自習室
【0.0.文理の分離】
「えー、夏休み明けに文理選択の希望調査を提出してもらうから、各自保護者の方と相談して決めておくように。」
夏休み前最後のSHRで担任が言った。
僕の学校では、二年生から文理でクラスが分かれるため、一年生のこの時期に選択することになっている。僕にとっては誰に相談する必要もあるまい。将来の夢から逆算していけば、自然と決まるものだ。
しかし、彼らは違うらしかった。彼らには将来の夢すなわち志望大学以外にも、文理選択をする上で考慮すべき要素がいくつかあるらしい。人間関係もその一つだろう。好きな人や友達と別の系を選択すれば、クラスが違うのは勿論、教室がある階も異なるので会う機会が少なくなり、体育のペアも組めなくなってしまう。故に彼らは同じ系を選択する。また、単純に苦手科目から逃れるための選択をする者も少なからずいる。大抵の場合は「数学が苦手だから、文系にいく」だろう。そういう奴は決まって文系科目も不得意なのだが。
あいにく僕には、残りの二年間固執するような友人や異性もいないし、苦手科目もなかったので、将来逆算的に理系を選択した。
【0.1.如月】
今日は、入試休み期間前最後の日。
入試休みと言っても、僕たちの入試ではなく、僕たちの後輩になることを目指す中学生たちの入試だ。
僕は入試休みたるものがあることを高校生になってから知った。下手したら、冬休みよりも長いであろうこの期間に彼らは浦安市舞浜ではしゃいだりするのだろう。
入試休みが終われば終業式まで一ヶ月もない。加えて、入試休み後は午前授業が続くため「高校一年生」は終わったも同然だ。故に、僕は少し寂しくなる。クラスメイトや先生に対してではない。「高校一年生」に対してだ。夏休み終盤に感じるあの感情や、浦安
市舞浜で遊んだ後の帰り道で感じるあの感情に似ている。思うに、こういった類いの感情は人や物に対してではなく、ある特定の時間や空間に対して生まれるものだと思う。
ただ別に、夏休み明け前日とその翌日で、舞浜で遊んだ日とその次の日で、特別変わることは何もない。
だから、高校一年生から高校二年生になっても、何かが大きく変わることはないだろう。
【0.2.高校二年生】
高校生になってから驚いたことがある。
教科書のサイズが小さくなったこと。学校に携帯を持って行って良いこと。一年があっという間に終わること。
中学生までのルールは慣れ親しんだものであり、ひどく当たり前のこととして受け止めてきた。だからこそ高校生になってから驚いた。つまり、「驚く」とは、今までの水準から大きく変化した事態を経験したときに感じることであって、「程度の大小」ではなく「程度の差の大小」に依存するのだ。一年という時間の流れは高校生になってから、段違いに早く感じるようになった。それだけ生活が充実しているということだろうか。
気づけば、高校生としての三年間の半分が過ぎようとしていた。
【1.0.お経】
僕が通う高校は最寄りの駅から徒歩十分くらいのところにある。県内では一番の進学校だ。二年生も残り半分となった今、何か変わったことがあったかというと特にない。クラスに少し気になる女の子がいるくらい。僕は今日も悠々と日常を過ごす予定だ。白波さんが今日も今日とて僕の前の席にいるから、きっと今日も平和なのだ。率直に言って、僕は彼女が好きなのだ。
2時間目の授業は僕の得意な数学だった。皆が静かに問題を解いている時、前の席の白波さんの肩が小さく震え出した。何かを堪えているような、そういう揺れだ。そして堪えきれず次第に揺れは大きくなる。突然、彼女は何かお経のようなことを唱え始めた。
「二年生は三年0学期。二年生は三年0学期。二年生は三年0学期。」
教室が静まりかえる。それから次第にざわめき出し、「何言ってんだよ白波」などの声も飛び交った。先生も彼女に私語を止めるよう注意した。しかし彼女は止まらない。
「私もやめたいんです。もう疲れました。でも、やめられないんです!誰か止めてください!」
彼女が叫んだ。
数名が彼女の口を抑え込むものの、彼女はそれを振り払った。いや、振り払えた。何もかもが不自然であった。冷静に考えて、自称進学校の教師でもない彼女がこの変なお経をこんなに長時間、しかもあんな早口で唱え続けられるはずがないし、数名の取り押さえをあんなにやすやすと振り払えるはずもない。なにより白波さんはそういうことをするような人ではない。
「気にせず授業を続けてください。」と彼女は言い、先生も授業を続けようと試みた。しかし、他にも"お経”を唱える人が続出し、授業は続行不可となり、白波さん達は保健室で休むこととなった。
【1.1秘密】
昼休み、僕は白波さんの容態が心配になり保健室に行くことにした。しかし、保健室前の廊下を黒くて長い棒のようなものが十字に重なって塞いでいる。よく見てみると、棒の端は矢印状になっており、先端にはX、Yという文字が浮かんでいる。さらに、十字の重なった部分には0という文字も浮かんでいた。
XYグラフ?勉強し過ぎて幻でも見ているのか?
