プロローグ
こつこつと響く足音。
螺旋に伸びる階段は、幅が狭いし角度も急だ。
気を付けないと足を踏み外しそうで、視線はどうしても下へ向いてしまう。
お父様の話によれば、この螺旋階段は敵を防ぐための工夫の一つなのだという。
例えば、右回りの螺旋。これには登ってくる相手が剣を振りにくく、また上から迎え撃つ側にとっては剣が振りやすいという利点があるのだそうだ。階段の急傾斜や幅の狭さも、迎え撃つことを考えているという点では同じだ。何か所かに設けられている踊り場に踏ん張って戦う防御側に対して、攻め上る側は常に足場の悪い場所で戦うことを強いられることになる。
もっとも、ここまで攻め込まれたらどのみち助からないだろう。
心中に去来したそんな思いは、もちろん口にはしない。
悪い予測を口にすれば、悪い結果を呼び寄せることになる。これはお父様の口癖だ。迷信、だとは思うが、これも人の上に立つ者としての作法と見ればそう馬鹿にしたものでもない。誇りあるナレイジス家の一員として、わたしもまた弱音を吐かないようにする癖をつけていた。
頂上の見張り櫓まで階段を上り切り、一息つく。
ここからは街と街の外が一望できる。普段は誰もいない静かな空間なので本を読むのに最適なのだが、今日は先客がいた。もう少し正確に言えば、ここには昨日からずっと二人の兵士が詰めていた。軽鎧に身を包み緊張した様子で街の外を見張る兵の姿を、さすがはナレイジス家の兵だと少しだけ誇りに思う。
わたしは、二人の兵にお疲れさまと労いの言葉を投げる。かけられた声に振り向いた兵士は、わたしを見ると少し驚いた顔になり、先ほどまでとは別種の緊張を内包した声を上げた。
「メ、メルティナ様! このような場所へどうされたのですか?」
前任の兵が見張り中に居眠りをしてお父様の叱責を受けているので、自分たちも何か怒られるのでは、と思ったのだろう。二人して、自分よりもずっと年下のわたしに対して直立不動の態勢になるのが少しおかしくて、くすりと笑ってしまう。
「目が覚めたかしら?」
少し悪戯っぽく言ってやると、兵たちは緊張を解く。
「よくやってくれています。気にしないで、見張りを続けて」
軽く手を振って外を示してやると、兵たちははっとなって監視に戻る。
わたしも、兵士の隣に立って街の外へ目をやった。
街の南端に建つこの見張り櫓からは、この街の特産である果実酒の原料となるライプの果樹林がどこまでも広がっているのが見渡せる。トレナート山を源流とするレナ河に抱かれるこのトレヴェントの街は、平和で豊かで、そして美しい街として旅人には有名だった。
そう、有名「だった」のだ。
それも、つい昨日までは、だ。
今はもう、そうではなくなってしまった。
今なお豊かで美しいこの町だが、決して平和ではない。
その元凶たる影が、ここからも見て取れる。
日光の恵みをよく受けられるよう、適度に間隔を空けて植えられた果樹。
その間を走り回り、よく熟れたライプ果実を乱暴にもぎ取って齧り付く人影をわたしは見る。
人影は、昼間にあってなお黒々とした影として見えた。よく目を凝らせば、その黒さは衣服だけではなく肌の色にも及んでいることが分かる。目の前に掲げた自分の手の白さと比べてみれば、その差は一目瞭然。それは太陽の祝福を受けた我々人間と、地の底にあるという闇の太陽を崇拝する彼らベルル族の違いなのだという。
黒い服に、黒い肌。
それは間近で見たらどのような印象を受けるものなのだろう。
目を閉じ、彼らが自分の前に立ったところを思い浮かべてみる。
そのおぞましさを思うと、顔をしかめて身を震わせるしかない。
きっと彼らは、抵抗しない者にも慈悲をかけることはないだろう。
いや、そもそも慈悲などという概念があるのかどうかすら怪しい。
「街を囲んだだけで、もう丸一日。いったい、彼らは何を考えているのでしょう……?」
