1.
私の家の壁の中には、魚が棲んでいるのです。
と言っても埋め込み式の水槽のような、洒落たものがあるわけではありません。
魚は本当に、台所の壁の中にいるのです。壁の中を泳いでいるのです。
いつも決まって夕暮れ時に、水面ならぬ壁面の間際にまで浮上してきて、こちらとあちらの境界ぎりぎりを、優美に体をくねらせながら行き過ぎていくのです。
曇りガラスを透かすように、私の台所からはその影だけが見て取れるのでした。
家の他の壁へは、魚は現れないようでした。
夫も未夜も台所へは立ち入りません。ですからこれは、私だけの秘密です。
初めこそ恐れも驚きもしました。
だって魚の影の大きさは、ゆうに私の背丈を越えていたのです。悲鳴を上げるなという方が無理でしょう。
でも怖かったのは、向こうも同じようでした。
私が怯えて後退るのと同時に、魚もすっと逃げるように壁から離れて消えたのです。
それで終われば、私は幻覚を見たのだと自分で自分を納得させて、それきりになっていたと思います。
けれど魚は、こちら側に興味を抱いたようでした。
それから私が台所に立っていると時折、魚は現れるようになりました。
ある時は気づかないほど遠くから、ある時は驚くほど近くから、気づけば私の様子を窺っているのです。
やがて警戒心も薄れたのか、初めて現れた時のように、壁際ぎりぎりにまで魚の影は浮かび上がってくるようになりました。
魚が私に慣れたように、私も魚に見慣れていきました。
恐れがなくなって眺めてみれば、伸びやかに身をたゆたわせる魚の姿は涼しげで、とても美しいものでした。
魚が現れると台所の壁は固さを失い、水のようになって波立ちます。
一度菜箸で突いてみたところ、見た目の通り抵抗もなく、箸の先は向こう側にするすると沈んでいくのでした。
ふと思い立って、昼食の残りを向こう側へと投じてみました。すると魚はしばらく慎重につついた後に食いついて、大きく体を震わせました。壁にはさざ波が起きました。
それは強い喜びの仕草のようで、なんだか私まで嬉しくなります。
だから余り物や残り物、生ゴミにするしかない要らないものは、全部魚にあげる事にしたのです。
私の料理の味がお気に召したのか、気まぐれのようだった魚の浮上は、以来毎日欠かさずになりました。
魚がその影を見せるのは、大抵一日に一度きりです。だから私は夕暮れの頃、必ず台所に居るようになりました。
そんなふうにいつしか魚は、私の日々の一部になっていたのです。
忙しく仕事に立ち働いて、その甲斐あって昇進したばかりの夫と。
先日小学校に上がったばかりの可愛い娘と。
波風などひとつもないような平穏な暮らしを、私はただ送っていたのでした。