僕は目の前の光景を楽観視して前に進むと、確かに太ももを打った。幻覚じゃないのなら、誰かのイタズラだろうか。仕方がないのでXYグラフのような十字の矢印を避けて保健室に向かった。保健室に向かう途中、背後から「そこの君」と呼ばれた。
振り向くと数学科の安藤先生が手招きしてた。そこにはもうXYグラフは無かった。
「今すぐ数学科準備室に来なさい。」と言われるがままに足を運ぶ。安藤先生は温和な性格で知られているが、今日はいつになく顔が険しい。扉をピタリと閉め、窓が閉まっていることも確認してから、小声でこう言った。
「今、何をしていた?何を避けていた?」
確かに先程の僕の行動は我がT高校の風紀を乱すものであったかもしれない。でも、呼び出しをくらうほどのことだろうか。まぁ、正直に答えるしかないだろう。
「XYグラフです。」
「そうか。」
安藤先生の声にハリが無くなる。
「これはT高校の数学科にのみ伝わる話なんだが......。いや、やめておこう。はは、急に呼び出して悪かったな、帰っていいぞ。」
そう言って彼は僕を部屋から出した。
いつもより大きな笑い声に少し無理を感じた。
保健室に着くと、そこは“お経”を唱える人々でいっぱいだった。
「平日は学年+2時間、休日は学年+4時間勉強 」
「二年生のうちに逆さ科目を完璧に」
「絶対東大合格」
無論、保健室の先生にはどうすることもできないので、彼らは早退することになった。しかし、数分後、彼らは学校に再び戻ってきた。校外であの“お経”を唱えることの恥ずかしさに耐えられなかったのだ。“お経”を唱えながら駅まで歩いた猛者も、定期券をポケットから出せずに帰ってきた。
その日の夜、僕は数学の予習中に寝落ちしておかしな夢を見た。
『安藤を問い詰めろ』
突然声がした。
『明日、安藤を問い詰めろ。T高校は虚構だ。教師を信じてはいけない。世界が危ない。お前は選ばれし者として多くの事を知らなければならない。』
そして夢が覚めた。その時の感覚は昼休みに数学科準備室から出たときと少し似ていた。
翌日、白波さんは欠席だった。
【1.2.進学校病】
彼女の他にも数名欠席者はいたが、皆同じ症状だった。
「進学校病 」
誰かがそう呟いた。実際、それ以外に名付けようがなかった。他クラスにも進学校病は蔓延しており、感染者にはやんちゃな男子や、白波さんのような普段は大人しい女子も多くいた。彼らは皆同じ病院に入院した。しかしながらその症状、“お経”により正常に脳波が測定できない検査も多く、そのことがより原因の特定を難航させた。どんな名医にとっても前例のない症状であり、治療のしようがなかった。彼らは口を自由に動かせないため食事などの日常の行動もサポートが必要となった。過度の“お経”によって頬の痛みを訴える者が続出した。それでも"お経”の速度は一切衰えていなかったらしい。
その後も一人、また一人と進学校病に蝕まれていった。
【2.0.T高プログラム】
昼休み、僕は夢のお告げ通りに数学科準備室に向かった。僕はこういったオカルトチックなものを信じるタイプではないのだが、単純に昨日の話の続きを聞きたかった。ノックをせずに数学科準備室のドアを開けると、そこで安藤先生がお経を唱えていた。
「あぁ、昨日の君か。どうしたんだ。」
「先生も、進学校病になられたんですか?」
「いいや、違う。これはT高校を存続させるための最も重要な仕事だ。いっそのこと君には全て話してしまおうか。」
そして安藤先生はこのように語った。
「かつて、T高校は日本一の進学校であった。T高の生徒は皆、東大現役合格を目指し日々切磋琢磨していた。ところが、猛き者もついには滅びぬ、T高の進学実績は五十年前から、年々悪化していった。進学実績がこれ以上悪化することを皆が危惧していたとき、これに歯止めを掛けるように誰かがT高プログラムなるものを発動した。模試でT高生全体の平均偏差値がある一定値を下回ると、今で言うところの進学校病を流行らせて生徒に勉強を強いるようプログラムされた。いわゆる人工知能のようなオプション機能がT高に付いたのだ。そして人々の思考回路を少しだけ操ることでT高の存続をより確実なものにしようとした。そこでT高は『テスト勉強はカッコイイ』という思考回路をT高生に植え付けた。これにより、これまで嫌々テスト勉強をしていた生徒もテスト勉強マンになるだろう、そう考えたのだ。」
