第1話 噂
春の教室は、音が多い。
椅子が床をこする音、シャーペンの芯が折れる音、まだ距離感のつかめない笑い声。
窓から入る風が、制服の袖を軽く揺らした。
休み時間。
中学生活が始まって、まだ一ヶ月。
教室はそれぞれのグループに分かれ、笑ったり、スマホを覗き込んだり、机を寄せ合ったり、そういう「普通」の空気が流れていた。
その「普通」の輪の端にいるのが俺だ。
見た目だけなら、どこにでもいる中学一年の女子。
中身が四十一歳の元警察官でさえなければ、たぶんもう少し上手く馴染めていたんだろう。
机の上には、配られたプリントが端正に積んである。
紙の角を揃えていると、少しだけ落ち着ける気がした。さっきまでの社会の授業で使ったノートが、開いたままになっている。
俺のノートは、汚い。
板書の横に矢印、丸、走り書きの単語。思いついたことをとりあえず拾って、あとから自分だけが分かればいい、そんなメモ帳みたいなページだ。
「うわ、朱音ちゃんのノート……暗号?」
隣の席から、鈴木愛が覗き込んできた。
鈴木愛。
サラサラのロングヘアに、明るい笑顔。場の空気を軽くするのが上手い、隣の席の友達だ。
椅子の脚がきゅっと鳴る。
愛ちゃんは体ごとこちらへ向けて、目を丸くした。
「暗号じゃない。……メモ」
「メモって、授業ノートだよ? せめて線に沿って書いたほうがいいよ~!」
愛ちゃんは笑いながら、俺の斜めに走った文字を指でトントン叩く。
軽いのに、ぐいぐい来る。こういうところ、俺にはない。
――元警察官の癖だ。
情報はまず拾って、残す。整理は後。とにかく書け。
頭の中のその声が、まだ消えない。
「じゃじゃーん」
愛ちゃんが胸を張って、自分のノートを見せてくる。
ページはすっきりしていて、見出しが揃い、色分けもしてある。ところどころに小さな吹き出しまであって――そこに、シマエナガがいた。
「見て見て。ここ、“大事”ってシマエナガが言ってる」
「……鳥が?」
「鳥が。先生より分かりやすいでしょ」
その言い方があまりに自然で、俺は少し笑いそうになった。
愛ちゃんは、場の空気を軽くするのがうまい。
誰とでも話せるし、クラスの中心にも寄れる。だから信頼される。
俺は、そうじゃない。
輪に入るのも下手で、言葉を選んでいるうちにタイミングを逃す。
愛ちゃんが隣にいるだけで、教室の居場所が少しだけ広くなる。
その時、愛ちゃんの視線がふっと窓側へ滑った。
さっきまでの明るさが、ほんの少しだけ薄くなる。
「……ねえねえ、あの人、やばいよ」
顎で示された先。
窓側の席で、四人組が机を寄せてスマホを覗き込んでいる。笑い声が大きくて、画面が光るたびに「えー」「まじ?」って騒ぎが跳ねていた。
「どうしたの?」
聞き返すと、愛ちゃんは声を落とした。
でも目だけは妙にきらきらしている。怖いもの見たさみたいな、噂話の熱だ。
「ほら、真ん中の子。神田さん。あの子さ、大人の男と連絡取ってるんだって」
「……大人?」
思ったより低い声が出て、自分で少し驚く。
愛ちゃんは気づかないふりで続けた。
「なんかさ、『電子マネー送ってくれる人』がいるんだって。会ったこともないのにだよ? やばくない?」
「でね、今度は“スマホあげるから一緒にご飯食べない?”って誘われてるらしいの」
「写真も来たんだって。iPhoneの最新のやつ」
胸の奥が、すっと冷えた。
愛ちゃんはスマホを取り出す。
「ほら見て。これ、グループのやつ。……これ見たら、朱音ちゃん絶対ムリって言う」
画面にはグループチャット。
名前は――「仲良し2組」。
俺のスマホじゃ見られない。施設のスマホは連絡用だけだ。
だから、他人のスマホを覗き込むしかない。そう思っただけで、喉が少し乾いた。
愛ちゃんがスクロールして、スクショ画像を開く。
そこに映っていたのは、インスタのチャットだった。
若い男の横顔。アカウント名は「祐介」。
相手は「12/01/STM♡カンダ」。
メッセージの上には、「スマホ買ったよ」という写真。
箱に入った最新のiPhoneが写っていた。
スクショの文章を追うたびに、喉の奥がひゅっと冷える。
【祐介】「これ、最新のiPhoneだよ。フィルターとか掛かってないから、Wi-Fiあれば自由に使えるよ」
【カンダ】「えー、まじ? 最新のやつ?」
【祐介】「これで、夜中でもお喋りできるね」
【カンダ】「それなー」
【カンダ】「でもさ、さすがに高くない?」
【カンダ】「そんなの、普通にもらえなくない?」
【祐介】「俺、前も言ったけど大企業に勤めてるから全然大丈夫」
【カンダ】「え、まじ?」
【カンダ】「でも……なんで?」
【祐介】「せっかくこのiPhoneあげるからさ、今度一緒にご飯食べようよ」
【祐介】「美味しいもの食べよ。会いたいな~」
【カンダ】「え……」
【カンダ】「うーん……いきなり会うのは怖いな」
文章自体はやけに丁寧で、やさしい。
