立てて降り続けていた。日は昇りきっているのだが、景色全体が薄暗くよどんでいる。三階の窓から見下ろす限り、道には誰も見当たらない。出勤時間にはまだ早いようだ。このあたりは住宅街だから、余計に静かなのだろう。

 ふと時間が気になり、目覚まし時計を手に取った。しかし、止まった針を見て壊れていることを思い出し、無性に腹が立つ。

「クソッ!」

床に叩きつけられた時計は、クラッカーのように中身をぶちまけた。バラバラだ。

 バラバラ……

 嫌なことを思いつき、頭をかきむしった。

「シラミでもいるの?」

おまえをバラバラにしてやろうか。

 律は殺気に気づくこともなく、カビたパンの袋に手を突っ込んでいる。よくこんな状況で食べる気になるもんだ。

 食べる……

 またしても自己嫌悪に陥った。

 とにかく今、オレにとって最善の道は何か。胞子まみれのパンくずをベロベロなめている律は、この際あてにしない。

 今、携帯電話に『一一〇』と打ち込み、発信ボタンに指を触れさせるとする。二コールもしないうちに、警察につながるだろう。


『はい、こちら一一〇番ですが』

おはようございます、今しがた死体を拾いました。

『今、何と?』

ですから、死体を拾いました。

『発見されたのですね? 状況を説明していただけますか?』

アパートの自宅にいます。同居人の牧野律が拾ってきたんです。

『アパート? 自室で発見されたのですか?』

いいえ、道で拾って、綺麗だったので持ち帰りました。

『……直ちに向かいます。おとなしくしていてください』


 ――ダメだ。冤罪まっしぐらじゃないか。

 下手すれば、部屋の隅で毛布を被ったままパンをむさぼる律を見て、異常者コンビだと思われるかもしれない。それどころか、オレがヤツを狂わせたのだと疑われたら? むしろ狂いたいのはオレの方だ。

 届かない悲鳴を心であげていると、突然チャイムが鳴った。

 一回。

 二回。

「律、出てくれ」

「きっと亮介に用があるんだよ」

三回目のチャイム。

「関係ない、出るだけだ」

「そうか。よし、じゃあ君が行け~」

「やめろ、死体に触るな! 動かすな!」

四回目以降のチャイムは、連打された。

「クソッ、変な汁が……律、おまえが拭くんだぞ!」

やっとのことでドアを開けると、ようやく騒音は止んだ。


「はいはい、どちら様で……」

「女性を見かけませんでしたか」

灰色のパーカーが、にゅっとドアの隙間に頭をねじ込もうとした。くすんだオリーブ色の髪と、太い黒ぶち眼鏡が見える。華奢で背が低く、中性的な顔立ちをしていた。声さえ聞かなければ、十五、六歳ほどの少女のようだ。

「ドアチェーン外してください。彼女はいませんか?」

長い指が隙間から侵入し、ドアをつかんで激しく揺さぶる。

「ちょ、何なんだよお前っ」

騒音とは裏腹に、彼は無言だった。無表情な上目遣いで部屋の奥をうかがっている。かすかに漂う腐臭を感じ取ったのだろうか。

「やめろ、近所迷惑だ!」

「いますよね。そこにいるんでしょ?」

「け……警察呼ぶぞ!」

唐突に、ドアが止まった。

 出し抜けに訪れた静寂に面食らう。

 男の視線は、いまだに部屋の奥を凝視し続けていた。その下の口が、ぐにゃりと歪む。

「けいさつ、よぶぞ」

ドアが激しく閉められた。

 視界が分断され、衝撃だけが身体の芯に残る。白いドアの表面に、まだうっすらと指のあとが付いていた。

 あいつは……なんだったんだ?

