「わたしに声をかけたのはあなたなの?」
□叉鏡ありすの非日常 A1-2
「まさか幻聴じゃないよね? わたし、そんなに疲れてるのかなぁ……」
「汝には聞こえるはずだ。その資質を持っているのだからな」
ふいに何かの視線を感じ、振り返って本棚の上段を見る。
そこには全身真っ白なうさぎのぬいぐるみが置いてあった。
本が並んでいるその前にちょこんと腰掛けているようにも見える。
「いやいやいや……それはないって」
そのぬいぐるみと目が合ったような気がした。
「汝はようやく気づいたか」
「でも……まさか……」
本棚の上段に座っているぬいぐるみと対面すべく、近くに置いてあったキャスター付きの踏み台を持ってくる。
「わたしに声をかけたのはあなたなの?」
少し恥ずかしかったけど、わたしは思い切って声をかけてみた。もちろん小声だけどね。
「無論、我に決まっておろう」
たしかにぬいぐるみから声が発せられている。
録音された『台詞を喋るおもちゃ』にしては、わたし自身との会話が成立しているのが妙なところだけど。
それはともかく、このウサギには見覚えがあった。何かの本の挿絵で見たはずだ。どこかのテーマパークで会ったはずだ。
頭を捻りながら記憶の引き出しを必死に探る。
「あ、ホワイトラ……」
「違う! 我の名は【◎&$=#@】である」
「ごめん。名前、聞き取れなかったみたい。もう一回言ってくれる」
「我の名は【◎&$=#@】である」
名前の部分は、風が吹き抜けるような板ガラスを爪で引っ掻くような、とても人間に発音のできるような音ではなかった。
「ええーん。そんな人外魔境的な言葉で発音されてもわかんないよぉ」
「仕方がない、ならば類似した人間の言葉に変換する事にしよう」
中途半端に名前だけ原音主義にするからややこしくなるのだ。全ての言葉を聞き取れないように発音してくれれば、わたしは気のせいだと思って関わることもなかっただろう。
「わかってるなら最初っからそうしてよ」
けど、言葉として聞こえてしまったものを無視するわけにはいかない。
「我の名はルキフ・ゼリキボセウイだ」
舌を噛みそうな名前だった。
「あのー、めちゃくちゃ言い辛そうな名前なんですけど」
「汝の事情など知るか。きちんとこの世界にある汝の国の言語に変換したのだぞ。我が侭を言うでない」
そんなぬいぐるみの言葉は無視して、わたしはこう告げる。
「よし、キミの名前はホワイトラビット、愛称はラビ。その方が自然だよ」
目の前にあるぬいぐるみの胴体を両手で掴み、斜め上に持ち上げた。
「……」
ぬいぐるみは不満そうに、声にならない音で唸っているようだ。だが、唸っているだけで手足どころか顔の表情さえ動かそうとしない。
「キミは動けないんだね。それとも動けないぬいぐるみに取り憑いちゃった間抜けな悪霊さん?」
「さっきから聞いていれば好き勝手云いよって。我はそんな下劣な存在ではない」
「じゃあエネルギーの切れちゃったぬいぐるみ型のロボット。で、さらに中の人がいるのかな?」
わたしの空想力がぬいぐるみの状況を好き勝手に想像する。だが、陳腐な設定はどれもしっくりとこない。
「違う。我はもっと高貴な存在だ。悠久なる魔法を伝える者。グランドマスターである」
「……はぁ」
力のない返事になってしまった。まあ、目の前の出来事が妄想や幻想でないのなら信じるしかないのだろう。けど、どこか冷静になっているわたしは、妙にテンションの高いぬいぐるみの言葉にはついて行けなくなっていた。
「我は高次元より来たり、世界の闇たる特異点を浄化するために」
「それで、そのグランドなんとかさんがわたしに何かご用?」
長くなりそうなぬいぐるみの言葉を遮って問いかける。小難しい説明などされても、わたしにはまったく理解できない。こんな場所でゆっくりと拝聴する気にはなれなかった。
「それについては話が長くなりそうじゃ。ここから我を密かに連れ出し、汝の住み処へと案内せよ。そこで重要な使命を汝に託そう」
ぬいぐるみの言っていることには一つ重大な問題があった。
様々なリサイクル品が置いてある店内で、目の前のぬいぐるみが商品でないとは言い切れない。
ここで一番肝心な事は、わたしがそのぬいぐるみを持ち出さなければならないという事実だった。
「ええーん、それって万引きじゃん」
わたしは涙目で恨めしくぬいぐるみを見つめる。