平安時代叢書 第一集 安殿親王(あてのみこ)と薬子(くすこ)
この作品は「いささめ(http://ameblo.jp/tokunagi-reiki)」で4月11日から5月30日に渡って公開された作品を一つにまとめたものです。
女の幸せは、妻となり、母となることだという人がいる。
しかし、それは否だと私は考える。
そしてこう考える。
幸せとは、男であれ、女であれ、誰かに愛されることなのではないのだろうかと。
そう考えると、藤原薬子は幸せな人生だったと思われる。
「親王は何処へ行かれたのか。」
「種継殿のもとにございます。」
「またか。」
「よろしいではございませぬか。」
宮中において、皇位継承者候補の一人である安殿親王が時として行方をくらませることはもはや恒例となっていた。
行方をくらますと言ってもそこはまだ十歳の子供。行き先などたかが知れていたし、特に心配するようなところではなかったから、宮中の者は気にも止めていなかった。
かなりの確率で、そこは藤原種継のもとである。
安殿親王が、父である桓武天皇の信頼も厚く、新都「長岡京」建設の最高責任者である藤原種継のもとを訪問するのは、次代を担う者として歓迎されこそすれ、非難されるようなものではなかった。
もっとも、安殿親王の目的は、国家に功労のある家臣ではなく、その子供にあった。
「薬子。」
「みこーっ!」
安殿親王の姿を目にとめた少女は一目散に安殿親王のもとに駆け寄って飛びついた。
安殿親王はこのところほぼ毎日、種継の娘である藤原薬子のもとにやってきていた。
「薬子ね、薬子ね、みこのお嫁さんになるんだ。」
さすがに最近はこう言われることが恥ずかしくなってきていたが、安殿親王はそれを当然のことと考えていた。薬子はいずれ安殿親王の妻になることを意識していたし、この屋敷にいる者は誰もがそれを疑っていなかった。
物心着いた頃から安殿親王のそばには薬子がおり、二人を見守るように薬子の兄の仲成がいた。まるで三人の兄妹であるかのような関係は微笑ましくもあり、また、理想的な子供達の光景と映っていた。
桓武天皇も自分の息子が自分の一番の忠臣の子と仲良く過ごすのを目を細めてにこやかに微笑みながら眺めていた。
いずれ、仲成は安殿親王の右腕となり、薬子は安殿親王の后となるであろう。
これならば世は安泰だと安心した。
現在の我々は「奈良時代」「平安時代」と一言で片づけるが、この奈良時代という時代区分はわずか七〇年しかないのに対し、平安時代は四〇〇年存在する。
それでいて、この二つの時代は対等な二つの時代として並立している。つまり、わずか七〇年しかない奈良時代が、四〇〇年続いた平安時代や、二〇〇年続いた室町時代や、二六〇年以上の江戸時代と対等に扱われるのである。
では、なぜ七〇年しかない奈良時代が独立した時代として扱われるのか。
この問いに、首都が奈良にあった時代だからという答えでは不充分である。
では、充分な正解とは?
正解は政権の交代である。
中学あたりの教科書では単に桓武天皇による新都建設としか記されていないが、実際にはそんな単純な話ではない。
奈良時代と平安時代では天皇家が違うのである。
きっかけは、天武元(六七二)年の壬申の乱にある。
天智天皇の死後、天智天皇の息子である大友皇子と、天智天皇の弟の大海人皇子とが皇位を巡って争い、大海人皇子が勝利を収め天武天皇として即位した。
その結果、皇位は天武天皇の子孫が継承するようになり、天智天皇の子孫は皇族ではあるものの皇位からは遠ざかるようになってしまったのである。
だが、その天武天皇家の直系の血筋が途絶えてしまった。そこにいたのが天智天皇の孫であり、桓武天皇の父である白壁王である。
白壁王はすでに六二歳という高齢であったが、天皇家の血筋を最も色濃く残していることや、天武天皇家の女性を妻としているため女系の皇位継承を図れることから皇位に就くこととなり、光仁天皇となった。
この結果、血筋はつながってはいるものの、天皇家の交替が現実のものとなった。
これは当時の人にとっては単に奈良から京都へ首都が移るだけの問題ではなく、国家の根幹を覆す大ニュースであった。
だから、奈良時代は一つの時代として認識されるのである。
ただし、この当時の人が奈良時代を認識するのはもう少し後になる。
天武天皇家の断絶により、帝位は天智天皇家へと移った。だが、天武天皇家のもとで勢力を伸ばしていた勢力がなくなったわけではない。
桓武天皇が新都に固執したのも、天武朝系の貴族や寺院の影響力を抑えるためであり、これからの時代は天智天皇家のものであると宣言するためである。
その最大の協力者になっていたのが藤原種継である。
奈良時代、藤原氏は四つに分かれ、内部ではそれぞれが勢力争いをしながら、外部に対しては藤原氏という一枚岩で臨んでいた。言うなれば、派閥同士が争いを見せてはいるが、外に対しては党としての結束を保っている自民党のようなものである。
種継はその四つの藤原氏のうちの藤原式家の当主であり、藤原家全体のトップに君臨していた。
桓武天皇の信任も厚く、種継は長岡京の造営の事実上の最高責任者として奮闘していたが、延暦四(七八五)年九月二三日の夜、種継が暗殺されたことが薬子の運命を翻弄させる。
「父上ーっ!」
父の死体にすがりついて泣き崩れる幼い兄妹の姿は、周囲にもらい泣きを誘った。
特に、妹のかわいらしさと泣き顔との対比が見る者の心を打った。
そして、運命は兄妹に苦悩をもたらす。
父が全身全霊をかけて造り上げてきた新しい都「長岡京」の放棄と、さらなる新しい都「平安京」の造成である。
種継暗殺と平安京建設の決定の裏にはドロドロとした政界や宗教界の絡んだ裏事情があると見て良い。表向きは怨霊のたたりとか凶事とかとされているが、実際のところは両天皇家派の貴族の権力争いに奈良の都の諸寺院が絡んでの結果と見るところが妥当であろう。
実際、皇位継承者の筆頭と目されて皇太子の地位にあった早良親王(桓武天皇の弟)は、自身は天智天皇の子孫でありながら天武天皇家に接近しており、不穏分子と見なされていたため淡路島へ追放され、その途中で死去。暗殺の実行犯とされた大伴継人や佐伯高成ら十数名が死刑、また、五百枝王、藤原雄依、紀白麻呂、大伴永主など、早良親王の側近や天武朝系の貴族ら数十名が流刑となった。
種継暗殺というテロに対する桓武天皇の毅然とした態度は天武朝系の貴族や寺院に大きな衝撃をもたらした。そして、それまではその権勢をほしいままにし、遷都に頑迷に反対していた東大寺をはじめとする奈良の都の寺院勢力が大きく後退することとなったのである。
兄妹にとっては、父を失い、父の成してきたことが無に帰し、自分たちの生活に苦痛をもたらす出来事であったが、安殿親王にとってはメリットとなる出来事でもあった。
すなわち、皇位継承権のライバルの脱落、そして、反対勢力の衰退である。
藤原薬子が何年の生まれなのかを伝える資料はない。
ただし、一つだけ言えることがある。
それは、安殿親王より歳上ではないということ。
安殿親王、後の平城天皇をたぶらかした悪女というイメージがあるからか、平城天皇より歳上の大人の色気を漂わせた女性とする描写がよく見られるが、それは間違いである。
なぜなら、薬子の兄の仲成の生まれが宝亀五(七七四)年であり、これは安殿親王と同じ生年。
つまり、どう考えても安殿親王よりは歳下であったはず。
しかし、あまりにも歳下だと今度は薬子の妊娠と出産に不整合が生じる。
となれば、おそらく、安殿親王より一歳か二歳下とするのが妥当であろう。
この時代の貴族の結婚に恋愛結婚などありえない。
恋愛という感情はあるが、結婚は恋愛の延長線上に存在するものではなく、家と家との結びつきのための手段である。
そうなると、どんなに愛し合っているかどうかなど全く考慮されない。考慮されるのは相手の身分と立場である。
そのとき考慮されるヒエラルキーの頂点は天皇家。それも、将来の天皇となる可能性の高い者であれば最良となる。
その次が、より身分の高い貴族との結婚。この場合、藤原家がその頂点となる。
種継の娘である薬子が安殿親王の妻になると主張するのを誰もおかしなことと思わなかったのは、単に幼子の戯言だと見過ごされていたからではない。種継という桓武天皇最大の忠臣の娘だから、それが当然だと見なされたのである。
だが、もう種継は居ない。
最も頼りにしていた種継を失った桓武天皇は、政権の安定を図る。
安殿親王を皇太子に任命し、正式に皇位継承者であることを宣言したのである。
そして、安殿親王の后として、種継の前に自身の最大の忠臣であった藤原百川の娘、藤原帯子を指定した。
「何をお考えですか。」
安殿親王は桓武天皇の言葉に唖然とした。
藤原帯子は母の妹、すなわち叔母である。年齢的には近いとは言え、許されるようなこととは思えなかった。
「このようなことが許されるとお思いですか。」
「朕が許す。」
「天が許しませぬ。」
「許さぬのは薬子のためか。」
父の指摘に安殿親王は何も言えなかった。
その通りだった。
自分は薬子を妻とすることを願っている。
皇太子は庶民と違い、好きな人と結婚するなどできないと生まれる前から聞かされ続けていると言っても良い。だから、頭では理解しているつもりである。
だが、本心は、自分はそうではないと信じていた。
薬子が好きで、薬子を后とすることが願いで、それは叶うものと思っていた。
それが叶わないと知ったのは薬子が結婚したという知らせを受け取ってからである。
通常であれば、種継ほどの家系に生まれた女性は天皇家に嫁ぐ。だが、それは種継が存命中ならばという条件つきであり、亡き種継の娘という立場となった今ではもう望めないことである。
故人の娘ということでは藤原百川の娘、帯子も同じではないかとなるが、帯子は父だけでなくは姉の威光もあった。
一方、薬子にそれは望めない。父種継ただ一人が薬子の威光であり、それが故人となっては威光など期待するだけ無駄であった。
