第十六話 後悔なき道を
『どうして楽しくもないのに笑っているのですか?』
それは、No.5が長年スカイフォトン公爵家に仕えながら『本国』の傀儡でもあった元メイド長の養子となり、元メイド長の紹介という形でスカイフォトン公爵家に潜り込んだ時のことである。
スカイフォトン公爵家に潜り込み、新たな命令あるまで目立つことなく待機すること。その『役目』を果たすことだけを考えていたNo.5は答えられなかった。
『役目』だから? そうかもしれない。浅く広く人の輪に入ることだけを考えたならば愛想笑いを浮かべるのが一番だ。明るく、元気で、周囲の人間に不快感を覚えさせない『キャラ』を演じるのが一番なのだ。
『もちろんお仕事として我が屋敷にいるんだろうけど、こうして共に過ごすのならば無理してほしくはないです』
だけど、その時、何かが引っかかった。
本格的に公爵令嬢としての教育を受ける前、剥き出しのアリアはこう言ったのだ。
『わたくしの前では主人とメイドという立ち位置は忘れてください。そのほうがわたくしも気が楽ですからっ』
まだ幼いアリアの言葉であり、紛うことなき本音だった。
その真っ直ぐな想いが楔のようにNo.5の胸に刺さった。アリアはネネというガワを被りメイドとして潜入しているNo.5を道具としてではなく、一人の少女として見ていたのだ。
その時は僅かな引っ掛かり程度だったかもしれない。だけど振り返ってみればその言葉がネネを救ったのだ。
『ネネっ。一緒に遊びましょう!』
──幼いアリアは屈託のない笑顔でそう言いながら抱きついてきた。
『ネネっ。最近はお勉強ばかりで嫌になりますわ。もちろん公爵家の人間として必要なものなのでしょうけど、ネネとの時間が減るのは嫌なのです!』
──幼いアリアはネネの前では年相応の女の子のように唇を尖らせていた。
『ネネっ。大好きです!!』
──幼いアリアは好意を隠すことなく、真っ直ぐにぶつけてきた。
全てが未知数で、だけど嫌ではなかった。
No.5に『暗器百般』。そうあるべしというのが当たり前だった『ファクトリー』では考えられない何かが胸の内から溢れてくる。
赤ん坊のようなまっさらな状態から獣に育てられた人間は獣のように生きる。
道具としてあるべしと育てられた人間は自己を希薄として『役目』を果たすだけのものになる。
周囲の環境がその人間の深い部分にまで影響を及ぼすというのならば、それは必然だったのかもしれない。
お嬢様のことが好きだと。
『役目』に関係なく大切で大好きなお嬢様にずっとお仕えしたいと、いつしかネネはそう望んでいた。
それでも、一年前のあの日、ネネは『役目』の外に踏み込むことはできなかった。
『王都の学園に通うため、ここを離れることになったのですわ』
寂しそうに笑うアリアはつい前までネネも連れて行きたいと父親であり公爵家当主に頼み込んでいた。そんな平均的なメイドよりも優秀な者は王都の別宅にいるから必要ない、と一蹴されたのだが(おそらく特定のメイドに懐きすぎていることを貴族らしくないと危惧してのことだろうが)。
幼い頃のアリアならいざ知らず、成長して公爵令嬢という立ち位置を自覚したアリアは強く我を通すほど我儘にはなれなかった。
『お嬢様』
目立つことなく、浅く広く人の輪に入り込む。
今のNo.5はそんな『キャラ』である以上、公爵令嬢専属のメイドになるほどの能力を発揮するわけにはいかなかったからだ。
やろうと思えば、公爵令嬢専属のメイドとなるくらいの能力は発揮できたし、そうなるよう立ち回ることだってできただろう。
だけど、それは『役目』ではない。
だから、現状維持に努めてきた結果がこれだ。
本当は、嫌で嫌で仕方なかった。
邪魔な奴らは殺してでもアリアのそばにいたかった。
ああ、だけど。
赤ん坊のまっさらな状態から刻まれた常識がNo.5を動かした。
『今まで私のような者がお嬢様のお世話をすることができて、本当に幸せでした。これからは私よりも優秀な、お嬢様に相応しいメイドが尽くしてくれることでしょう。慣れない環境で戸惑うこともあるでしょうが、何の心配もいりませんよ』
『そ、う……ですわよね』
アリアの元気がないのは不安からくるものだと解釈したと思わせるような言葉選び。
広く浅く、まるで身分を弁えるように。
そうして本音を隠して、アリアを見送った。
そこからの一年は想像以上に辛かった。
『ファクトリー』ではいくら隣人が狂い、砕け、いなくなっても何の感慨もなく死体を処理していたのに、アリアがそばにいないだけでおかしくなりそうだった。
だからこそ、気づけたのだろう。
ネネにはアリアがいないとダメだということに。