誰に向けるでもないわたしの呟きに、二人の兵がちらりとこちらを見る。
しばらくしてから口を開いたのは、年嵩の兵だった。
「さて、魔物の考えることは我々人間にはよく分かりませんなぁ」
続いて若い兵も勢い込んで口を開く。
「奴ら、こちらが飢えるのを待ってるんじゃ?」
見張りの任務というのは退屈な仕事だ。きっと喋る相手や話題に飢えていたのだろう二人は、それを皮切りに口々に意見を言い交わし始める。
「いや、ライプの収穫こそ終わっとらんかったが、冬に向けての備蓄はある。街を囲めるだけの数を揃えとるのに襲ってこんのは、奴らにもなんか考えがあるんだろうよ」
「なにかって、なんだよ?」
「さてなぁ。まあ、頭を使うのはわしらの領分じゃないからな」
「なんだ、分かんないのかよ」
「そういうことはな、大旦那様に任せておけばいいのさ」
年嵩の兵がそう言うと、二人の視線がこちらへ向く。彼が言う大旦那様とは、わたしの父であるレナート・ナレイジスのことだ。歴戦の騎士にして街の領主でもあるレナートは、今回のベルル族襲来に際しても迅速な指揮を執り、死者一人と軽傷者数人を出しただけでひとまず防備を固めることに成功している。街の人々から寄せられる信頼は厚く、その一人娘であるわたしがこの非常時においても比較的自由に出歩けるのはそのためだった。
「……ええ、お父様はきっとわたしたちを護って下さいます」
無理にも笑顔を浮かべてわたしが返すと、若い兵は腕を組んで難しい顔をする。
「ふうん……そういうもんなのかね。ま、この街には大旦那様と、それにベルナス様もいるんだ。俺たちは言われたとおりに働いてりゃ、後はお二人が何とかしてくれるってね」
自分で自分を納得させるような若い兵の言葉に、年嵩の兵は深くうなずく。
「うむ、まあそういうこった。わしらはきちんと見張りを続けて、奴らが襲ってくる気配を見せたらお前さんは大旦那様のとこまで走ればええ。びびって走れなくなったりせんよう、よう心構えをして屈伸を欠かすんじゃないぞ。ずっと見張っとると、知らんうちに身体が固まっとることがようあるでな」
「何回も聞いたさ。わかってる」
くどいぐらいに念を押す老兵と、少し嫌そうに答える若い兵。
そのやり取りを流し聞きしながら、わたしは振り返って街へと目を向ける。
人々は昨日の襲撃で街の大門が閉ざされて以降、扉に鍵をかけ鎧戸を締め切って家に籠っていた。普段なら活気ある中央広場も今は閑散として、辛うじて出歩いている者たちもみな、覇気のない顔をしているか、でなければ戦いの予感にどこか浮き足立った様子を見せているかだった。
辻や街壁に沿ってちらほらと見えるナレイジス家の兵たちも不安げな様子を完全に隠せてはおらず、それが街の人々の不安をより一層煽っているようだった。何とかしなければと思いはするものの、具体的にどうすればいいのかは分からない。その歯がゆさに、唇を噛みたくなる。
なにか自分にできる事は。
そう思って街を見下ろすと、そこに見知った顔を見つけた。
相手もこちらを見つけたようで、小走りに見張り櫓の下まで駆けてくると、声を張り上げる。
「メルティナお嬢様ぁ! お父上がお呼びです!」
忠実な老兵にして父の右腕、トールトのだみ声が辺りに響き渡る。戦場で父の下令を部隊全体に伝える役目を仰せつかっていたトールトの大声は、老いてなお衰える兆しを見せない。余りの大声に通行人は皆振り返り、何事かと驚いた付近の住人が窓から顔を出す。
そんな見慣れた光景に、ざわついていた気持ちが少しだけ落ち着くのを感じた。
「わかりました! すぐに降ります!」
叫び返して、踵を返す。
お父様がわたしを呼んでいる。
その内容がなんであれ、この非常時にわざわざトールトを使いにやるくらいだからきっと重要なことなのだ。胸の内に湧き上がる期待と不安をない交ぜにしながら、わたしは急勾配の螺旋階段を一歩一歩下っていった。