95話 幼狐の守り歌
足を止め振り向けば、何かを必死に堪えこちらを見上げる一九九一の姿があった。
「上手くできるかはわかりませんけど、試させてほしいんです……!」
なんのことかはわからなかった。しかし、その必死な表情からは、とても重要だということだけはわかった。ミズキには断る理由もないので了承する。
「ありがとうございます! ではいきます……!」
一九九一が両手を合わせて鳴らし、目をきつく閉じた。右腕を上へ、左腕を下へと向けると言葉を紡ぎ始める。
「風は全てを伝えてくれる、想いは共にどこまでも、反攻叶えし奇跡の風を……! 創土は万物流転の理を、たゆまぬ想いを糧に、助けとなる守りの力を……!」
上にかざした手には黄色の光を、下にかざした手には茶色の光を燈らせた。額には汗が浮かび、強張った表情からはその真剣さが伝わってくる。
そして光から手を放し、次は両腕を左右に広げ詠唱を続けた。
「赤命は全てを癒す、如何なる危機をも覆す、唯一無二なる癒しの力を……! 青炎は全てを焼き尽くす、恐れを払い、不撓不屈の心を呼び覚ませ……!」
左の手には赤色の光を、右の手には青色の光が先ほどと同じように燈った。ゆっくりと手を放したところで目を開けば、金の瞳が虚空を見据えていた。
「異なる想いを紡ぐは、無事なる帰りを願いし者」
左手を胸に当てて詠唱を続けていく。右手で四つの光をなぞれば、光が集まりひとつになった。
そして光を胸の前へと寄せ、両手で包み込めば四つの光が混ざり、不思議な色合いになっていく。
目を閉じ、願えば輝きが増していった。それは幼狐が無事を願う守りの歌だ。
「先行く者の武運長久を、〈狐の守り歌〉!」
腕を広げれば光が弾け、光が三人へと降りかかった。想いの光が体を包み込めば暖かさが染み渡る。
もう一度光が弾ければ僅かな余韻を残し、煌く光が霧散していった。
静寂の時間が流れ、やがて時が動きだすようにして、一九九一は自身の手を見つめ始めた。
「で、できました。できましたよ……! やっと、やっと成功しました……!」
一九九一は目に涙を浮かべ、震える手を見つめていた。泣くのを我慢できなくなったのか、ぽろぽろと大粒の涙を流してしまう。
「ど、どうしたの……?」
ミズキが心配そうに尋ねると一九九一は嗚咽交じりに話し始めた。
「すみません……今のは〈狐の守り歌〉と呼ばれるものなんです。わたしたちのあいだではこの歌が使えるようになれば一人前だと言われていて。けれど、わたしはずっとできなくて……でも、やっと成功して……とても嬉しくて、うぅ、すみません……」
その様子からは、一九九一がずっと思い悩んできていたことがわかった。
どれほど長い時間、そのことに苦悩してきたのかミズキはわからなかったが、とても大事なことだけは理解できた。
その姿を見たミズキは少し前の自分を思い出す。自身の弱さに悩み、苦しみ、けれど最後には道を切り開くことができた。
そんな自分の姿と重なって見えるような気がしたのだ。ゆえに、ミズキは一九九一を抱き締め、その頭を優しく撫でていった。
「ボクには良くわかりませんけど、とても大事だということは伝わってきました……とても頑張ったと思います。これなら、アルマさんだってきっと褒めてくれますよ」
「ありがとう、ございまずぅぅ……」
ミズキは一九九一が落ち着くまで撫で続ける。その髪の手触りは細く柔らかく、ときおり当たる耳の感触は心地のいいものだった。
ぴくぴくと動く耳はあたたかく、そこにある者としての確かな存在感を手に伝えている。
一九九一が泣き止むと今度こそ出立の時となる。『摩天楼』の入り口で、三人と向かい合う一九九一の姿があった。
「『摩天楼』をご利用いただき、まことにありがとうございました」
お辞儀をし、三人を送りだしたその顔は希望に満ち溢れていた。
「また来てくださいね! ずっと、すっと待ってますから!」
一九九一は顔を上げ、去りゆく三人の背中に思いをぶつける。
ミズキたちが振り向き、クーは小さく、ファティマは控えめに、そしてミズキは大きく手を振っていた。
三人が去ったあと、立ち尽くす一九九一に別の狐っ子が寄り添い、その頭を撫でていた。
出会いと共に成長した幼狐は願いを叶え、ミズキはその願いを胸に前へと歩きだした。
幼かった狐の歌は想いを叶える。
ミズキたちの姿が『森の都』の営みへと紛れ見えなくなれば、一九九一の日常は再びやってくる。
その表情は、実に晴れやかだ。