派閥争いを繰り広げている藤原家の中で、威光を失った年端も行かぬ娘の運命は藤原家の内部に留まるのが普通である。
その結果選ばれたのが藤原縄主。薬子の父種継とは従弟にあたり、おそらく薬子より一五歳近くは歳上のはずである。
「そんな……」
自分が結婚すると知ったときは喜んでいた。相手は安殿親王だと思っていたから。だが、牛車に乗せられて連れて行かれた先が宮中ではないことに驚き、夫として紹介された人物が安殿親王でないことを知って失望した。
縄主とてそれは理解していた。皇太子妃となるべきだった少女がそうでなくなり、その相手として選ばれたのが自分だと。
目立った実績も野望もなく、ただ平穏無事な人生を送る独身男である自分なら薬子の押しつけ先に適切なのだろう。そして、運が良ければ藤原家のための歯車になって天寿を全うできるが、運が悪ければトカゲのしっぽよろしく捨てられる。
いまの自分は藤原家の中の負け組だと悟った。
それでも、未だ初潮も迎えていない幼女を押しつけられた縄主はできる限りのことをしたのである。
安殿親王を思って泣き続ける日々に潤いをもたらそうと優しく接し、貴族ですら手に入れることの難しい高価な品々を買い求め、豪華な食事を用意してなんとか薬子を喜ばそうとした。
「薬子、唐の着物だよ。」
「薬子、甘いお菓子だよ。」
「薬子、きれいな絵だよ。」
それはまるで娘をなだめる父のようであった。
縄主は藤原一族の一員ではあるため出世レースには参加しているが、どうにもうだつの上がらぬ日々を過ごしている凡人というのが世間での評判である。
貴族ではあっても目を見張るほどの裕福さなどなく、薬子のための浪費は決して軽くなかったはずである。
それを知ったからか、それとも初潮を迎えたからか、それとも安殿親王と連絡が付かなくなったからか、薬子はいつしか優しき夫に惹かれるようになっていった。
必死になって安殿親王のことを忘れようとし、歳の離れた夫のことを好きであろうと努力した。
その結果、三人の息子と二人の娘に恵まれた。
平凡ではあるが優しい夫と、可愛い子供達に囲まれた、慎ましやかでも幸せな暮らしを送ることを薬子は考えるようになった。
それでも薬子はどうしても安殿親王を完全に忘れることができずにいた。
そして、それは夫の縄主も理解していることだった。
元はと言えば縄主の優しさが原因である。
きっかけは、安殿親王の后、帯子妃が亡くなったことである。
その理由は現在でもはっきりしないが、病死である可能性が高い。
皇太子妃が空席となったという知らせを聞いたその場で、縄主は自分の娘を推すことを決めたのである。
「宮中に入れるのでございますか。」
「うむ。」
薬子は夫の相談に驚きを見せた。
嫁がせると言っても今すぐに結婚するわけではなく、その地位も正妻ではない。それも当然で、正確な記録がないためはっきりとは言えないが、このときの薬子はまだ二〇代、どんなに歳を上に考えても三十歳になったかならないかという年齢である。
いかに結婚年齢が若いとはいえ、その年齢の女性の長女が何歳かと考えたとき、セックスに耐えうる年齢ではないことは容易に想像できる。
それに、縄主は種継とは比べものにならない低い地位。天皇の側近でもなければ高位の大臣でもなく、自分の娘を后に差し出すのは差し出がましいとしか言いようのない地位である。自分の夫を客観的に見て、薬子はそれが不安になった。
「まだ早すぎませんか。」
「早いに越したことはない。それに、宮中ならいつでも会いに行けるじゃないか。」
「そうですけど。」
「このくらいの歳で宮中に入るのは珍しくないぞ。」
薬子は純粋に自分の娘を心配していた。いや、安殿親王のことを忘れるために必死になってそのことを考えていたというほうが正しい。
「実はな、はっきりしたことは言えないし、どこになるかもわからないのだが、国司として赴任することになりそうなんだ。そうなると、この家で、薬子と子供たちだけで暮らしていかなければならない。でも、宮中に入れば、近い歳の子もたくさんいるし、薬子だって宮中に入れる。」
たしかに縄主はいつ国司になってもおかしくない地位ではあった。毎年どこの国司になるだろうかという期待と不安が脳裏を支配し、どこの国司にもなれなかったという知らせを耳にしては、安堵と失望におそわれていた。
ただ、夫の口から国司云々といった言葉が出るのは結婚して初めてだった。
それが本当だとすれば、縄主は生まれて初めて都を離れることとなる。遷都にあわせた移住なら経験があるが、地方への赴任はない。
夫の赴任先に家族全員で出掛ける者も多いが、自分の子供達はそんな長旅に耐えられるような年齢ではない。
だとすると、夫は単身赴任となる。
「薬子や子供達を安心させるためにも、宮中がいちばんじゃないかなって思うんだ。」
夫のその考えに、薬子はためらいながらではあるが賛成した。
家族思いの良い夫。薬子は素直にそう思うことにした。
無論、夫の本音は別にあることも見抜いていた。
自分がどんなに薬子のためを思っても、薬子は自分を好きではない。薬子が好きなのは安殿親王ただ一人。
薬子に尽くそうと、薬子に真心こめて接しようと、それはどうにもならぬこと。
そういうとき、夫として、妻の願いを叶えてやるのは最後の優しさなのかもしれない。
延暦二三(八〇四)年、薬子は娘とともに宮中に入った。
藤原縄主が誰よりも先んじて自分の娘を宮中に差し出した、それも、妻と一緒に差し出したという知らせはそれなりに評判を呼んだ。良くない意味で。
薬子に与えられた役職名は東宮宣旨。皇太子に仕える女官というのが名目であり、その職務は皇太子妃とやがてはなるであろう幼女、すなわち自分の娘の世話をすることである。
東宮宣旨とは種継存命中ならばあり得ないような低い身分であるが、縄主の権力ではそれが限界であった。
それでも薬子は夫の配慮に感謝した。遠くから眺めるぐらいしかできないが、少なくとも、東宮宣旨なら安殿親王の側にいられる職務である。
一方、縄主の評判は確実に落ちていた。
それまでの縄主は、平凡で目立たず、藤原家の一人ではあっても出世もせず、美人の嫁と可愛い子供達に囲まれた家庭人というイメージしか持たれていなかったのである。
ところが、その嫁が宮中に入った。
それが妻を思ってのことと考える人はおらず、自らの出世のために美人の妻を差し出したと考えるようになったのである。
だが、それならば縄主は出世していなければならない。
そころが、このときの縄主は何の職にも就いていない。いや、就けていなかった。
どこの国司にもなれず、中央の役職にも就けず、位だけは貰っているが事実上の無職である。それは貴族としての縄主の限界だと考えられた。
そして世間は縄主を笑いものにした。出世したくて妻を売ったのに出世できなかった愚か者と。
そのため、薬子と娘一人だけが宮中に入ることとなり、縄主、そして、その他の子供たちは自宅に留まって宮中に通うようになった。いかに宮中のすぐそばに家を構える貴族であっても、これでは別居も同然である。
宮中に入った薬子には職務に応じた部屋が用意されていた。それは特別ではなく、薬子と同じ職務にある女性ならば誰もが同じ待遇である。その部屋の大きさは貴族の娘に与えられる部屋とは思えない狭さであった。
こうした個室が単に生活の場であるというなら何の問題もないのだが、この個室が逢い引きの場として利用されることは珍しくなく、桓武天皇はそれに頭を悩ませていたと伝えられている。
この当時、女性が男性の前に姿を見せることなどまずあり得ないことであった。とくに、貴族の令嬢が姿を見せることは夢のまた夢であり、男性にとってその夢を叶える限られた手段が宮中に仕える女性であった。
薬子は男性が抱く夢の全てを叶えさせてくれる女性に見えた。種継の娘という血筋、二十代でありながらそれを感じさせぬ若さ、そして、周囲の男を見とれさせる美貌。
ある者は薬子に恋文をしたため、ある者はプレゼントを贈り、またある者は禁を犯してまで薬子の部屋に何とかして忍び込もうとして捕まった。
とにかく、薬子は宮中のアイドルになったのである。
そして、薬子の住まいにいかに行くかが宮中の男性にとっての関心事になった。
安殿親王が薬子に気づくのにさほど時間はかからなかった。
しかし、薬子のもとを安殿親王が訪ねるのは不可能だった。いつ、誰が、どのように薬子に接したかは全て監視されていた。そして、禁を犯した者には相応の制裁が待ちかまえていた。
東宮宣旨としての薬子の役目は、数年後に皇太子妃となる娘の世話をすることである。その娘に男を近づけることは許されず、その側に仕える女官もそれは同じであった。許されている男はただ一人、安殿親王だけである。それも正式に婚姻の儀を終えた後の話であり、いかに皇太子であろうと今の安殿親王にそれは許されなかった。
薬子が安殿親王のもとを訪ねるのはもっと不可能であった。東宮宣旨に許された行動範囲では近づくことはできても接することは許されなかった。
ただ一つ二人が出会う方法。それは、法を犯すことである。
月明かりに照らされた夜に、人目を忍んで。
「お会いしとうございました。」
「薬子。やっと……」
夕闇に浮かぶ二つの人影が一つになるのには一日で充分だった。
すでに安殿親王は三十路を迎え、薬子も間もなく三〇歳になろうとしている。
だが、このときの二人はまだ十代の心のままだった。
別の人を抱き、別の人に抱かれたことはあっても、好きな人が相手というのは初めてであった。
これは許されざる恋だと二人とも理解していた。
理解はしていたが、それよりも、相手を好きだと思う気持ちのほうが強かった。
「そなたを后としたい。」
「それはなりませぬ。それは許されぬ定めにございます。」
「構わぬ! 薬子のためなら何であろうと!」
「みこ……」
これはただ一度の過ちではなかった。
過ちは二度、三度と繰り返され、宮廷の誰もが知るものとなった。
こともあろうに皇太子が将来妻となるべき娘の母に手を出した。
