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 戦はしない。

 お父様のその言葉への、その場に居合わせた者たちの反応は様々だった。

 あからさまに怒気を露わにする者、困惑する者、そしてどこか面白がるような表情を見せる者。

 わたし自身、驚きつつも興味をそそられていた。


 いかに戦い、いかに勝つか、ではなく。

 戦わない、という選択肢。

 そう、戦わないで済むのなら、それに越したことはない。

 それはわたしの中にはなかった発想であり、もちろんこの街の誰一人としてそんな発想に至った者はいなかっただろう――ただ一人、お父様を除いては。それくらいに意外な発言であり、だからこそわたしは胸の高鳴りを押さえられなかった。

 お父様は、何を言わんとしているのか。

 本当に、戦をせずに事を収められるのだろうか。

 できるのだとすれば、一体どうやって。

 疑問は尽きることがなく、思考は一度転がり出したら留まるところを知らない。発想は浮かんでは消え、様々な可能性が頭の中で交錯する。お父様の言葉は、いつもわたしの光明となって今まで見えていなかったものを照らしてくれる。そのことに、ただ胸がどきどきするのを感じる。


 しかし、そうは考えない者ももちろんいる。

「戦わずしてどうするのですか! 騎士レナートともあろうお方がなんと気弱な!」

「……レナートよ、あんたがそんな腰抜けだとは思わなかったな。ただでさえ収穫前を荒らされて気が立ってるところなんだ。そんな台詞を聞かせようもんなら、うちのもんはベルル族の前にまずあんたを襲うぜ」

 ベルナス、そしてファマンだ。


「私を脅すのか?」

 侮辱に近い言葉を吐いたベルナスは一瞥しただけで、皮肉気にファマンに問いかけるお父様。ほぼ無視するに近い扱いに対し、ベルナスが紅潮した顔に青筋を立てるのが見て取れた。一方でファマンは、先ほどとは一転して淡々とした態度で返す。

「俺は事実を言ったまでだ。どのみち、まだ収穫の済んでないライプを滅茶苦茶にされちまったら最後、俺たちは冬を越すのも難しくなっちまう。今戦って死ぬか、じりじりと干上がって死ぬかなら、戦って死ぬ方がいくらかマシってだけのことよ」

 戦をしないならどうする気だ、とファマンの眼は問うていた。


 それでようやく、先ほどのファマンの態度はお父様が臆病風に吹かれたのかどうかを試すものだったのだとわたしは気付く。しかしお父様の態度に、怒りを露わにするファマンを恐れる風は微塵もなかった。きっとファマンの意図が分かっていて、そうしているのだ。

 言うなれば、非常時に際して正常な判断力をお互いが持ち合わせていることの確認。

 追い込まれてそうするのではなく、自ら選び取るのだという意志。

 公平で冷徹。これが指導者の器なのだと感じ取る。


「戦はしない。正面から戦えば我々は負けるからだ」

 なればこそ、レナートの再びの言葉を、ファマンはもう遮ろうとはしなかった。

 そしてその場でただ一人、ベルナスだけが状況を飲み込めずに変節漢を見る眼でファマンを見ていた。その様子を見て、心の中で嘆息する。彼は確かに剣の腕は立つし騎士としての見栄えも立派だ。しかしこの非常時に際して自分しか見えていないようではどうしようもない。お父様も、今はもう憐れむような眼を送るだけだった。


「しかし戦をしなくとも良い方法がないわけでもない。その糸口を握るのが、彼だ」

 お父様は誰とは言わなかったが、皆の視線は自然と吟遊詩人に集まる。それを受け、にこりと微笑んで優雅なお辞儀を返す吟遊詩人。その姿は堂に入ったもので、人の注目を集め慣れている者に特有のものだった。


「彼の名はシルール。皆もシルバスのことは――我らの冬にひと時の安らぎと興奮を供してくれるあの老吟遊詩人のことは――覚えておろう。彼は、老シルバスの弟子なのだそうだ」

