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第4話 集合


「止めないと……」


 口から漏れた声は、自分でも驚くくらい乾いていた。

 喉がひりつく。心臓の奥だけが、じわじわ熱い。


 美桜は黙ったまま、俺を見ている。

 逃げ道のない目だ。


 やがて美桜がゆっくり近づいてきて、俺の手を握った。

 指先があたたかい。ぎゅっと握られるだけで、胸の奥のざわつきが少しだけ形を変える。


「……止めるだけだよ」


 自分に言い聞かせるみたいに言うと、美桜が小さく頷いた。


「もちろん」


 俺はすぐに、愛ちゃんへ電話をかけた。

 呼び出し音が二回、三回――。


『あ、朱音ちゃん? ごめんね。本当は巻き込みたくなかったんだけど、私どうしたらいいのか分からなくて……』


 愛ちゃんの声は早口で、少し息が上がっていた。

 電話越しなのに、焦りがそのまま伝わってくる。


「ううん、大丈夫。教えてくれてありがとう。まず、場所と時間を教えて」

『う、うん』


 愛ちゃんが小さく返事をする。


「あと、神田さん以外に誰が来るのか。人数と、どこで待つ予定なのか」

『えっと……』

「大人の男と会う店、もう決まってる?」

『あ、そこはね……』


 途中で、美桜が俺の腕を軽くつついた。


「朱音、ちょっと早い」

「……ごめん」


 俺は一度息を吸って、声の温度を落とした。

 相手は愛ちゃんだ。中学生で、警察官じゃない。


「順番でいい。分かるところから教えて」


『うん……』


 愛ちゃんはそれから、ぽつぽつと話し始めた。


 きっかけは、インスタのグループチャット「仲良し2組」だ。

 神田さんがそこに「iPhoneもらうから助けてくれる人募集」と、冗談みたいな軽さで書き込んだらしい。


 場所は駅に隣接したショッピングモール。

 昼の十一時に、レストラン前でその男と落ち合う約束。


 それとは別に、見守り役の中学生たちは三十分前に現地集合。

 一年二組が四人。そこに二年の先輩が二人加わって、合計六人。


 作戦はこうだ。


 食事中にiPhoneを受け取ったら、「トイレ行ってくる」と席を外して、そのまま逃げる。

 その間、少し離れた場所に隠れていたみんなが男を見張る。神田さんが抜けられたら、合流して、そのままみんなで逃げ切る――。


 浅はかだ。


 胸の奥が冷える。

 「逃げる」って言葉が、子どもの遊びみたいに軽い。


 でも相手は大人だ。

 大人の手が、そう簡単に離してくれるわけがない。


「……分かった」


 俺は短く返した。


「私たちが何かするから、もう大丈夫。ありがとう、愛ちゃん」

『えっ、ちょ……朱音ちゃん?』

「あとでまた連絡する」


 そう言って通話を切る。


 時計を見る。

 時間は十時過ぎ。


 今から自転車で行けば、ぎりぎり十一時前には着けるかもしれない。


 スマホを下ろすと、美桜が一歩近づいてきて、俺の目をまっすぐ見た。


「お願い、神田を助けたい」


 俺も、美桜の目をまっすぐ見返す。

 しばらく沈黙が続いた。


「……わかった」


 美桜は一拍置いて、同じ熱を宿した目で頷いてくれた。

 それから口元に人差し指を立てる。


「でも絶対、無理しないこと。私も一緒に行くからね」


 本当は危険なことに巻き込みたくない。

 でも、俺一人じゃ何もできない現実がある。


 それでも、何かあったら美桜だけは守る。

 そう心に決めて、俺は手を強く握り返した。


「うん。ありがとう」


 そう言って、二人で急いで準備を始めた。


 土曜の施設は静かだ。

 その静けさを、俺たちの動きだけが乱していく。


 急いでいるのに、ふと姿見に視線が引っかかった。


 鏡の中の俺は、怖い顔をしていた。

 緊張で眉が寄って、唇が薄くなっている。


 そして、その下の格好が、あまりにも場違いだった。


 白いフリルのブラウス。胸元のリボン。黒のジャンパースカート。膝上の裾にレース。