これは大スキャンダルである。
これを知った桓武天皇は急遽安殿親王を呼び出すが、安殿親王はこの呼び出しを拒否。それどころか、薬子との関係を公のものとして認めてもらいたいとの願いを届け出る。
桓武天皇はこれに激怒する。
それまでは、自分の忠臣であった種継の娘と甘く見ていたが、今となっては皇太子をたぶらかす悪女としか思えなくなっていた。
桓武天皇は、薬子の宮廷追放を決定する。
安殿親王は必死の抵抗を見せるが薬子の追放を覆すことはできなかった。
このとき、追放された薬子がどこへ行ったのかを伝える資料はない。縄主のところに戻ったのかも知れないし、どこか別のところに幽閉されていたのかも知れない。
何れにせよ、安殿親王と薬子の仲はこのとき一度途切れる。
薬子との仲を裂かれた安殿親王は自室に閉じこもるようになり、皇太子としての職務を遂行しなくなった。
これは桓武天皇にとって予想外であったとするしかない。
少なくとも、薬子と逢瀬を重ねることと皇太子としての職務遂行とは何の関連性もなかった。真面目に皇太子としての職務を遂行しているし、皇太子としての安殿親王に不満を挙げる者など誰もいなかったのである。
薬子と会っている時間は夜。これは完全なプライベートタイムであり、睡眠を削っているだけであって、政務に支障を来すような事などしていない。
桓武天皇の考えは、薬子と引き離すことで安殿親王はよりいっそうまじめに皇太子としての職務に励むようになるであろうというものであったが、現実は真逆であった。
薬子への思いを募らせたあげくうつろな表情が続き、睡眠時間を削らなくなった代わりに不眠に悩まされるようになった。
原因が薬子と会えないことにあるのは誰の目にも明らかであった。にもかかわらず、桓武天皇は薬子追放に固執した。
男をたぶらかす悪女。
男を惑わす美貌。
男を虜にする女心。
薬子という女性を知れば知るほど、薬子という女性が恐ろしくなる。
桓武天皇はそれを感じていた。
しかし、どうして桓武天皇はそこまで薬子を憎んだのだろうか。
現代の評価からすればこの桓武天皇の感情も理解できるが、この時点ではたかが男女関係のことに過ぎない。そこまで目くじらを立てる必要があったのだろうか。
こう考えたときに思い浮かんだのは、種継暗殺直後の桓武天皇の態度である。
テロに対する毅然とした態度は問題ない。問題は、テロに関係あるとされた人たちに対する処罰である。多少怪しいというだけで問答無用に追放され、ときには死刑にされた。当時の人からも現在の人からも名君とされる桓武天皇であるが、こうした行動を考えると桓武天皇の政治は恐怖政治だったのではないかと考えてしまうのである。
こうした粛正を伴う恐怖政治は何も政治のトップに限らない。組織のトップに立つ者や、ときには組織そのものが恐怖政治を行なうというケースは歴史上いたるところに存在したし、現在でも存在する。
そこに共通しているのは、そうした粛正を行なっている個人は悪人ではないこと。悪人どころか、善と悪で言えば善に荷担する人がこうした粛正を容赦なく行なっている。そして、人間の価値判断で善と考えられる行為や行動を行なっている人であればあるほど、粛正を容赦なく行えるようになる。
自らを正義と考える人が許さないのは悪である。だから悪とは滅ぼさなければならない存在とする考えである。その行き着く先が、一点の曇りもない善以外は全て悪とする考え方である。
桓武天皇はそこまでは行かなかったが、それでも、自分を善とし、自分に逆らう者は悪とすること、そして、自分が悪と考える者を排除することには躊躇しなかった。
桓武天皇は庶民の暮らしを悪化させるようなことはしなかった。恐怖政治のターゲットはあくまでも、皇族や貴族、そして寺院勢力といったいわば特権階級だけに向けられており、その判断基準も善悪でいけば善である。
これがもし、スターリンや毛沢東のように一般庶民の善悪をも正すようになっていたら、それは本人がいかに善人であっても大悪人と一括されて終わりであるし、後世の歴史家もできもしない空想を押しつけたと判断して終わりであるが、桓武天皇が偉いのは自分の善悪のターゲットを特権階級だけに絞ったことにある。
警察権力の整備に心を砕いたのも治安維持のためであって言論統制のためではない。そのため、一般庶民は負担が軽くなり、安全で快適な暮らしをおくれるようになっていた。
庶民というものは、自由と安心が保証され、生活水準が良くなれば、特権階級の間で恐怖政治が繰り広げられていても気にしないもの。だから桓武天皇は恐怖政治を行いながらも名君として賞賛されるという栄誉を手にしたと言える。
もし、安殿親王や薬子が一般庶民であったら、例えそれが宮中のすぐそばで行なわれている情事であろうと桓武天皇は気にしなかったであろうし、気にしたとしてもその恋に苦しむ二人の若者を助けようとしたはずである。
だが、安殿親王も薬子も庶民ではなかった。
だから恐怖政治のターゲットになった。私はそう考える。
延暦二四(八〇五)年七月、遣唐大使であった藤原葛野麻呂が帰国し、大使を無事に務めた功績により従三位に叙せられた。
帰国した葛野麻呂は宮中の様子が張りつめているのを不可解に感じ、それが天皇と皇太子の対立によるものだと知って、原因となっている薬子の元を訪れた。
葛野麻呂がどうやって薬子の元を突き止めたのかは現在でも不明であり、また、薬子がどこにいたのかもわからない。
しかし、この葛野麻呂が安殿親王と薬子の間を取り持つことに成功したことで、少なくとも宮中の張りつめた空気を和らげることになったのである。
葛野麻呂がこのような行動に出た理由はわからない。
ただ、唐に渡っていた葛野麻呂は、五〇年前、唐を混乱に導いた揚貴妃のことを良く知っていたはずである。
そして、揚貴妃の登場以後、皇帝とその周辺の勢力が激変したことも知っていたはずである。
遣唐大使としての役割を果たし、三位の地位を手にした葛野麻呂であるが、今のままではそれ以上の出世など厳しいものであった。
しかし、安殿親王が皇位に就いた瞬間という希望ならある。その瞬間、安殿親王は天皇としての権威をもって薬子を手に入れるであろう。そのとき、間を取り持った恩人として自分が存在していればどうか。
揚貴妃の周囲にいることで出世を手にした者と同じ結果を得られるのではないか。
無論、揚貴妃の最期も、揚貴妃に取り入って出世した者の末路も葛野麻呂は知っている。しかし、知っていることと繰り返すことは同じではない。過去を知っている者は、現実の結果はともかく、過去と同じ結果を自分は繰り返さないという自信を持っていることが多く、葛野麻呂もそれは例外ではなかった。
桓武天皇は葛野麻呂に安殿親王と薬子との連絡の仲立ちをするのをやめるよう命令したが、葛野麻呂はその命令を拒否したばかりか、薬子を自分の秘書ということにして宮中に入れたのである。
これは三位であることの特権を利用しての行動であった。
皇太子が一女官の元を訪れるのは問題であるが、三位の貴族の元を訪れるのは何ら問題ないことである。
その貴族のもとに秘書としての役割を担っている女性がいることもまたおかしなことではない。特に三位としての地位のある貴族となると数十人から百人を越える部下を宮中に待機させておくこととが普通であり、その中に女性がいることは、当たり前どころか、置かなければならないと定められていること。
藤原家の女性としては常識の範疇を越えた格下げの待遇であるが、薬子は安殿親王と堂々と逢えるということでこれを喜んで受け入れたようである。
葛野麻呂が天皇に反旗を翻したことは桓武天皇を激怒させたが、葛野麻呂はそれを平然と聞き流した。
それは、他の貴族の反発を招く行為ではあったが、理解される行動でもあった。
桓武天皇は、年齢からも、体調からも、いつ何があってもおかしくない状況にあった。一方、薬子との連絡を手にした安殿親王は目に見えて体調が回復し、皇太子として申し分ない若者に戻っていた。
この状況で、今の絶望と将来の希望を持つ者が桓武天皇と安殿親王のどちらにつくのか、答えは一つである。
もはや桓武天皇はいつ命を亡くしてもおかしくないほど衰えていた。病が全身をむしばみ、痩せこけたその姿は見る者を悲しくさせた。
逆に、安殿親王のもとを訪ねる貴族は日に日に増えていた。目的は一つ、安殿親王即位後の出世である。
そして、そのときは突然訪れた。ただ、それに驚く人はいなかった。来るべき時が来たかといった感覚である。
延暦二五(八〇六)年、五月一八日、桓武天皇崩御。
同日、安殿親王が皇位に就く。平城天皇である。このとき、平城天皇三二歳。
元号は延暦から大同へと改められた。
平城天皇は即位から一時間と経たずに薬子の追放を解除する。これは誰も驚かなかった。むしろ、それを歓迎する空気も漂い、薬子は桓武天皇の恐怖政治の犠牲者であり、平城天皇はその被害者を救ったといった感覚が宮中を支配していた。
しかし、いかに平城天皇の権力をもってしても薬子を后とすることは許されなかった。薬子はあくまでも縄主の妻であり、平城天皇の后となるのは薬子の娘なのである。
「もう、薬子を離しとうない。」
「主上……」
法は許さなくても、二人の間を裂く障害はなくなった。
平城天皇即位の夜にはもう薬子が平城天皇と一晩を過ごしている。
これを知った貴族の中には、平城天皇が統治に大した興味を示さぬ暗愚な天皇となると考えた者もいた。
そしてこう考えた。
謹厳実直な桓武天皇の時代と違い、平城天皇の時代は良く言えば緩やかな、悪く言えば好き勝手なことのできる時代になると。
しかし、それは一晩しかもたない幻想であった。
即位の翌日、全ての貴族は耳を疑う知らせを耳にした。
中流から下流の役人を抜擢する一方、薬子や仲成など、自分とプライベートのつきあいのある者と接触しようとした者を閑職に回すとしたのである。
