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第9話 通報


 俺は、下っていく。

 愛ちゃんに肩を借りながら。


 右足が、地面に触れるたびに熱を持った鉄みたいに軋んだ。

 左腕も焼けるように痛い。息を吸うだけで胸の奥がひりつく。さっきまで気力だけで無理やり動いていた身体が、今になって遅れて悲鳴を上げ始めていた。


「朱音ちゃん、もう……あとは警察が来るの待とう?」


 愛ちゃんの声は、必死に落ち着かせようとしているのに震えが混じっていた。


 分かる。

 正しい。正しいのに、俺の中の何かが首を振り続けている。


 まだ、諦めたくない。


 右足の筋肉が固まっていて、足をつくたび激痛が走る。

 一歩進むたび、喉の奥から短い痛みの声が漏れた。自分でも分かる。情けない。みっともない。


 でも、止まれない。


 愛ちゃんは俺の歩幅に合わせて、黙って支えてくれる。

 肩に回された腕も、支える手も、少し震えている。それでも離れない。その優しさが今は痛いくらいありがたくて、そのぶん余計に焦る。


 6階へ向かう下りスロープを折り返した、その時。


「あ、あれ!」


 愛ちゃんが指さした先に、プリウスが停まっていた。


 同じ灰色。

 あいつの車だ。


 その前方に、パトカーが2台。

 バリケードみたいに横付けされていて、プリウスの進行を完全に止めていた。


「……間に合った」


 声がかすれた。


 胸の奥が、ふっと緩む。

 でも安心なんて、できるはずがない。


 俺は歩く速度を緩めなかった。

 むしろ、今すぐ走りたい。走って車に飛びついて、トランクをこじ開けて。


 でも身体がそれを許さない。

 痛みが、痺れが、現実が、俺の足を引きずり戻す。


 よく見ると、パトカーの後ろに警察官が集まっていて、その中にあの男がいた。

 両手を前に揃えさせられている。手錠だ。項垂れて、さっきまでの余裕はどこにもない。


 そこへ、若い男性警察官が走ってきた。装備が揺れて、カチャカチャと金属音がする。


「あなたが通報してくれた方だね」


 そう言って俺の前にしゃがみこんだ瞬間、その顔がぎょっと歪んだ。

 涙も鼻水も涎も、ぐちゃぐちゃの俺の顔。自分でも分かる。鏡を見なくても分かる。


「……君、大丈夫? 怪我してる?」


 覗き込まれても、今はそれどころじゃない。

 俺は歩みを止めず、息を絞って言う。


「それより……車に乗ってた神田さんと、美桜は?」


 喉が痛い。言葉が切れる。


 美桜を巻き込んだ。

 俺のせいで。


 何度も胸の中で同じ言葉が刺さる。俺のせいだ。


 お願いだから。

 大きな怪我だけは。お願いだから、生きてて。


 警察官は、俺の横に並んで歩きながら答えた。


「2人は保護してる。救急車ももう呼んである」

「トランクの子も無事だ。ただ、意識が戻らない。今はパトカーの中で寝かせてる」


 意識が戻らない。


 その言葉で心臓が沈んだ。冷たい水の底に引きずられるみたいに。

 でも「無事」の一言で、かろうじて息ができた。矛盾してるのに、本当だ。人の心ってそういうもんだ。


 俺は愛ちゃんに支えられながら、プリウスの横を通り過ぎてパトカーへ向かった。

 近づくほど、あの車の空気が体に絡みついてくるみたいで吐き気がした。ただの車なのに、あいつの匂いが染みてる気がする。最悪だ。


 パトカーの助手席に、解放された神田さんがいた。

 運転席には女性警察官。背中をさすりながら、静かに声をかけている。


 神田さんはうつむいて、しくしく泣いていた。肩が小さく揺れている。


 生きてる。

 ここにいる。


 よかった。よかったのに、胸が痛い。


 俺は、後部座席へ回る。


 そこに、美桜が寝かされていた。

 目を閉じて、眠っているみたいに。でも、いつもみたいに寄りかかってこない。


 後部座席の全部を使って寝かされている。


 俺は倒れ込むみたいに近づいて、息を確かめる。


 してる。

 ちゃんと呼吸してる。


 見た感じ、大きな怪我はない。


 それだけで、視界が熱くなる。

 泣くな。今は泣くな。


 でも、勝手に喉が詰まって、声がぶれた。


「……美桜……ごめん」


 謝っても足りない。

 足りないのに、謝るしかない。


 「ごめん」の中に、助けられなかった全部が詰まってる。


 救急車が来るなら、下手に揺らすのは良くない。

 俺は一度だけ、美桜の髪をそっと指先で避けて額を見て、それ以上は触れられなかった。


