「その願いは叶ったの?」
□叉鏡ありすの非日常 A3-7
「私は能登羽瑠奈。月見学園の二年生よ」
前髪は真っ直ぐに切り揃えられ、肩口まである艶やかな黒髪、背丈はありすより少し高いくらいでリボンの付いた黒いドレスのような洋服を纏っている。いわゆるゴシックロリータだが、彼女が着るとあまりにも自然で、その自然さが却って非日常的な印象を受ける。
「あ、学年一緒なんだ。わたしはね、穴中二年の叉鏡ありす」
簡単な自己紹介を済ませた後、わたしたちは公園の隅にあるベンチの所へ行き、そこに座って今までの経緯を彼女に話した。
無闇に話していいものかと一瞬悩んだが、見えないはずのラビが見えたのだ、信じてくれる可能性もあるとわたしは判断する。
古本屋でぬいぐるみを見つけたこと、魔法を伝授されたこと、そして部屋での最初の戦いを掻い摘んで説明した。
「ふーん、ということは、ありすちゃんって言うなれば悪に立ち向かう魔法少女なんだね」
疑うことなく信じてくれたものだからわたしは拍子抜けする。
それに、初対面だが『ありすちゃん』と好意的に呼んでくれたことも嬉しかった。
「えへへ、まだ見習いみたいなもんなんだけど……。ねぇ、わたしも羽瑠奈ちゃんって呼んでいい?」
「いいわよ。私たちなんだか、すごく仲良くなれそうね。根本的に似たもの同士なのかもしれないよ」
「ありがとう羽瑠奈ちゃん」
照れて頭を掻くような仕草をしながら、ふと視線を下に逸らすと視界に白いものが映る。
それは、羽瑠奈ちゃんの左の袖口から見え隠れする包帯だった。
わたしの視線に気付いたのだろうか、彼女は袖口を少しずらしてこちらへとその包帯を見せてくる。
それは、手首から親指の付け根にかけて巻いてあった。
「これは、別に大した怪我じゃないの。手首をちょっとひねっただけ。うん、二週間くらいピアノが弾けなくなるくらいのもので、今はほとんど完治しているはず。気休めで湿布を付けているだけなんだけどね」
なんだか痛々しく感じたので、わたしは心配になる。
「まだ痛むの?」
なんだか痛々しく感じたので、わたしは心配そうにそう問いかける。
「うん。というか、治っているはずなのに、未だにピアノを弾くことができないんだよね」
「どうして?」
「指の感覚がなんだかおかしいの。ちょっと痺れた感じがあって。お医者さんは……うーん精神的なものだって言うんだけど。どうなんだろう? 怪我を負った二週間の間にライバルに先を越されて焦ってるのかもね」
「ライバル?」
「うん、同じトコのレッスンに通ってる人。私より三ヶ月遅くに入ってきたの。でも、休んでいる間に私は追い抜かれてしまった。だから、どうしてもあの人に勝ちたかったの。それなのに今の私は前に進むことすらできない……」
彼女の答えは悔しさが滲み出てくるような悲痛な言葉だった。
「ねぇ、羽瑠奈ちゃん。羽瑠奈ちゃんはどうしてピアノを弾き始めたの?」
わたしは穏やかな口調で彼女に問いかける。それはまるで古くからの友人に言葉をかけるようだった。
「小さい頃にね、親戚のお姉ちゃんが弾いてくれたショパンのエチュード、『革命』って曲が大好きでね。それをどうしても自分の手で弾いてみたくなって始めたのがきっかけかな」
わたしの言葉に影響されたのか、羽瑠奈ちゃんの口調も穏やかになりつつあった。
「その願いは叶ったの?」
「うーん……あの曲結構、難しいのよね。『優れた技巧を持たない音楽家の手には届かないし、たとえ優れた技巧の持ち主でも、優れた音楽性を持たなければ到達できない世界』。ショパンの曲によくいわれる言葉よ」
「優れた技術と芸術性を両立させろってことね。だからこそ聞く人に感動を与えられるんだ」
「その通りよ」
「だったら目的を忘れちゃだめだよ。羽瑠奈ちゃんはライバルに勝つためじゃなくて、ショパンのその曲を弾けるようになることでしょ?」
「そうだけど……」
「焦るのはしょうがないけどさ。勝つ事だけが目的になったら羽瑠奈ちゃんの可能性は閉じちゃうよ。人の心を動かせてこその芸術じゃないかな。ピアノの素晴らしさを教えてくれた人のように、羽瑠奈ちゃんも誰かにそれを教えられるようになればいいんじゃない? それってすごい素敵な事だよ。感動ってのは連鎖だと思うの。誰かに感動させられてそれを誰かに伝えていく。音楽を含めた芸術ってそういうものだよね」
「感動かぁ……」
「そのためにはピアノを弾くことを楽しまなくちゃ。さっき言ってたショパンの話と逆だよ。楽しむことで余裕を持たないと優れた技術なんて発揮できない。自分が楽しめない音楽は他人を楽しませることもできないって。ね? 楽しめば技術と音楽性は両立するでしょ」
羽瑠奈ちゃんはしばらく考え込むと、わたしに向き直り微笑みを返す。
「その通りだね。……うふふふ、ありがとう。少しだけ気持ちが軽くなったよ」