さらに、父である桓武天皇の末期、出世のために安殿親王にすり寄り、桓武天皇をないがしろにした者については、閑職では済まされず、宮中から追放するとした。
それとは逆に、桓武天皇に忠誠を尽くし自分にすり寄らなかった貴族もいる。そして彼らこそ自分の頼りとする貴族であると平城天皇は考えた。平城天皇は彼らの地位をそのままとしたのである。
そのため、新帝即位に伴う人事異動は目立ったものとなっていない。
これは桓武天皇の政策の継承を宣言しただけでなく、より徹底させるということである。
平城天皇が先帝桓武天皇に逆らったのはただ一つ、薬子の地位だけである。それ以外は何もかもが桓武天皇の政策の継承であった。
その宣言は、新帝即位に伴う地位向上を狙っていた者を失望させたが、その代わり、平城天皇は能力の高い者の支持を獲得した。
桓武天皇は人材を見極める力が高かった。だからこそ名君と呼ばれ信頼も厚かったのである。
その桓武天皇が見定めた人材は、桓武天皇にすり寄って出世した人材ではなく、その能力の高さで地位をつかんだ人材である。その証拠に、桓武天皇の政策に堂々と反論しようとその地位が奪われることがなかったばかりか、むしろ桓武天皇から高い評価を受けるようになっていたのである。ただし、これには条件がある。桓武天皇が悪と判断しないことと、天武朝系ではないこと。
天武朝系の貴族は元々追放されているか、追放されていなくても冷遇されている。平城天皇は彼らの地位をそのままにした。
問題は、天智朝系でありながら桓武天皇の元を去り、安殿親王、すなわち平城天皇に接近しようとした者である。こうした者に共通しているのは、派閥の選択は正解でも、能力に問題有りと言わざるを得ない点である。つまり、能力が低いゆえに桓武天皇の眼鏡に適わなかった人材ということになり、平城天皇は彼らを冷たく突き放した。
これとは少し異なるが、薬子の夫である縄主はこのとき初めて正式な職を手にした。太宰少弐、つまり、大宰府のナンバー2である。地位も権力も、このときの縄主の位からすれば順当なものであるが、これを額面通りに受け取る人はいなかった。
ある人は薬子を手に入れるために平城天皇が邪魔になった夫を九州に追いやったのだろうと考えた。
またある人は、縄主が妻を利用して出世したと考えた。
このどちらも不正解とは言えないが、それだけが正解とも思えない。
ここは、そうした個人的な感情は捨て置いて、縄主個人の能力に目を向けるべきであろう。太宰少弐になってからの縄主はこれまでの凡庸の人物といった評判を一掃する有能な官僚に変貌したのだから。
それはおそらく、縄主の外交センスによるものであったろう。
ここから先は空想でしかないが、これは葛野麻呂が縄主を推薦したからだという可能性が高い。無論、薬子の夫という要素があるから縄主に目をつけたのであろうが、そこで葛野麻呂は縄主の才能に気づいたのではないだろうか。
確かに貶され見下されている。しかし、温厚な性格と敵を作らない姿勢はこのときの新羅との外交に最も必要な要素だった。
薬子が追放されている間、縄主は薬子に何らかの形で接していた可能性が高い。妻からの愛が無くなったとはいえ、夫である以上それは当然である。
葛野麻呂も薬子に接したのは先に記した通りである。
このとき、葛野麻呂は縄主に接したのではないのだろうか。
葛野麻呂は遣唐大使をつとめたほどの外交能力を持った人材である。だからというわけか、年々貧弱化していく外交に危機を持っていた。
実際、外交力は奈良時代をピークに減少する一方であった。経済的な交流も少なくなったが、それ以上に政治的な交流が乏しくなってきていたのである。
葛野麻呂はそれを回復する人材として縄主に目をつけたのではなかろうか。
縄主が九州に派遣されたときの新羅との状況は次のようなものであった。
日本と新羅との関係は奈良時代中期から険悪化していたが、宝亀一一(七八〇)年にはついに国交断絶となり、戦争の一歩手前にまで至っていた。
その新羅との国交が回復したのがおよそ四半世紀を経た延暦二三(八〇四)年の七月、つまり、ついこの間のことである。
この断絶期間は、桓武天皇が皇太子となり、皇位に就き、全権力を一手に握っていた時代と一致する。
国内で絶賛されていた人物が他国との間に強硬姿勢を打ち出していたというのは珍しいことではない。なぜなら、外に敵を作ることは、国内世論を一本化し、自身の支持を強めるのに有効な手段だからである。高支持率というものはそうした結果であることも良くある話である。
桓武天皇の時代は王朝交替から間もなくであり、国内の統一を早急に進める必要があった。そのための手段の一つとして新羅に対し強硬姿勢をとることは桓武天皇にとってメリットがあることだった。
そのために桓武天皇は歴史の書き換えまでした。自分の母は百済王族の子孫であり、自分は百済王家の血を引いているというのである。
この意味は、単なる家系図の創造ではない。
自分には百済国王の王位継承権があると言っているのである。
それは百済を滅亡させたことで統一国家として成立した新羅の存在を全否定するに等しかった。
その上、桓武天皇は約六〇〇年前の三韓討伐まで持ち出し、新羅は百済とともに日本の属国であると主張した。これは、現状のような対立する対等な関係ではなく、新羅との関係は新羅を屈服させることによってのみ成立するという理論である。
しかも、それを「続日本紀」に記した。
こうなると、桓武天皇の考えは一個人の考えではなく国の公式見解となる。
新羅にしてみれば言いがかりも甚だしい。だいいち、桓武天皇の母方の先祖が百済王族どころか百済人である証拠すらどこにもないのである。桓武天皇の母方の家系は六代前までさかのぼることが出来るが、その間に現れた全ての人物が日本の外との関連性を持っていない。それに、仮にその前に百済からやってきた人がいるとしても、六代も経てば完全に日本人である。
ところが、桓武天皇はその言いがかりをもって新羅に強硬に接したのである。それも、言葉だけではなく軍備増強までし、その軍勢を九州に派遣していた。これはいつでも新羅を侵略できるというメッセージを発しているのと同じである。
これを受けた新羅が日本に従うわけはなかった。
結果は、戦争の一歩手前。
桓武天皇は日本の国内世論をまとめることに成功したが、新羅を完全に敵に回すことにもなった。
もっとも、これは日本だけが対立の原因ではない。新羅は、北の渤海、海を隔てた唐、そして日本、この三ヶ国に対し何れも強硬路線をとっていた。それも、ここ数十年といったレベルではない。この新羅の態度に対する反発は東アジアの至る所で起こっており、新羅は対外的孤立を深めていた。
ところが、その新羅から日本へ毎年百人規模が渡航していたのである。また、国境を接する渤海にも新羅人の難民は多数押し寄せており、その対処は頭を悩ますものであった。これは現在の感覚で行くと経済難民であり、貧しい新羅から豊かな国外へという人の流れは、増えこそすれ止むことがなかった。
それでも日本国内で日本人にとけ込んで普通に暮らすならばまだいい。問題は彼らが起こす犯罪にある。この時代の日本では亡命新羅人による犯罪が多発していた。窃盗、強盗、放火、そして殺人。それは個人の犯罪のときもあるが、集団で暴れ回り軍隊の出動を必要とすることすらあった。
彼らとて最初から暴れ回ろうとして日本にやってくるのではない。しかし、これは現在でもそうだが、いかに人道的に振る舞おうと、彼らの全員を高等遊民として養える余裕がある国などない。だから、受け入れはしても何らかの形で彼ら自身が生活する手段を用意しなければならないのである。日本がとった政策は田畑を与えるからそこで生活せよというものである。ただ、それがうまくいくならいいが、不慣れな土地での耕作がスムーズに行かず、失敗する者が多かった。
また、彼ら新羅人特有の感情もあった。日本人に対する蔑視である。自分たちは文化的にも歴史的にも優れており日本人は劣っている。だから、優れた我々は劣った日本人の上に立つ存在であり、日本では特権階級として生活できるはずという思いがあった。それなのに、日本の行なった政策は一般庶民として生活せよというもの。それは思い上がりでしかないが、彼らのプライドを傷つけるには充分であった。
結果、農地は荒れ果て捨てられる。耕さないのだから当然である。しかし、それで生活できるほどの資産などない。だから生活するためにより安易な方法に手を出す。
犯罪である。
奈良時代の朝廷は新羅人が日本に逃れてくることが仁政のたまものであると盛んに宣伝していたが、庶民にとっての新羅人とは自分たちの生活を脅かす目に見える脅威であり、同情ではなく怨嗟の対象になっていた。
桓武天皇はその日本国内の世論をそのまま外交政策として打ち出したのであり、桓武天皇は、新羅以外の国、唐や渤海との国交は行なっている。そして、唐と渤海との間の関係も良好であり、東アジアの中で唯一、新羅だけが孤立するという状況であった。
新羅にとっては、国のメンツがかかっているから対抗するが、国民が次々と国外へ脱出しているという現状がある。それも、働き盛りの世代が率先して脱出している。それが産業の空洞化を招き、産業の空洞化が経済不振を呼び起こし、経済不振が人口の流出を生み出す。しかも、外交の孤立が軍事予算の増大を招き、経済不振にも関わらず増税せざるを得なくなっている。
この悪循環からの脱出を新羅は模索していた。
外交の孤立と経済不振という二重苦に苦しんだ新羅はまず、日本と渤海の国交回復を模索する。
結果、とりあえずの国交の回復には成功。ただし、それでも緊張感は続いていた。
縄主はこの状況で新羅との折衝の最前線にあたる大宰府にナンバー2として派遣されるのである。左遷とか、追放とかで大宰府にやってきた人間がつとまる業務ではない。
強硬に過ぎた桓武天皇時代の外交と異なり、平城天皇の外交姿勢はやや軟化している。これは対外緊張とこの時点の軍事力をふまえれば正しかったとするしかない。
