第五話 密会
私はお嬢様が枕投げに疲れて寝入るのを確認して、『はしゃぐメイド』という記号のための笑顔を解除する。
状況は改善どころか悪化している。
それはそうよね、何もできていないんだから!
お嬢様は確かにはしゃいではいた。だけどそれは悪い方向に吹っ切れたものでしかない。どうせ死ぬのだから、なんて冠がつく最後の晩餐じみたものを見て喜ぶ馬鹿がどこにいるって話よね。
やっぱり話を聞かないことには始まらない、か。そうやってお嬢様が死を望んでしまうほどの何かをほじくり返して、より深く傷つけてしまうことになるかもしれないけど。
「話を聞いて、『役目』以外ろくに知らない私にできることがあればいいんだけどね……」
そう吐き捨てた、その時だった。
ぎゅるり、と闇が渦巻く。
深夜、暗く閉ざされたはずの室内に全身漆黒のローブで覆った人影──いつもの連絡役の女──が出現したのよ。
「定期連絡であります、No.5」
はいはい、『役目』の時間ね。
そんな場合じゃないんだけど、まあいつもの報告だけで終わるんだし、別にいっか。
しっかし仮にも公爵家の本邸、その奥深くにまで部外者がサラッと侵入するなんて、連絡役でしかないとはいえ相応の実力者ってことか。まあ公爵家の警備が闇魔法で視覚を誤魔化しただけで突破できる程度のものってのは問題かもだけど。視覚が機能しないからといって他の感覚を研ぎ澄ませばいい話だと思うんだけどなぁ。
それはともかく、私はさっさと報告を済ませる。
今の私はあくまで待機状態なので、公爵家の内情をどうのこうのと調べるんじゃなくて、疑われることなく溶け込むのが主な『役目』なのでわざわざ報告するようなこともないんだけどね。
「No.5」
と、いつもの報告が終わり、連絡役の女も帰るものかと思っていたんだけど、今日はいつもと違った。
「これは私見でありますが、少々『役目』から逸脱しているのではありませんか?」
その視線はお嬢様に向けられていた。
広く浅く。目立つことなく、『役目』を果たすための立ち位置を確保しろとでも言わんばかりに。
「ねえ」
悪気はないんだろう。
連絡役の女が全面的に正しいんだろう。
悪いのは私で、連絡役の女はわざわざ忠告してくれているんだろう。
だけど。
「私のやり方に異議を唱えるわけ?」
「……ッッッ!? ちがっ、そういうわけでは……っ!!」
「なら、余計なことは言わないように」
こんなのは八つ当たり以外の何物でもない。
彼女が悪いわけじゃないのに、本当みっともない。
「他に連絡事項はない? ならさっさと帰ることね」
「りょっ、了解であります!!」
全身を震わせ、怯え、後ずさっていた連絡役の女は逃げるように闇に包まれて消えていった。
彼女が消えてからもしばらく彼女が立っていた場所を眺めていた私は額に手をやり、大きく息を吐く。
「何やっているんだか……」
本当、情けない。
『役目』をいくら果たせても、大好きな人ひとり救うこともできないだけでなく、私のためにと声を上げてくれた人に八つ当たりするなんてさ。
それでも、止まるわけにはいかない。
公爵令嬢としてではなく、お嬢様という一人の人間のことを考えてくれるような人は少なくともスカイフォトン公爵家の中には存在しない。街のみんなならお嬢様のことを見てくれるだろうけど、素を曝け出して付き合えるようになるには時間がかかると思う。
今、この瞬間だけは、私しかいない。
迅速に、そしてお嬢様のためを思って行動できる人間は最悪なことに『役目』以外は軟弱極まる私だけなのよ。
だから。
だから。
だから。
その時、呻き声が私の耳に届いた。
すぐ近く。そう、横で眠っているお嬢様から。
「おじょう、さま……?」
脂汗が浮かび、悲痛に表情を歪め、何よりか細い声で『もうやめて』や『痛いのは嫌』といった言葉が漏れていて。