 しきりに探していた"彼女"。異常な行動。そして、あざけるように言い残した一言。

 知っているのだ。ここに死体があることを。あの女が何者であるかを。

 知った上で、あえて、接触してきた。『通報する』という手があったにも関わらず。

 異常だ。

 もしかしたら、殺した張本人かもしれない。いや、その可能性が一番高いのだろう。

 ……床をパンで拭き続ける律を見ながら、彼となら互角かもしれない、と思った。




         * * * * *



 オレは試験管を振っていた。

 一日の大半を過ごしているこの寺田研究室は、ガラス器具のみっちり詰まった戸棚と数種類の機材、古びたブラウン管テレビなどが置かれ、手狭になっていた。部屋の中央には流し付きの大きな実験机があり、背の高い棚が中央分離帯のようにしつらえてある。

 室内にはまだ、オレを含めて二人しかいなかった。棚の左斜め向こうにいる、同じ高専五年生のコトリだ。高校から編入してきたオレとは違い、彼女はほとんどの生徒がそうであるように、中学卒業後すぐに高専に入学した。

 律は三年前、高専三年生のときに、出席日数不足で留年した。その後、一学年下のコトリたち――今のオレのクラスメイトたち――と数ヶ月間だけ二回目の三年生を過ごしたが、その後不登校となって学校を去った。

 その翌年、オレが高校卒業後に高専四年生として入学したとき、真っ先に話しかけてきたのがコトリだった。どこからか、オレと律が同じ部屋で暮らしていることを知ったらしい。

 なんであいつと暮らそうなんて思ったんだろうな……。

 結局、部屋には生者と死者をひとりずつ残してきた。一時間遅れの登校だ。

『帰宅するまでに、死体をどうにかすること』

『オレには一切迷惑をかけないこと』

律には、この二つの条件を言い渡した。

 最悪警察にバレても、律ひとりでどうにか片付けてくれると信じよう。うまくいけば、精神病院で律はまっとうな人間に生まれ変わるかもしれない。第一オレは彼女に何もしていないんだから、責任なんてないはずだ。

 心の中で甘い言葉をささやき続け、逃げるように学校へと向かった。とにかくあの部屋にいたくなかったのだ。

 一応オレの部屋なのに……。

「亮介、黄色いチップちょうだい」

細い手が、実験に使うチップ入れの箱をさらっていく。視界の端に、フワフワとした黒い羽が見えた。

 ……黒い羽?

「何なんだよその頭は」

「魔法の羽帽子」

「本日三人目の気狂いか?」

コトリの頭には、こぶし大程度の黒いシルクハットが斜めにくっついていた。フワフワとした黒い羽が飾り付けられている。

「この中に何が入ってるでしょう?」

「五〇パーセント死んだネコじゃないか? それより、研究中は脱いでくれ。シャーレに雑菌が入る」

「量子論は大嫌い。ちゃんと帽子に滅菌用エタノールを振りかけたから大丈夫よ」

思わずコトリの全身を見た。

 シミの付いた白衣には、黒いフリルやらボリュームのあるスカートやらがみっちりと詰まっている。ボタンは下に行くほど千切れ飛びそうだった。冬場の、着膨れした親父の姿がダブる。

「それで、三人目って何?」

膨らんだスカート部分をボフボフ机にぶつけながら、コトリはフラスコを取りに行った。

 ゴスロリに偏見はないが、研究室では邪魔だな。

「朝にキッツいのが来たんだよ。イった目でドアをガタガタ揺らしてさ」

「牧野ちゃんは無事だった?」

「あいつは汁掃除に夢中だったよ。むしろオレの心配をしてくれ」

「だって、話してる限り元気そうなんだもん。……で、そのヘンタイを牧野ちゃんが撃退したわけ?」

「律はここ九年ほど、一度もオレの役に立ってない」

オレの毛布を奪い、洗濯機を壊し、死体を持ち帰ったりはしてきたが。

 アパート内の粗大ごみ置き場で、いまだに回収されない壊れた洗濯機を見るたび、男泣きしそうになる。中古で買った激安品ではあるが、ひとり暮らしには不相応なほど洗濯槽が広く、どれだけ洗濯物を溜め込んでも一回で洗えるのが気に入っていたのだ。

