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「お嬢様。差し出がましいようですが、このトールト一言申し上げたいことがございます」
家に向かう道すがら、トールトがやや声を潜める。
彼の場合は、潜めてようやく常人並みなのだけど。
そして、その内容は聞かなくても大体想像がつく。
それがあまり愉快な内容でないことも。
だから、あえてすました顔で聞き返してやる。
「なにかしら」
「栄えあるナレイジス家の後継ぎたるお嬢様ならば言わずとも分かりましょう」
分別めいた表情でうんうんとうなずくトールト。
その言い方が気に食わなくて、思わずそっぽを向いてしまう。
「そう、なら言わなくてもいいわ」
気のない返事に、トールトがまなじりを釣り上げる気配が伝わってくる。
「そういう話ではありませぬ! 本当に分かっておられるのですか!」
これ以上トールトを怒らせてもろくなことにならない。
こらえきれずにため息をつき、それに対しての小言が始まる前に口を開く。
「分かっています。ベルル族の包囲で民は怯え、兵たちは浮き足立っている。今はまだお父様の存在が不安を押さえているけれど、恐怖がそれを上回るようになればどうなるか分からない。今はまだ静かに街を囲んでいるだけだけど、ベルル族の身体能力なら街壁なんて容易に超えてくるでしょうね」
言っていて恐ろしくなってくるような内容だが、事実なのだから仕方がない。
外壁は高さよりも分厚さと頑丈さを追求したもので、俗に「帝国の遺産」と呼ばれるものの一つだった。遥か昔に滅びたというその帝国は、敵地に攻め込んでは一夜にして街を造り上げ、ベルル族のような者たちを影森の奥深くへ追いやったのだという。
さすがに一夜にして街を造り上げたというのは作り話だろうが、このトレヴェントの街が旧帝国が建設した都市の遺構を利用して造られたものだというのは事実だった。そんなわけで、トレヴェントは通常の街よりも防衛能力に優れている――というのも今は昔の話。人口の増加に伴って街壁の外まで溢れだしていた家屋を守る術はなく、父レナートは苦渋の決断をした。
すなわち、街壁の外にある家屋に火を放ったのだ。
その目的は、屋根伝いに壁を越えてくる敵を未然に防ぐことと、敵に食料や居住空間を与えないことの二つだ。これについては反対も多いと予想されたが、お父様は再考を促す意見を一蹴。防衛のためには必要不可欠としてこれを断行した。もちろん、住処を失ったものに仮の寝床と食料を宛がうことも忘れてはいない。
そして、わたしの言葉から現状を正しく認識していることを察したらしいトールトは、微妙に語調を変えて諭すように言う。
「ならば、この街の防衛の責任者たるお父上の一人娘であるお嬢様が護衛も付けずに歩き回られることの意味がご理解いただけますな? ……お父上も、お嬢様のことを心配していらっしゃるのですよ」
付け加えるように言った言葉は、きっとトールトの気遣いだ。
お父様は、このようなときに身内をひいきしたりはしない方だから。
しかし、言葉は彼がわたしを心配してくれていることを痛いほど伝えてくれた。
それでも。
「それでも、よ」
「む……何が、ですかな?」
「わたしが街の一番奥に引きこもってたら、民の誤解を生み、かえって不安を煽るでしょう?」
トールトは、これで頭が回る。
わたしの言いたいことを、それだけで察したらしい。
つまりは、疑心暗鬼を生ず、ということ。わたしたちが率先して事に当たる姿を見せることで、疑り深く抜け目ない連中の下種な勘繰り――レナートは民のことなど犠牲にしても構わないと思っているのではないか、富裕な自分たちは街の奥の方で安全を確保し、貧しい我らをベルル族に対しての盾として使おうとしているのではないか、街壁の外にある建物を焼打ちしたのがいい証拠だ――などという誹謗中傷を未然に防ぐことができるはずなのだ。
かと言って、お父様に軽々しくこんなところまで出張ってきてもらうのも困る。街の重鎮である騎士レナートは、あくまで切り札でいてもらわねばならない。人は慣れる生き物であり、常にそこに存在するものへのありがたみは薄れていく。心の臓が正しく動いていることに誰も感謝しないように、ナレイジス家の庇護を当たり前のものとするようになった民はどんどん要求を肥大化させていく。今回の件にしたって、事が終わった後で焼き払われた家屋の弁償をナレイジス家が求められないとも限らないのだ。
切り札には切りどきというものがあり、今はそのときではない。
なら、誰が動くべきか。
レナートに男子がいたのならその者が行うべき任だが、あいにく子供はわたし一人。
であれば、女だからと怯んではいられない。それなりに回る頭と外見の見栄え良さも武器になることをわたしは知っている。ナレイジス家のメルティナとして今できること、それはお父様に代わってわたしが前線を見て回ることだ。それは誰かがやらねばならないことであり、そして自分以上にその任に適した人間は他にいないという自負がある。褒められこそしないまでも、決して間違ったことをやったという認識はなかった。
