糸はほつれていません
人間とは不思議なもので自分のキャパを超える事態に遭遇すると、
全く別のことを考える生き物である。
この時のフランはまさにそれに該当し、周囲の雑音など耳に入っていない。
(王女様は愛らしい方だから、そうねぇ花柄を基本の刺繍はどうかしら。
あら、でも、花柄では単純だわ。
アダムアレクシアンはきっともっと独創的で美しい刺 繍を考えるわ…どうしようかしら…)
真剣な表情で悩むフラン。
けれど、場が悪かった。
いきなり、体を思い切りゆすられる
「お姉さま、お姉さま聞こえていますか。しっかりしてください」
隣に座っていたリリアンが恐怖に震えた声で叫ぶ。
それも当然だ。
いま、フランたちは、昨夜自身の身にとてつもない危険が迫っていたことを、
目の前のローランドに打ち明けられたのだ。
なんでも、アンリスタの手引きで、邸に潜入した輩が、
フランとリリアンを襲う計画を立てていたのだ。
さすがの両親もアンリスタのしでかしたことに、
母は気を失って先ほど部屋を退出し、父親は怒り心頭で、
使用人にアンリスタを呼ぶように言いつけたのだが、
アンリスタは部屋に鍵をかけて、呼びかけにも応じないらしい。
とにもかくにも、ローランドは淡々と撃退した話を告げる。
彼はフランに挨拶に行こうとして、階段をあがる3人を見つけた。
使用人には見えず、呼び止めたところ、いきなり暴力を振るわれそうになったため、
応戦したらしい。
あの男の図太い声は、その際制圧した男達の声だったらしいのだが、
少なくともフランにあった際のローランドは、
息も切れいていなかったし、服が乱れてもいなかった。
素敵な刺繍がほつれてもいなかった。
「金糸はほどけていませんでしたわ…」
「……聞いていますか?」
「え? はい、もちろん。金糸はほつれていませんでしたわ」
「金糸の話はしていません」
母が気絶し、父が激高しリリアンに至っては青い顔をして身震いしているのに、
フランには何の変化もないので、さすがのローランドも困惑する。
(この状況で取り乱さない……?)
「随分と、肝が据わっているのですね」
「え? 刺繍の話ですか?」
「……違います……捕縛をして、今は我が邸で身柄を拘束しておりますが、フランジェール嬢、あなたと妹君が狙われた話をしております」
「ローランド卿、王女様のお好きな色などはご存じですか」
「お姉様!!! こっちら戻ってきてください。しっかりしてください」
再びリリアンがフランほ揺するに至って、
ローランドはフランが現実逃避しているのだと理解する。
それもそうだろう。
よもや自分が低俗な輩に狙われた上、
その手引きをしたのが自分の弟だと聞かされたなら、
普通の令嬢なら気絶するか、リリアンのように恐慌状態になってもおかしくないのだ。
「そ…それで…今後のことはどのようにしたらよろしいでしょうか」
ここにきて、やっと父がローランドにお伺いを立てる。
本来ならば、被害者であるバンキンス家が対応すべき事案であるが、
被害者は娘達で加害者が息子である。
何をどうしたらよいのか、パニック状態になっているのは、リリアンだけではないのだ。
「そのご相談のために参上した次第です」
やつと話が通じたとローランドがかすかに笑顔を見せる
(美形って何をしても美しいのね…
そうよね、金糸と銀糸は外せないわ。美しいもの。
あら、金糸でカナリアはどうかしら。七色の翼の天使もいいわね)
フランは一人夢心地である。
こうなると、ローランドも半ば諦めて、話を続けることにする。
「捕縛した3名の家にはすでに通達を出しました。これは内々で解決しようと思います」
「…おとがめがないと言うことでしょうか」
父が複雑な表情を浮かべる。
不良債権のヤラかしのおかげで立場が複雑化してきて、
どう反応すれば良いのか、感情が忙しい状態だ。