ただし、これが平城天皇の支持率を下げるきっかけともなった。
いつの時代もそうだが、軟弱外交と見なされる外交に国民の支持が集まることは極めて少ない。
平城天皇にとって救いだったのは、桓武天皇の残した忠臣達の結果を重視する姿勢を期待できるということである。そのため、庶民からの反発はともかく、平城天皇の外交についての朝廷内からの反発は生じていない。
しかし、平城天皇の理想の政治とは、桓武天皇を支えた有力貴族と協力することではなかった。
平城天皇の理想の政治、それは、天皇親政である。
六月(一説には五月)、平城天皇は勘解由使を廃止し、新たに観察使を置くと定め、この観察使に桓武天皇に忠誠を尽くした貴族を任命した。
勘解由使は地方に派遣させた国司の業務を監督する職務であったが、さほど地位の高いものではない。
しかし、観察使は違う。
地方の状況をチェックし中央に報告するという役割は勘解由使と同じだが、観察使には参議と同等の権威と権力を与えるとしたのである。そのため、複数の国司を束ねる権限を持ち、観察使には坂上田村麻呂など実績も能力も申し分のない有力貴族が名を連ねることとなった。
観察使は当初、東山道を除く六つの道、すなわち、東海道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道といった単位に設置され、そのことから「六道観察使」とも呼ばれた。
平均すると十カ国近くの国司の上に立つ存在となり、国司は朝廷との間に観察使というワンクッションを挟むこととなった。
これは、平城天皇にとっては二つの効果をもたらすものであった。
一つは地方行政の円滑化。
観察使と国司と勘解由使の三者を貴族としての力関係で見ると、
観察使 > 国司 > 勘解由使
となる。
つまり、国司は勘解由使を遙かに上回る有力貴族であるため、不正があってもその権力で勘解由使を押さえ込むことができたが、観察使はその国司をも上回る権力の貴族であるため、押さえ込むことはできない。
それだけでなく、このとき任命された観察使は桓武天皇の忠臣という不正とは無縁の存在である。これまでは見過ごされていた不正も見逃されず取り締まられることになった結果、国司として地方に派遣される貴族は見違えるほど清廉潔白になった。いや、ならざるをえなくなった。
そして、もう一つの理由。それは、桓武天皇に忠誠を誓ってきた有力貴族を堂々と宮中から排除できたことである。
彼らは平城天皇が認めなければならない有能な人材であった。だが、有能な人材と自分と意見の合う人材とが一致するとは限らない。いや、理想に燃えれば燃えるほど、現実を知り尽くしている有能な人材と衝突するのは宿命である。
その有能な人材を、活かしながらも排除したのである。
平城天皇の計略は見事と言わざるを得ない。
少なくとも、結果も出た上に反発も招いておらず、観察使に任命されることをこれ以上ない名誉とやりがいして歓迎したのであるのだから。
無能な貴族は追放または蚊帳の外となり、有能な貴族は排除し、あとに残ったのは平城天皇に従う貴族と中下級の役人たちである。
葛野麻呂の期待していた出世はさほどでもなかった。参議に就くが、葛野麻呂の位からすれば順当な地位であり、特別扱いではない。これは葛野麻呂に限らなかった。平城天皇はいかに自分の味方と判明していようと、何ら特別扱いはせずに、順当な地位を与えることに徹底していた。
それでも葛野麻呂は何ら拒否を示さずそれに従っている。
しかし、葛野麻呂のようにあっさりと従ったのは少数である。ほとんどの貴族はこれに反発、要するに、さらなる出世を願っていたのだが、平城天皇はそれを無視した。
結果、宮中は殺伐とした雰囲気に覆われることとなった。
もっとも、いくら反発を示そうと、道理は平城天皇にある。
若造にしてやられたという意識が貴族の間に広まった。
「主上は敵を増やしてしまわれました。」
「敵とは相対する者。逆らうだけの存在は敵ですらない。」
平城天皇は不敵な笑みを浮かべていた。
薬子は平城天皇の自信に身を任せていた。
「(私はこの方についていく、それは間違いじゃない)」
薬子は自分で自分に言い聞かせていた。
このときまでの平城天皇の人生を眺めて感じるのは、その強烈な自負心である。自分の行動は正しく、邪魔する者は容赦せぬという態度で終始している。この点は父に似ている。
平城天皇の強烈な自信を構成する要素に、想い続けていた薬子をついに手に入れたからという要素はない。仮に薬子を手に入れられなかったとしても平城天皇の強烈な自負心は変わらなかったと思われる。
もはやこれは生来のものと考えるべきであろう。
そして、その強烈な自負心こそ、薬子を平城天皇の虜にした理由ではないかと思われる。そうでなければ、夫も子供も捨てて自分の欲望を満たすために平城天皇のもとに足を運ぶなどしなかったであろう。
ただし、一生その自負心が続くわけではなかったが。
政治の効率としては、複数の権力者による話し合いより、一人がトップに君臨してのトップダウンであるほうが圧倒的に効率的である。
桓武天皇の頃も天皇をトップにしてのトップダウンであったが、その途中には貴族というワンクッションがあり、トップダウンもそこで跳ね返されることがあった。下からの誓願も貴族というフィルタがかかり桓武天皇の元に届かないことがあった。
平城天皇はそのワンクッションを取り外した。
そのため、全ての命令が平城天皇から発し、全ての誓願が平城天皇に届くようになった。
後に弊害が出てくるが、中流から下流の役人を重用し、上流の役人、すなわち貴族を排除する平城天皇の政策は、この時点では成功したと言って良い。
行政のスムーズさは経済にも影響を与える。
すなわち、物価が安定した。
そして、失業が減少した。
結果、庶民はより豊かな暮らしを過ごせるようになった。
生活水準の向上だけが執政者の評価基準なわけではないが、生活水準の向上を成し遂げられなかった執政者は、いかに善人と評されようと、いかに有能と評されようと、いかに支持率が高かろうと、執政者としては失格である。
このときの平城天皇は、その基準で言うと執政者として合格であった。とは言え、美人の愛人にうつつを抜かす愚鈍な君主という評判は依然として残っており、庶民からの評価は決して高くなかった。現在の感覚で言うと、特に失政はしていないのに支持率よりも不支持率が上回っている状況といったところである。
ただ、こうした市民の評判にも理由があった。桓武天皇を名君とする評判が死後ますます高まり、平城天皇はその評判と比べられていたからである。どんなに結果を出そうと、理想像となった死者に生身の人間は勝てない。
ただし、中には平城天皇を熱狂的に支持する人たちがいた。役人たちである。
何と言っても、自分たちの働きを評価し、自分たちの声を聞き、自分たちの働きやすい環境を天皇自らが整えているのである。これは働きがいという点で申し分ないことであった。
もはや誰もが認める天皇の愛人となった薬子もまた彼らの支持を集めるのに役立った。
事実上はどうあろうと形式的には宮中に仕える一女官であり、夜こそ平城天皇の相手をしているが、昼はその枠を逸脱しないばかりか、男性の多い職場にあって、その美貌と若さ、そして心くばりが薬子を職場の花とさせたのである。
ここには有能さという要素が欠けているが、有能でなかったから記さなかったのではなく、有能であったかどうか判断できないから記せないだけである。
薬子が役人としての能力をどれほど持っていたのかはわからない。とりあえず判明しているのは人を見る能力は高いという点であり、それ以外の能力はわからない。もっとも、この時代の男尊女卑を考えると、薬子がどれほど高い能力を持っていても、どんなに平城天皇の寵愛を受けていようと、それを発揮する局面は永遠に訪れることなどなかったことは記さねばならない。
それはともかく、前天皇の信頼の厚かった藤原種継の娘という高貴な血筋の者が、普通なら声をかけるはずのない下級役人相手に優しく接したばかりでなく、その働きぶりが評価に値するとあれば平城天皇に報告し、平城天皇はその役人を誉めたたえ、時には出世させたのである。
その基準は自分へのおべっかなどではなく如何に真面目に働いているかであり、今まで目立たなかったが地道に努力していた役人が評価の対象となった。
宮中に残った貴族からの反発は続いていたが、役人からの熱狂的な支持もあり、宮中の雰囲気は殺伐ではあるが毅然としたものにもなった。
薬子がいつ尚侍の位を手にしたのかは不明であるが、おそらく平城天皇即位からしばらく経ってからのことと思われる。
薬子の身分はそれまで不安定なものであった。いかに平城天皇に愛されていようと、身分は宮中に仕える一女官である。
そして、夜はともかく昼は真面目に勤務していることは宮中の者なら誰もが知っていることである。
尚侍という地位は、薬子の女官としての勤務態度を考えれば妥当なものであったと言うしかない。
しかし、行動が妥当でも結果が妥当とは限らない。いや、良かれと思ってしたことが取り返しのつかない悲劇をもたらすことなど、人間社会の至る所で見られることである。
薬子は法的な根拠とともに平城天皇の側に侍ることとなるとなったが、それは同時に、下級役人のアイドルであった薬子がいなくなってしまったということでもある。
これは、職場の華が消えただけではなく、役人を評価してきた人材が失われたことを意味した。
平城天皇は恋人と側にいる暮らしを手にしたが、天皇と下級役人とをつなぐパイプを失ったことは大きな痛手だった。
真面目に働くことが評価されなくても真面目に働くというのは幻想に過ぎない。中にはそうできる人もいるが、ほとんどの人は真面目に働くことの対価があるから真面目に働くのである。
結果、役人の質の低下がこの頃から見られるようになった。
だが、平城天皇はそれに気づいていなかった。
そして、この頃から再び貴族が勢力を盛り返すようになるのである。