「では、もしや……」

 恐る恐る、と言った感じで口を開いたのはグルトだ。そのことで、シルバス老が毎年冬の訪れとともにこの街を訪れ、彼の酒場宿に腰を据えていたことを思い出す。もしシルバスが亡くなるか、あるいは生きていても街から街へ歌い歩くことは難しい身体になったのだとすれば、グルトとしてはその技と詩を受け継ぐシルールに来て欲しい、というところか。

 こんなときにも商売を忘れないそのたくましさに、少しだけ感心する。

「老シルバスは死病に倒れたと聞いている」

 お父様は端的に告げ、そうだな、と視線をシルールへ向けた。


「師は――」

 そうして、吟遊詩人はようやく口を開く。

「――病に倒れる数日前、僕に告げました」

 まるで、最も効果的なときを狙い澄ましていたかのように。

「ヴェルルが目覚め、影森から襲い来る。炎上するトレヴェントを夢に見たのだ、と師は言いました。ゆえに、大恩ある騎士レナートへそのことを告げ、我らの知る限りのことを歌と転じてお伝えせよと。僕は、そのためにこの地へと参ったのです」

 歌うように、奏でるように。

 吟遊詩人――シルールは言う。

「しかしヴェルルの動きは師の予想をはるかに超えて素早かった。僕がこの街に着き、レナート様に謁見を願った直後、ヴェルルはこの街を取り囲んでしまった。これではもう、逃げることも助けを呼ぶことも適わない。これは僕が責めを負うべきことであり、皆さまにはお詫びのしようもございません」

 哀歌を歌うような悲しく苦しげな口上は、どこか楽器の調律を思わせ。

「なればこそ、僕は知る限りの全てを皆様にお伝えせねばなりませぬ。我ら一族に伝わる一つの伝承――影森に住まうものの詩にございます。……僕に、この場を借りて詩うことをお許しいただけますか?」

 静かにうなずくお父様。詩人は、少しだけ目を伏せて礼に代える。


 それからシルールは、背負っていたものを床に降ろした。

 シルールが背に負っていた大きな革袋、その中から取り出された竪琴は弓を思わせるしなやかな曲線を持った逸品であり、その頂点を飾る王冠の彫刻は誰の眼にも覚えのあるシルバス老の竪琴で間違いなかった。失礼します、と告げたシルールは壁際に置かれた腰掛けに音もなくかけ、静かに構える。その瞬間、詩人の眼はその場にはない何かを捉えているかのように思われた。


