第八話 想起
そもそもの話をしよう。
きっかけはアリアが学園に通うために公爵領から王都へと移り住んだことだろう。
王妃教育では内包する魔力量が貴族の評価に関わってくるからと、王城内にて負の感情を誘発して魂を刺激し、魔力量を増やす教育が行われた。
では、王妃教育がない時間は平穏だったかといえばそうではない。
王立魔法学園。
それも遥か昔に魔力量が多い血脈を貴族と定義している以上、優れた魔法使いの大半は貴族となる。
すなわち国内でも最高峰の学舎である王立魔法学園には多くの貴族が集まっており、ほとんど社交界の縮図と化していた。
王妃教育が行われた王城と同じく、閉鎖的な空間でアリアに近づくのは公爵令嬢や次期王妃という看板に媚びへつらう者ばかり。
王都に来てから、アリアは常に独りだった。
周囲には気持ち悪いくらい完璧に整えた笑顔の人間が大勢いたかもしれないが、アリアという一人の人間を見てくれる者はどこにもいなかったのだ。
そんなある日のこと。
王妃教育で魂が悲鳴を上げ、砕け、摩耗してもなお公爵令嬢だからと、次期王妃であれば当たり前だと、社交界の縮図である学園で縁を繋ぐことを課せられたアリアはある男爵令嬢と出会う。
リアナ=クリアネリリィ男爵令嬢。
薄赤い長髪を二つに纏めた、いかにも人懐っこい印象を抱かせる令嬢である。
アリアのように令嬢としては完成されていても人間としての暖かさは感じさせない記号のようなものと違い、リアナには公共の場でも人間らしさに溢れていた。
それが貴族としては落第で、だけどネネという一人のメイドに救われているアリアにとっては好ましく見えた。
『少々、よろしいかしら?』
『んえ? わたし???』
だから、声をかけたのだ。
王妃教育の辛さから目を逸らし、寂しさを紛らわせたい自己中心的な考えで。
それでも、そんな卑しいアリアをリアナは作り物じゃない、心からの笑顔で受け入れてくれた。初対面の頃はアリアの正体には気づいておらず、しばらくして公爵令嬢だと知った時は流石に慌てていたが、それでもアリアが気にしなくて良いと言えば、わかったと嬉しそうに頷いてくれた。
リアナ=クリアネリリィ男爵令嬢は基本の四大属性と違い、滅多に発現しない二つの希少属性の一つ、治癒を司る光の魔法の使い手として王立魔法学園に入学した経緯があったが、アリアにとっては大して重要なことではなかった。
活発な少女だった。十六と同年代の少女としては普通で、だけど貴族としては感情が表に出やすい少女であり、大切な友人であることが全てだ。
『ねえ、アリアさん』
だから。
ある日、公爵令嬢と知った後も今まで通り接して欲しいというアリアの望みのままに友達を相手にするような口調でリアナはこう問いかけた。
『いっつも話に出てくるネネさんってメイドのこと、好きなの?』
『なっ、ななっ、何をおっしゃっているのですか、リアナ!?』
『だあって』
くすくすと口元に手をやっても隠しきれないほど楽しそうに、リアナは言う。
『ネネさんとやらの話をしている時のアリアさん、もうメチャクチャ幸せそうなんだもの。ちょろっと嫉妬しちゃうくらいにな!!』
『そっそそそっそんなっそんなことは……っ!!』
『嫌いなの?』
『そんなわけございませんわ!!』
『もうそのムキになってるのが好きって言ってるようなものなの』
『う、うううっ!!』
公爵令嬢や次期王妃という記号を背負っている以上、他の貴族の目がある場所では「らしく」あらねばならなかったが、休み時間などの僅かな間だけでもこうして素を出して付き合える誰かがいたからこそ、アリアは魂を抉り、壊すことで成長を促すような馬鹿げた王妃教育にも耐えることができた。
よりにもよってそんなアリアがリアナに嫌がらせなどするわけがない。そのはずなのに、あの婚約破棄騒動は起こった。
学園主催のパーティーでのことだ。
初対面の場で「貴様の人格には興味ない」などと言い放つような第一王子が仮にも婚約者であるアリアを放っていたこと自体はいつものことだった。アリアは公の場でくらい取り繕う努力をするべきだとも思っていたが、そのような意見を口にしても煩わしそうに一蹴されるだけだと諦めていた。
だけど、その日は違った。
なぜかリアナの手を引きアリアに近づいてきた第一王子は高らかとこう宣言したのだ。
『皆の者、聞くがいい!! 我が婚約者であるアリア=スカイフォトン公爵令嬢は愚かにも民の一人であるリアナ=クリアネリリィ男爵令嬢を非道な手段でもって虐げたのである!!』
意味が、わからなかった。
そもそもアリアは誰かに嫌がらせを行うような余裕はなく、魔力増強のために傷つけられる日々をどうにか乗り切ることで精一杯だった。
それに、ネネがいない以上、アリアにとってリアナは唯一の救いだったのだ。感謝こそすれど、非道な手段とやらで虐げるわけがない。
それなのに、そのはずなのに、状況はアリアを放って進んでいく。嫌がらせの内容とやらを並べ立てた第一王子は促すようにリアナ=クリアネリリィ男爵令嬢へと「そうであるよな?」と問いかけた。
