Prolog3
「ふう、美味い」
淹れたてのお茶を飲み干し、そう言った老人はフウロの商人であり、今は行商をしているヤルン・ガットーだ。
再び行商へ出るため、護衛の冒険者の分のポーションを依頼した張本人であり、それを受け取りに来たのである。
しかし、いつもであればヤルン本人ではなくその使用人が取りに来るのが普通だ。
わざわざ彼自身が来たというのには何か理由があるのだろうとラウルは考えていた。
「さて、ポーションは出来ているかのう?」
「もちろん。注文分はしっかりとできてるわ」
ヤルンの問いにリザが悠然と答える。
物自体はしっかりできているけど結構ギリギリだったよな、とは思ってもラウルはそれを表情には出さなかず、木箱に入れたポーションをヤルンの前に置いた。
ふむ、とヤルンはポーションを取り出す。
そして人生の年輪が刻まれた顔の前に摘み上げ、ポーションを確認する。
最終的な仕上げを終えたポーションは部屋の明かりを受けてキラキラと輝きながら瓶の中で揺らいでいた。
「完璧じゃな」
「当たり前じゃない」
そうつぶやいたヤルンにリザがすかさず答える。
それにガハハと笑いながらヤルンはポーションを箱へ戻すと、今度はラウルの方へ視線を移した。
「さて、本題に入ろうか。ラウルよ」
長く商いを行い、街一の商人へと成り上がった老人の鋭い眼光がラウルを捉える。
「ヌシ、此度の行商に着いて来んか?」
その言葉は、ラウルが全く予期していないものだった。
ラウル達の住む街【フウロ】のあるザルキア王国において、独り立ちする年齢──家を出る年齢は凡そ17歳が平均である。だがこれはあくまで平均であり、例えば次男坊や三男坊は幼い頃から丁稚へ出たり、職人の子であれば歳を重ねていても実家で技を磨いていたりと様々だ。
しかし、殆どの場合においてやはり15、6歳を超えると家を出て働き始めるのが常であり、ラウルも将来を考える時期にはなっていた。
「もうヌシも17になる」
そろそろ外の世界に出るのもいいのではないか?
ヤルンはそう続けた。
「リザとも、先日話をしたのだ」
ラウルはリザを見遣る。
蒼銀の魔女もまた、ラウルを見ていた。
「もう子供ではない。魔術も剣も、そして調薬も修めておる。……なればこそ、外の世界を見るのもまたヌシの為になるのではないかと」
それは商人として国中を周り、そして見てきた男の嘘偽り無い言葉だった。
この国だけでもラウルの行ったことの無い場所が殆どだ。この街だけで生涯を終えるのはもったいない。赤子の頃からラウルを知っている、だからこそのヤルンの偽らざる思いだ。
「無論、すぐに決めろとは言わんし、答えを強制する気はない。だが……もし来るのなら3日後の夜、出発前の会に来てくれ」
そう言い、ヤルンは席を立った。
去り際、ラウルの肩を叩き扉を開き出ていった。
カランカランという店の扉の鐘の音が室内にこだましていた。
◇◆◇◆◇
「……ラウル」
さっきまで静かだったリザが口を開いた。
「少し、話をしようか」
「あ、うん」
もう冷めたお茶を飲み、リザがラウルを見詰めた。
「……私は冒険者だった」
「知ってるよ、前も言ってた」
「ああ、だからこれは私の話になるけど……」
私はヤルンと同じで外の世界を見るのも良いと思う。
そう、リザは続けた。
未知を探求するのも、モンスターを倒し人を助けるのも、それとも他の街でなにか他の仕事をするのも。
それは全てラウルの自由だと。
「私は冒険者として、いろんな場所を回ったよ。それこそダンジョンから帝国の王都まで色々。そこでいろんな人に会って、いろんなことを知った」
「だからこそ、ラウルにはここで全てを完結させるんじゃなくて外を見てもらいたいんだ」
