5
自室のベッドの中で目を覚ます。
どれくらい寝ていたのか、外はもう暗かった。
おそらく、意識を失って倒れたところを運ばれたのだろう。
布団にくるまったまま、意識を失う前のことを順番に思い出していく。
傷ついたベルナスの帰還。
そして、お父様の死に様。
ああ、と思う。
お父様が死んだ、ということ。
そのことが、ようやく腑に落ちた気分になる。
トールトの言う通り、あのときの自分は少しおかしかった。
わたしは、あの場にふさわしい言動を取れていただろうか、と自問する。
思い返せば、ベルナスやグルトを呼び捨てにしていたかも。
あれは、少々はしたなかったかも知れない。
お父様が死んだからと言って。
わたしなんかが。
ぐるぐると頭の中で渦巻く自責は、こつんという固い音で遮られた。
方向に当たりを付け、ベッドから足を降ろす。
音は、窓の方からしていた。
そろそろと近づく。
こつり。
再び、音が鳴る。
今度は、はっきり分かる。
誰かが、この部屋の窓へ石を投げているのだ。
音からして石は小さく、窓を割る目的で投げているのではないだろう。
窓際に立って、庭を見下ろす。
そこには、いなくなったはずのシルールがいた。
吟遊詩人は小さく手を振り、それから指を口に当てる。
騒ぎにしないでくれ、という意思表示だが、わたしは迷った。
彼の失踪の理由が不可解なら、戻ってきた理由はもっと不可解だったからだ。お父様が死んだことを知らないにしても、いや知らないでいればこそ、普通の神経で、しかもこんな時間に娘であるわたしを訪ねるなどできないはずだ。
しかし、それでもわたしに会わねばならない理由がある、ということなのだろうか。
わたしの考えがまとまるのを待つかのようにじっと佇むシルールの顔は、話すことを断られるのを覚悟しているようにも見えた。少なくとも、綺麗な女性にちょっかいを出しに来た、という雰囲気ではない。
どうしようか、と夜空を見上げる。
晩秋の澄んだ空気、星々の煌めき。
女としてのわたしは、会うなと告げている。
こんな時間に男と会うなど、言語道断だと誰もが言うだろう。
しかし、わたしは、会うべきだと感じていた。
なぜそう思うのだろう、と我ながら不思議に思う。
そんな直感のようなものに身を任せてもよいものか、と常識が囁く。
考え、理屈付けられなければ動けない自分が、こんな時は恨めしい。
そう、それならば。
お父様なら、どうしただろうか。
思い出しすは、昔わたしが悪戯をしてトールトに叱られたときのこと。
そういう時、お父様は頭ごなしに起こることはなかった。
決まって、何を考え、どのような意図でそれをしたか、説明させるのだ。そうして、わたしが悪いことをしたのだということをわたしに納得させた上で、拳骨を振らせるのが常だったのだ。思えば、わたしの理屈っぽさはああしたところから形作られたものかも知れない。
公平であること、そして予断を持たないこと。
人を導く者として重要なことを、お父様は身をもって教えてくれていた。
ならわたしも、そうしよう。
掛け金を外し、窓を押し開く。ガラスの窓があるのはわたしの家以外に数件しかなく、この辺りには一軒もないため見咎められる心配は少ない。ひんやりとした夜気を胸いっぱいに吸い込み、窓の桟に手をかける。かけたところで、自分の服装に思い至る。あまりきちりとした格好ではない。しかし着替える時間ももったいなかった。
少しだけ思案し、シルールに後ろを向くよう身振りで伝える。吟遊詩人が不思議そうな表情を浮かべてあちらを向くのを確認した後、今度は桟に足をかけ、ぐっと身体を伸ばす。身体は案外覚えているものだと感心しつつ、わたしは屋根の上に降り立っていた。
短く口笛を吹いてシルールを呼ぶと、大げさに目を丸くして見せるのが妙におかしかった。庭に生える木の一本を示してやると、意図を汲んだように大きくうなずいてするすると登ってくる。木から屋根へ飛び移るのは大の男でも中々度胸がいる行為だが、吟遊詩人はそれも難なくこなして見せた。
「ずいぶん身が軽いのね、吟遊詩人さん?」
「どこへ行けどもよそ者という仕事柄、逃げ足だけは速くなります」
視線を巡らせれば、遠く松明の光がちらちらと見える。
ここなら、大声を出せば誰かが気付くし、足場が悪いから相手も下手な動きはできないはず。そう考えて屋根へ上ったのだが、シルールに動じる様子は全くなく、すらりとした立ち姿は平地に足を付けているのと何ら変わりなく見えた。
「なぜ、戻ってきたのですか?」
お父様のやり方を思い出し、単刀直入に問う。
「レナート様の死。その真実を追い求めて」
シルールは月明かりの下で微笑みながら、そんな風に答える。
「お父様はベルル族によって殺された。ベルナスはそう報告し、皆もそう信じています」
「しかし貴方は違うと考えている。僕もそうだ。彼はヴェルルに殺されたのではない」
