4.
魚が現れた時、台所の壁のどれくらいが液状化するのか。それを今までに気にした事はありませんでした。
だから少しの不安はありました。でも幸い壁の水面は、未夜を投棄するのに不自由のない大きさがありました。
床に零れた血は拭き取って、それに使った雑巾も一緒に向こう側へ放り込んであります。これでここで起きた事の痕跡は、綺麗さっぱり消えてなくなった事になります。
一息ついて壁に視線を転じると、魚は見慣れないサイズの生肉に戸惑っているところでした。
警戒するように、確認するように、遠巻きにしながらぐるぐると、未夜だったもののの周囲を旋回遊泳しています。
今まで意識しなかったのですが、向こう側にも重力らしきものは働いているようでした。未夜はどんどん私から遠ざかって沈んでいき、魚もそれに付き従って壁から離れていくのです。
とにかくこれで、万事上手く始末がつきました。警察だってなんだって、壁の中の魚の存在を信じたりはしないでしょう。つまり私を疑おうにも、捕まえようにも、証拠は何一つないのです。
ほっと胸を撫で下ろしかけ、そこで私はまた問題が残っているのに気づきました。
夫です。
夫は口うるさい喧し屋の性分です。未夜がいないとなれば、必ず不審に思って騒ぎ立てるはずでした。
とやかく訊かれたり調べられたりするのはとても面倒です。
どうしたものかと思案して、すぐに思い至ります。
きっと私は動転していたのでしょう。こんな事、いちいち考えるまでもなかったのです。
──要らないものは、全部魚に。
それに夫が、あの男がいなくなれば、全て上手く行くのです。
私は娘を連れて夫に失踪された可哀想な妻になれます。
しばらく悲しみに暮れて見せればその後は、恋人と再婚もできるでしょう。何かの責任を取らされる事も、誰かに責められる事もありません。この家を追い出される事もありませんし、お金の心配もなくなります。
とても素晴らしい未来だと思いました。
私は居間に戻り、テーブルの上に置きっぱなしにしていた携帯電話を手に取りました。
買い物から帰ったら未夜がいない。勝手に連れて行ったのか。
そんなメールを書きました。そうやって詰ってやれば、彼はきっと気になってこの家にやって来るはずです。
ひょっとしたらちょっと用心しているかもしれません。でも殺すまでされるとは考えていないはずです。普通なら人殺しは、リスクが大き過ぎる行為ですから。けれど私には、魚がついているのです。問題は少しもありません。
だから隙を窺って、後ろから一刺しするくらいは訳ないでしょう。
それで死ぬまでいかなくてもいいのです。抵抗できないくらいに弱ってくれればいいのです。壁向こうに入れてしまえば、後は魚がやってくれるはずです。
ああ、これで大丈夫。これで全部上手くいく。もう安心です。
メールを送信すると、私は心の底からの笑顔を浮かべられました。
幸福の内圧はどんどんと高まって、やがて声になって溢れ出ます。気がつけば私は体を二つに折って、自分でも呆れるくらいの大声で笑っていました。
発作のような笑いの衝動が一段落してから、私はゆっくり立ち上がります。
夕暮れはとうに過ぎて、夜の帳が落ちてこようとしていました。カーテン越しに外から入ってくる明かりだけでは、光量が足りなくなってきています。
あの男がいつやって来てもいいように、準備を整えておかねばなりません。一先ず電気を点けようと壁のスイッチに近寄って、私は少し驚きました。
居間の壁が、さざ波立っているのです。
差し入る弱い光に照らされたそこへ、ぐうっと色濃く魚の影が浮かび上がって来るのが見えました。
一日に二度も、しかも台所以外の壁に現れるなんて、これまでにない事です。
けれどその突飛は、私の前途を祝してのものであるような気がしました。
私はじっと、魚の姿に見惚れます。
自分の味方だと思うと、それは美しいだけでなく、ひどく頼もしくも感じられました。
魚は優美な腕を存分に伸ばし、大きな尾びれを揺らめかせ、長い髪を曳きながら、力強く壁の中を泳いでいます。
さっきあげたのはいつもとは違って新鮮で、その上量もたっぷりでした。だからでしょうか。魚の動きには、どこか喜びめいたものがあるように思えます。