「はぁ、、プログラムを今すぐ止める
ことはできないのですか。」
「あの“お経”は数日経てば治るだろう。常識的に考えて、“お経”が終わらないとそもそも勉強が出来ないからな。しかし、プログラム自体は偏差値が上がらない限り厳しいだろう。」
「そんな....。」
偏差値を上げれば、プログラムは止まる。言葉にすれば一見簡単そうに聞こえるが、そうはいかないだろう。T高の進学実績が悪化しているのは事実とは言え、それでもなお県内ではダントツ一位の座を保っている。故に、偏差値を大きく上げることは難しい。
偏差値を55から65に上げるのはさほど難しくないが、偏差値65から75に上げるのは比較にならないくらい難しい。
僕は経験上そのくらいは理解していた。
【2.1.約束】
放課後、僕は進学校病患者が搬送された病院に向かった。昨日、あるいは今日も普通に学校に通っていた友人が、片時も休むことなぐお経を唱え続けている。白波さんもまだ治っていないようだった。彼女は発症時刻からして進学校病患者第一号とされており、ほかよりお経を唱え続けている時間も長い分、頬の痛みも一層強そうであった。
「私、ずっとこのままなのかな。死ぬまで、ずっとお経を唱えていないといけないのかな。」
彼女は泣きながら嘆いた。
「そんなことは無いよ。きっといつかは治るはずだよ。」
「本当に?」
「きっと治るよ。もし治らなくても、僕が治してみせる。」
励ますために言葉を並べてみたものの上手く言えた気がしない。でも、治るというのは本当に思っていることだ。
「きっと治るよ。約束する。」
別れ際にそう言うと、白波さんは少し笑った。
帰り道、この数日の出来事を整理するのに夢中になっていた僕は、背後から忍び寄る人影に気付かなかった。突然、後頭部を殴られ、僕は倒れた。薄れゆく意識の中で見た鈍器は、参考書の束のように見えた。
【2.2.秘密結社】
気がつくと僕は小さなアパートの一室のような場所にいた。出入口を除く全ての壁に本がびっしりと綺麗にしまわれていた。どちらかと言えば、飾られている、の方が適切だろうか。本屋にある今月の売れ筋ランキングコーナーのように、整然と、丁寧に一冊ずつ飾られていた。そしてその全てが参考書であった。
不意に、ガチャリと扉の開く音がした。
「お目覚めのようだな」
入ってきたのは分厚い眼鏡をかけた、いかにも真面目そうな男だった。
「私は『秘密結社U』のトップ、富田という者だ。いきなり誘拐した事はすまないと思っている。我々は君に聞きたいことがあったものでな。」
「それに答えれば解放してもらえますか。」
「さぁ、それは分からない。なんせ我々は"秘密"結社だからな。その存在を知った者をそう易々と社会に戻すわけにもいかない。それにお前はT高についても知り過ぎてしまったし、進学校病を治すとも言っていた。」
男の口調はゆったりとしており、表情はピクリとも動かなかった。
「我々が聞きたいのは、君が校内でXYグラフを本当に見たかどうか、それだけだ。」
「はい、見ました。」
「そうか、ククク、アハハハ!遂に始まった!世界の『自習室化』が!」
突然始まった高笑いに男の異常性を確信しつつ、そっとドアに近づき逃げようとする。
「まだ出るな。安心しろ、近いうちに『自習室化』がある程度進んだら逃がしてやる。」
「その『自習室化』とは何のことですか。」
「そうだな、お前は当分ここを出られないのだから、知っても問題ないだろう。」
【3.0.自習室化】
そして男の独白が始まる。
