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ベルナスは、ベルル族の使者を送り届けて無事に戻ってきた。
そのことに、少しだけほっとする。
お父様が一人で交渉に行くという話はすぐに街を駆け巡り、いつの間にか尾ひれがついてベルル族の長と決闘をするのだ、ということになっていた。人々は自身が直接戦わなくてもいい見込みが出てきたからか、安堵と共に奇妙な興奮に包まれているようだった。それについてはファマンとも話し合い、兵たちがそれで元気付けられるのならば無理に否定する必要もない、ということで落ち着いた。
そうして、慌ただしくも夜は更けていった。
歩哨を増員してもしもの時に備え、わたしも床に就く。
お父様の名代として人々を指揮する興奮も冷めやらず、なかなか寝付けなかった。
それでも、やはり身体の疲れは溜まっていたのだろう。
ふと気付けば、窓からは朝日が覗いていた。
シルールが消えた。
あの吟遊詩人が、泊まっていたグルトの宿から姿を消した。
そんな知らせを聞いたのは、お父様と共に朝食を囲んでいた時のことだった。
「え?」
思わず、声が出る。
「詳しく話せ」
お父様がそう命じると、グルトの使いだという男は落ち着かない様子で喋り出す。
「どうも、昨晩遅くにはいなくなっていたようでして……そのうち戻ってくるだろうと思ってたんですが、朝飯時になっても降りてらっしゃらないから、こりゃおかしいぞと思って、部屋を確認したら、荷物も消えちまってて、いよいよ変だってことで、旦那やあっしら使用人総出でお探ししたんですが、どこにも見当たりませんで、へえ」
要領を得ないが、要は昨晩の内に荷物をまとめて姿を消した、ということか。
そこへ、扉をはね開けるようにしてベルナスが入ってくる。
「レナート様! 聞きましたぞ、何でも吟遊詩人が姿を消したとか?」
難しい顔でうなずくお父様に、ベルナスはどこかうきうきとした声で返す。
「所詮は勇無き下賤の身! いざとなって怖じ気付いたに違いありませぬな!」
その声は、シルールがいなくなったことを喜んでいるようにも思えた。
「……何か用があって来たのではないのか」
「はっ! このベルナス、かの臆病者に代わってレナート様のお供を務めさせて頂きたく!」
ため息交じりのお父様に対し、意気揚々と言い放つベルナス。
お父様は、その言葉をしばし吟味した後に答えを返す。
「……よかろう」
「ありがたき仕合わせ!」
大きくうなずき精悍な笑みを見せるベルナス。
しかしわたしはお父様の答えを意外に感じていた。
「お父様?」
「いずれにせよ、交渉の証人となる者は立てねばならん。通訳も兼ねてシルールに任せるつもりであったが、居ないのならば仕方あるまい。向こうも交渉というからには、ある程度言葉の通じる者を置いているはずだ。……心配するな」
言外の疑問に対し、歯切れ悪くそう答えるお父様。少し気になるが、ベルナスの前で口にするには憚られる内容なのかも知れないと考え直し、それ以上の追及はせずにおく。食後のライプ茶を飲みながら黙考していたお父様は、意を決したようにカップを置くと、腰を上げて机に立てかけてあった剣を腰に帯びる。
「すぐに発つ。準備を済ませよ」
「今すぐにでも出立できます!」
「よかろう」
そう言って戸口へ向かったお父様は、一度だけわたしを振りかえる。
「ではな」
「はい」
そんな、何の味気もないやり取りが。
わたしとお父様の間で交わされた、最後の会話となった。
どれだけの時間が経っただろうか。
そう、長い時間ではない。
まだ昼飯時までは少し時間のある、朝と昼と狭間のような時刻。
そんな、酷く半端な時刻に打ち鳴らされる鐘の音に、わたしはどきりとした。
急いで鐘の鳴らされた方向、街の南門へ向かい、わたしはそれを目にする。
一人で街へ帰還するベルナス。
その、傷だらけの姿。
足元がぐらつきそうになるのを、ぐっとこらえ。
毅然とした外面を維持しつつ、あえてゆっくりと歩を進める。
南門周辺には、不安そうな表情で囁き交わす群衆が集まり始めていた。
ファマンやグルト、トールトはまだ駆けつけていない。
ここで事態を収拾できるのはわたしだけだった。
一つ深呼吸をして、そのまま歩みを進める。
門の内に迎え入れられ、ぐったりと壁に身を預けるベルナスを前に、息を呑む。
戦うということ。その結果が、今わたしの目の前にある。
もし戦になれば、トレヴェントの民、その全員がこうなるのだ。
いや、まだベルナスのように剣を手に取って戦える者はいい。
女子供に老人のようなか弱き者たちは、味方の勝利を祈ることしかできはしない。
そっと、首を振って意識を切り替える。
今は、そのようなことに思いを馳せている場合ではない。
何から聞くべきかと考え、結局は最初に思い浮かんだ問いを口にする。
「レナートはどうなりましたか?」
その声でようやくわたしに気付いて顔を上げたベルナス。
彼は酷く驚いたような顔を見せた後、顔を伏せて答える。
「レナート様は、名誉ある戦死を遂げられた」
歯を、食い縛る。
予想していなかったわけではない。
彼が一人で、しかも血に塗れて帰った時点で分かっていた。
それでも、お父様の死という事実は、どうしようもなくわたしを揺らがせた。
「メルティナ様……」
気付けば、すぐ側にトールトの姿があった。
顔を上げれば、ファマンとグルトの顔も見える。
