2.
それが不意に突き崩されたのは、ある夜の事でした。
その日夫は思いつめた顔で帰って来ると、未夜が眠っているのを確かめました。それからいきなり、
「別れよう」
そう切り出したのです。
どうして、と問う言葉は言わせてもらえませんでした。
「小夜子、理由ならお前が一番よく分かっているだろう? 証拠はもう揃っている」
夫は卓上に、数枚の写真を投げ出しました。一瞥して、私は息を呑みました。
そこには私と恋人の逢瀬の様が、克明に撮されていたのです。
「待って、違うの。違うのこれは」
「最初は信じたくなかった。だから興信所に頼んだ。こんな結果で残念だ」
またしても私の言葉は遮られました。
そうです。
確かに私は、夫以外の男性と関係を持っていました。
「好き」の反対が「無関心」なら、「愛」の反対は「惰性」で間違いありません。いつしか私にとって夫との関係は、そうしたものになっていたのです。
だって夫は、仕事ばかりにかまけてまるで家庭を顧みない人間だったのです。だから私は寂しかったのです。どんどん夫婦の会話がなくなっていって、私はとても寂しかったのです。
ですから仕方のない事だと思います。そこに優しくしてもらったら、誰だってそうなるに違いないのです。あのひとは、私の隙間を埋めてくれる男性だったのです。
勿論倫理的観点から見れば、私にも悪いところはあるのかもしれません。
でもそれなら夫はどうなのでしょう。妻を寂しくさせる夫は、少しも悪くないのでしょうか。
自分の責任を棚に上げて、興信所などを使うなんて卑劣です。もし離婚をしようというのなら、私への慰謝料はしっかりと支払って然るべきです。
泣きじゃくりながらもひとしきり言い立てると、
「残念だ」
夫は他人を見るような目で、もう一度繰り返して首を振りました。
「お前の考えはよく分かった。今の会話は録音してある。一度口から出た言葉は取り消せないぞ」
ざあっと血の気の引く感覚がしました。
足元が覚束なくなって、世界がぐるぐると回ります。当たり前と思っていた日常が、日々の暮らしが、がらがらと音を立ててなくなっていきます。
ふうっと自分が夢の中を漂うような心持ちがして、その後急に現実が立ち返ってきました。
くらくらと眩む頭で考えます。
家の名義はどうなっていたでしょう。車の名義はどうなっていたでしょう。私は何をどれだけ手元に残せるのでしょうか。
父と母はなんと言うでしょう。ご近所はなんと思うでしょう。世間はなんと噂するでしょう。あれほど頼れる気がした愛しい恋人は、そんな私に何をしてくれるでしょうか。
待って、と夫に呼びかけましたが、背広の背中が私を冷たく拒絶しました。
「母親に有利だとは聞くが、未夜の親権も請求させてもらう」
宣言すると夫は、手荷物を持って出て行ってしまいました。
夫の部屋を探ると、ごっそりと荷物がなくなっています。もうこの家には帰ってこないつもりなのかもしれません。私を追い出し終えるその時まで、戻ってこないつもりなのかもしれません。
一体どうしてこんな事になってしまったのでしょう。もう暗い灰色の未来しか思い浮かびませんでした。
突然訪れた悲劇に、私は顔を覆って泣きました。