 美しい、とわたしは思う。

 その様子に、誰もが目を奪われていた。

 詩は、穏やかな旋律と特徴的な高い声によって始められた。




 此度お聴かせするは恐ろしくも悲しき、古くも新しき話。

 知らんと欲するならば、影森の深奥に潜みし黒影を見よ。

 そは人型を持ちて人に非ざりし者、影森に住まいし一族。

 名はヴェルル、その者どもの言葉にて光と影を表すなり。


 我が声を聞く者よ、彼らを恐れよ、彼らを称えよ。

 汝らもまた影森の恵みを受けて生きる者なれば、彼らを嘲り侮るなかれ。

 彼ら幼子の一人に至るまで勇猛なる戦士にして影森の賢者であるゆえに。

 影森を穢しヴェルルの誇りを貶めんとする者、決して許さじ。


 影森の西の果て、トレナートに抱かれる小さき街にて事は起こる。

 人の幼子は森に迷いて心優しきヴェルルと出会う。

 ヴェルルは幼子を哀れに思いて人里へと連れ戻る。

 げに悲しきは、自らと異なる姿の者を受け入れられぬ人の矮小さよ。


 人々は心優しきヴェルルを罵り、ついには囲みて打ち殺しぬ。

 ヴェルルは黒き影の剣を手に取りて戦うも、背より打たれ倒るる。

 血塗れ呪いて曰く、御身らの所業は獣に劣るる、汝ら滅ぶべしと。

 騎士レオハート人々を制するも、時すでに遅くヴェルルは息絶える。


 レオハート、焼き払うべしと叫ぶ人々を押し留めヴェルルを埋葬す。

 騎士はヴェルルの黒き刃を持ちて、影森へ一人分け入らんとす。

 人々は騎士を止めること能わず、さりとて追う勇気もなし。

 再び騎士が影森より戻ることはなく、ヴェルルもまた影森より現れず。


 汝、許しを請わんと欲するならば、強く賢くあるべし。

 ヴェルルは強きを尊び、賢きを欲するがゆえに。

 強く賢き者よ、我と思わなば汝の血を捧げよ。

 さすれば汝の血脈は時代へと受け継がれ、更なる力と賢さを得るだろう。




 いつの間にか詩が終わっていて、シルールがすでに革袋の中に竪琴を収めかけていることに気付き、はっとなる。

 さほど長い詩ではないし、さして優れた詩であるとも思えない。

 捉えどころのない、不思議な詩、という印象だった。

 同時に、なぜかわからないが心に残る詩だった。

 その理由の一端は、彼が「ヴェルル」と呼ぶ声に、わたしたちが憎しみと怖れを込めて「ベルル」と呼ぶときとは違う、哀切な思いが込められているからだとわたしは気付く。彼は、今まさにわたしたちへ刃を向ける彼らに対して、何か特別な感情を抱いているようにすら感じられて、わたしはそれを酷く不思議に思う。


 聞き終えた皆が黙りこくる中、最初に口を開いたのはベルナスだった。

「正直に申し上げれば……」

 彼はひょいと肩をすくめ、続ける。

「よくある英雄譚としか思えませんな。話の内容も、実際にあったのかどうかは怪しいものです。とてもではないが、戦の参考になるとは思えませぬな」

「…………」

 何を言うのかと思えば。

 あっけに取られ、言葉もなかった。

 彼は、話を聴いていたのか。

 この分では、その一言によって彼以外の全員の間で彼の発言は無視しようという空気が醸成されたことにも気付いていないだろう。ここはわたしたち指導者がいかにして民への責任を果たすのかを話し合う場であり、彼の自尊心を満たすための場ではないのだ。

 お父様は、大きくため息をついて、言葉を継いだ。


「……先の話に出てきた騎士レオハート。これは私の祖父の名であり、さらに言えば我がナレイジス家の伝承にも似たような話が残っている。ゆえに、シルールの話はまず真実だと見て間違いないであろう。つまり、その街で最も強く賢い者が血を捧げれば、街は救われる」


 言外にベルナスの言葉を切って捨てるお父様。

 そしてお父様はそこで一度だけ視線を切って、わたしを見る。

 その視線は酷く意味ありげで。お父様が次に何を言うかを、わたしはその瞬間に理解した。


「お父様!」

 考える前に、叫んでいた。

「なんだ、メルティナ」

 続けようと思った言葉は言葉にならず。

 言い淀んでいる内に、熱は冷めてしまう。

「お父様は……ご自分の血を捧げるつもりでいらっしゃるのですね?」


 こんな言い方しかできない自分が悔しかった。

 もっと感情のままに叫ぶことができればどんなに楽だったか。

 しかし、お父様の娘として何が一番正しいのかが理解できてしまった。

 詩の意味する内容は不明確だし、今はそれをじっくり読み解いている時間もない。それでも、民の安寧を第一に考えるのならばこの詩に懸けるのが最善の選択肢であることが、お父様の娘であるわたしには理解できた。

 勝てるかどうかも分からず、勝てたとしても失うものの大きい全面的な戦か、騎士レナートによる個人的な交渉もしくは決闘か。お父様の弛まなき鍛錬と高い見識を最も側近くで見てきたわたしであればこそ、どちらを選ぶべきかなど明白だった。唇を噛み、せめてうつむくことだけはするまいと視線は上げて、お父様の言葉を待つ。