「秘密結社Uの目的は参考書の出版による学生の偏差値向上であった。しかし日本の教育水準は依然として低迷している。我々は参考書の出版だけでは足りないと考えた。学生を強制的に自習室に閉じ込め、参考書を2巡、3巡と徹底的にやらせなければ、と。そしてある時、実際に道行く学生を連れ去り自習室に閉じ込めたが、逆に実行犯が牢屋に閉じ込められた。これではダメだ、学生は多い、こんな計画など実現しない。次に我々は、日本を自習室で覆い尽くすことを夢見た。でもそれはただの夢だ、そう思っていた所に現れたのがT高だった。当時の日本一の進学校ㄒ高を中心として自習室を拡大する。これが『自習室化』である。我々の計画はいよいよ大詰めとなった。しかし、ここで問題が起きた。自習室を現実世界に溢れさせるには、いまひとつ勢いが足りないのだ。ダムも一度決壊すれば水はとめどなく流れ出すが、決壊させるには何かきっかけが必要である。そこで我々は考えた。T高生全員に無理やり“お経”を唱え続けさせれば良いではないかと。そのための手段も練り、実行に移したのが先日のことだ。」
「進学校病の蔓延もお前たちのせいだったのか!」
「いかにも、その通りだ。」
「それなら自習室化が始まったら、進学校病を治すのか。」
「いや、自習室化が始まった後も、彼ら進学校病患者には自習室インフルエンサーとしての仕事が待っているからね。可哀想だが彼らはずっとあのままだ。ここまでの道のりは険しかった。しかしようやく我らの願いは叶おうとしているのだ!」
富田は部屋から僕が逃げられないようにしてから去って行った。あとには僕と僕の鞄だけが残った。
時計を見るともう夜の10時だった。
「.....勉強しなくちゃ。」
あぁ、こんな時に僕はいったい何を考えているのか。
「単語覚えなきゃ。」
日本が滅ぶか否かの瀬戸際なのに。
「数学の復習をしなくちゃ。」
誘拐されているのにこんなことを考えている。
気が狂ったのだろうか。
僕も進学校病に感染したのだろうか。
いや、そんなことはない。
だって.....
明日は試験日だ。
【3.1.試験日】
僕はあの後、眠ってしまった。
『お前は日本を救うに相応しい知識を身に着けた。』
夢の中だろうか。謎の声が聞こえる。
『お前には自習室化を止められる力がある』
一瞬意識が遠のき、目を覚ますとそこは自宅の勉強机、時計は6時を指していた。試験日当日。進学校病の影響で欠席者は多いものの、試験は通常通り実施された。
問題を解いていると、誰かが叫んだ。
「ついに、ついに自習室化が始まったぞ!」
振り向くとそこに居たのは秘密結社Uのトップ、富田であった。彼が手拍子すると、僕を除くすべてのT高生と教師達が一斉に“お経”を唱え始めた。進学校病である。それを満足気に眺め、彼もまた"お経”を唱え始めた。手拍子が止まっても、一度進学校病になった者たちの“お経”は決して止まらなかった。生徒や教師の間を富田がこっちに向かって歩いてくる。
「進学校病ウイルスが効かないT高生がいるとは驚いた。おや、お前はこの前私達のアジトから逃げ出したT高生ではないか。どうやって逃げたかは知らないが、それも無駄だったようだな。見よ!もう自習室化は始まったのだ!」
振り向くと、巨大自習室は既にグラウンドの半分ほどを埋め尽くしており、屋根や2階も形成され始めていた。
もう手遅れなのだろうか。
【4.0.終わりの始まり】
家に帰りテレビをつける。メディアの反応は早く、一局を除いた全ての局がたった一時間前T高から始まった異常な現象を報道していた。空からのライブ映像をみると自習室化はもうT高の最寄駅までたどり着きつつあった。地域の住民には避難勧告が出され、電車は全線停止を余儀なくされた。
両親は無事にいつもより早く帰ってきた。
そして「逃げるよ」と言った。逃げても無駄、自習室化は日本を、世界を、ひょっとすると太陽系をも飲み込むかもしれない。
でも、そんなことは言えなかった。
どこに行くのかと尋ねると母の実家と言われた。無理だ、恐らくもうじきそこも自習室化に飲み込まれる。それでも、最低限の荷物を持って僕達一家は家を捨てた。箱根の実家についても話題はその自習室化ばかりだった。