打てば響くという表現がふさわしい、音楽的な韻律を含むシルールの声に、わたしは。
沈黙をもって、答える。
「……おや? 聡明な貴女ならば、きっと同じ答えに辿り着いているものかと」
「黙りなさい。一番怪しいのは、貴方なのですよ」
同意を求めるように両手を広げるシルールをはねつけて言う。
そう。
怪しいと言えば、シルールほど怪しい者はいないのだ。
ベルル族の言葉を操る、旅の吟遊詩人。老シルバスの弟子を名乗ってお父様に取り入ったと思えば、通訳を任されていながら前日に姿を消し、そしてお父様が死んでからこうしてまた姿を現すなどお父様の死の前後でそれまでにない不審な行動が見られる。思えば、お父様がベルル族との交渉のために護衛もろくにつけず街を出ると決めたのも、シルールが披露した詩が決め手だった。
もし、あの詩がお父様を街から誘い出すためのものだったとするならば。
シルールがこの街を訪れたタイミングや姿を消した理由も自ずと見えてくる。
「わたしは、貴方が内通者ではないかと疑っています」
口にしてみれば、それは酷くもっともらしく思えた。
シルールはそれをどう取ったのか、落ち着いた態度を崩さぬまま言う。
「その疑いはもっともです」
「ならば……!」
「叫んで、助けを呼べばいい。レナート殺しの犯人がここにいると。しかし貴女はそれをせず、僕と話そうとしている。その理知と自制は、貴女のお父様のそれを思わせる。そんな貴女だからこそ、僕は危険を顧みずこうして会いに来たのですよ」
切々と訴えるその姿を、迂闊にも美しいと感じ。一人、唇を噛む。
お父様を思わせるというその言葉に心惑わされてはならない。
真摯そのものと言わんばかりの瞳を、うかつに信じてはいけない。
それらは、言葉と容姿で人を惹き込む吟遊詩人の手管なのだと自戒する。
「……まだ貴方の言葉を信用したわけではありません。ですが、話は聞きましょう」
「では、現状について簡単にご説明しておきましょう。メルティナ様が倒れられてからのことです。街は防備を固めましたが、ヴェルルはまだ攻めかけてきません。僕の見立てでは、彼らは明後日に攻撃を開始するでしょう。戦うにしろ、レナート様殺しの犯人を探すにしろ、時間はそう多く残されていません」
「待って。明後日に攻撃が開始される根拠は?」
「使者は三日以内と言いました。彼らは約束を決して違えません」
「でも、それはベルルとお父様が戦ったことで反故になるのでは?」
「いいえ。これについては確証があります」
自信たっぷりに言い放つシルール。
当然、その確証について説明があるものと思って身構えるが、彼はそのまま口をつぐんでしまう。
「……根拠もなしに信じられないわ。それもわたしたちを油断させる策ではないの?」
「それならば、もっともらしい理由を用意いたします。貴女に嘘はつきたくないのですよ」
「つまり……言えない理由があると?」
「やはり貴女は聡明だ」
シルールの言葉を吟味する。
吟遊詩人は、信用するに値するか。
今の時点では、結論を下せそうにはなかった。
「……貴方の言葉、わたしの心に留め置きます。それでいいですね?」
「もちろんです」
街としてはいつ襲われてもいいよう備えると宣言し、シルールもそれを承諾した形だ。
「では問います。なぜ、お父様の死の真実を追うのですか? 約束を違えて逃げ出した罪の意識から、とでも言うのですか?」
言葉にしながら、それは違うな、と思う。
「ヴェルルの襲来に乗じて、レナート様を謀殺した輩がこの街に潜んでいます」
わたしの問いに首を振って、シルールは答える。
「レナート様は、旅の吟遊詩人と言えど軽んじたりはしない公正な人物であり、それが最善だと信ずるならば単身で敵地に踏み込むことも厭わない強き心をお持ちの方でした。そんな人物を、このトレヴェントの街の命運も顧みず、無残な死に追いやった下手人を僕は許せない。それだけでは、不足でしょうか?」
シルールの言葉は、お父様の娘として胸に迫るものがあった。
しかし、それでもなお解せない部分がある。
「……ええ、それでは足りない。だって、そこには、貴方の想いがないもの」
そう。
お父様が素晴らしい人物であったことは確かだけど、それはあくまでこの街の人間にとってのこと。彼が死んだからといって、あくまで外の人間に過ぎない吟遊詩人が仇討ちのような行為に及ぶ必然性はどこにもない。無償の愛と献身をもって貴人に尽くす騎士、それは夢想の中だけの存在なのだ。
だから、そこにはシルール個人としての想いがあるはずだとわたしは思う。
「僕の想い、ですか」
シルールは、どこか面白がるようにわたしの言葉を繰り返す。
