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 誰もが不安に眠れぬ夜を過ごした、その翌朝。


 朝食を摂るために足を運んだ応接間で、もう座る者のいないお父様の席を目にして少しだけ迷い、結局は普段のわたしの定位置である右隣の椅子を引く。すでに入り口近くの席で食前の水割りライプ酒を口にしていたシルールは立ち上がって礼を取ろうとするが、それを制して席に着いて静かに朝食が運ばれてくるのを待つ。

 会話はないが、シルールがそれを気にする様子はない。わたしも無意味なお喋りはそれほど好きではないし、シルール相手に気を遣って話題を振る必要もないので、食前の祈りを簡単に捧げてから簡単にパンと卵、ライプのはちみつ漬けを口にする。

 食欲は、浅ましいほどにいつもの通り。昼間に長く寝ていたので睡眠時間こそ短かったものの、昨日もシルールとの話を終えた後に床に就いたら、いつの間にか寝入ってしまっていた。たった一人の肉親が死んだというのに、自分は薄情なのではないかと思えて、それが悲しい。


「ねえ、シルール」

 ふと、尋ねてみたくなる。

「物語の中では肉親や愛する人が死んで悲嘆に暮れる場面がよくあるけど、現実もそうなのかしら? 貴方なら、そうした場面に立ち会うこともあるのでは?」

 食事を終え、わたしには聞き取れないような声で祈りを捧げていたらしいシルールは、ふっと顔を上げると、思案するような様子を見せる。祈りを捧げていると気付いたときには声をかけてしまっていたので、少し悪いことをした気分になった。しかしシルールはそれに気分を悪くした風もなく答える。

「……人それぞれと言ってしまえばそれまでですが、人はすでに終わったことを悲しむよりも、目の前に迫った生存の危機への対処を優先させるものです。戦場では悲しみに暮れる暇などありませんし、常に自らの生き死にと向かい合う動物たちが感傷に浸ることはありません。この答えがメルティナ様のご期待に添えるものかどうかは分かりませんが、僕は悲しみについてそのように考えています」


「本や詩の物語と現実とでは、こんなにも違うものなのね」

 分かっていたようで、本当には理解できていなかった。

 そんな思いを込めてつぶやいた。

 すると、シルールは聞き慣れない言葉で不思議な文句を口にする。


「――ヴェルル・ヴェル」


「え?」

「我が死を見よ、という意味のヴェルルの言葉です」

「――我が死を、見よ?」

 不思議な響きの言葉だった。

「はい。ヴェルルの一族の中でも特に尊重されている概念で、いくつかの意味を持つ言葉です。素直に受け取って『我が死に様を見届けよ』とする場合もありますが、重要なのは『人はいつか死ぬのだと知れ』という意味合いで使われる場合があるということです」

「どういう意味なの?」

「人はいつか死ぬ。全ての命はいずれ死して消えゆく運命にあり。ゆえに今を生きよ。食べ、飲み、歌うのだ――といった意味なのだと僕は考えています。ヴェルルの間でも、個々人でその解釈に違いがある概念なのだそうですよ」

「人はいつか死ぬ……」

 そうそう、ヴェルル族はこの言葉を鬨の声としても使うそうですよ、などというシルールの言葉が耳を通り過ぎてゆく。人はいつか死ぬ。そんな当たり前のことが、今はなぜか酷く胸に沁みた。


「……メルティナ様?」

 気付けば、わたしは。

 流れ落ちるもので頬を濡らしていた。

「え? あ……すみません、見苦しい、ところを……」

 嗚咽が漏れる。

 これで、何度目だろう。

 お父様は、もうどこにもいない。

 分かっていたことなのに、それなのに、どうして。

 今になって、わたしはこんなにも泣いているのか、それが不思議でならなかった。




 シルールが、何も言わずにその場を立ち去ってくれたのがありがたかった。

 ひとしきり泣いた後、目元をぬぐって呼吸を整える。

 知らず、張り詰めていたのかも知れない。

 少し、呼吸が楽になっていた。


 応接間の扉を開けて顔馴染みの兵が入ってきたのは、そんなときだった。

「メルティナ様、ベルナス様がお呼びです! 至急、グルト殿の宿まで来て欲しいと!」

 その言葉に。わたしは自分の表情が凍り付くのを感じた。




 一度自室に戻り、服装を整えて威儀を正す。

 これから向かう場は、おそらくわたしにとっての戦場になるだろうという予感があった。

 ふと思い立って、以前お父様から授けられた短剣を腰に帯びることにする。ナレイジスの紋章と宝玉で飾り付けられたそれは、わたしがナレイジス家の正当な後継ぎであることを証明するものでもある。きっと、必要になるはずだった。