王都で何があったのかはわからない。
だけど、その何かはこうして王都から帰ってきた今もお嬢様を苦しめている。
──もしも『役目』などない普通の人間だったなら、こんなことになる前にお嬢様を苦しめる何かを軽減するようなことができていたのかもしれない。
『時間稼ぎ』という名の先延ばしで無為に時を消費して、夢の中でさえもお嬢様を苦しめるような愚は犯さなかったのかな。
『役目』なら簡単なのに。
広く浅く友好関係を築き、人の輪にそれとなく溶け込む術ならばいくらでも思いつくのに。
「お嬢様」
いつしかお嬢様の口から漏れ出る言葉は一つになっていた。
申し訳ありません、と。
お嬢様の口からその言葉が繰り返されていた。もうお嬢様を苦しめる何かはなく、許しをこう必要なんてどこにもないのに、それでも何度も何度も。
「今は私がいます。いかなる存在にだってお嬢様を傷つけさせやしないと誓いますから」
だから、もう泣かないでください、と。
私はお嬢様の頬に伝う雫を指で拭い、恐怖に震える身体を抱きしめました。
何の意味もない自己満足でしかないけど。
根本的な解決にはなっていないけど。
『役目』ではなく、私という一人の人間がこうしたいと望んでいたから。
……こういうところを連絡役の女は危惧しているのはわかっているんだけどね。
ーーー☆ーーー
目が覚めるとアリア=スカイフォトン公爵令嬢のメイドが視界いっぱいに広がっていた。
「なっ」
メイドとしては優れているわけでも劣っているわけでもなく、それでいて誰にも嫌われてはいない──つまりは可もなく不可もない凡庸なメイドであったがためにスカイフォトン公爵令嬢が王都へ向かうのに同行するだけの価値は認められなかった少女である。
アリアが物心ついた頃から公爵領の本邸に勤めている三歳年上の彼女は決して目立つことはなく、しかしアリア=スカイフォトン公爵令嬢にとっては違った。
人波に埋もれたら区別のつかないほどに平凡な容姿の彼女は公爵令嬢という記号でしか接してくれない周囲と違い、アリアという一人の人間を見てくれていた。
「ななっ」
そんな彼女が。
他の有象無象と違う、唯一アリアが心許せる存在が視界いっぱいに広がるほどに近くにいるだけでなく──何やら抱きしめられていた。
そう気づいた時には、もう限界だった。
「なっななっなぁななっなあああーっ!?」
どんばんどっしゃーんっ!! と。
それはもう勢いよくベッドの上から転がり落ちるアリア。
転がった衝撃で髪は乱れ、ネグリジェははだけて、何より奇声を上げるなど公爵令嬢にあるまじき失態ではあるが、そんなことを指摘するような無粋な人間はこの場にはいない。
だからといって恥ずかしくないわけではないが。
「あ、目が覚めたんですね、お嬢様」
先程まで眠っていたはずのメイドが眠気の一つも感じさせないほど明瞭に声をかけてきたことに疑問を挟む余裕などなかった。
アリアが考えられたのはメイドに先程の醜態を見られたかどうか、である。
「ね、ネネ。一つ聞きたいことがあるのですけど」
「はい、何でしょう?」
羞恥から赤くなってきた顔を隠すように俯き、それでいて未だベッドの上のメイドの顔を上目遣いで見つめ、アリアはこう問いかけた。
「先程のわたくしの醜態、見ましたか?」
「醜態???」
キョトンと首を傾げるメイド。
これは見られずに済んだのでは、と喜びにアリアの口元が緩み──
「お嬢様がベッドから転がり落ちる希少にして可愛いお姿なら見ましたけど、醜態など目撃していませんよ。そもそもお嬢様に醜態などあろうはずもありませんけど!!」
「しっかりと見ているではございませんかぁーっ!!」
笑えてはいるのだろう。
メイドと一緒にいられる時『だけ』は魂の奥底にまで刻まれた傷に目を向けずに済むから。
それが、単なる逃避でしかなくとも。