一年後、アリアが帰ってきて、死を望むほどに傷ついている姿を見た時は心底後悔した。もっと早くに決断できていればと。
その後悔があったからだろう。
アリアが誘拐され、ネネもまた三人の男に脅される形で連れ去られた際に躊躇することはなかった。
ワイバーンの背の上で三人の男を殺し、蹴り落とす。アリアを救う、それ以外はどうでもいいと、後悔しない選択をするのだと。
だから、ぎゅるりと闇が渦巻き、全身漆黒のローブで覆った連絡役の女が現れた時もこう即答したものだ。
『「本国」より──』
『どうでもいい』
スカイフォトン公爵家にNo.5を送り込んでいるくらいだ。『他の所』にも似たような者を送り込んでいると考えた場合、今回の一件は事前に察知されていた可能性が高い。
はっきり言って王国が『本国』を出し抜けるとは到底思えない以上、『本国』はわかった上で見逃していたのだろう。
となれば、『本国』からの命令がどんなものかも自ずと推察することができる。……それがなんであれ、今のネネは無視しただろうが。
『私はお嬢様を救うのよ。例え「役目」に反することになろうともね!!』
『……それが何を意味するのか、本当にわかっているのでありますか?』
『もちろん』
連絡役の女はあくまでお目付役でしかない。
第一世代が自壊した場合はそれを隠蔽・処理することはできるだろうが、こうして反旗を翻された場合にできることはない。
何せ彼女はただの人間なのだ。
一応は『本国』の正式な諜報員ではあるが、単純な力で言えば寿命と引き換えに魂まで弄り回した第一世代には遠く及ばない。
『そこまでの覚悟があるなら仕方ないでありますね。公的にはともかく、私的には一度しかない人生好きに生きるべきだとも思うでありますし』
だから、これは単なる独り言であります、と。
全身漆黒のローブで覆っているがために表情まではわからなかったが、どこか穏やかな声音で彼女はこう続けた。
『「本国」はアリア=スカイフォトン公爵令嬢に負の感情を注入し、魂を増幅させ、最後には犠牲にすることで「賢者」の遺産の一括管理権限を獲得しようとしている第一王子の企みを静観するつもりであります。その上で「賢者」の遺産の一括管理権限を横取りするつもりでありますね』
おそらく『本国』からの命令は一連の流れに従え、というものであろう。独り言にはなかったが、第一王子直属の近衛騎士がわざわざネネも誘拐したことを鑑みれば一連の流れ──つまり横取りを企む『本国』の狙いとも合致している流れも読めてくる。アリアの目の前でネネを殺し、負の感情を誘発するつもりなのだろう。
アリアに出会う前のNo.5であれば疑問を挟むことなく受け入れた。
アリアに出会った後のネネは自分の命はともかく、アリアを犠牲とする一連の流れを静観することなどできない。
『つまり、向こうには横取りのための戦力が配置されているであります。それも第一世代の失敗を糧にして性能を向上させた第二世代がでありますよ』
元より簡単に済むとは考えていない。
魔法使いが主戦力となっている王国でも血筋だけで言えば最高峰たる第一王子を敵に回す、なんてものが前座にしかならないようなゲテモノが待っているのは当然だ。
何せ『本国』の思惑の外に出ようと言うのだ。
『暗器百般』や『最強』が次なる成功、安定供給のためのデータ取りの副産物として生まれるくらいに深い闇の底は計り知れない。
『……命令に疑問を持たないお人形であれば、何も知らずに死んでいくのもアリなのかもしれないであります。貴女の置かれた立場を考えれば何も知らずに朽ち果てるのもまた救いかとも思っていたでありますからね。しかし、「本国」が施した鎖を引き千切るだけのものを手に入れたのであれば足掻くのもまたアリでありましょう。報われる可能性は限りなく低くとも、知ってしまったからには手を伸ばさずにはいられないでありますしね』
せめて後悔のない道を歩むであります、という独り言を最後に連絡役の女は消えた。
『本国』の諜報員でありながら、十年以上も見守ってきたネネに思うところでもあったのか、最大限に譲歩した形で。
その果てにネネはアリアの下に駆けつけた。
ワイバーンが最後の命令に従って目的地である王都の中心にそびえる王城に到着したと同時に邪魔してくる第一王子直属の騎士を根こそぎ『暗殺』し、大切で大好きなアリアの下へと。
だからこそ。
アリアを付け狙う第一王子を殺した程度では何も解決しないことも知っていた。
むしろここからが本番。
予定調和の流れを断ち切ったネネを排除して、予定通りアリアを犠牲として『賢者』の遺産の一括管理権限を獲得するために『本国』が放った精鋭は必ずや襲いかかってくる。