だからこそ、気味が悪かった。
その下では、グループ内の短文が止まらない。
「えー」
「やば」
「きもっ」
「それ無理」
「うそでしょ」
「親フィルターうざいから、私も欲しいなー」
教室のざわめきより、スマホの中の軽い言葉の方が、やけに耳に残る。
愛ちゃんがスクショを閉じないまま、俺の顔を見た。
「神田さんね、“会うの怖いから行かないよ~”って言ってたんだけどさ」
愛ちゃんは肩をすくめる。
笑ってるのに、目が少し落ち着かない。
「……どうだかなー、って感じ」
その一言が、はっきり刺さった。
俺の中で、嫌な予感だけがゆっくり形になっていく。
神田の気持ちも、分かる。
中一の女子ってだけで、大人から特別扱いされる。ちょっと嬉しくなる。背伸びしたくなる。
でも、そこに付け込んでくる大人は危ない。
昔、そういう入口から壊れていく子を何度も見た。
「一回だけ」「ご飯だけ」「プレゼントだけ」。その“だけ”が、いつも嘘だった。
気づいた時にはもう、断れなくなっている。
脅される。黙らされる。逃げ場がなくなる。そういう壊れ方を、何度も見た。
「……会うのは危ないよ」
口から出た声が、思ったより固かった。
愛ちゃんが俺の顔を見て、ぱちっと瞬きする。
「え、朱音ちゃん……急に怖い」
笑いにしようとしてる。
でも、目は笑っていない。
「先生に言う」
「ちょ、待って待って!」
愛ちゃんが袖をつかむ。指が少し冷たい。
「それ、揉めるやつだって……神田さん、絶対ムリってなるし」
「朱音ちゃんも目つけられるよ。てか、嫌われる」
「嫌われても……いい。何かあってから後悔したくない」
たぶん、こういうのが空気を読めないってことなんだと思う。
教室の“普通”の温度から、俺だけ少し浮く。
でも、止めたい。
取り返しがつかなくなる前に。
愛ちゃんは窓側の四人組をちらっと見て、唇を尖らせた。
「神田さんグループに、たてついたら終わるよ。たぶん」
小さい声だった。
強いはずの愛ちゃんが、今は揺れている。
「でも……止めたほうがいいのは分かるけどさ……」
それが、愛ちゃんの精一杯だった。
――悪役は一人でいい。
そう思った瞬間、背中が少しだけ軽くなるのが分かった。
俺は袖をつかんでいた手を、そっと外す。
「ごめん。行くね」
「朱音ちゃん……」
呼び止める声を背中で受けながら、窓側へ歩く。
近づくほど、笑い声が薄くなる。視線が集まる。四人組の輪が、俺の足音で一瞬だけ固まった。
神田がスマホを握ったまま、ちらっと俺を見る。
表情は軽い。敵意じゃない。「なに?」の顔だ。
「神田さん」
「ん?」
「その大人の人と……会うの、やめたほうがいい」
神田は一瞬きょとんとして、すぐ笑ってみせた。
「え、なにそれ。心配してくれてんの?」
周りの子が、くすっと笑う。
神田はその笑いに乗って、肩をすくめた。
「行かないし。大丈夫だって」
――危ないから行かない、じゃない。
この場を終わらせたいから、とりあえずそう言ってるだけだ。
それじゃ、止まらない。
空気が変われば、また簡単に動く。
だから俺は、ここで面倒くさい存在になるしかないと思った。
嫌われても、うざがられても、それが神田のストッパーになるなら。
「……ほんとに? そのスマホ、ほんとに“本人が買った”って分かる?」
「分かんないけど」
「でも、行かないって言ってるじゃん」
神田は笑ったまま、終わらせたがっている。
だが、その笑いの下に、落ち着かなさが少しだけ滲んでいた。
「じゃあ、約束して。絶対行かないって」
「……は?」
神田の笑いが少しだけ止まる。
「え、なんで?」
「行かないって言ってんじゃん」
周りの子の視線が、じわっと集まる。
教室の熱が、ここだけ妙に濃くなる。
俺は言った。現実を持ち込むために。
「先生に言うよ」
神田の表情が、すっと硬くなった。
「は? だから行かないって言ってんじゃん」
「しつこい」
「マジでウザいんだけど」
“ウザい”が刺さる。
でも、ここで引いたら神田の「行かない」はただの逃げ道になる。
「約束して」
神田は息を吐いて、髪をかき上げた。
苛立っている。でもその下に、ほんの少しだけ揺れがある。
「……わかった、わかった。行かない」
「だから先生とか、ほんとやめて。余計なことしないで。約束する」
そこへ、チャイムが鳴った。
乾いた音が会話をぶつ切りにして、みんなが一斉に“何もなかった”方へ戻ろうとする。
神田は椅子を引いて立ち上がり、
「……はいはい。もういいでしょ」
投げるみたいに言って、自分の席へ戻った。
俺も席へ戻る。
途中で、愛ちゃんと目が合った。
愛ちゃんは何も言わない。
でも口元だけが、「だから言ったじゃん」って形になっていた。
――分かってる。
それでも、止めたかった。
俺はノートの角を揃えた。
揃えても、胸の中の嫌な予感だけは、どうしても整わなかった。