「主上が考えておられるほど容易な相手ではございません。」
「何を恐れておる。」
「主上の身にございます。」
「朕の身か。案ずることはない。」
平城天皇は薬子の心配を笑い飛ばしたが、薬子は復活しだした貴族の勢力を恐れていた。
自身が貴族の出であるということもあるし、貴族の裏のドロドロとした関係を垣間見てきた経験もある。
それだけに、貴族の手に勢力が移るのを恐ろしく感じていた。
彼らが束になって本気を出したら、天皇という地位など簡単に奪われてしまう。
「何も起こらぬと良いのですが。」
この時点において、薬子が政治に口を出したという証拠はない。仮に出したとしてもそれは役人の勤務評定に関することであり、その公明正大な判断は賞賛されこそすれ貶されるようなものではなかった。
ところが、薬子が尚侍になって、自分があたかも天皇であるかのように政治に口出しするようになったという噂が立ち始めた。
そのきっかけとなったのが『続日本紀』の改編である。
『続日本紀』そのものは『日本書紀』の続きから平安京遷都までを記すことを目的としている。もっとも、実際には天武天皇家の開始から終了までを記すことを意図して記されている歴史書であり、桓武天皇在位中に桓武天応の政権の正当性をアピールするために編纂され、公開された。そのため、在位中であった桓武天皇の出来事も記載されている。
問題はその中の藤原種継暗殺の記述。
長岡京造営の最高責任者である藤原種継の暗殺の記述は、桓武天皇存命中は存在していたが、このときはなぜか削除されていたのである。
それを平城天皇は復活させた。
改竄された歴史を元に戻したのだから、これは正しい行為のはずである。
しかし、薬子はその種継の実の娘。
正しいはずの平城天皇の行為が、薬子にそそのかされての歴史書改竄にすり替えられた。
そして、それはおそらく、種継暗殺によって利益を得た貴族が噂の発信源であったはずである。
彼らにしてみれば、歴史の修整に成功することで自分たちの権威を獲得したのに、平城天皇即位後は権威を否定され、さらに権威の源であった歴史を直された。しかもそれが種継の娘である。
これは桓武天皇がなぜ遷都にこだわったかを考えるとある程度推測できる。
桓武天皇が遷都にこだわった理由は二つ。
一つは天皇の地位が天武天皇系から天智天皇系へと移り変わったことがある。平城京、すなわち奈良の都は天武天皇から続いた家系が皇位を継承する限りにおいて永遠である都であった。言うなれば、天武天皇系の皇位が終わったことを宣言し、これからは天智天皇の子孫が皇位を受け継ぐことを宣言するのに奈良の都では不都合であった。
もう一つは奈良の都に集中している寺院勢力がある。東大寺をはじめとする有力寺院が集中しているのが奈良の都であり、天武天皇家の歴代の天皇たちは仏教勢力を利用して統治を進めていた。だが、その仏教勢力が増大してしまった。当初は朝廷が寺院を利用していたのが、奈良時代末期には寺院が朝廷を利用し、弓削道鏡のように帝位を狙う僧まで現れる始末であった。
現在の京都に足を運ぶと寺院が多いことに気づかされるが、それらの寺院はことごとく平安京建設以後の建立であり、その中に平安京誕生と同時に存在していた寺院というのはただ一つ、教王護国寺しかない。
一つしかないのは当然で、平安京の建設計画から寺院というもの自体が意図的に外されていたのである。それでも東寺(=教王護国寺)と西寺(鎌倉時代に消失。現在は廃寺)の二寺院は設けられたが、その場所は京都の入り口近く、つまり、宮中からは離れた箇所である。
さて、天武天皇系が排除され、寺院が排除されたが、それはイコールそれらの勢力が消え失せたことを意味するわけではない。意味するわけではないどころか、勢力は衰えていなかったのである。
この二つの勢力が手を結んだとしたら。
種継暗殺はその結果である。
そして、その記録が消されたのもその結果である。
平城天皇は、自分が即位した後で消されたその記録を復活させた。
これは天武天皇系の勢力も寺院勢力も排除した桓武天皇の政策を継承するという宣言に他ならない。
そして、平城天皇が薬子の色香に惑わされているという評判は、薬子との許されざる恋以外に非難しようのない平城天皇に対するただ一つの攻撃材料だからとしか考えられない。
貴族と対峙し、役人とのパイプが薄くなった平城天皇は次第に宮中で孤立するようになった。
そして薬子とともに過ごす時間が増えるようになった。
それまではオフィシャルとプライベートとの時間を分け、薬子とともにいるのはプライベートの時間に限っていたが、薬子が尚侍となり、オフィシャルの時間でも平城天皇と一緒にいるようになると、オフィシャルとプライベートの時間の壁がだんだんと崩れていき、このときにはプライベートがオフィシャルを凌駕するようになっていた。
それでも平城天皇は自分の理想の政治を成し遂げようとはしていた。
大同二(八〇七)年、それまで観察使を設置していなかった東山道と畿内にも観察使を設置することとなった。
と同時に、参議を廃止した。
これまでは参議になることが上流貴族の証であり、大臣へとつながるステップアップだった。
観察使が設置された直後こそ参議以上に権威と権力のある職務として注目を浴び、また定員が六名ということもあって、観察使という職務が大臣に近づく大きなステップと見なされたが、その見なされかたはすぐに消滅した。
その代わりに、参議になるほうが容易であること、職務も観察使より参議のほうが軽いこと、それでいて参議のほうが好待遇であることから、出世を目指す者はまず参議を目指し、観察使に対する認識は参議になれなかった場合の次善とまで成り下がった。
という状況下での参議の廃止である。畿内と東山道の二人が加わり定員が八名に増えたが、出世の道はかえって狭まった上、観察使そのものが参議よりも待遇が悪い上に激務というものである。
その上、観察使を勤め終えた後の対処を平城天皇は誤っていた。単に任務を終えた者を出迎えただけで、その後の地位や報酬がなかったのである。
願っていた参議がなくなり、代わりに設けられたのが激務。しかも、それを勤めたところでメリットはないとなると、敬遠されるようになるのも当然である。
勤め終えても優遇されない観察使にこだわり、貴族が望んでいた参議を廃止した平城天皇は貴族の猛反発を呼ぶ。
なり手がいなくなった観察使の地位に就いたのは、宮中に残った貴族たちではなく、宮中から追放された貴族たちであった。彼らはどうにかして宮中に残る道を模索していた。そして、観察使が空席となっていることを知った彼らは、激務であると知ってもなお観察使になることを選んだ。
ところが、これが思わぬ効果をあげるのである。
彼らは観察使を誠心誠意勤めた。追放から解除される唯一の方法が観察使として実績を残すことだったのだからそれは当然とも言えよう。
このときの観察使の働きぶりは『日本後紀』にも記されており、観察使が民衆の負担を軽減するために競いあうように様々な措置を施したことが記録されている。
このとき、天武朝系の貴族と平城天皇との接点が誕生した。
参議を廃止し観察使にこだわる平城天皇の姿勢は、それまで平城天皇を支えてきた貴族たちにとって、態度を決めさせるのに充分だった。
会議の開催そのものが減り、たまに開催されたかと思えば天皇と貴族たちとの激しい口論。それでも血を見るようなことはなかったが、それは間違えても平和と呼べるようなものではなかった。
平城天皇は自分に逆らう者と相対する事態を迎えるなど想像してもいなかったし、仮に迎えたとしても天皇の権威が敵を叩きのめすと信じていた。しかし、そうではないことを悟ってしまった。
そして、平城天皇の圧倒的な自負心も、敵が目に見える存在となったときかげりを見せた。平城天皇はおそらく天皇という権威を過信しすぎていたのだろう。それを過信しすぎたあげく、待っていたのは敵に囲まれているという境遇である。
ただ、敵に囲まれたその平城天皇でも、味方となった三つの存在がある。
一つは自分の側近。その中の筆頭は何と言っても仲成と薬子の兄妹が挙げられる。その他には葛野麻呂らがいるが、葛野麻呂はこのとき東海道観察使として都を離れておりここにはいない。また、仲成と薬子の兄妹の二人は藤原家ではあっても藤原家の当主ではない。当主でないどころか、藤原家の主流から外れた不穏分子と見られ、その勢力は微々たるものであった。
二つ目は桓武天皇の忠臣のごく一部。ただし、平城天皇の味方はするがそれは自分たちが忠誠を尽くした桓武天皇の子だからであり、平城天皇の政治に賛成したわけではなかった。そのため、平城天皇から離れようとする貴族を叱責したが、自身は平城天皇の政治に従わなかった。
最後は、天武天皇系の皇族に仕え、天智天皇系に皇統が移ったと同時に勢力を失った貴族たちである。彼らは中央へ復帰するチャンスを伺っていた。観察使に就くことで中央へのルートを取り戻した彼らは平城天皇の支持者となっていた。
しかし、この最後の貴族たちは、元はと言えば自分や父が追放した貴族たちである。
それが今や自分の味方となり、自分が信頼を寄せていた貴族は自分と敵対するようになっている。
一方、頼りにしていた役人たちは当初の熱狂的支持から消極的支持へと変化している。
これは平城天皇の心情を複雑なものにした。
平城天皇はこのとき精神的にかなり追いつめられていたのではないかと思われる。少し前までの絶対的な自負心はどこへ行ってしまわれたのかと思わせるほど消極的になり、人目を避けるようになった。
しかし、自分の行動が誤っているとは断じて認めなかった。自分は常に正しく、結果が出ないのは現実のほうが間違っているからと断言していた。
この思考は理想に燃える者がよく陥ることであり、その解決方法は二種類ある。