「事を公にして社交界で問題になりますと、3家の家は弾かれるでしょう、それはそれでかまわないのですが、その場合、フランジェール嬢とリリアンジェール嬢の話もでることになります。そしてアンリスタ殿も。伯爵家から被害者と加害者が出たのでは、社交界も動揺いたしますのし、なにより、まだ輿入れもしていないお二人の未来にも影が落ちます。フランジェール嬢は我が家に来て頂くので、問題ではありませんが、リリアンジェール嬢はちがいます」
と、ローランドはさらりとフランがすでにグリンフィールド家に嫁ぐことを前提に話しているが、
動揺しているバンキンス家の人間は、だれもそのことに気がついていない。
「実は、宰相殿にもご相談をしたのですが、3人の家には、そうとう額の賠償金を求めると同時に、貴族籍を抜いた上で、修道院へ行ってもらうことにしました。ご安心ください。修道院と言っても、ふつうのではないので、一生、出られません」
普通じゃないと聞いて、父はそれ以上、聞くのを止めた。
もしかしたら息子もそこに入ることになるのかもしれない。
話を聞いてしまって、情に駆られる事を恐れたのだ。
今まで散々甘やかし、アンリスタの素行の悪さをフランから告げられていたのに、
それでも丸投げしていたことをいまほど後悔したことはない。
これほどまでとは思わなかったのだ。
そこではじめて、父は脳裏に自分の父親を思い出す。
お世辞にも商才があるとは言えず、何により自堕落で人として最低な人間だった。
アンリスタはそれによく似ている。
「息子は…どうなるのでしょうか…」
父が当然の言葉を告げると、
そこに至ってリリアンが今までこらえていた恐怖に泣き出した。
「負けられない戦いなのに…時間はそれほど無いのに…なにやってくれてるのよ、あの弟は」
リリアン姉の肩でしくしくと泣いていると、突然、叫んで立ち上がった。
クソガキといったようにきこえるが、
気のせいだろうかとローランドが立ち上がったフランを伺うと、
フランがにっこり笑って、それは見事なカーテシで挨拶をして、
スカートの裾を蹴り上げて、小走りに去って行く。
向かったさきは、アンリスタの部屋に面する庭だ。
アンリスタの部屋は1階にある。
慌てて追いかけてきた家令や侍女達が見守る中で、
フランはどこからか調達してきた箒でアンリスタの部屋の窓にたたきつける。
激しい音とともにガラスが飛び散るが、フランはかまわず、
ドレスの裾を蹴飛ばしつつた部屋の中に侵入する。
そして、ベッドの上で、布団にくるまるアンリスタを、
持っている箒で思い切り殴りつける。
「この馬鹿!! クソガキ! 私は今、とても忙しい時期なのよ。負けられない戦いの真っ最中なのよ。なんてことしてくれたのよ」
どこにそんな力が合ったのか、フランは布団をひっぺがすと、
アンリスタをベッドから引きずり落として、床に正座させる。
よくみれば、アンリスタの目元はうっすらと赤い。
じつは、昨夜ローランドに睨まれ、
その殺気にはじめて命の危機を感じて、自分の部屋に逃げ帰り、
それ以降、情けないことに布団をかぶって震えて泣いていたのだ。
そんなことはフランには関係ない。
泣こうが喚こうが、自分の大切な刺繍の時間を奪われた恨みを晴らさずにはいられないのだ。
「アンリスタ、答えなさい。自分のしたことを理解しているの? あなたは姉の大切な刺繍の時間を奪ったのよ。答えによっては絞め殺すわよ!」
「ふ…ざけんな、フランのくせに、やれるもんならやってみろよ」
言葉とは裏腹に初めて、アンリスタの背筋に冷たいものが走った。
フランはゆっくりと息を吐いた。
「覚悟は出来てるでしょうね、アンリスタ」
常日頃、おとなしい人間ほど、怒りに火がつくと手に負えないのだと知ることになり、
アンリスタは人生ではじめて後悔を知ることになる。