 あれ以来、おもちゃのようなバケツ型洗濯機が、ワンルームの片隅に設置された。

 大きなスペースに、小さな洗濯機。不憫だ。

「良いな良いなー」

コトリは、寒天と肉エキスをフラスコに入れた。

「私だったら、もっと牧野ちゃんを大事にするのに」

だったら、今からでも死体ごと引き取ってくれないだろうか。

「これ以上どう大切にしろってんだ? 家賃、ガス代、電気代の全てを肩代わりしてるんだぞ」

そして、今朝は犯罪までも肩代わりさせられかけた。

「そうね……私ならライフマスクを作るわ。牧野ちゃんそっくりの球体関節人形を作るの。あの不思議な眼差しまで再現できないのは残念だけど、最高級のグラスアイを装着させるわ」

「病んでるな」

ときどき、オレにはまともな人間を遠ざける何かの力が働いているのではないか、と思う。

「牧野ちゃんの魅力に気付かない方がどうにかしてるのよ」

「あいつを引き取ってくれたら気付くかもしれない」

「うーん、実家暮らしじゃなかったらなあ」

意外と本気か、こいつ。

「コトリは、ほかの男に興味ないのか?」

「なにそれ、誘ってるの?」

「シンプルな服を着てたら誘ったかもな。そうじゃなくて、例えば、光下先輩とかはどう思うのかってこと」

「ああ、光下佑志みつしたゆうしだっけ」

いかにもどうでも良さそうな言い草だ。

 彼の名は、他学科の学生や教授まで知っている。一つ年上の専攻科一年生で、どこにいてもその姿は目立つ。

 高い背、高い鼻、くっきりした二重、常に笑みを絶やさない口元。こげ茶色に染められたショートレイヤーの髪がさわやかだ。容姿のみならず、頭、財力、性格、その全てに魅力を備えた、学内での有名人である。

「ああいう万人ウケしそうなのは興味ナシ。うさん臭いと思わない? いつも笑顔で、友達に囲まれて、金持ちの上に顔もいい、女は群がってるけど彼女いない歴五年。あの人が今日殺人で捕まったとしても、不思議に思わないね」