「その通りだ、メルティナよ。しかし私とて無為に死ぬつもりはない」

「……はい。お父様は、この街に必要とされています。ですから……」


 シルールの話を聞く限りでは、曾祖父レオハートは帰ってこなかったのだという。

 それなのに、今回は都合よく生きて帰ってこれるなど、誰に保証できるだろうか。

 お父様は、わたしがそれ以上何も言わないのを見ると、皆に向き直る。

「交渉には私一人で赴く。皆にはファマン、トールトの指示を受けて街の防御を固めてもらう。グルト、お前たち街方の民兵にはその補助についてもらう。よいな?」

 端的な指示に、それぞれがうなずく。


 そんな中、ただ一人、ベルナスだけが不満げな声を上げる。

「お待ち下さい! 言葉も通じぬ野蛮な者ども相手に一人でなどと危険過ぎます! せめてこのベルナスめににお供することを命じて下さい!」

「ならん。これは決定だ」

「ですが!」

 なおも言いすがろうとするベルナスを、お父様が一喝する。

「くどい! ベルナスよ、お前には民兵の訓練を命じる。街方の職人を中心にクロスボウの扱いに習熟させておくのだ。……これが万が一に備えた重要な仕事であることはお前にも理解できよう」

「くっ……承知、いたしました」

 不承不承、といった体でうなずくベルナス。

「決まりだ。出発は明日早朝とする。無駄な動揺を防ぐため、くれぐれも口外せぬよう」

 そんなお父様の念押しにそれぞれうなずき、それで会議は終わりとなる。



 慌ただしく退出するファマン、グルトにベルナスが続き、気付けばシルールの姿も消えていた。いつの間にか、執務室にはお父様とわたしだけが残されている。そこで、はたと気付く。

 わたしは、これから何をすればいいのだろうか。

「お父様」

 声をかけて、気付く。

 肘をついてこめかみを押さえるその横顔が、酷く疲れていることに。

 そのことに動揺して、つい本当に聞きたいこととは別のことを口にしてしまう。

「……お父様。ベルナス様に随行を許してもよかったのではありませんか?」

 しかし口にしてみると、それは案外、今聞いておくべき重要な事柄であるようにも思えた。お父様は、目の付け所はいい、という表情でわたしの言葉にふっと口元を緩める。

「なぜそう思った?」

「彼はお父様の指示に不満がある様子でした。ファマンやトールトと離しておくと、余計な火種となる可能性があります。勝手に動かれれば、交渉どころではなくなってしまうのでは……?」

 考えながら、喋る。喋っている内に、いかにもあり得そうなことだと思えてくる。

 しかしお父様は、あっさりと首を横に振る。

「あれにそこまでの度胸はない。それに、親友からの預かりものを死なすわけにもいかぬ」

「ベルニエール様のことですね。わたしも、一目お会いしたかった」

 若き日のお父様の親友であったベルニエールは、異教の地で命を落としたのだという。その息子ベルナスは、トレヴェントのレナートに会えという遺言に従ってこの地を訪れた。一年ほど前のことだ。そのことを思い出したのか、少し遠い目になってお父様は言う。


「騎士として完璧な男だった。完璧であり過ぎたがため、そのまま神に殉じて逝った男だった。あれを正しく導いてやれなかったところを見ると父としては失格だったらしいが……その意味では、私も同罪かも知れんな。あれのことを思うと、天国で奴に合わせる顔がない」

「お父様は立派にやっていらっしゃいます!」

 反射的に、叫んでいた。

 それを聞いて丸くなったお父様の眼には優しげな光が点り、わたしは酷く子供っぽいことを言ったという後悔に襲われる。

「お前は立派に育った。だがそれはお前自身の資質によるところが大きい。私はそう思っているよ。……そうだな、ナレイジスの次期当主として、お前には伝えておいてもよいかも知れんな」

 あっさりとした決断の言葉。

 しかしそれに続く言葉がとても重要なものだろうとわたしは直感する。

 そのときだった。


 押し開けられる扉。

 息せき切って入ってきたトールトは、こう言った。

「ベルルが街に侵入して参りました! 広場まですぐにお越しを!」

 言葉は、頭と心へゆっくりと浸透していく。

 跳ね上がるように席を立ったお父様と、踵を返すトールト。

 少しだけ遅れてその後を追う自分自身を、どこか遠くから眺めるような感覚があった。

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