ただ、心配をかけたのなら申し訳なかったと、そう思うだけ。
「む……お嬢様のお考えは分かりました。ですが……」
「分かっています。出歩くときは必ず誰かを側につけます」
「そうしてくだされ」
そんな会話が交わされ、後は黙って家へと向かった。
そう広い街ではないから、五分もあれば着いてしまう。
「お父上は執務室でお待ちです」
トールトはそう言い残すと立ち去ってしまう。居間から続くお父様の執務室は、娘であるわたしでも多少の緊張を強いられる場所だった。一つ深呼吸をしてから扉の前に立つと、中からは複数の人間が話している気配が伝わってくる。
「入ります」
声をかけて扉を引き開ける。
すると、中にいた人々の注目がわたしに集まる。気圧されそうになるが、ここが我慢のしどころだ。視線を高く保ち、穏やかでありながら真剣な表情を形作ることを意識。優雅で無駄のない足運びで重厚な彫卓を回り込み、部屋の最奥で腰掛けるお父様の斜め後ろの位置へ陣取る。
「申し訳ありません、遅くなりました」
「構わん。……続けよ」
父レナートの、端的な返事と居並ぶ人々への命令。それを受けて喋り始める小太りの男の声を聞きながら、集まった面々の顔を順に見渡していく。
その場には、わたしとお父様を除いて全部で四人の人間がいた。一番右端に立つのは、今喋っている脂ぎった小太りの男――グルトだ。彼は酒場を兼ねた宿屋を経営し、街の商人や職人連中のまとめ役や調整役のようなこともしている。そしてその反対側、左の端にはライプ農家の元締めファマンの姿も見える。こちらは、この街の主産物であるライプ果実酒の材料であるライプの生産に加え、醸造から樽詰めまでを一手に引き受けるファマン農場の主であり、ライプを生産する農家たちの取りまとめ役となっている。
お父様はこの街の統治者ではあるが、だからと言って物事を好き勝手に決められるわけではない。この二人は、街の人間の代表としてレナートに意見し、レナートはそれを踏まえて最終的な決断を下し方針を示す。それがこの街における統治の在り様だった。
この二人が集まっているということは、つまりこれから話し合われる内容は目下最大の懸念事項であるベルル族の襲来への対処に違いなかった。その予想は、グルトが取り出したものによって確信へと変わる。
「我ら『街方』の誓約状をここに持ってきた。私以下五十五名の男が民兵として加勢する」
誓約状。
ナレイジス家による盗賊や無法者からの庇護の対価として、徴税権を認め、非常時には民兵として戦力を供出することを誓ったものだ。この街で商売したり職人仕事を行う者は皆、この誓約状に名を連ねる決まりとなっている。今回のベルル族襲来はもちろん非常時に当たるから、グルトたち戦える男は己の家族と財産を守るために武器を取って戦わねばならないのだ。
そうと知ってよく見れば、誓約状を持つグルトの手が震えていることにわたしは気付く。それも無理はない。彼が生まれ故郷であるこの街に戻って宿屋を開いてから二十年、今年で十五歳になるわたしが生まれるより前から、この街は大きな戦いを経験していない。当然、グルトが実戦に出るのはこれが初めてとなる。兵士でもない彼に戦う気構えを持てというのは、正直難しいと思う。
それでも、今は一人でも人手が欲しい時だった。
そして、街方――つまり街壁の内で仕事をする者に民兵供出の命令が下ったのなら、ライプ農家の共同体を形作るファマンにも同様の命令が出ているはず。そう思ってファマンの方へ目を向けたところで、意外な人物が口を開く。
「お待ち下さい、レナート様」
銀彫の施された胸当てを誇らしげに誇示する、若き騎士ベルナスだった。
「なんだ」
割って入られて微妙に不機嫌そうなお父様の口調には気付かぬ様子で、わたしの方へ意味ありげな視線を投げるベルナス。その気取った態度は少し鼻につくものの、自信満々な口調と相まって頼れる騎士と見えなくもない。実際、街の娘たちの中にベルナスに思いを寄せる者は少なくなかった。
「これから話し合われるのは戦に関してでございましょう。であれば……メルティナ様にはふさわしくない内容になるかと思われます。それに、この者は……」
今度は、自らの隣に立つ四人目の人物――吟遊詩人風の者へと視線を投げる。そして続ける。
「旅の詩歌い? にございますか。なぜここにいるかは存じませんが、この場にはふさわしくないかと。なんとなれば、所詮は旅の者です。このような時に都合よく来訪するなどずいぶん都合が良い。もしや外の魔物どもと通じておるのやも。念には念を入れ、軍議の場からは外すことを進言いたします」
歯をむき出して威嚇するように吟遊詩人を睨むベルナス。
投げつけた視線、そして言葉。そこには明らかに悪意がこもっていた。
父の後ろでそれを聴きながら、その内容を改めて吟味していく。
確かに、彼の発言の内容そのものは理解できないでもない。