「ひねくれてるな」

「人間の良い部分だけを寄せ集めたヤツのいる場所なんて、せいぜいアニメの中だけよ。あれなら亮介の方がマシ」

「なんだそれ、誘ってんのか?」

「もっとおシャレな服着てたらね」

仕返しだろうか。


 その後はお互い、淡々と実験をこなした。

 四年生は授業中なので、昼を過ぎないと研究室には来ない。それまでは二人きりだ。

 黙々といつも通りの作業をこなしながら、ふと律のことを思い出す。

 電話でもかけてみようか? しかし、事情聴取の真っ只中だったら? 下手にアクセスせず、今日はできるだけ遅く帰って成果が上がることを期待しよう。

 今朝の異常者は、今どうしているだろうか。

 思えば、オレが応対したのが間違いだったんだ。これで、死体を"盗んだ"のが『オレ』であると認識してしまったかもしれない。学校にまで乗り込まれたら……

「ちょっ、刺さってるって!」

コトリの声に手元を見ると、ピペットの先が、ぐっさりとシャーレ上の寒天培地に突き刺さっていた。

「何かあったの?」

心配そうに言う彼女に、ほんのりと心が温まる。

「牧野ちゃんには迷惑かけないでね」

二人で心中してしまえ。




***



 静かな実験室にチャイムが響いた。いつの間にか、昼食の時間だ。

「おーっす」

体格の良い男が、ポリ袋を提げて入って来る。

「亮介、これ食わねえ?」

袋には、大量のサンドイッチとプリン、エクレアが入っていた。ボーダーシャツの下に風船のような筋肉を隠しているミノルには、全然似合わない。

「おっ、おまえのおごり?」

「どうせ余り物だしな。捨てられるくらいなら、誰かに食ってもらったほうが良い」

「コンビニ経営も大変だな」

ありがたく受け取り、二人で昼食の準備をする。いつの間にかコトリも加わってきた。

「まあな、余り物だって全部うちが金払わなきゃなんねえから……昨日なんか、イカレた客が来るしさ。コトリちゃんみたいな美人ばっかなら楽しいんだけどな」

「ありがとっ」

つくづく男に生まれて良かったと思った。オレが女だったら、この肉体派ナンパ野郎にすっかり騙されていただろう。

「で、イカレた客って?」

「んぁ? 気持ち悪ぃヤツでさ。オレは後から親父に話聞いただけだが、イッた目で独り言言いながら、店内をフラフラしてたらしいんだよ」

「ミノちゃんは、そいつの顔とか服装とか見られなかったんだ?」

どうみても、ミノちゃんなんて可愛い見た目じゃないんだが。

「ああ、見たのは親父だけだな。防犯カメラ引っ張り出してまで見たくはねえし」

コトリは少し残念そうだ。

「じゃあ、ほかには何してたの?」

「ああ、いろいろ盗ってたらしい」

「万引きかあ……異常者にしては普通ね」

なんだか、じんわりと嫌な予感がする。ミノルの家族が経営するコンビニは、オレのアパートから歩いて一時間近くかかるが、全く不可能な距離ではない。いくらなんでもそんな偶然はないだろう、とは思うのだが。

「けど、ありゃマトモじゃねえな。盗り方が隠す気ゼロだったとよ」

「どういうことだ?」

「万引きっつーと、普通は見つからないようにするだろ? コイツの場合、ご丁寧に防犯カメラとレジからバッチリ見えるところでやってたんだと。盗るときも、忘れ物を取りに来たんじゃねえかってくらい堂々としたもんだったらしい」

明らかに普通じゃない。

 かすかに早まった鼓動が、気持ちを揺らがせる。

「ほかにはどんな感じだった?」

「どんなって? だから、イカレてたんだよ」

「ひねれよ。頭をひねれ」

彼は心底面倒くさそうだった。やっぱり、こういうときは女のほうが便利だ。

「言っとくが、オレは見たわけじゃねえからな。全部伝聞だぞ。まず、とにかく目つきがヤバかったんだと。顔自体は良かったらしいのにな。マトモな表情ができたらモテんじゃねえ? あと、腐った茶っ葉をふりかけたみたいな頭してたらしいぞ。コケでも乗せてたのか? それと、似合わねえ眼鏡かけやがって、って親父が叩いてた」