ニュースでは「怪奇現象は加速度的な広がりを見せている」「最新予測によると日本全土がこれに飲み込まれるまで数日もかからない」などと報じられている。
「あの妙な建物の大きさをY、この怪奇現象が始まってからの時間をXとしよう」
叔父が呟いた。
「そうするとY=X^2の式が成り立つんじゃないか。」
「でもあんたそれは摩擦も空気抵抗もない理想状態での話じゃないか!」
すかさず叔母が反論する。
「わしはY=log(X + 1)がいいのぉ。」
祖父までそんなことを言い出した。
「すごいです、お義父さん、それならあいつの膨張はどんどん減速しますね!」
と、父が言う。
「じゃろ、ちゃんと真数を(X+1)にして原点を通るようにしたのがポイントじゃ」
その後も
「Y=tanXじゃないか?」
「それだとある程度まで大きくなったら突然消えるのか!」
「もうその話はやめよう。」
「やめようって、俺が言いだしたことじゃない、もともと君のほうから持ちだした話じゃないか」
「まぁまぁ落ち着けって、俺はY=2^X-1だと思うぜ。」
「それじゃああいつの膨張はどんどん早くなってあっという間に月に届いてしまうじゃないか!」
「それは新聞紙を折った場合の話だろ?まぁ、それに近いことが起こると思う」
という会話が家族内でなされる。
会話の内容がおかしい。
もしかして、これも自習室化の影響なのか?
騒然とする家族をおいて、僕は部屋に戻った。僕はそのまま眠りについた。
【4.1.夢の中】
「すいません、自習室化を止められませんでした。」
僕は夢の中で言う。
『分かっている。』
謎の声が聞こえる。
「もう、世界は自習室化の完了を待つだ
けなのでしょうか。」
『完了?自習室化は完了などしない。限りなく広がり続け、やがては宇宙を飲み込む。」
もう、駄目だ。全ては僕のせいだ。
「なにか、まだ僕にできることは」
『厳しい戦いになるかもしれないぞ』
「はい」
『いくら進学校病に免疫があるお前でもあっという間に自習室インフルエンサーにされてしまうかもしれないんだぞ。本当にいいのか。』
「はい」
『よし、ではUのやつらと戦うための技を教えよう』
そして、特訓が始まった。
まぁ、簡単に使える技だったのですぐに終わったのだが。
『これでUのやつらとも戦えるだろう。今からお前をT高校に向かわせる。敵は多いがこれしか方法がない。やってくれるか。』
「はい、この技さえあれば何とかなる気がします。」
『そうか、では行くがよい。』
僕は、謎の声の主から“関数戦法”を学んだ。
校内に浮かんでいたXYグラフ。あれを応用すればいいらしい。
【5.0.決戦】
T高に着いた。今や、巨大な自習室の中心と化したT高に。静かだ。周りには誰もいない。
「そこ、サボるな!」
どこからか怒鳴り声が聞こえてきた。声がした方に向かうと階段があり、下が何やら騒がしい。降りてみるとそこには大勢の人が並び、皆一様に“お経”を唱えていた。
状況は飲み込めた。
黙々と“お経”を唱える人々の中に一際早口で唱える者がいた。白波さんであった。
周囲には秘密結社Uの部下と思われる人
が三人、腕試しにはピッタリだろう。
「おーい」と注目を集めると三人ともこちらに向かってくる。
夢の中での特訓を思い出す。
——まず描きたい概形を思い浮かべろ
Uの奴ら三人の周囲を囲うような円だ。
——原点を決めろ
原点は三人の真ん中。
——そして叫べ
「X^2+Y^2=n、あいつらを縛り付けろ!」
現れた無機質な黒い円は腰の辺りで三人を囲い、彼らをきつく縛り上げた。どうやら成功したらしい。
「皆さん、もう自由です!“お経”を唱えるのはやめてください!」
そう叫んでも彼らはなかなかお経をやめない。
“お経”には依存性があるのかもしれない。
「受験は団体戦....」
「模試の解き直しは最低3回....」
富田がいるUの本丸に向かおうではないか。