 最後に忘れ物はないかと見回してから自室を出る。準備は整った。それから、シルールも連れて行った方がいいだろうと思いついて客室へ足を向ける。


「シルール? 入りますよ」


 返事はない。いないのかと思って扉を開けると、あまり嗅いだことの無い匂いが鼻を突く。あまりいい臭いではない。そのような臭いが自分の屋敷に漂っているのを耐えがたく感じてその原因を探すと、客室の隅に置かれた椅子へと乱雑に積み重ねられた衣服が発生源であると分かった。


「…………」


 はしたない。そう思いつつ、重ねられた上着をめくらずにはいられなかった。

 はたして、そこには血の跡があった。


「何をなさっているのですか?」


 後ろからかけられた声に、どきりとする。

 ぱっと振り向くと、そこにはシルールの姿があった。


「ご覧になってしまわれましたか?」

「こ、これ……」


 上手く、言葉が出てこなかった。

 その様子を見て、わたしがそれを見たと察したのだろう。

 シルールがうつむけた顔に浮かべた表情は、どういう感情の表れだったのか。

 再び上げたその顔には、穏やかだが仮面のような笑顔が貼りついていた。

 その何気なさが、シルールの中でこれがどれだけ重大なことなのかを何よりも雄弁に物語っているように、わたしには思えた。もし、わたしではない人間がこれを見ていたら。その人間は、この不思議な吟遊詩人に殺されていたのではないかと。何の根拠もなく、そう思わされてしまった。


「あまり名誉なものではありません。どうか、このことはお伏せ頂けますよう」


 うなずくことしか、できなかった。

 無言の圧を前に、言葉を発することさえためらわれてしまった。


「それで、なんの御用でしたか?」


 笑って問いかける姿は、普段のシルールに戻っていた。

 うっかりすると、先ほどの姿は幻であったと言われても納得してしまいそうなほど。

 とてもではないが、衣服に付いた血のことなど確かめられる雰囲気ではなく。


「ベルナスたちと会います。貴方も来ますか?」

「お許しいただけるのであれば、ぜひ」


 そんなやり取りをかわすのが、精一杯だった。


「トールトはいるか!」

 階下に降りて、弱きを振り払うように声を上げる。

「おお、お目覚めなされたか! このトールト、お嬢様が倒れられてよりずっと心を痛めておりましたが、ご無事そうなご様子で何よりでございます!」


 仮眠を終えて街壁防御の任に戻るところだったのだろう。完全装備の彼が姿を現すのにそう時間はかからなかった。シルールは一度顔合わせをさせておく必要があったので、屋敷にいてくれたことにほっとする。しかし、ごつい顔に浮かぶ人の良さそうな笑顔は、シルールを視界に入れた途端に険悪なものとなる。


「吟遊詩人! 貴様、ここで何をしておるか!」

「トールト! 控えなさい、彼はわたしの客人です!」

「お、お嬢様の!?」

 動揺するトールトに畳みかける。

「このトレヴェントの街に、ベルル族の来襲を奇貨としてお父様を暗殺した者が潜んでいます。そして、その者はわたしの命をも狙っている可能性があります。ですから、シルールにはその者の調査をさせています。貴方にも、できる限りの助力をお願いしたいの」


「レナート様を暗殺し、お嬢様の命を狙う者だと……? そんな者がこの街に潜んでいると、本気で貴様はそう言うのか……?」

 猜疑の視線をシルールへ向けるトールト。

「……トールト殿は、おかしいとは思いませんでしたか?」

「何をだ。おかしいと言うのならば、一度姿を消したにもかかわらずこうして舞い戻ってきた貴様の方が――」

「トールト殿は。双剣の異名を取るレナート様の剣の腕が蛮族に劣るとお考えか?」

 トールトの言葉を遮り、シルールは問うた。

 そう、それはわたしも考えたことだ。

 しかし、シルールは知らないのだろうか。お父様は、正面から戦って負けたのではないことを。お父様は、ベルル族によって囲まれ、後ろから斬りつけられて倒れたのだということを。いや、知らないはずはない。昨日の夜、わたしが見聞きしたことも全てシルールには伝えている。


