最終話 島津
歳久は山中でただ、眼下を見ていた。
兵に守られた駕籠が進む。
「金吾様……」
その問いに、男は口を開いた。
「四郎左衛門」
「はっ」
「やれ」
「……はっ」
四郎左衛門が息を呑んだ。だが次の瞬間には弓を持つ手に力が入る。
周りの兵たちが、一斉に身を起こした。
ぎり。ぎりぎり。
弦が引き絞られる。
駕籠はまだ進んでいる。護衛の兵は気づいていない。
「放て!」
◇
「やりましたぞ!」
四郎左衛門が振り返った。その顔には、抑えきれぬ興奮が浮かんでいる。
六本もの矢が、駕籠へ深々と突き立っていた。
駕籠は止まっている。
「金吾様! 今こそ駆け下り、彼奴の首を挙げましょう!」
しかし、歳久は動かなかった。
命令も下さず、ただじっと眼下を見つめている。
「……金吾様?」
「あの駕籠は空よ」
「なんと!?」
四郎左衛門が目を見開いた。
「しかし、確かにあの駕籠に――」
「兵を見よ」
歳久は静かに言った。
眼下では、護衛の兵たちが慌ただしく動いている。
怒号を上げ、槍を構え、木々の間へ目を走らせている。
だが――。
誰一人として、駕籠へ駆け寄ってはいなかった。
「関白があの中におるなら、我先にと駆け寄る。身を盾にしてでも守ろうとするであろう」
「では秀吉め……我らの企てを読んでいたということでございますか」
四郎左衛門が唇を噛んだ。
「さてな」
歳久は、わずかに口元を緩めた。
「ただ用心しただけやもしれぬ」
「では――」
「城へ帰るぞ」
迷いのない声だった。
「しかし!」
四郎左衛門が思わず声を上げる。
「関白は近くにおるやもしれませぬ。兵を分けて探せば――」
「四郎左衛門」
静かな声が、それを遮った。
「目的は果たした」
「目的……?」
四郎左衛門が言葉に詰まる。
歳久は、もう一度眼下へ目を向けた。
六本の矢。
どれも深々と駕籠へ突き刺さり、陽を受けた矢羽がかすかに揺れている。
「駕籠に矢を突き立てた。それでよい」
鉄砲ならば、穴しか残らぬ。
だが、矢は残る。
秀吉もいずれ、この駕籠を見るだろう。
島津には命知らずがいる。
それだけ伝わればよい。
そして、もし次があるならば――。
この六本の矢が、冥土へ渡る六文銭となろう。
「参るぞ」
歳久は近習の肩を借り、よろよろと立ち上がった。
「はっ……」
四郎左衛門たちも、次々と弓を収める。
歳久は最後に一度だけ振り返った。
豊臣秀吉。
天下を、ほぼその手中に収めた男。
島津は敗れた。木崎原で十倍の敵を破った兄・義弘も、沖田畷で肥前の熊を討った弟・家久でも勝てなかった。
薩摩、大隅、日向の三州を平らげ、九州を席巻した島津の軍勢も、天下人の大軍を前にしては退かざるを得なかったのだ。
だが――。
島津には、敗れてなお天下人の駕籠にすら矢を射かける男がいる。
もちろん秀吉は歳久など恐れはしないだろう。
しかし、島津を必要以上に追い詰めれば、我らは九州の山々へ散り、あるいは広大な海へ出る。そうなれば、明や南蛮との交易とて、これまでのようにはゆくまい。
それを鎮めるにはまた兵も銭も要る。天下泰平を想う者である天下人ならば、そうはすまい。
そして、その結果として秀吉の怒りが、誰かへ向けられるというのなら――。
「金吾様?」
「何でもない」
歳久は足を引き摺り、歩き出した。
兄たちならば、後はうまくやるだろう。
その後はもう振り返ることなく、歳久は山を下りていった。
◇
九州征伐後、島津は薩摩のみならず、大隅一国と、日向の一部が安堵された。
五年後の文禄元年七月。
豊臣秀吉は、歳久が朝鮮出兵の命にも従わなかったこと。さらには島津家家臣・梅北国兼が起こした一揆への関与をも疑った。
遂には歳久を討つよう義久に命じた。
歳久は祁答院の居城を出て、義久の元へと向かう。
兄・義久との面会後、歳久は居城にて腹を切ることになった。だが行手を阻まれ、居城へ戻ることが叶わなくなった。居城に戻れば、歳久を慕う家臣たちが反乱を起こすやも——義久はそう危惧したのかもしれない。
そして、歳久を兵が追う。追討の兵を差し向けたのは――兄、義久であった。
歳久は、やむなく初陣の地である岩剣へ向かおうとした。だが船足が遅く、その手前の平松で追手に捕捉された。
もはや逃れる道はなかった。
かつて、十八の歳久は兄たちにこう語った。
――負けたなら何を捨てるか。それを考えておきたいのです。
四十年近くの時を経て、その問いに答える時が来た。
島津金吾歳久は、平松の地で自ら命を絶った。
享年五十六。
祖父・日新斎より、
――始終の利害を察するの智計並びなく。
そう評された島津の三男は、死んだ。
歳久に付き従っていた本田四郎左衛門を始めとした家臣も、その場で後を追った。
歳久が死んだ時、義弘は遠く朝鮮の地にあり、家久はすでに兄を待つ側となっていた。
その六年後、豊臣秀吉もまた世を去った。
やがて天下は再び割れ、徳川が台頭し、豊臣家もまた歴史の中へ消えていった。時代は移り、人は死に、天下人さえ永遠ではなかった。
それでも――。
島津は、残った。
(了)