街から街へと渡り歩く吟遊詩人は常によそ者扱いを受けるが、長い冬の無聊を癒すために街への逗留自体は簡単に許される。それを利用して、盗賊の手先が吟遊詩人に成り済まして仲間を招き入れることもあるのだという話を聞いたことがある。
つまり、この吟遊詩人が実はベルル族の手先であり、奴らを街へ招き入れる機会を虎視眈々と狙っているのだ、という推測は一応成り立つ。そして、そう考えればなぜベルル族がすぐに攻め入ってこないのかという疑問も氷解する。いくら人から外れた存在と言えども、群れを成して街を囲むその様子からは明らかに知性が感じ取れる。ならば、被害を抑えるために策を弄したって別におかしくはない。
しかし、この吟遊詩人が疑わしいかと言うと――わたしには、そうは思えなかった。
なぜなら、吟遊詩人がこの場にいること、それ自体がその人物を保証するからだ。
そもそも、この場にいる人間は全員お父様が集めた人間である。ベルナスが指摘する以前に、お父様がこのような場に怪しげな者を同席させるはずがないから、ここにいるということはお父様がその人間に一定の信頼を置き、今後の対策を練る上で必要な人材だと判断したということを意味する。だからこそわたしはここにいるのであり、それは吟遊詩人も例外ではない。
吟遊詩人は何らかの理由で騎士レナートの信頼を勝ち得て、かつベルル族に対する上で有効となる何らかの知識を持っているに違いない。あるいは、以前よりお父様と知己を得ていたのかも知れない。
土地に根付かない流れ者を蔑視する傾向は多くの騎士や街の人間に共通するもので、ベルナスは特にその傾向が強いことは周知の事実。そんな言葉を、お父様が受け入れるはずもない。
当然と言うべきか、返答はにべもないものとなる。
「……ベルナスよ」
沈思していたお父様が口を開く。
それだけで、場の空気が張り詰めた。
「黙るか、それともここから出てゆくか、だ。選べ」
「……は」
言葉を失うベルナス。
よほどの迫力だったのだろう、隣に立つグルトまでひきつった顔になっている。
わたしとしてもベルナスを擁護してやりたい気持ちはあったが、できなかったぐらいだ。
だからこそ、だろう。
同じくベルナスの隣に立つ吟遊詩人の涼やかな佇まいは、酷く浮いて見えた。
女性のように整った顔つきと、白い肌。艶やかな黒髪と澄んだ灰色の瞳は、なにかこの世にないものを見つめているような透明さと、真冬の雪原のように余分なものが削ぎ落とされた印象を見る者に与える。吟遊詩人はこれまでにも何人か見たことがあるが、彼らは総じて賑やかな色男という印象であるのに対し、この吟遊詩人はそれとは正反対の、言うなれば武人に近い雰囲気を身にまとっているように思えた。
思えば、吟遊詩人はベルナスによる悪口もまるで意に介さない様子だった。騎士にあからさまな敵意を向けられてもまるで動じることのない胆力は並のものではない。それだけでも、きっとお父様に気に入られるには十分だったはず。
ふう、と不機嫌そうにため息をつくお父様。
おそらくは、演技だ。相手を威圧する術もまた、交渉術の一つ。
わたしには使えない手かも知れないが、それでも学べとその背は語っているように思う。
「話を戻そう。……ファマン」
水を向けられたファマンが、その武骨な手で一枚の書状を取り出す。
こちらは、ライプ農場に関わる人間の誓約状だった。
「我らは民兵八十三を供給する。鎧はともかく、剣槍と弓ならば自前で用意できる」
ファマンの端的な説明にうなずくお父様。
そして、その上で、と前置きしたファマンはぐっと身を乗り出して、問う。
「俺から聞きたいことは一つ。いつ打って出るのか?」
体格だけならばお父様にも勝るファマンの巌のような巨躯、そして人を率いる者に特有の鋭い眼光がこちらを射抜く。もしそれが自分に向けられたものだったら、自分は震え上がらずにいられるだろうかと自問する。
お父様はすぐには答えず、ファマンはそんなお父様を睨み据える。
正直に言えば、難しい問題だった。まず、ファマンがこうした態度を取るのには、彼の気性と言うのには留まらない相応の理由がある。つまり、彼はライプ農家の元締めであり、その収入源たるライプの果樹群は現在、ベルル族によって好き放題に蹂躙されている状況なのだ。またそれぞれの農家は利便性の面から街壁の外に家を持っていた者が多く、そうした者たちは現在、街壁の中にある街方の家や倉庫などに身を寄せている。
ありていに言えば、まだ実質的な被害を受けていない街方よりも逼迫しているのである。となれば、ライプ農家たちの元締めであるファマンの下に何とかしてくれと言う声が集まるのは必然であり、彼としてはそれに応えてベルル族を追い払ってみせねば面子が立たない。
正直に言って、難しい問題である。
下手な返答をすれば、ベルル族と戦う前に街が二分されかねない。
どうするべきか、正直に言ってわたしには分からなかった。
さすがのお父様も、返答に困っているのだろうか。
そう思って、その横顔に視線をやる。
すると、一瞬だけ視線が合う。
その意味を測りかねている内に、お父様は宣言する。
「戦はしない」
ただ一言、騎士レナートはそう告げたのだった。