ふと湧いた愛おしさを込めて、そっと壁越しに魚を撫でた、その瞬間でした。
ぐうっと壁から魚の腕が突き出して、私の手首を捕まえました。
何の暇もありませんでした。あっという間に私は壁の中へ、向こう側へと引き込まれてしまっていたのです。
壁の中の世界は、まるで透明度の低い水中でした。呼吸ができません。視界がききません。叫ぼうとしたら、代わりにごぼりと、喉から泡が出ました。空気を求めて浮上しようにも、どちらが上でどちらか下か、もうまるで分からないのです。
狼狽した私はただ遮二無二手足をばたつかせ──そして右足に突然、焼けた火箸で突かれたような痛みを覚えました。
見れば大きな影が、魚がそこへ食らいついているのです。両の手で私の脛と爪先とを捕まえて、その中間の足首へ、尖った歯を突き立てているのでした。
ばつん。
そんな音を、確かに私は聞きました。
魚の牙は鋭くて、服も肉も骨も皮も一緒くたに、ひと噛みですっぱりと切り取っていってしまいました。そうして私の足の先端は、魚の口に飲み込まれて消えました。
わっと赤い煙のように、壁の中に私の血が広がります。魚影はそれに紛れて見えなくなります。
悲鳴の代わりに沢山の気泡を吐きながら、私はなくなった足を抑えて丸くなりました。傷口はかーっと燃え上がるように熱くなり、それから猛烈な痛みのシグナルを発し始めました。
ここに空気があったなら、私は身も世もない叫びを上げていたでしょう。これまでに一度も覚えのないような、堪らない激痛でした。
そして当然ながら、それは一度きりでは終わりませんでした。終わってくれませんでした。
次は左手の小指と薬指でした。
気配がやってくるのを感じて、押しのけようと出した指先を食い千切られたのです。すぐ脇を泳ぎ抜けた魚の起こす波に翻弄され、私の体はくるくると回転しました。
その次はお尻でした。
これまでと違って、どれだけ食べられたのかは見えなくてよく分かりません。だからその分怖くて、ただ怖くて、傷を抑える事もできませんでした。
体の中心により近い部位は、その分大きな痛みを訴えます。私は痛みで気を失いかけ、けれどすぐに同じ痛みの所為で、意識を覚醒させられてしまいます。
次の次は右肘でした。
ぞろりと藻のような感触の魚の髪が覆いかかって、思わず振り払った腕を狙われました。
肘の部分だけを噛み裂かれたので、そこから先の部分は、私の体なのに私から離れて、どこかへ漂っていってしまいました。
ばつん。ばつん。ばつん。
音のする度、耐えられない痛みが私を貫きます。
恐怖は絶望で上書きされ、絶望は激痛に上塗りされて、そうして私は少しずつ、少しずつ小さくなっていきます。されていきます。
ばつん。ばつん。ばつん。
ばつん、ばつん、ばつん。
ばつん、ばつん、ばつん、ばつん、ばつんばつんばつんばつんばつんばつん。
私の体はどこもかしこも欠けて、穴だらけで、どこにも無事な場所なんてなくなって。
痛くて痛くて痛くて痛くて、もう狂ってしまうと思ったら突然、全部の痛みがスイッチを切るように消え失せました。
痛覚は生きる為の、危険から逃れる為の不快信号です。つまり今の私には、もうあっても意味のないものなのでした。
こういうのも、不幸中の幸いというのでしょうか。痛みが失せて思考の余裕ができました。
──どうしてどうしてどうしてどうして!
だから私はそればかりを、ただ繰り返して思います。
私のお腹の中身が、釣り糸のようにびろびろと飛び出しています。魚はそれを啄んで、短くしていく作業に夢中です。
どうして私がこんな酷い目に遭うのでしょう。私が何をしたというのでしょうか。
私がこんなふうに食い殺されていくのは、一体誰の所為なのでしょう。夫でしょうか。未夜でしょうか。それとも他の誰かでしょうか。
私の責任でない事だけは確かです。だって私は悪い事など何一つ──。
そこで、気がつきました。
気がついてしまいました。
魚に教えたのは私でした。
この魚に新鮮な肉の味を、人の肉の味を覚えさせたのは私なのでした。
そんな後悔の間に、魚は素早く作業を終わらせていました。
再びすぐ側にまで寄ってきて、両手でしっかり私の頭を、包むように掴みます。
瞳に喜色を表しながら、大きく口を開けました。私の目の前一杯に、牙だらけの口腔が広がりました。