一つはあくまでも自分の理想を追求し続けること。現実が悪くなったという情報は一切遮断し、現実を否定し、どんな手段を用いてでも理想の実現に全てを費やす。逆らう存在は排除し、排除するためには圧力だけでなく暴力すら実施する、独裁者の恐怖政治である。ケースが少なかったからこそ目立たないが、桓武天皇はこちらに該当する。
もう一つは、逃亡。理想が失敗であったことは認めないが、現実からも逃げ回って自分の世界に閉じこもる。これは恐怖政治とはならず、むしろ好転することすらある。権力者が権力を放棄したようなものであるが、権力機構が存在していれば、権力者の側近のうち現実を見通す能力のある者が権力を掴み、徐々にではあるが現実に沿った政策に切り替える。
結果的に平城天皇が選んだのは後者であった。
そして、薬子と接する時間が日に日に増大し、ついには一日中薬子と二人きりとなるまでになった。
平城天皇にとっては薬子だけが精神的な追いつめを軽くさせてくれる存在であった。
平城天皇が自室に引きこもるようになった後、平城天皇に替わって矢面に立つようになったのが、薬子の兄である藤原仲成であった。
仲成は種継の息子としてというより薬子の兄としてみられていた。その地位は薬子の威光によるものであると見なされ、仲成が何をするにしても妹のおかげと揶揄された。
はじめのうちはその風評を嫌い、徹底して否定していたが、のちにその風評を無視するようになった。
どうやら仲成は評判というものを諦めたようなのである。そして、評判を諦めればどんなに不評とされることでもできるとも考えていたらしい。
「妹の不始末は私がとる。」
それは仲成の責任感であった。
平城天皇を離れた貴族と連絡をとって宮中に呼び戻し、薬子の元に籠もっている平城天皇に働きかけて観察使を勤めあげた貴族に中央の官位を用意させた。
そして、反平城天皇勢力の二分を画策した。
それまでの能力の有無や、天智朝と天武朝という対立構造を解消した上で仲成が考えた二分、それは年齢である。
桓武天皇の忠臣はそのほとんどが四〇代から五〇代。この時代の平均寿命を考えると高齢者と言っても良い。そして、その世代が大臣職を独占し、平城天皇の政治に従わないまま宮中に居座っている。この者たちは、桓武天皇に対する忠誠はあっても、平城天皇に対してあったのは忠誠を誓った人の子に対する礼儀であって忠誠ではなかった。
彼らは政治家としての実務を積んでいたから、平城天皇の政策が現実にそぐわないと判断できた。だから平城天皇の政治に毅然と反発するし、宮中においては理想に燃える平城天皇に対抗する勢力となっていた。
一方、その次の世代は参議になることを目標としていたのに、その参議がなくなり、自身の将来が見えなくなっていたことから反平城天皇となっている。しかし、その政治信条が平城天皇と反発しているわけではない。彼らはまだ実務に乏しいため現実を肌で体感していない。そのため、理想通りの現実とならないときでも理想は間違っていないと平然と考えた。
「左大臣時平」では理想主義の高齢者と現実主義の若者という構図の対立であったが、このときは現実主義の高齢者と理想主義の若者という構図になっていたのである。
仲成はこの反発を利用した。
下級貴族の意志を汲み上げるための会議の場、「陣定」の創設である。
次の世代である若い貴族はそのほとんどが官位が低く四位や五位がほとんどである。だから、制度上は年齢で制限しているわけではない。しかし、設立直後は明確に若者のための権力機関であった。
仲成は天皇の決断を必要とする議決をいったんこの陣定に渡し、その結論を平城天皇に伝え、その結果を天皇の意志とするという方法で、政治を再建させた。
「左大臣時平」では時平とことあるごとに対立する組織となっていた陣定であるが、四位と五位の貴族のみで構成され、それよりも上位の貴族の影響を排除した会議である陣定の設置はこのとき有効に機能した。
これにより、若い貴族は平城天皇の元に再び集まるようになった。だが、高齢の貴族がそれを喜んで受け入れるわけなどなかった。結果は世代間の対立である。
この世代間の対立は時間とともに若者の優勢に進み、最後は若者の勝利に終わると仲成は考えたし、高齢貴族たちも時代の移り変わりを察知して引退を考えたようである。
しかし、そのもくろみは突然崩れさる。
大同四(八〇九)年、四月一三日。
高熱が平城天皇を襲った。
そして時を置かずに一つの噂が発生した。
平城天皇の病気は体調不良ではなく、早良親王や伊予親王の亡霊によるものであるという噂である。
症状から察するに、スタートこそ単なる風邪やインフルエンザであったが、心身の疲労から来る衰弱が平城天皇を襲い、高熱を長期化させることになったと思われる。このときの平城天皇はまだ三五歳であるが、現在のサラリーマンで最も鬱が多いのも、最も過労で倒れる割合が高いのも、この世代である。
理想に燃えていたのに現実とぶち当たり、今まで自分の考えていた理論は空想でしかなかったことを思い知り、同時に自分の身の程も思い知る。それに加え、蓄積した疲労、積み重なる責任、そして衰え始める体力。これらはもう自分が若者ではないことを示す指標である。
平城天皇を診断した医師は、現在の医学から見ても間違いではない、当時の医療技術でできうる風邪に対する最大限の処置を施し、すぐにではないにせよいずれ治癒すると平城天皇に告げた。
ところが、平城天皇は、すぐに治るという医師の話を聞き入れず、怨霊のせいとする噂のほうを受け入れてしまったのである。
そして、退位すれば治癒すると思いこんでしまった。いや、そうであろうとした。
なぜなら、どうやら平城天皇は退位のタイミングを見計らっていたのではないかと思われるからである。
それも、政略的な退位ではなく、逃避としての退位を。
即位当初はやる気をみなぎらせ次々と改革を打ち出したが、それが結果を伴うとは限らなかった。いや、結果を伴うものなど極めて少なかった。
そのあとで待っていたのは自身に向けられる責任と非難、そして悪化した人間関係である。
平城天皇はそれに疲れていた。
これの理解のためにはここ数年の日本の首相を考えていただきたい。そして、小泉純一郎を除く全員が一年から二年程度で総理の職を降りていることに気づいていただきたい。
平城天皇はこうした首相たちの心情にあったと考えられる。理想に燃えて国を改善しようとしても結果は伴わず、容赦ない非難にさらされ、精神的に追いつめられて職を辞すというのは何も今に始まった話ではない。
仲成も薬子も平城天皇のプライベートとつきあいがある。
特に薬子は昼夜問わず平城天皇の側に侍っている。
だからこそ、平城天皇の体調の変化に敏感に気づいた。
そして、それを解決する方法として天皇の地位より降りることは容易に考えついた。
だが、平城天皇の退位の意志を知った仲成も薬子も平城天皇に反発した。
一般に思われているのは、平城天皇に取り入って掴んだ地位を失うことへの恐怖であろう。
だが、それだけが反対する理由とは思えない。
一番の理由は明確な後継者を定めていないことではないかと思われる。桓武天皇の死去において混乱を招かなかったのは、桓武天皇が、安殿親王、すなわち後の平城天皇を後継者に定めていたからである。
仲成は貴族を二分させ、若い貴族たちを平城天皇の派閥に引き入れることで政権の安定をもくろみ、それが成果を出しつつあった。
だが、この前提となっているのは、若手の貴族のリーダー的存在として平城天皇がこのあとも帝位に居続けることである。
平城天皇には帯子との間に子供がおり、長男の阿保親王はこのとき一七歳になっている。もうひとり、次男の高岳親王もいるが、高岳親王はまだ一〇歳のため、この時点での皇位継承では考慮されていない。
一方、平城天皇には弟もおり、桓武天皇はその神野親王を平城天皇のあとの後継者として指名している。神野親王、このとき二三歳。平城天皇とは一二歳の年齢差があり、兄である平城天皇より、甥である阿保親王のほうが年齢が近いことから、阿保親王は神野親王を兄のように慕っていた。
この神野親王も阿保親王も帝位に就くのに充分な年齢である。
そして、この二人のうちどちらが後継者となるのか明確となっていない。
この状態で平城天皇が帝位を降りたら誰が帝位に就くのか。
これがスムーズに行くとは思えなかった。
「だいぶ熱も引きました。」
「いや、いつまた熱が戻るかわからぬ。」
「もうだいじょうぶにございます。」
「そうは言うが、そうして無茶をして取り返しのつかぬ事態になったらどうするのだ。朕一人の命で済めば軽いものだが、本朝に病が広まったとあっては手遅れなのだ。」
平城天皇はこのとき一つの心配をしていた。今の自分の病が伝染病ではないかという恐れである。
伝染病は通常、他の地域との接点のある場所、たとえば港町から周囲に広まるように伝わる。
平安京は少し東に行くとそこはもう琵琶湖であり、この時代の琵琶湖は、日本海沿岸に限らず、日本海の向こう、渤海や新羅との通商のルートにあたっていた。
奈良の都は海や琵琶湖から離れた場所であるため、港からの伝染病の流行に対しワンクッション置いた対応ができる。しかし、平安京はそうはいかず、港町から始まる疫病の流行はダイレクトにやってくるため、対応は後手に回る。
平城天皇がこれを憂慮したというのなら納得できる。そして、この高熱が疫病伝播の前触れであり、自分が退位することで疫病の発生をくい止めることができると考えたら、正しいかどうかは別として理解できる判断である。
だが、こうした理由は言い訳にしかならない。
理由があって退位するのではなく、退位するために理由がある。
平城天皇の意志は退位で固まっていた。
薬子もそれを覆すことはできなかった。
平城天皇退位。
危惧された後継の皇位には神野親王が就く。嵯峨天皇である。
平城天皇さえその気なら自分の子を帝位に就けることだって可能だったはず。
それをしなかったのは、やはり、自分の子を帝位に就けるのは先帝の命に背くことになるが、神野親王なら先帝の命に従うことになるということがあるだろう。事実、危惧されていた混乱はさほど起こらず、皇位継承はスムーズに行なわれた。