「何を言うか。レナート様はベルル族どもの卑怯な不意打ちに遭って殺されたのだぞ!」


 しかしシルールは苛立たしげなトールトの声をさらりと受け流し、言う。


「そうです。レナート様は、不意打ちによって倒れられた」


 不自然に強調するような言葉の区切り方。

 その言い方に、思うところがあったのだろう。

 トールトは憤然とした様子で、そのまま黙り込む。

 眼を閉じ、腕組みをして考える様子は、酷く老いて見え。

 それは、彼がお父様に仕えてからの三十年の重みが一度に降りかかってきたようにも思え、無性に寂しかった。単純に付き合ってきた年月だけを比べるのならば、彼はわたしの倍の年月をお父様と一緒に過ごしてきたのだ。

 悲しみなどおくびにも出さない彼だが、その心中はいかばかりか。


「……お嬢さま」

 ようやく口を開いたトールトは、まるで溜息をつくように言うのだった。

「この老いた身にはもはや、レナート様を殺めた者を追い詰めるだけの力が残されてはおりませぬ。お嬢様には何が見えていらっしゃるのか、このトールトには分かりませぬが、お嬢様の眼にはこの非道の裏で糸を操る者の影が見えていらっしゃるのですな?」


「ええ。その者を見つけ出し、然るべき報いを受けさせます」


「承知。ならばこれ以上問い立ては致しますまい。何なりと命を下してくだされ」


「ありがとう。貴方が街の防備をしっかりしてくれているおかげでわたしたちは自由に動けます。不測の事態が起きた際にはナレイジスの名において貴方の判断で兵を動かしても構いません。……これを」


 腰につけていた短剣を、鞘ごと外して差し出す。

 ここでトールトに渡す予定ではなかったが、そうするのがいいと思えた。

 ナレイジスの紋章の入った短剣。その価値を最もよく知る彼は、感極まったように押し戴く。


「必ずや……!」

「任せます。武運を」


 そんなやり取りを最後に、屋敷を出る。

 扉が閉じられる一瞬、彼の声が耳に届いた。


「我が主にして我が命の恩人、戦友レナートよ……! メルティナ様は、ナレイジスを継ぐ者として立派に、立派に育たれましたぞ……!」


 本人は独り言のつもりなのだろう。

 思わず、苦笑が漏れる。

 彼は、いつだって声が大き過ぎるのだ。




 さて、と気合を入れ直す。

 支度やトールトとのやり取りでだいぶ時間を食ってしまった。

 ベルナスは待ちわびているだろうと早足でグルトの宿へ向かう。

 酒場を兼ねた一階には、街方の民兵たちが集まって騒々しく飯を食う姿があった。しかし、そこへわたしが足を踏み入れた途端、一斉に談笑が止んで視線が集まってくる。誰もが、不安に押し潰されまいと無理をして明るく振る舞っているのだろうと嫌でも分かってしまう反応に、寒々しさを覚える。


「ベルナスに呼ばれてきたのだけど。グルトはいるかしら?」


 誰ともなく二階へと視線を向けるので、ありがとうと笑顔を投げて階段へ向かう。後ろに引き連れるシルールへ視線が集まるのが分かるが、構いはしない。

 二階では、屋敷へメッセージを伝えにきた男が所在なさげに立っていた。彼は、わたしの顔を見るとぱっと顔を輝かせ、無言で老化の奥の部屋を示してみせる。うなずいて返し、奥へ進む。後ろに続くシルールを見て咎めるような表情を一瞬だけみせるが、にっこりと微笑んでやるとそれだけで引き下がってしまう。


 扉の前に立ち。

 声をかけようかと考え、止める。

 そのまま扉を押し開けると、驚いたように視線が集まった。

 その場にいるのは三人。机を囲んで一番奥にベルナス、右にグルト、左にファマンという構図だ。さっと見渡して、その場での力関係も把握する。ベルナスの余裕ある表情、グルトの追従顔、憤懣やるかたなしといったファマンの顔を見れば、どういう流れかは大体掴めた。