 施設の中なら、まだなんとか誤魔化せる。美桜や清美先輩にからかわれて終わる程度だ。


 でも行き先はショッピングモールだ。

 しかも神田さんたちもいる。クラスメイトや先輩がいる場所に、この格好で行くのかと思うと、一気に顔が熱くなる。


 今から着替えるか。


 そう思った瞬間、廊下の向こうから美桜の気配が近づいてきた。

 時間がない。


 俺は拳を握って、鏡から目を逸らした。


 このまま行く。


 恥ずかしさより、嫌な予感の方が重い。


 玄関を出た瞬間、外の光がやけに強く感じた。

 春のはずなのに空気は冷たくて、頬のあたりがきゅっと締まる。


 美桜が先に自転車を引っ張り出す。

 鍵の金属音が短く鳴って、施設の静けさが少し割れた。


「はい、ヘルメット」


 美桜が差し出してくる。


 俺は受け取りながら、もう一度だけ自分の服を見下ろした。

 フリル、リボン、レース。外出用としては完全に失敗している。


「朱音?」


 俺の葛藤に気づいたのか、美桜が眉を寄せた。


 迷ってる暇はない。


 俺はヘルメットの紐を留め、ペダルに足を乗せる。

 漕ぎ出した瞬間、スカートの裾がふわっと持ち上がって、慌てて押さえた。恥ずかしさが熱になって、首まで上がる。


「……朱音、前見て」

「み、見てる……」


 美桜が隣で、いつもより少しだけ速度を落としてくれている。

 俺に合わせるというより、俺が無理をしないように見張っている感じだった。


 自転車の車輪がアスファルトを撫でて、風が頬を切る。

 呼吸は乱れない。走ってない。大丈夫。


 それでも胸の奥は落ち着かなかった。

 「神田が行く」っていう事実が、何度も頭の中で反響する。


 駅前の交差点が見えてくる。

 車の音、人の声、店のBGM。施設の静けさとは別世界だ。


 ショッピングモールの看板が視界に入った瞬間、喉がひどく乾いた。


「……着いた」


 自転車置き場の列に停める。

 鍵をかける手が少しだけ震えた。気づかれないように深く息を吸って、呼吸を整える。


 時間は10時55分。

 なんとか間に合った。


 美桜が俺の手をそっと掴んで、握り直してくる。


「私、いるから。無理ならすぐ言って」

「うん」


 その言葉だけで、足元が少しだけ安定した。


 モールの入口は、土曜の昼前らしく人が多い。

 ベビーカー、買い物袋、学生の群れ。パン屋の甘い匂いと、フードコートの油の匂いが混ざって流れてくる。


 俺たちは人波に紛れるように、エスカレーターへ向かった。


 その時だった。


 背中のどこかが、ひやっとした。

 見られているような、呼び止められる前の空気。


 反射で足が止まる。


 次の瞬間、手首を掴まれた。


 振り返る。


 そこにいたのは、愛ちゃんだった。


 制服じゃない。薄い色のパーカーにスニーカー。髪はいつものサラサラロングのままなのに、私服だと雰囲気が違って、一瞬誰か分からなかった。


「……愛ちゃん、来たの?」


 思わず声が上ずる。


「うん」


 愛ちゃんは少し息を切らしながら頷いた。

 いつもの明るさはあるのに、目の奥だけ落ち着かない。


「見てるだけで終わりたくなかったの」

「ほんと、ごめんね……」


 そう言って、愛ちゃんは俺の手を強く握ってきた。指先が冷たい。


「ううん。教えてくれてありがとう」


 俺も握り返す。

 手のひらの温度が重なって、胸のざわつきが少しだけ現実に戻る。


 美桜が愛ちゃんを見て、小さく頷いた。

 「来てくれた」ことを、ちゃんと受け取った顔だった。


 俺は、愛ちゃんの手を握ったまま、声を落として聞いた。


「今、状況どうなってる?」

「神田さんたち、もういる? 大人の男は?」


 愛ちゃんは唇を噛んで、周りをちらっと見回した。

 モールの喧騒の中で、俺たちだけが別の時間を生きているみたいだった。


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