ラ・ムール
「ん…ユウ…」
目の前で行われている深い接吻を冷めた頭で眺める。
まただ。
また。
これで何度めだっただろう。
「もっと…好き…ユウ…」
私はスーパーの買物袋をそっと床に置いた。
ガサリと少し音が鳴ってしまうのはもう仕方の無いこと。
ジャガイモが一つ
袋から転がった。
◇◆ラ・ムール◆◇
外は雨だった。
その音が、少しだけ気持ちをクリアにしてくれる。
ほんの少しだけ。
私の心は、あいつを愛した時から澱んでしまっているから。
それはまるで排水口にへばりつくヘドロのように、そう簡単には取れてはくれないようである。
傘は持っていない。
そんなもの
いらないと思ったから。
多分今、私の傘はあの部屋の傘立てにあいつのそれと仲良く収まっているのだろう。
ぶらぶらと歩く。
行く宛てなんて無い。
けれどさ迷っているわけでもない。
どんなに辛くたって、
どんなに寂しくたって、
私には帰る場所なんて一つしかないんだから。
「さやか…?」
ぴたりと足を止める。
声のした方を振り返ると、ビニル傘を手にした洋平が立っていた。
「洋平…」
黒のライダージャケットが所々濡れていた。
白いほどに色の抜かれた髪はワックスでツンと立っている。
私の方へ歩み寄る度に、ジャラジャラと洋平の手首と腰の鎖が揺れた。
「どうしたんだよ、傘もささないで。びしょ濡れじゃねぇか。」
洋平がビニル傘の中に私を入れた。
心配そうに瞳が揺れている。
それは綺麗なコバルトブルーだった。
「とにかく、うちに来い。」
洋平が私の肩を抱くように腕をまわしてきた。
支えるような手つき。
私はそれを払いのける。
「大丈夫。一人で歩けるから。」
濡れたコンクリートから視線は動かさない。
洋平の方は見なかった。
だから彼がどんな顔をしたかなんて当然分からない。
洋平が歩き出す。
私も、彼の隣を歩き始めた。
******
まだ夕方の五時を回ったところなのに、外はまるで夜のように暗かった。
天候のせいだろうか。
大粒の雨は窓を溶かしているかのようだ。
どろりどろり。
このまま全て溶けてしまえばいいのに。
「ん。飲めよ。」
コトリと目の前にマグカップが置かれた。
大きめのマグカップの中からはコーヒーが暖かな湯気を立てている。
「ありがと。」
私は両手で包み込む用にして持ち、それをちょっとだけ口に含んだ。
少ししてからごくりと飲み込む。
まだやはり熱くて、舌がヒリリと痛んだ。
「…優なんだろ。」
洋平がぼそりと言った。
「あいつがまた他の女を連れ込んだんだろ。」
洋平は手に持っている発泡酒の缶をぼおっと見ていた。
酒があったのか。
熱いコーヒーと温そうな発泡酒。
私は少しだけコーヒーでよかったと思った。
「そうなんだろ、さやか。」
「…どうして。洋平には関係ない。」
二口目を口に含む。
まだ、熱い。
「関係なくなんかねぇよ。」
洋平が立ち上がる。
私はマグカップをちゃぶ台の上に置いた。
「さやか。関係ないとか言うなよ。」
洋平が私を抱き締める。
強い力。
もう少し優しくしてくれてもいいのに。
あいつ以外からの苦痛なんていらない。
けれど私は洋平を突き放したりはしなかった。
外と内の違い。
人間て可笑しい。
表情や声にはださず、私はくすりと笑った。
「俺の気持ち知ってるくせに。」
窓の外をちらりと見た。
もちろん、星なんかは一つも見えない。
「俺じゃ駄目か。俺はさやかを泣かしたりしない。悲しい思いなんかさせねぇから。」
更に洋平の腕に力が入る。
どちらかの中指に嵌められたヴィヴィアンの指輪がごりごりとした。
「好きなんださやか。愛しているんだ。分かってくれよ。」
「痛い…」
「洋平、離せ。」
私は静かに息を呑む。
冷徹なアルト。
あいつの声。
壁にもたれる、スラリとした人影。
「優…」
洋平がゆっくりと私から離れた。
「鍵が開いていた。不用心な奴だな、お前は。」
優が言いながら目を細める。
それは笑っているようにも見えた。
「何しに来た。」
「何って、俺のが邪魔してるんじゃないかと思ってね。しかし…」
優がこちらを見る。
ばちりと目があった。
「どうやらもう、連れて帰る必要もなさそうだな。」
それだけ言って踵を返す優。
その後ろ姿に、私はこれ以上ないほどの不安を感じた。
孤独。
絶望。
焦燥。
私はよろりと立ち上がる。
「まって…」
私の声に優が足を止めた。
ゆっくりとこちらを振り返る。
「お前はどうしたいんだ、さやか。」
どうしたい。
さやか。
そんなこと決まっている。
「すてないで…」
どうか
お願い。
「私を、置いていかないで。」
目から涙が溢れ落ち、頬を伝っていく。
優は静かに微笑んだ。
美しい微笑み。
全ては
一瞬のこと。
バシッ。
乾いた音が響く。
私の体が後ろに吹っ飛んだ。
拳ではないだけ、まだましだったかもしれない。
優に平手で打たれた右頬は、じんじんと熱かった。
優はサウスポーなのだ。
「俺だって、お前を逃がしたりなんてしないさ。」
ゆっくりと歩み寄ってきて、私を起き上がらせながら、優が耳元で囁いた。
焦点の合わない私の目。
くいと顎を持ち上げられる。
「逃がさない。」
優はそう呟くと私の唇を彼のそれで塞いだ。
貪るような接吻。
優の舌が入ってくる。
深い。
深い口付け。
「んっ」
どうやら先ほどの平手で口の中を切ったらしい。
優の舌が傷口を掠めたようで、鈍い痛みが口から全身へと駆け抜けた。
しかし優はその反応を楽しむかのように、一度私が反応を見せてからは執拗にその部分だけを狙ってきた。
じくり。
じくり。
じくり。
鈍い痛み。
「んっ…んっ…」
痛い。
血の味がした。
生々しい。
優の舌は止まらない。
痛みは消えない。
繰り返される苦痛。
けれどそれはどんな愛撫よりも安心感を与えてくれる。
激しい愛情。
ラ・ムール。
酸素が足りなくなって、もうすぐで意識を飛ばせそうになった頃、優の唇はゆっくりと離れていった。
どちらのものか分からない唾液が口から溢れている。
「帰ろうか。」
優が言った。
私は頷く。
洋平は、また発泡酒をぼおっと見ていた。
雨は、
まだやまない。
end
最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。
どうも。
木村よしです。
今回はちょっぴり大人な作品にしてみました。
痛い系はこの作品が最初で最後になると思います。
雨の日独特の、湿った変な臭いが感じられる作品になっているといいな。
感想や批判など待ってます。
どんなキツイことでも、皆様の書き込みは木村よしの力になり励みになります。
なので書き込みよろしくお願いします!!
ではでは、本当にありがとうございました。
これからも木村よしとその作品たちをあたたかく見守ってやってください。