 一番手前の椅子の前に立って、椅子の背に手をかける。

「話とは、何ですか?」

 ベルナスを真っ直ぐに見据え、問いかける。

 斜め後ろに立つシルールの影を目の端で捉えることができ、今はそれが少しだけ心強い。


「レナート様の死を受けて、兵権をどうするか話し合っていたところなのですよ、メルティナ様。ともあれ、まずは椅子におかけになってはいかがかな?」

 取り成すように言うグルトを一瞥してから、強い口調で言い放つ。

「わたしはベルナスに問うているのです」

 根が小心者のグルトは、それで萎縮してしまう。

 再びベルナスへ目をやると、こちらはやや不快そうな顔をしていた。

 視線を追う限りでは、この場にシルールがいるのが気に食わない様子だった。


「その前に、なぜそやつがこの場にいるかをお聞かせ願わねばこちらも納得いきませぬな」


 蛇を思わせるようなざらついた声で言う。


「シルールが姿を消したことを言っているのですね? あのときはお父様の命令でベルル族の下へ使者として向かわせていたのです。シルールの持つベルル族に関する知識とベルル語の能力をもって、交渉の下準備を進めさせていました」


「なるほど。そういうことにしておきましょうか。しかし、メルティナ様は――」

 わざとらしいため息を一つ挟み。

「――レナート様が亡くなられてからというもの、どこの生まれか知れたものではない卑しい犬などを引き連れて、生き生きとされてらっしゃる様子ですな。このベルナス、レナート様の従騎士を務めさせて頂いた者として苦言を呈させて頂きますが、誇り高きナレイジスの血を継ぐ貴方がそのような――」


「痴れ者めが! メルティナ様に対して何を言うかぁ!」


 余りといえば余りな言い様。怒りで言葉も出ないわたしに代わって、ファマンが怒声を上げてベルナスの発言を遮ってくれた。しかしベルナスはそれに堪えた風もなく、かえって怒気も露わにファマンを睨み返し、そのまま睨み合いが始まってしまう。


 わたしも、何か言わなければ。

 そう思いはするものの、言葉が浮かんでこない。

 ベルナスの、お父様が死んでから生き生きとしているという言葉。

 その言葉と、お父様の死をきちんと悲しめていない自分が重なる。

 考えてみれば、お父様の死によって最も利益を得たのは、ナレイジスの当主となったわたし、という見方もできるのだ。わたしはそのことを誇りに思い。そしてまたどこかで、喜ぶ気持ちはなかっただろうか。一度意識してしまったら、もうその疑念は簡単には振り払えなかった。

 わたしの中の、黒く濁った感情を見せつけられたような思いに囚われ。

 そんな状態では、もう言葉など出てくるはずもなかった。


 そのとき、うつむいて唇を噛むわたしを庇うように隣へ立つ影があった。

「流石は、騎士ベルナス様」

 音楽的、かつ皮肉気な口調。

「貴方の勇敢さは、モノオクルスを討伐するオヴェリウスに比肩されましょうな」

 穏やかな笑みを浮かべたままそんなことを言うシルールが、そこにいた。

 ベルナスは、余裕の表情で立つ吟遊詩人へ殺意のこもった視線を向ける。

「……なんなのだそれは。私を侮辱するつもりなら容赦はせぬぞ」


「侮辱など滅相もない。ご存じの通り、モノオクルスとは神代の伝承にある怪物、単眼の巨人、鉄をもたらす者と呼ばれる魔物にございます。そしてオヴェリウスはそんな怪物をその剣でもって討ち果たした英雄。ヴェルルの脅威に晒されたこの街の命運を握り、例え周囲の人間に疎まれようとも護るべきか弱き者たちを第一に考え戦いから遠ざけようとするその心意気、この吟遊詩人めは感服してしまいました」


 剣の柄にてをかけさえするベルナスを前に、さして動じた様子もなく滔々と答えるシルール。ベルナスもまんざらでもなかったようで、馬鹿にするように鼻で笑って剣の柄から手を離した。そして、シルールが長広舌を振るったおかげで、言い争うような緊迫した空気はすっかり霧散してしまっていた。


 ちらりと、シルールがわたしを見る。

 かすかにうなずくことで礼に代えて。


「わたしから一つ提案があります」


 わたしは、そう切り出した。

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