「正解」

あのドアチェーン男だ。

「なんだよ正解って……実はおまえだったのか?」

「オレが、まともな表情をすればモテる顔だと思ってくれてるんなら嬉しいよ」

「悪かった」

そこで謝るか。

「ねえ、もしかして亮介がさっき言ってた人?」

「そうらしい」

不思議そうにしていたミノルにも、今朝の出来事を話した。しかし、死体のことを話すわけにはいかない。なにやら女性を探しているらしいことだけを、二人に言うことにした。

 彼の整えられた眉毛の間に、極太のシワが入る。

「気持ちわりぃなあ。警察に突き出しときゃ良かった」

「えっ、万引きしたのに釈放しちゃったの?」

「いや、注意したら全部その場に捨てて逃げたんだと。盗ってたとしても、初犯なら念書だけ書かせて釈放することにしてるんだ」

警察に引き渡されていれば、あの女性は死なずに済んだのだろうか。そして、律が拾ってくることもなく、ドアチェーンのきしまない静かな朝を迎えられたのか。

「頼むよ、ほんとにもう……」

不思議そうな視線を浴びながら、オレは見当違いな脱力感に襲われた。



***



 昼を過ぎると、予定通り、授業を終えた四年生三人が続々と入室してきた。そのうち一人が、すれ違いざまコトリをにらみつける。

 この寺田研究室に在籍している研究生は、全部で五人。最年長である五年生二人が、オレとコトリというわけだ。

 仲が良けりゃ、狭くたって耐えられる研究室なんだがなぁ……。

「亮介くん、継代けいだい終わった?」

コトリへの態度とは正反対に、微笑みながら話しかけてきたこの後輩。

 "元"同級生の、手塚さやかだ。

「だいたい終わった。さやかのはまだ残してあるけど」

彼女は今、二回目の四年生をしている。

「もー、なんでしてくれないのぉ」

「自分の手でやらないと、覚えらんないだろ? 四年生は三度できないぞ」

「継代くらいできるもん」

シャーレには、半透明の寒天でできた培地が入っている。その表面には、ぷっくりとした卵色の菌が、ジグザグに生えていた。ざらざらしたマヨネーズを細く垂らしたようにも見える。そのジグザグ線は、最初は細いのだが、菌が増えるにつれて太くなっていく。放って置けば、定員オーバーだ。この一面に広がった菌たちを、新しい培地に移してやることを、継代培養という。

 この作業をおこたると、菌が培地の栄養を食い尽くしてしまったり、雑菌が混ざって菌じたいが使い物にならなくなったりする。初歩中の初歩ながらも、大切な作業だ。

「おう、その意気だ。培地は作っといたから、存分にやってくれ」

「おー!」

すっかり機嫌が直った様子で、腕まくりをした。正直、なんでこんな子がコトリにだけ敵意を持ってるのかが分からない。

 童顔の上に背が低く、中学生に間違われたこともあった。デニムスカートに細身のニットを合わせており、大きめの胸の形がはっきりと分かる……って、オレは変態か。

「あっ!」

落下音とともに、さやかが嫌な声を出した。

「ごめん、シャーレ落としちゃった」

シャーレとは、透明なフタ付きの皿のようなものだ。

「大丈夫、プラスチックだから。気をつけろよ」

えへへ、と彼女は笑った。

 元々はガラスのシャーレを使っていたが、一年前に全てさやかが割りつくした。菌がわさわさと生えていたシャーレだったものだから、研究室中がえらい騒ぎになった。あのときは、さすがにえへへでは済まされなかった。

 まあ、危険な菌を扱えるような研究室じゃないから良かったのだが。

「亮介くん亮介くん」

「ん?」

「ピペット刺さって、培地グチャグチャになっちゃった」

おまえはオレか。

 新しい培地をさやかに渡しながら、つくづく思う。

 やっぱりオレには、まともな人間を遠ざける力が働いているのだ。



***



 実験をし、データをまとめ、インスタントコーヒーを飲む。四年生の二人が帰り、研究室内には、問題の女性二人とオレが残っていた。

 時刻は夜九時。窓を見ると、すっかり真っ暗だ。

「いつも思うんだけど、良くそんなもの使えるよね」

オレのコーヒーを見て、コトリがため息をついた。

「百均のマグカップなんて普通だろ」

「その中に入ってる、薬さじのこと言ってんのよ」

スプーンがなかったんだから仕方ない。

「べつに、滅菌してあるから良いと思う……」

さやかの小さい反論に、ドキリとした。研究室内が無言になる。

 大体、なぜ彼女はまだ残ってるんだ? さっきから隣の机で、授業のレポートを書いている。コトリは洗い物をしてるから良いとしても。

 そっとコトリの顔を見ると、真顔でビーカーを洗っていた。たいして気にしていないのか、怒っているのか。

 家には律と死体がいて、研究室は奇声を上げたくなるような沈黙だ。オレはどこに行けばいいんだ。

 本当は十一時くらいまでねばってから帰宅したかったが、結局ギブアップを決めた。

 洗い物は明日にしよう。水につけときゃ、なんとかなるだろう。そうじゃないとオレがどうにかなりそうだ。

 帰り支度をしていると、コトリも手を拭いて白衣を脱いだ。つられたように、さやかまでレポートをしまい出す。

「亮介くん、いっしょに帰ろー」

どんなイヤガラセだ。

 校舎を出て、グラウンドを突っ切った先に、学生用の青空駐車場がある。

 オレは自転車通学なので、比較的校舎に近い位置にある駐輪場までの移動だ。

 三人で歩いていると、駐輪場までの距離が異様に長かった。コトリは無言で、さやかだけが一生懸命喋っていた。

 今、ミノルが笑いながら乱入してきたらどんなに助かるだろう。飛び蹴りされようがキスされようが、構わず抱きつきそうだ。

 ひたすら同意を求めてくるさやかの会話に相槌を打っていると、駐輪場に着いた。女二人は自分の車で来ていたため、オレだけを残して二人は駐車場へと歩いていった。車に乗るまで、はたして二人の間に会話はあるのだろうか。