「お父様が……レナートが死んだそうです。……詳しい状況を」
誰もが衝撃を受けて黙り込む中、ベルナスは語り始めた。
「私とレナート様が、昨日使者殿と分かれた辺りまで差し掛かった時のことだ。当然、奴らが、ベルル族どもが襲い掛かってきた。我らは必至で応戦したものの、多勢に無勢、最初は背中合わせで戦っていたのがいつの間にか分断されてしまったのだ。
「それでも必死で剣を振るい、もはやここまでかと覚悟を決めたその時のことだった。レナート様は鬨の声を上げられ、それから私に逃げるよう命じられた。驚いた私がそちらを見ると、レナート様は身体のあちこちに剣を受けながらも、幾人ものベルル族を斬り伏せておられた。
「私は言った。敵に背を向け逃げるなど騎士の恥。私は貴方をお守りしてここで死ぬと。しかしレナート様は再びきつく申し付けられたのだ。私の死に様を街へ伝え、ベルル族の攻撃に備えよ。こやつらは信義を持たぬ魔物であり、もはや交渉の余地はない、と。
「レナート様の剣の冴えは凄まじかった。ベルル族は誰もまともに近づくことはできずにいた。しかし、卑劣なるベルル族の一人が隠れて近づいていることに、私もレナート様も気付けなかった。敵が木陰から飛び出し、私が声をかけた時にはもう手遅れだった。槌で頭を強かに殴られたレナート様はその場に崩れ落ち、群がるベルル族によって惨たらしく殺されてしまったのだ。
「情けないことに、ベルル族の注意がレナート様に向いた隙に逃げ出すことしか私にはできなかった。とりわけメルティナにはなんと詫びればよいのか……この期に及んでは、自死すら生温い。私は、生き恥をさらしてでもレナート様の仇を討たねばならない。皆も、これまで以上に警戒を厳にし、奴らの襲来に備えて欲しい。きっと、奴らはすぐにでも襲って、くるはずだ。
そこまで喋ったところで咳き込み、がくりと首を落とすベルナス。
「おい、水と包帯だ! 薬も持ってこい!」
ファマンが叫び、男たちが慌てて走り去る。その場に残った者も、ベルナスの鎧を脱がせたり椅子をもってきて座らせたりと、何かから逃げるように目の前の仕事に没頭し始める、そんな光景を見つめながら、わたしは、驚くほど正常に思考できる自分を見い出していた。
わたしは、この場で何を言い、何をすべきか。
すう、と息を吸い、諸々の感情を乗せてゆっくりと吐き出す。
「ベルナス」
呼びかけに反応して上げられたベルナスの顔は、引きつっていた。
お父様を見殺しにして帰って来たのだから、それも当然かも知れない。
わたしは、威圧的になり過ぎないよう、かといって冷たくも聞こえないように言う。
「感謝します」
その言葉に、不思議そうな、それでいてほっとしたような表情を浮かべるベルナス。
「お父様が立派な最期を迎えられたこと、しかと聞き届けました。わたしも娘として胸が張り裂けそうな想いで一杯ですが、今は悲嘆に暮れている場合ではありません。貴方だけでも生きて帰ってこれたことを神に感謝し、戦いに備えることといたしましょう」
言うべき言葉は、自然と口から紡がれていた。
口元には、普段から民と接するときに浮かべる笑みを。
ベルナスは、しかしその笑みを見て、顔を伏せてしまう。
その一瞬に見えた彼の表情は、疲れのためか強張っているように見えた。
「……っ、すみません。疲れて……いるようです」
「ゆっくり休んで下さい。……グルト!」
「は……はい!」
「貴方の宿を、負傷者たちの治療所として借りたいのですがよろしいですか?」
「……分かりました。提供いたしましょう」
強い意志を込めて、あえて他人の名を呼び捨てる。
取り繕った外面の下で、心臓はどきどきと脈打っていた。
お父様は死んだ。もう、ナレイジス家の血を継ぐのはわたしだけ。
だからわたしは、この場において誰かの風下に立つわけには行かなかった。
もしここでベルナスやグルト、ファマンといった街の実力者に頼る姿を見せてしまえば、それを後からひっくり返すのは難しいからだ。そんな思考がどこから出てくるのか、自分でも分からないが、それが正しいことはおそらく間違いない。今は、自分の思考と判断を信じて行動するだけ。そう、自分を律する。
後は黙って、事態を見守る。
お父様が、普段そうしていたように。
そうすれば、何か違うものが見えるのでは、と思った。
しかし、それで分かったのは、何も変わらないということだった。
何も変わらず、何も分からない。判断の材料なんてない。
それでも、判断をせねばならない。
お父様は、そうしてきたのだから。
わたしも、やらなければ。
その想いだけが、わたしを支えてくれる。
そんな気がした。
「……様。メルティナお嬢様!」
誰もが遠慮して私に声をかけずにいる中、思考に沈むわたしに声をかけたのは、トールトだった。
「……ああ。トールト。いつからそこに?」
「……話は聞きました。屋敷に戻ってお休みください」
「何を言いますか。わたしには、やることが……」
「ぼうっと立っていらっしゃることが、ですか?」
そんな言葉に、思わず首を傾げる。
「え? ……わたし」
「お声かけしても、気付かぬご様子でした。お嬢様には、休息が必要です」
そうなのだろうか、と思う。
考え事をしていただけで、ぼうっとしていたつもりはない。
だからまだ大丈夫と、そう口にしようとして。
「お嬢様!」
トールトの慌てるような声だけが、耳に残った。