決して、居なくなってほしいとかそういうんじゃない。もし、少しでも外を見たいという気持ちがあるのなら、それを大事にしてほしい。
リザはそう言い、店へと戻って行った。
その夜。
「はぁ……」
どうしようかな、と声には出さずラウルは呟いた。
独り立ち、確かに年齢的にはその頃合いだし考えたこともあった。だが、ラウルは自分を育ててくれたリザへの恩義から──もちろん、この街が好きだったのもあるが──その事を考えないようにもしていた。あと、少しだけだらしない師匠への心配もあったが。
ゴロリと横を向き、考えてみる。
自分がどうしたいのかを。
この街の外に──ひいては世界に興味が無いわけではない。
年相応に、冒険譚などは好きだったし、なによりリザから聞いた話やヤルンが土産に話してくれた場所の話も好きだ。
偶に訪ねてくるリザの旧友がしてくれた話も好きだ。
ダンジョンやそのお宝への興味もある。
それらは自分の奥底にある何かが明確に肯定している。
いつからこの世界に興味を抱いたのか、それはわからないが、興味があるのは紛れもない事実なのだ。
ただそれを自分の心の中に仕舞い込んでいた。
これでいいんだと思っていた。
そんな時にいきなり扉が開いた、いや開かれてしまった。
それは決してラウルにとって悪いことではない。
だが、だからといってそれに飛びつくことはラウルにはできなかった。やはり、街への愛着もなによりリザへの思いはそれだけ大きいのだ。
「ふぅ」
再び息を吐き、仰向けになる。
開いた窓から入ったそよ風が、ラウルの頬をなでた。
その風は、少しだけ冷たく、でも生暖かいような。まるでラウルの心情のようだった。
結局、その晩ラウルはマトモに寝ることはできなかった。
◇◆◇◆◇
翌日。
ラウルはまだ日が上がりきらない頃に外へ出た。
いつもの鳥もまだ鳴いていない。だが、空は白み始め、朝の匂いがラウルの鼻をくすぐっていた。
桶に水を満たし、覗き込む。
その水面に写った紫水晶のような深紫の瞳と目が合う。
その瞳は、少し迷いの色が混ざっていた。
よし。
小さく呟き、ラウルは水を両手で掬いあげ顔をつける。
冷たい水が顔を覆い、手から溢れ、腕へ滴り、地面へ落ちる。
それを何度か繰り返し、波紋の残る水面を再びのぞき込んだ。
また己の瞳と目が合う。
だが、その瞳から迷いは消え、そこにはラウルの確かな決意が湛えられていた。
それはラウルがこの先のことを悩み、考え、そして決断した証左でもあった。
今まで、脳裏に浮かぶことはあっても決めることはしなかった思い。それをヤルンとリザの話をキッカケに、しっかりと向き合った。
一晩。
たしかに、時間としては短いかもしれない。しかし、ラウルにとってその一晩はなにより長く、そして重要なものだった。
なにか大切なことを決める。
本来ならば、時間のかかることだ。だが、今まで心のどこかにあった思いだからこそ、いざその時が来た時にラウルは向き合うことができた。
だからこそ、ラウルは一晩という時間で決断することができたとも言える。
ザッと、桶から水を流し、ラウルは立ち上がった。
その表情や瞳、心から迷いは消えている。今胸中を満たすのは新たな世界への希望と期待だ。
ぶるっと身震いするが、それはきっと武者震いのようなものだろう。
一人立つラウルの決意を祝福するように、陽が差す。
その陽光に目を細め、ラウルは暫しそこに立っていた。
そんな様子をリザは2階の窓から伺い、少しして窓辺から離れた。
その口元には優しげな微笑みが浮かんでいた。
弟子の────いや、息子の旅路に幸あれ。そんなことを思い、ベッドに横になる。
師匠もまた、ラウル同様にまともに寝ていなかったのだろう。
リザはすぐに寝息をたて始めた。
閉じられたその瞳から、一筋の雫が流れていた。