174話 陽だまりは白く染め上げる
世界の改変が始まった直後。
箱庭に空いた巨大な縦穴には一人の少女が漂っていた。
眼下には世界の境界が広がっている。
重力が消失した境界近く、暗い瞳が虚空を見つめていた。
大切なものを失い、自分を殺し続けてきた。
危うい均衡を保つ精神は、薄氷の上を歩くようなもの。
一歩踏み出すごとにヒビが入り、時間が経つにつれそのヒビは広がっていった。
割らない為には歩みを止めるわけにはいかず、しかし、運悪く氷を踏み抜けば全てが終わる破滅への道だ。
やがて心は磨耗していった。
少女を作り出した魔女は、人形を道具としてしか見ていなかった。
周りの人形たちが使い捨てられていく中、少女は必死に戦い続け魔女に貢献し続けた。
ただ死ぬことが怖かった。
一人、また一人と欠けていき、新たに作られる人形を見てその恐怖は増していった。
作られた人形の生殺与奪は魔女の自由であり、少しでも気に食わないことがあれば消されていった。
戦い続けることを強いられ、気まぐれに捨てられるかもしれない。
他の人形を殺すように指示されたこともあった。
クズのような主と糞みたいな世界。
それでも生にすがりつく少女は全てを呪った。
次第に他の人形とも距離を置き孤独となっていく。
自分を理解できるものは魔物だけとさえ少女は思い始めた。
しかし、そんな少女の前に笑顔が輝かんばかりの黒猫が現れた。
最初の出会いこそ突拍子も無く剣を突きつけてのものだったが、少女は心を開き黒猫と共に過ごし始めた。
黒猫が居ればこの糞みたいな世界でも少女は正気で居られた。
このとき初めて少女は自身と同じか、それ以上に大切なものを見つけたのだ。
黒猫は戦うことを嫌ったが、少女が戦う姿を見るのは好きだった。
共に過ごす日々は、戦い続ける少女のささやかな幸せだった。
しかし、その幸せも長続きはしなかった。
黒猫の糸が切れ、黒猫は大好きだった魔女と会えなくなってしまったからだ。
黒猫の落ち込みようは酷く、とても見ていられなかった。
自分の心まで押しつぶされそうだったからだ。
黒猫をなだめた少女は魔女の下に向かった。
しかし、そこで自身のこれまでを全て否定する出来事が起こる。
機嫌の良さそうな魔女が感謝の言葉を発するとき、ろくなことにならないのを少女は知っていた。
だが今回はその中でも最悪なものだった。
魔女は流暢に語る。
なんでもない人形との暮らしを幸せそうに語る魔女を、二度と人形と会えなくしてやったと。
その魔女の名は、黒猫が嬉しそうに話す魔女の名だった。
いわく、人形との些細なことで嬉しそうにする魔女が鬱陶しかった。
だから呪ってやったと。
集めた素材がとても役に立ったと、少女に笑顔を向けた。
呆然とする少女はしばらく言葉の意味を飲み込めないでいた。
しかし、次第に理解し始めると魔女の言葉は心を侵食していった。
自分が必死に集めた素材が黒猫の大切なものを奪ったのだ。
少女は全てを呪った。
自分自身でさえも。
どのような顔をして黒猫に会えばいいのかわからなかった。
どうして、自分が傍に居られようか。
それでも少女は謝罪の為に重い足取りで向かった。
「ごめん、ごめんね、アル……」
しかし、魔女と自分の悪行を語ることはついぞできなかった。
黒猫は自分が悲しいにもかかわらず、少女を励まそうと笑顔を作り抱きついた。
太陽のような眩しい笑顔だ。
だがその笑顔は少女の心を締めつけ殺すものだった。
純粋な好意という名の呪いが心を蝕んでいく。
それから少女は次第に距離を置くようになり、以前よりも戦うことに傾倒していった。
仄暗い感情が無くなることはなく、いつしか、あの糞みたいな魔女を殺して自分も死のうと、それが黒猫へのせめてもの償いだと思い始めた。
そのためだけに魔女へと媚びへつらい、素材を渡す傍らで自分を強くし続けた。
いつか殺してやると、その思いだけが少女を動かした。
しかし、準備が整おうとした矢先に黒猫が消失してしまったのだ。
何を守るべきだったのか。
誰を殺したいと思っていたのか。
壊れた歯車のように空虚な回転を続け、目に付いた者をひたすらに斬り捨てていった。
やめろという声が聞こえたが止まれる訳がなかった。
黒猫が死んだというのに、あいつと自分が生きていることなど許される訳がない。
だが誰を殺したいのか分からなくなった。
そのうち殺すだろう。
どれだけの数で来ようとも、どれほどの力を向けられようとも、全て返り討ちにしてやると空回りし続けた。
だが光に撃ち抜かれた。
一度は返してやったものの、二度目は邪魔が入り防ぎきれず、谷の底で自分の無力さを呪った。