 自転車の錠を外し、二人が消えた方向とは正反対の出口を目指す。月を見上げながら、大きなため息が漏れた。

 自転車は雪に弱い上、身体がむき出しなので、しょっちゅう蚊柱にぶつかっては虫まみれになる。貧乏がゆえに車がないことを恨めしく思っていたが、今日ほど助かったことはない。

 今日オレが嬉しいと感じた出来事は、たったこれだけだった。



***



 帰宅すると、律が手をつないでいた。

 もちろん、オレの手じゃない。

「最悪だ」

スーパーの買い物袋が、指から滑り落ちた。律と握手している手は、ひじで途絶えている。

「おまえに、死体損壊罪って言葉を教えてから出掛ければよかった」

「わざとじゃないよ」

事故で、どうやって手がもげるんだ。

「言い訳はたくさんだ。布団がえらいことになってるぞ」

「明日片付ける」

「今すぐだ。オレはベッドで寝たいんだ」

布団の一部が、赤黒い液体で汚れていた。右手を失った女は、いまだに仰向けで寝転がっている。

 排泄物と生ゴミが混ざったようなにおいが、辺りに漂っていた。今さらながら冷凍庫を開け、あちこちから貰ってきてはストックしていた保冷剤をありったけ取り出す。貧乏がゆえにエアコンを使えず、夏場はうちわと保冷剤だけで乗り切らなければいけないための対策だったのだが、こんなところで役に立つとは思わなかった。しかし、どうしてもっと早くこの処置をしなかったのだろう? 肌寒いとはいえ、もう春だというのに。

 背中の下にも保冷剤を入れるため、恐る恐る死体の右肩を掴んで押し上げる。女の身体が傾き、首すじ一帯に濃い暗褐色のアザのようなものが見えた。律に運ばれたとき、どこかに打ち付けたのだろうか。

「ふう……。まったく、帰宅するまでどうにかしろって言っただろ」

「したよ」

「根本的に間違ってる」

律は何食わぬ顔で、ゆさゆさと手を上下運動させている。切断面は赤黒く、揺れるたびに変な汁を垂らしていた。

「孫の手~」

「黙ってオレの質問にだけ答えろ」

差し出された手をぴしゃりとたたき、こめかみを押さえた。

「なんで手を折ったって?」

「わざとじゃないってば。手がベッドからはみ出てたから」

「そりゃ、朝におまえが引っ張り出そうとしたからだろ。それで?」

「コケたときに、その上に座った」

「ひじが逆に曲げられて、パキッといったわけか」

「カニを食べるときみたいだった」

「甲殻類好きのオレへの当てつけか?」

中途半端にちぎれた腕を、このままでは片付かないからと包丁で完全に切り離したらしい。

 パイプベッドの正面には、コタツ兼テーブルを挟んで、テレビが置いてある。といっても、時代遅れのブラウン管だ。画面の幅と同じくらいの厚みがあるので、地震がきたとしても倒れる心配は全くないだろう。