「それなら、単純なことです。吟遊詩人は演奏の腕や歌声の響き以上に、信用が重要な稼業ですからね。ヴェルルの内通者、なんていう物騒な噂を立てられてしまったら、この近隣の町や村には二度と出入りできなくなってしまう。僕は、僕への疑いを晴らしたい。下手人を追うのはそのためです」
「なるほど。分かりました」
天を仰ぎ、目を閉じて感情を隠す。
彼は、気付いているのだろうか。
その言い分の致命的な矛盾に。
とは言え、それは今指摘すべきことではない。
何より、お父様の死を仕組んだ人間がいるとするのなら。
それを突き止めたいのは、誰よりもまずわたしだというシルールの見立ては間違っていない。
わたしとしても、自ら街の人間に探りを入れるのは難しいから、シルールは利用できる。
「それで。貴方はわたしに何を望むのですか、吟遊詩人?」
「僕が姿を消したのはレナート様のご命令だったというお墨付きを」
あらかじめ考えていたのだろう、シルールはさらりと述べる。
「それだけですか?」
「そうですね。利便性を考えて、この屋敷の一室を貸し与えて頂ければ」
失踪の理由付けと、部屋の貸与。
吟遊詩人が街を動き回り、調べた結果をわたしに伝えるには確かに必要だ。
しかし、わたしの一存でそれをしてもいいものだろうかと、迷う気持ちもあった。
「条件があります」
「なんでしょうか?」
「ファマン、グルト、トールト。三人にはこの決定を内密に伝えます」
「なりません」
「なぜですか? そうしなければ、もしわたしに何かあったときに、貴方を正しく追及できる者がいなくなってしまうではないですか」
何か、とはつまり、わたしが死んだときのこと。
口にすることで、わたしは自身が殺される可能性もあると考えていることに気付く。
しかしそれは、ある意味では当然のことだ。仮にレナート殺しがこの街の統治機能の喪失を狙ったものであるのなら、ナレイジス家の後継ぎであるわたしを殺さなければその目的は完遂できないのだから。
シルールは一瞬だけ考える素振りを見せただけで、そんなわたしの考えを正確に理解したようだ。なるほど、といった風にうなずき、ではこうしましょうと前置いた上で言う。
「トールト殿にだけ伝える。ここまでならば僕も譲歩できる」
「ああ、そういうことですか」
シルールの考えに納得がいく。
「はい。僕はファマン殿やグルト殿も疑っています。本当ならトールト殿も例外ではないのですが、まずは僕を信用して頂かないことには協力もできませんから、仕方がありません。それに、トールト殿であればきっとメルティナ様への助力は惜しまないことでしょう」
確かに、トールトなら口が堅いから信用が置ける。それにシルールは疑っていると言うが、ナレイジス家への鉄の忠誠心を持つ彼なら、お父様を殺すなどという計画を聞いたら怒り狂うことだろう。彼が犯人などということはまずありえない。きっと力になってくれることだろう。
「それで、どうやって犯人を探すつもりなの?」
「ご安心を。考えはあります。しかしここでそれを説明することはご容赦下さい」
「なぜ? 説明もなしに貴方を信じろと?」
協力の前提を覆すような吟遊詩人の言葉に、図らずもきつい言い方になってしまう。
言葉足らずだったことに気付いたのか、シルールは言葉を選ぶように少し間を置いてから、言う。
「いいえ。しかし告発の準備が整い、確証が持てるまでは犯人を指摘しないのが僕たちの流儀なのです。ただでさえ信用のない僕たちに間違えることは許されませんし、無闇に疑心を煽ってお互いに口を噤んでしまえば、かえって犯人を利する結果にもなってしまいかねません」
「……なるほどね。けど、それは他の人に言わない理由にはなっても、わたしに言わない理由としては少し弱いのではないかしら」
「では、メルティナ様は犯人かも知れない相手に対して、それまでと同じように振る舞えるご自信をお持ちでしょうか? 万が一にもメルティナ様がその相手を警戒していることが伝わってしまえば、相手も言動に気を払うようになってしまいます。それでもなおお耳に入れたいのであれば、強いてお止めいたしませんが」
わたしを侮辱したとも取れるその言葉だったが、不思議とそんな気はしなかった。それは、シルールの態度からそのような意図で発された言葉ではないことが分かったからであり。何より、女だからと馬鹿にすることなく、まだ仮初めの当主に過ぎないわたしの判断に従う意思を示してくれたからだろう。
言葉を尽くして出来うる限りの説明をしようとするその誠実さには、信用を置いてもいい。それに、正直に言えばお父様を殺したかも知れない相手を前に平静を保つような腹芸が自分にできるとは思えなかった。シルールの観察と判断は、適正なものだと評価できる。
契約の価値はある。わたしはそう判断する。
「……いいでしょう。ナレイジスの当主として貴方に客室を貸し与えます。必ず、騎士レナート殺しの犯人を突き止めなさい」
「仰せのままに」