 パトカーから離れると、再び愛ちゃんに支えられながら、男のいる場所へ向かった。

 男はしおらしく静かにしているように見えるだけで、目の奥の苛つきは消えていない。あの目。まだ「自分は悪くない」って言い張る目。


 俺が近づくのに気づいて、警察官が手を伸ばして止めた。


「危ないから近づかないで」


 俺は足を止めず、聞いた。


「あの人……何の罪で逮捕されたんですか」


 男の肩が、ぴくりと動いた気がした。


 警察官が端的に答える。


「女の子を車に閉じ込めた。今はその件で確保してる」


 逮捕監禁。


 頭が勝手に言葉を選び始める。止まらない。

 止めたら、その瞬間に全部が「なかったこと」になりそうで怖い。


「……他にもあります」


 息が切れる。

 足も腕も痛い。言葉を押し出すたび、胸の奥が軋む。


「私と、美桜にスタンガンを使った。傷害です」

「それに、私の携帯を奪った。窃盗じゃなくて……状況によっては強盗になります」


 その場の空気が一瞬止まった。

 周りの警察官の表情が変わる。子どもの口から出てくる言葉じゃない、とでも言いたげに。


 後ろから、別の警察官の声がした。


「君もスタンガンを受けたのか?」


 男が、ぎろりとこちらを見た。

 怒りで染まった顔。余裕は剥がれて、むき出しの苛立ちだけが残っている。あの顔を見るだけで、腕がまた疼く。


「はぁ? ふざけんなよ。そんなことしてねぇっつーの! そいつが落としたから拾っただけだろ。何が“奪った”だよ。ポケット入れた? 知らねぇよ。勝手に話作ってんじゃねぇ!」


 警察官に抑えられているのに、俺に圧をかけてくる。

 怖い。足がすくむ。


 それでも、引けない。


 隣に愛ちゃんがいる。

 そして、美桜を傷つけた。神田さんを泣かせた。


 その怒りが、恐怖を押しのけた。


「嘘じゃない!」


 叫んだ瞬間、警察官の1人が男と俺の間に入った。


「大丈夫だ、嬢ちゃん。もう、こっちは君のおかげでだいたい把握してる」


 そう言って、別の警察官が俺のスマホを差し出してきた。


「確保した時、こいつのポケットから回収した」


 あぁ。

 分かってくれている。


 それだけで、胸が崩れそうになる。やっと、やっと現実が繋がった気がした。


 俺は指紋認証でロックを解除する。

 画面がついて、いつものホーム画面が出た。


 戻ってきた。

 俺の手元に。証拠も、怖さも、全部戻ってきた。


 警察官が男に向かって言う。


「これを見ろ。通話履歴だ」


 男が鼻で笑う。


「は? 110番? 通報した履歴だろ。それがなんだよ」


 警察官は、わざと肩を落とすように言った。


「この子な。写真撮るフリしながら110番してたんだよ。その間、お前は“撮られただけ”と思って色々喋ってたな。こっちは音声の記録も残ってる」


 男の顔が、すっと青ざめた。

 理解が追いついた瞬間の、口が開いたり閉じたりする感じ。


 ざまあみろ、と言いたいのに、喉が詰まって言えない。怒りも、悔しさも、まだ痛い。


「……は? はぁ? ちょ、待てよ……何それ。……ふざけんな。んなわけ――」


 絞り出した言葉は、それだけだった。


 警察官が追い打ちをかける。


「司令で録音も残ってる。現場も車内の状況もな」

「お前、美桜さんをトランクへ、美桜さんと田中さんを車内へ。神田さんを連れ出していた疑いで見られる」

「それと……他にもやってそうな口ぶりだったな」

「この子が、場所と車のナンバー、人質人数、逃走した時に通報してくれたおかげで、なんとか止められた」


 男の口が開いたまま閉じない。

 さっきまで他人を支配していたくせに、今は自分が支配される側になった顔。


 その光景が、胸の奥の強張りを少しずつ解いていく。


 間に合った。


 全部は戻らないけど、美桜はここにいる。

 神田さんもいる。


 それだけで、もう。


 遠くで、救急車のサイレンが鳴っている。

 近づいてくる。一定のリズムで、現実を叩くみたいに。


 その音を聞いた瞬間、張りつめていた糸が切れた。


 視界がぐらりと揺れた。

 痛みが遅れて押し寄せる。腕が焼けるみたいに痛い。右足が自分のものじゃない。


 愛ちゃんが俺の名前を呼ぶ。


「朱音ちゃん……? ねえ、朱音ちゃん!」


 返事をしようとしたのに、声が出なかった。

 身体の力が、ぷつんと切れる。


 俺は、その場で意識が落ちた。


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