 パソコンを立ち上げながら、床に転がっていたリモコンでテレビを点ける。画面が明るくなるまでに数秒の間があったが、なんとかまだ現役だ。

「やってないな……」

ニュース番組は、汚職問題、熱愛報道、野球結果などの話題で終始していた。事件の話題もあるにはあったが、どれも以前に起こったものの追加報道だった。

「おまえ、ニュースとかチェックしてなかったか?」

「苗とか買いに行ってたから、テレビ見なかった」

「苗?」

「肉をそぎ落として、肥料にしようと思った」

「……そのアイディアは全面的に禁止だ。で、何を買った?」

「キュウリと、キュウリと……きゅうり」

「なんでキュウリばっかりなんだ」

「安かったから」

「オレがキュウリが嫌いなの知っててそういうことするんだな?」

「安かったから」

「いいか。死んでもキュウリとおまえの手料理だけは食べないからな!」

「安かったから」

ベランダに目を移すと、真新しいプランターに数本、苗が植わっているのが見えた。オレは、いつか一本残らず引っこ抜いてやろうと思った。

 立ち上がったパソコンで、検索サイトにアクセスする。今日のニューストピックスをざっと見るが、女性の行方不明についての記事は無かった。

「どお?」

「その手の記事は見当たらないな」

事件と事故に絞り、検索する。日付も指定せず、新しいものから順に表示させた。

『新生児遺体をロッカーに遺棄

 20歳母親は自宅で自殺』

『DVの末に妻を殺害……

 元弁護士の夫と愛人を指名手配』

『大きな荷物を渡し胸など触る

 ニセ配達員、暴行容疑で逮捕』

めぼしい記事はない。あったらあったでショックだが、これだけ何もないのも不安だ。

 必死で探していると、突然、部屋のどこかから低くうなるような声が聞こえた。

「な、何だ今の。聞こえたよな?」

「見つからないね」

「いや、ネットの記事の話じゃなくて、うなり声が聞こえなかったか?」

「その下のとこクリックして」

会話する気が無いのかこいつは。

「幽霊に祟られたら、ちゃんとおまえが生贄になれよ。そうじゃなきゃオレが呪い殺してやるからな」

「呪殺は殺人になる?」

「知るか、黙れバカ。……だいたい、おまえは"いつ""どこで"拾ってきたんだ? どうせ覚えてるんだろ。少しは協力的になれよ」

「おなかすいた」

発狂したい気持ちを抑え、先ほど落としたスーパーの袋をあさった。

 六枚切りの食パンを律に投げつけると、彼はのっそりと封を切りながら、どうでも良さそうな声で言った。

「十二時? 二時? ……一時?」

「今日の夜中一時ぐらいか。ってか、なんでそんな時間に出歩くんだ」

「散歩」

深夜徘徊はいかいはやめろ。ただでさえコケやすいくせに暗いときに出歩くなよ、危ないぞ」

「入り口に落ちてた」

「落ちてたとか言うな」

どうやら、アパートの入り口付近で死んでいるのを、この部屋に運び入れたらしい。

 このあたりは住宅街だ。平日の深夜ということもあって、人通りも少なかったのだろう。そのおかげで即刻通報という事態は免れたようだ。

 しかし、こんなややこしいことになるなら通報されていた方がまだ良かった。

「あたりに、犯人の手がかりはなかったのか? 不審者とか、凶器とか」

「つまづきやすい出っ張りがあった」

律は手を擦りむいていた。いつものことだ。

「おまえにとってだけの凶器だ。他は?」

「わかんない」

どうせそんなことだろうと思った。

 しかし、女の首には指の跡がある。手で絞め殺した、ということなのだろう。とすれば、凶器はなくて当然なのかもしれない。

「やっぱ、犯人は今朝のドアチェーン男だよな? 死体を取り戻しに来たし」

「わかんない」

律の目はパンばかりを見ていた。どうやら、考える気は全くないらしい。

 なぜ、オレのせいでもないのにオレだけが必死にならなければならないのか?

 汁を垂らした女の手を見て、オレの目からも汁が出そうになった。

「……もう良い、おまえに聞いたのが間違いだった。ミノルのコンビニでもドアチェーン男はモメてたんだし、もう大体は分かってんだ。おまえの助けなんかいらないからな」

「何それ」

「うるさい、もう説明してやらない。おまえはただ、今日中にベッドを片付けて、死体を消して、事件を解決して、未来永劫二度とオレに迷惑をかけなくなればそれでいいんだ」

「一個に絞れない?」

「絞らない」

ドアチェーン男は、女じゃなくて律を襲えばよかったんだ。

 オレは半泣きになりながら、律とは反対の部屋の隅で寝た。



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