しかし、光に焼かれたことによって僅かだが少女は正気に戻り、どうすることもできないと彷徨い歩き続けた。
やがて少女は、黒猫の直接の死因であるゴライアを見つけた。
同じ魔女を持つ人形だ。
以前から嫌な奴だと思っていたが、今は不思議とそうは思わなかった。
ただ殺したかった。
感情のままに斬りつければ泣き叫び、その姿を見ると少しだけ楽になれた気がした。
少女は手を緩めなかった。
死ぬ瞬間だけは周囲が綺麗な光で満たされ、自分もいつかこんなふうに死ねるのだろうと考えていた。
こうしていればいずれ糸が切られ、自分も死ねるだろうと。
そのまぶたが閉ざされていく。
少女はただ、ささやかな幸せをもう一度抱きしめたかった。
だが、もう叶うことはない。
あの陽だまりのような笑顔はもう無いのだ。
眠れぬ夜を重ね、永遠に続くと思われた痛みの中でも、あの輝きがあったからこそ剣を振り続けられた。
越えられない夜などないと、一人ではないと思うことができた。
この笑顔のためならば全てを懸け戦い続けてみせると。
しかし、その笑顔は少女の心を殺す毒となってしまった。
泥沼のような暗闇の中、罪の意識に押しつぶされていく少女は――光を見た。
それは希望の光。
紫色の爆光が少女を包み込んだ。
どこまでも暖かく、心地の良い優しい光だった。
最後に安らぐ時を過ごせたことに、少しだけ助けられた思いだった。
あれほど空虚だった自分の心が、満たされていくのがわかった。
憎しみも、哀しみも、そして自分に対する怒りも薄れていった。
悪くない最後だと思えた。
ただ、ひとつだけ思い残すことがあったが、今はもう叶うことはない。
「アル……ごめんね……」
言葉を届けたかった相手はもう居ない――はずだった。
まどろみの中、こちらに落ちてくる人影を見たときは夢なのかとさえ思った。
白い可愛らしい服を纏うアルフェイが、ルーナへと勢い良く抱きついた。
「ルーナ姉ちゃん!」
「アル……? ほんとに、アルなの……?」
「うん、そうだよ。だいじょうぶ? ごめんね……ぼくのせいでルーナ姉ちゃんも大変だったよね?」
「ほんとに、アルなのね……アルも、無事だったんだ」
「ミズキがね、ぱああああって光ったと思ったらいつの間にか治ってたんだよ! すごいよねぇ! あ、そうだった! すごく遅くなっちゃったけど、はい!」
ルーナの前に、小さな手で握られた造花が差し出された。
「いつも助けられてばかりだったから、お返ししたいなって思って。それでね、ミズキと一緒に頑張ってお金を貯めたんだよ!」
ルーナはおそるおそる受け取ると表情を歪ませ、目尻から涙を零れさせる。
「ど、どうしたの!?」
「ありがとう、アル。でも、ごめんね……私、あなたに謝らないといけないことがあるの……」
「そ、そうなの?」
「前にアルの糸が切れたことがあったわよね」
「うん……」
「あれ、私の所為なの……」
「え……?」
ルーナはこれまでのことをぽつぽつと話し始めた。
生きる為に必死だったこと。
その中でアルフェイに会えたこと。
魔女に渡した素材によってアルフェイと魔女の糸が切れてしまったことを。
「そう、だったんだ……やっぱり、もうミアと会えないんだね……」
「ごめんなさい……」
もう後悔したくないが為に話したが、許してはくれないだろう。
あれほど好いていた魔女と会えなくなった原因のひとつが、自分にあるのだから。
拒否されることが怖かった。
しかし、伝えずに心の中に隠しておくことのほうが辛かった。
これはきっと罰なのだろう。
この手はすでに血で染まっている。
そんな私が、赦されるはずはないのだから。
「ルーナ姉ちゃん」
その言葉にうつむいていた顔を上げると、アルフェイは真剣な表情をしていた。
「ミアとも会えなくなっちゃったのはやっぱり悲しいけど、そんな顔したルーナ姉ちゃんを見るのもすごく嫌なんだから! ルーナ姉ちゃんだって死にたくないと思ったからなんだよ! ぼくだって、ぼくだって……ッ! もうルーナ姉ちゃんに会えないと思うと怖くなって……! それでミズキに、ひどいことしちゃったのに。それでもミズキは許してくれて、ぼくを助けてくれて……」
「アル……」
「ルーナ姉ちゃんだってぼくと同じなんだよ?」
「アルと、同じ?」
「そうだよ! だからルーナ姉ちゃんだけが悪いわけがないんだから! ミアにも会えなくなって、これでルーナ姉ちゃんにも会えなくなったらすごく悲しいんだから……!」
心を縛りつけ、黒く染め上げていたものが溶けて消えていくような、アルフェイの想いと言葉はそんな感覚を与えてくれた。
全てが白に染まっていく。
私はまた、あなたの傍に居てもいいのね――