3.
翌日、学校から帰ってくるなり未夜は、奇妙に私にまとわりつきました。
子供ながら、いいえ、子供だからこその鋭敏な感覚で、この家に漂う険悪な空気を察したのでしょう。
私の顔を窺うように見上げながら、スカートの裾を引いて言いました。
「お父さんに謝ろう?」
お父さんと何かあったの、ではありませんでした。
娘は問う事すらしなかったのです。まるで私が一方的に悪いのだと、そう決め込んでいるかのような口ぶりでした。子供に一体何が分かるというのでしょうか。
むっとなった私は、未夜を振り返りもしませんでした。
「お父さんと仲直りしようよ。ねえ、お母さんってば」
すると娘はうるさく、諦めずに私につきまといます。入らないようにと言いつけてある台所までやって来て、繰り返し繰り返し訴えるのです。
あまりに執拗な行為に、とうとう私も腹を立ててしまいました。
「もう、うるさい!」
振り払うと、未夜はやけに大きく、おおげさに仰け反りました。呆気にとられたような、驚いたような、そんな表情のままのあの子の顔が、スローモーションで見えました。
そうしてバランスを崩して転んだ娘は、ごっと床で鈍い音を立てました。日常まず耳にする事のないような、重く嫌な音でした。
それきり、起きてはきませんでした。
「み……や……? ちょっと、未夜!?」
きっと冗談に違いありません。私を困らせようとふざけているだけに決まっています。そう思いたかったのですが、幾度呼んでも応えはありませんでした。
倒れる前と同じ表情を凍らせたまま、目だけが瞬きもせずに見開かれていました。糸の切れた人形のように体を放り出した未夜の、その頭の後ろから、じわじわと赤黒い血が床に広がり始めています。
──どうしよう、どうしよう、どうしよう。
その言葉ばかりが頭を駆け巡ります。
そんなに強く打ち払ったつもりはありませんでした。
殺すつもりなんて少しもありませんでした。
だから悪いのは私ではなく、打ちどころの方なのです。
それに、そうです。私にも少しは悪いところがあるけれど、こんな事が起きた大元の責任はこの子自身にあるのです。そんな危ない転び方をした未夜が、親を怒らせるような真似をした娘が、みんな悪いのです。
だというのに、これではいけません。
このままではきっと、全部私が悪いようにされてしまいます。
顛末を知ればあの夫は、間違いなく勝ち誇った顔をするでしょう。そう思ったら、急に夫の事が面憎くなりました。
彼が卑怯な振る舞いなしに、もっと優しく私の過ちを諭してくれればよかったのです。そうすれば私だって、こんなにも感情的になったりはしなかったはずです。
娘がこうなった理由の一旦は、冷たい夫にだってあるはずなのです。
でも世の中はそう思ってはくれずに、私ばかりを大仰に責め立てる事でしょう。私は少しも悪くないのに。私は全くの被害者で、悪い事なんて何もしていないのに。
一体どうして私ばかりが、こんな目に遭ってしまうのでしょう。
絶望に顔を覆ったその時、優美な水音がしました。
はっと目を上げると、壁にさざ波が立っています。大きな魚影が浮かんで来ています。
そこで私は壁の中の魚の事を思い出しました。
そして私はいつもどうしているかを思い出しました。
そうです。
余り物や残り物、生ゴミにするしかない要らないものは、全部魚にあげてしまえばいいのです。