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第3話 点滅


 今日は土曜日だ。

 休みとはいえ、児童養護施設の朝のスケジュールは変わらない。


 朝。布団の中に、ひやりとした空気が滑り込んでくる。

 美桜が起きて、布団から出たのだ。


 俺は重たいまぶたを持ち上げて、美桜を見た。


 美桜は眠そうに、目が半分しか開いていない。猫背のまま、ふらふらと数歩。壁にぶつかりそうになって、ぎりぎりで止まる。


 しばらくして、目が合った。


「おはよう~」


 掠れた声でそれだけ言って、美桜は着替えのために自分の部屋へ戻っていった。

 眠いのに、ちゃんと動いている。そういうところ、ほんとにえらい。


 俺も布団を抜けて、着替えをする。

 今日は、施設の先輩である清美先輩が買ってくれた服を着ないといけない日だ。


 自分は服にこだわりがないと思っていた。

 でも、人に服を買われるようになってから気づいた。たぶん俺は、「目立たない服」にこだわっていたんだ。


 清美先輩が選ぶ服は、正直……恥ずかしい。


 袖口と胸元にフリルのある白い長袖ブラウス。

 その上に、黒いジャンパースカートの重ね着。胸元には白いリボンが並び、膝上丈の裾にはレースと装飾。


 鏡の前に立っただけで、落ち着かなくなる。


 清美先輩がバイトで稼いだ、なけなしの金で買ってくれた服だ。


『朱音は小さいんだから、舐められないように盛れ!』


 そう言い切った清美先輩の顔が浮かぶ。

 着なさすぎて怒られたから、休みの日のどちらかは着るようにしている。そういう変なルールが、いつの間にか俺の中にできてしまっていた。


 着替え終わったタイミングで、部屋の扉が開いた。


「お、今日も可愛いねー」


 美桜が入ってきて、にやにやしている。


 その美桜は、黒の長袖カットソーに黒のデニム。

 真っ黒だ。ずるい。


「うぅ……やっぱりこれ、恥ずかしいんだけど」

「そんなことないよ。めっちゃ可愛いから自信もって!」


 そう言いながら、美桜は俺の髪を手早く整える。

 指先が器用に前髪を直して、耳のあたりを軽く撫でた。それだけで心臓が変なところを打つ。


「……はい、そこで止まって。完成」

「完成って、なに……」

「可愛い朱音、完成」


 そう言って満足そうに笑うと、そのまま俺の手を取った。

 引っ張られるようにして、食堂へ向かう。


 食堂は、いつもの朝の匂いがした。

 焼いたパンの香ばしさと、湯気の甘さ。食器が触れ合う乾いた音。誰かの笑い声。


「おはよー! 今日も眼福眼福!」


 元気よく挨拶してくれるのは、渡辺ゆかり。中学三年で、声が大きくて場の空気をぶち破るムードメーカーだ。

 ゆかりの声が入るだけで、眠気の残る空気が一段明るくなる。


 用意されたパンを持って席につき、蜂蜜をたっぷり垂らしてからかぶりつく。

 甘さが舌に広がって、ちょっとだけ気持ちがほどけた。その時だった。


 俺の横に、すっと影が落ちた。


「……はちみつで服、汚すなよ」


 低い声。

 そこに立っているのは、中村清美先輩。服を買ってくれた高校三年生の先輩だ。


 清美先輩の視線が、蜂蜜の光るパンから、俺の袖口のフリルへ、胸元のリボンへと一瞬だけ滑った。


 ぶっきらぼうなのに、声はどこか早口で、目が合わない。

 怒っているというより、照れ隠し。そう思うと、逆に返しづらい。


「……気をつけます」


 俺がそう言うと、清美先輩は「ん」とだけ返して、すぐ視線を外した。

 それ以上は何も言わない。文句も続かない。そのまま、自分の席へ逃げていくみたいに去っていく。


 横で美桜が、口元を押さえて肩を揺らしている。


「……笑ってるでしょ」

「笑ってないよ。……でも、可愛い」

「もぅ……」

「褒めてるのに?」


 美桜は黒の長袖に黒デニム。真っ黒。

 俺だけ白いブラウスにフリルとリボンで、落ち着かない。


「ずるい。美桜は目立たない服で逃げてる」

「逃げてない。好きなだけ」


 食堂のざわめきが、土曜の朝を押し進めていく。

 椅子の音、誰かの笑い声、ゆかりの大声。


 俺は胸元のリボンを、指でそっと触った。


 食べ終えて、皿を洗って廊下へ出る。

 窓の外は明るいのに、廊下の影はまだ冷たくて、肌がきゅっとなる。


 美桜が先に歩き、途中で振り返る。


「行こ」


 手を引かれて、部屋へ戻る。

 スカートの裾が揺れるたび、まだ少し落ち着かない。


 ドアを開けた瞬間、部屋の中はしんと静まり返っていた。

 さっきまで人の気配で満ちていた朝の延長とは思えないほど、そこだけ空気が止まっている。


 その静けさの中で、俺のスマホだけが緑色のライトをちかちかと点滅させていた。


 暗い部屋の中で、その光だけが妙に浮いて見える。


 嫌な予感がした。

 一度、手が止まる。見るな、と身体が言っているみたいだった。


 でも、逃げても通知は消えない。

 結局、俺は画面を起こした。


 送信者は、愛ちゃん。


 メッセージを開いた瞬間、頭の中がすうっと冷えていった。

 頬の熱が引いて、指先だけが妙に熱い。


 視界の端が、白くなる。


 やっぱり。


『今日、神田さん、やっぱiPhoneもらいに行くらしい。

 見張りを付けるらしい。二組だけじゃなくて、二年の先輩も何人か。

 もらったらその場で逃げるって計画してるっぽい』


 呼吸が浅くなる。

 胸の奥が、嫌な音を立てて締まった。


 見張る。

 逃げる。


 その言葉の軽さが、逆に怖かった。

 遊びの延長みたいなテンションのまま、危ない場所に踏み込もうとしている。


 俺はスマホを握りしめたまま、動けなくなる。


 その時、隣で布の擦れる音がした。

 美桜が、俺を見ている気配。


「朱音……顔、真っ青。どうしたの?」


 美桜の声はすぐ近い。

 心配の温度が混じっていて、余計に胸が苦しくなる。


 俺は一度、唾を飲み込んだ。

 言い訳を探す暇なんてない。


「……美桜、聞いて」


 声が思ったより硬い。

 俺はスマホを隠さず、そのまま美桜に見える角度に向けた。


「愛ちゃんから……神田さん、今日やっぱり行くらしい」

「しかも、見張るって。二組だけじゃなくて、二年の先輩も混ざってるって……」

「iPhone受け取ったら、そのまま逃げるって……」


 言いながら、喉が乾く。

 これを口にした瞬間から、もう戻れない気がした。


 美桜の表情が、すっと固まる。


 その手が、無意識みたいに俺の袖を掴んだ。


 俺は続けた。


「……止めないと。このままだと、絶対に何か起きる」


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