無我夢中で“お経”を唱える光景はこの世の終わりを思わせるに十分なものだった。
いくらか走ると富田が現れた。
「X=1、あいつのあたまを貫け!」
富田が叫んだ。どうやら、彼も“関数戦法”を使えるらしい。それを聞いてとっさにしゃがんだので頭は免れたものの、腕をグラフがかすめた。たらたらと血が流れていく。
「X=2、X=3、X=4」と富田は攻撃を続ける。それに刺されまいと僕はもと来た道を戻
っていく。逃げていく途中で白波さんを含む生徒や先生たちと会った。僕は彼らに“関数戦法を教え、富田の攻撃に備えた。
数分すると、再び富田が現れた。
「Y=X^2からY=-X^2!」
富田の声により出現したグラフは、クラスメイトをムチのように打ちのめした。秘密結社Uの部下達も加わり、僕たちは防戦一方。
文系生徒達の知識の少なさが仇となる。
なぜ彼らは、直線と二次関数しか使えないんだ....。
文系生徒に怒りを感じると共に、数学が得意でありながら今のところ何も有効な攻撃が出来ないでいる自分自身にも情けなさを感じる。
落ち着け自分。
富田の口の動きさえ封じればこれ以上グラフを出される心配はなくなる。しかし、さっきのやつらのように円の中に閉じ込めたところで口の動きは封じられない。何か、奴の動きを止められる手段はないのだろうか。
直線、二次関数、円、放物線、三角関数、指数関数、対数関数、無理関数、双曲線、楕円、三次関数、四次関数.....
思い出せる限りのグラフを挙げてみても、有効な手段は一つもない。
自分、数学、得意だと思ってたのにな.....
【6.0.キセキ】
僕が諦めようとしたその時、白波さんが叫んだ。
「なんで諦めるの!数学得意でしょ!!治してくれるって約束したじゃん!奇跡が起こるかもしれないよ!最後まで戦ってよ!」
大人しい彼女が珍しく怒っている。
当然だ。僕は約束を破った。
「奇跡を起こしてよ!!!」
彼女が再び叫ぶ。
奇跡、か......
キセキ.........
————軌跡と領域
そうか!!グラフばかり思い出そうとしていたからダメだったんだ!
領域を使えば円の内側のものの動きを全て封じられる!不等号の向きを間違えればただの自爆行為になってしまうが、落ち着いて考えれば大丈夫だ。
「富田を原点として、X^2+Y^2<1の動きを封じろ!!」
言おうとしたところで口が止まる。
これ、どう読むんだったっけ。
普段、紙には書くが口には出さないせいで意識していなかった。
『小なり』と『大なり』が頭の中をグルグルと回る。そんな動揺が顔に出てしまったのだろうか、富田が怪しんでいる。
もう迷っている暇はない。このままやられるぐらいなら、二分の一の確率に賭ける方が賢明だ。
『小なり』
こっちに決めた。
「富田を原点として、X^2+Y^2『小なり』1の動きを止めろ!!」
.....周りがどうなったかを見回してみる。
いや、『見回すことができた』
つまり、成功したのだ。
目の前では富田が口を開けたまま止まっていた。
次の瞬間、巨大な自習室はちらちらと灰のように消え、元のT高校へと戻った。
僕たちの出し合ったグラフも全て消え、いつのまにかあの変な“お経”も終わっていた。
静かだ。
僕はこの数日の間にあったことを思い返す。
驚いた。僕はこの数日の間に起こった不思議な出来事が終わることに対して、少しの寂しさを感じていた。
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6.1.エピローグ
高校生はあらゆる場所で勉強します。
自習室はもちろん、自宅、教室、予備校、図書館、電車、バス、新幹線、飲食店、など。
歩きながら英語のリスニングをしている人もいるでしょう。単語帳一冊で、スマホ一台で、いつでもどこでも勉強が可能になります。
高校生にとって、この世界のどんな場所でも『自習室』と成り得るのです。
ある意味、世界の『自習室化』はとっくに始まっているのかもしれません。