その問いに、第一王子に手を握られたリアナはゆっくりと頷いた。それが、決定打となった。
『アリア=スカイフォトン公爵令嬢よ! 貴様のように民を大切にできない女に我の婚約者たる資格はないであろう!! よって今ここに貴様との婚約の破棄を宣言する!!』
婚約破棄など、どうでもいい。
その結果、どれだけの影響が広がるか考える余裕はなかった。
アリアはリアナだけを見つめていた。
貴族という記号ではなく、暖かな人間らしくアリアと接してくれていた少女のことを。
『どうして、ですか……?』
『…………、』
答えはなかった。
無言で目を逸らされた。
その間にも酔ったように言葉を放つ第一王子は止まらない。びしっと指を突きつけ、
『何を間抜けな面を晒しているであるか? 貴様の悪行は白日の下に晒されたのである!! 頭を下げ、謝るくらいするべきであろうが!!』
婚約破棄などどうでもよかった。嬉しくすらあったくらいだ。
だけど、これは。
暖かくアリアのことを受け入れてくれた一人の少女に裏切られ、あまつさえその少女に頭を下げることは今までの王妃教育よりも辛いものがあった。
『どうしたであるか? 早く謝罪するであるぞ!!』
『……ッ!!』
それでも、王妃教育で刻まれた恐怖心が第一王子の一喝で呼び覚まされてはもう駄目だった。逆らうことなど考えることすらできないほどに王妃教育の『傷』はアリアの魂に深く刻まれている。
『申し訳、ありません……』
『声が小さいであるぞ!! 本当に申し訳なく思っているのであるか!?』
『……ッ……! 申し訳ありません!!』
こうしてアリア=スカイフォトン公爵令嬢は婚約を破棄され、半ば汚点を隠すように公爵領へと送られることとなった。
王城や学園といった閉鎖空間でもって真相を覆い隠し、第一王子の望むがままのことが真実として王国中に広まっていった。
ーーー☆ーーー
肉が裂かれ、激痛が炸裂する。
骨が折れて腕を突き破る。
人格を否定するような言葉が耳を塞いだって無理矢理脳内に響き、尊厳を踏み躙るような行為が繰り返された。
もう何をされたのか、詳しい内容を精査することはできない。断片的に、それでいて洪水のように勢いよく湧き上がる『傷』に耐えられそうになかった。
それは公爵領に帰り、ネネと再会しても変わらなかった。輝く想いも、悪意に満ちた『傷』の痛みが塗り潰してしまう。
だから首を吊って終わりにしようとした。
それを、ネネに止められてしまった。
『お嬢様、どうして首を吊ろうとしていたんですか?』
心配してくれているのは、わかった。
だけど、それ以上にもうこんな『傷』に苦しめられたくなかった。
アリアが死んでも第一王子は当然のことだと切り捨てるだろう。リアナは……どうだろうか。少しでも何か感じてほしいとは思うが、正直アリアは自分の気持ちを整理できていない。
『お嬢様』
だから、もういいから。
これで終わり。あの婚約破棄の裏側にどんな思惑があったにせよ、うまく立ち回れなかったアリアが悪い。
貴族としての仮面をかぶり切れず、自我に縛られて公爵令嬢として完成できなかったから足元を掬われただけのこと。
愚かな女が一人死ぬだけ。
それだけの話なのに。
『実はわたくし、貴女のことが……。いいえ、今となってはもう遅いですわね。さあネネ、早く立ち去ってくださいな』
『お嬢様、散財しましょう!!!!』
最後の最後にさえも未練を捨て切れず、重荷になるようなことを口走りそうになるアリアへと、ネネは必死に迫った。
内容それ自体は重要ではない。
とにかくアリアを死なせないようにと並べ立てているだけだろう。
だけど、その必死な顔に、縋ってしまった。
『傷』から目を逸らし、暖かなものに手を伸ばそうとしてしまった。
もしかしたら、リアナのように裏切るかもしれない。
もしかしたら、メイドとしての責務を果たそうとしているだけかもしれない。
もしかしたら、目の前で人に死なれるのが嫌なだけなのかもしれない。
それでも、それでも、と繋げてしまった。
理由なんてどうでもいい。ネネがそばにいてくれるならそれでいい。
優しい夢を捨てることなどできない。
例えいつの日か自分で自分を殺してしまうとしても、今この時だけは幸せな心地に浸っていたいから。
どこまでも自己中心的で、そんな自分だからこそリアナに裏切られたのかもしれないけど、それでもネネのそばにいたいこの気持ちはどうしても捨てられない。
好きだから。
公爵令嬢だの次期王妃だの、くだらない記号を投げ捨てたアリアという一人の人間の素直な気持ちがそこにある。
「ネネ、最低な主人でごめんなさい」
「お嬢様、それは冗談か何かですか?」
ネネは言う。
何ともなしに、当然のように。
「私はお嬢様のメイドです。お嬢様だからこそ身命を賭してお仕えしたいと望んでいるんです。ですので、例えお嬢様といえども私の自慢の主人のことを悪く言うのはやめてくださいね?」
いつか、どこかで破綻するとしても。
やはりアリアはこの優しい夢を捨てられそうになかった。