だがもう一つ、自分の子ではあっても薬子との子ではないということもあるのではなかろうか。
平城天皇と薬子の二人には、それぞれ正式な結婚相手との間に子供がいた。
だが、恋人同士になってからはそれらの子の影すら見えないのである。
無論、その子供たちの人生を追った記録はある。だが、それらの子に対して親らしく接したという記録のかけらもないのである。
その代わりにあるのが、いかに二人が仲むつまじかったかという記録だけ。
平城天皇は平城上皇となった。
退位後しばらくは宮中に住み続けていたが、この年の一二月に奈良の都に移り住んだ。安殿親王に対する平城天皇や平城上皇の呼び名は、このとき奈良の都、つまり平城京に移り住んだことに由来する。
なぜ平城上皇が奈良へ向かったのかは断定できていない。ただし、ある程度は推測できる。
まずは奈良の都の立地。目と鼻の先が琵琶湖という平安京は外からの伝染病に弱かったが、奈良の都は外に対してワンクッションあるため、伝染病の発生をくい止めるのが可能である。熱病で倒れた平城上皇にとって、健康面のこのプラス要素は無視できないものであった。
また、未だ建設中の平安京と違い、奈良の都は完成された都市である。それは都市としての設備もさることながら、都市から発し、都市へとつながる交通網も無視できぬものがあった。つまり、京都だけではなく日本全国との連絡という点でも、この時点では平安京より優れていた。
次に、平城上皇の味方になれそうな有力な存在は、いまだ奈良の都に残る勢力しかなかったことが挙げられる。彼らは桓武天皇や即位当初の平城天皇によって冷遇されたが、観察使を勤めることで中央へのルートを手にしたことで平城天皇への敵対心は薄れていた。しかも、こうした貴族たちは、嵯峨天皇の手によって再びルートが閉ざされていたのである。
ただし、積極的な支持ではない。嵯峨天皇と平城上皇のどちらか一方を選ばなければならないとなったら平城上皇を選ぶが、状況が不利になったらいちはやく裏切ることは容易に推測ついた。
つまり、平城上皇の味方として計算できうる勢力はそうした貴族しかいなかったのである。だが、それでも京都よりはマシであった。
最後に、京都から離れること。
京都に平城上皇を味方する勢力はなかった。
平城上皇を熱狂的に支持していた中下級役人たちは、嵯峨天皇の即位と同時に平城上皇を捨てて嵯峨天皇の元に馳せ参じた。
陣定の若き貴族たちも平城天皇ではなく嵯峨天皇を選んだことでは彼ら役人たちと同じであった。それは嵯峨天皇の若さも役に立った。彼らは嵯峨天皇を自分たちの代表者になれる存在と考えたのである。
桓武天皇の忠臣にいたっては想像するだけ無駄であった。彼らが忠誠を誓っているのは亡き桓武天皇であり、その子ではない。いかに桓武天皇の後継者であろうと、帝位を手放した平城上皇は忠誠を誓う対象ではなくなっていた。
京都の庶民は未だ桓武天皇を敬慕し、平城上皇は愛人にうつつをぬかす愚鈍な君主と考えていた。そして、嵯峨天皇はまだ何もしていないにも関わらず、まるで桓武天皇の生まれ変わりであるかのように支持された。これでは京都の庶民を敵以外に考えることなどできない。
だが、奈良の都なら違う。
首都でなくなってから二五年しか経過しておらず、人口においても、文化水準においても、都市のインフラにおいても、都市の経済力においても、この時点の奈良はまだ国内最大の都市であった。
そしてその都会意識が奈良の都に住む者の誇りの寄って立つところであった。
だがそれも天皇を失ってからは落ちる一方であり、平安京の日々の発展は追い抜かれるのも時間の問題というところまで来ていた。このやりきれない茫然自失の想いが奈良の都に住む庶民を襲っていたが、このかつての都に住む庶民はそれに対しても何もできず、このままゴーストタウン化するであろう自分たちの街を呆然と眺めるしかできなかった。
そこにやってきたのが平城上皇である。
帝位にあった間は辛辣な評価しかしていなかった庶民が、その平城上皇のことを自分たちを見捨てないでくれた存在として認識するようになった。
結果、奈良の都をあげて平城上皇を大歓迎する事態となり、その情報は直ちに京都に届けられた。
京都は騒然となった。
平城上皇が奈良で反政府勢力をまとめあげているという知らせとなって伝わったからである。
嵯峨天皇は直ちに奈良の都との連絡を開始。
その結果判明したのは以下の通りである。
平城上皇自身は無気力に陥っており、薬子と二人でかつて御所のあった建物に籠もって外に出ようとはせず、使者と会おうとはしなかったこと。
奈良の都に住む者との折衝は主に仲成が務めているが、仲成は多忙を極めており、使者に会うには会ったが満足な回答は得られなかったこと。
奈良の都の再建が始まったが目に見えた復興とはなっていないこと。ただし、これは主な技術者がことごとく平安京の造営にかり出されているためであり、奈良に残った貴族や寺院勢力が協力しているため、資金面で不足はしていない。
奈良の都では再建のため失業者が激減し、庶民の生活水準は平安京を上回るものになっている。そのため、奈良の都に住む者は平城上皇を支持するようになっている。
四半世紀前まで首都であった頃の活気を取り戻しつつあった奈良の都は、平安京の勢力から独立した都市国家のようになっていた。
この知らせは京都を震撼させた。
これでは国家分裂ではないかと。
しかし、どうにもできなかった。平城上皇も仲成も国家財政に手をつけているわけではないし、行なっているのは都市の修繕である。全国各地に散らばる国衙や国分寺の修繕は行わなければならないものであり、平城上皇も仲成もその成すべきことを私財を投じて行なっているだけである。これは法で裁くなどできぬことであった。
平城上皇自身は京都から離れることを意図しただけであったが、このときの奈良の都は結果として反政府勢力が集う場所になってしまった。
京都では見向きもされなかった貴族でも、奈良では上皇の側近を気取れた。
力を弱めさせられていた寺院は勢力を盛り返し、平城上皇を聖者として賞賛した。
そうした貴族や寺院は庶民から仲間として扱われ、奈良の都は京都の権力の及ばない一大勢力へと成長した。
そしてそれは納税拒否という形で現れた。
自分たちの首都は平城京であり、自分たちが従うのは平城上皇ただ一人であるとして。
ただ、その中心であるべきはずの平城上皇はこの状況を望んではいなかった。望んではいなかったが、心情的にはそうした者達に近かった。京都に対抗し、奈良で自分の勢力を作り上げることを、本人は認めないが喜んでいた。
その理由は自分が天皇として成したことが全て無に帰したことへの絶望と、それへの反発ではないかと思われる。
嵯峨天皇の政治は桓武天皇の政治の継承を宣言していた。と同時に、平城天皇によってゆがめられた政治を元に戻すとも宣言した。
しかし、平城天皇だって桓武天皇の政治の継承を宣言しての帝位だったのである。それなのに、嵯峨天皇はゆがみを正すとした。
これは弟による兄の政治の全否定である。
平城天皇の下した追放は無視された。
観察使の制度は残ったがその権力は弱められ、かつての勘解由使と変わらぬ権力の役になった。
陣定は残ったが決断は大臣たちに委ねられた。
全てが平城天皇即位前に戻ったのである。
ただ、それが結果を出しているとは言い切れなかった。
平城上皇に従って奈良までついてきた仲成は、成果も上がらず庶民の暮らしが下降線をたどりつつある京都と、成果が上がり庶民の暮らしが向上している奈良を比べ、正解は嵯峨天皇ではなく平城上皇であると確信していた。
そしてこう結論づけた。
京都の政権は早々に瓦解すると。
そのあとで平城上皇が帝位に復帰し、平城京を都とする新政権をつくりあげることで国内の安定は図れると。
仲成はそのときを真剣に考えるようになっていた。
薬子は無位無冠の一人の女になったわけではないが、実質はともかく、名目は上皇の側に仕える一女官にすぎない。
だが、その一女官が平城上皇のただ一人の心の支えとなっていた。勝手に上がっていく自身への支持と、険悪になる京都との関係は平城上皇にはどうにもできなかった。
この状態の平城上皇がただ一つできたことは薬子を自分の元に留めておくことだけだった。
「薬子。もう離れないでくれ。」
そこにいたのは強烈な自負心に支えられた天皇ではなく、何もかもが弱気になったか細い上皇であった。
薬子は女として支えるしかできなくなっていた。
薬子という女性がいることは奈良の都に住む者なら誰もが知っていた。ただし、それは単なる知識であって悪評ではなかった。
奈良で矢面に立っているのは仲成であったが、庶民はその仲成を操っているのは平城上皇だと考えていた。
その平城上皇の最愛の女性であり、スポークスマンである仲成の妹ということだけが奈良の庶民の薬子に対する感情であった。
京都は奈良への対処に動き出していた。
ついこの間までは法で裁く要素などなかったが、今は納税拒否という明白な犯罪があった。
これに対し仲成は硬軟双方の対応を見せる。
軟は納税である。税を納めないというのは庶民個々人の感情であり、奈良の総意ではない。仲成はこれに柔軟に対応した。
この時代の納税の中心はコメの物納であるが、田畑とは縁遠い都市住民にそれは困難であり、他の生産物による物納や貨幣による金納も認められていた。ただし、それはあくまでも代替手段であり、基本はコメである。
仲成は自分の蓄えているコメをいったん安く市場に開放し、そのコメを税として庶民に納めさせようとした。
これが仲成のもくろみ通りにいけば問題はなかったのだが、その大部分は庶民の自宅にしまわれたまま、税とはならずに終わることとなった。政策としては失敗である。
硬は京都の混迷との対比である。
仲成は京都に住む者に奈良への移住を促した。
人口では上回っているとは言え、平城京の復旧に必要な人口に達しているわけではない。つまり、労働力不足による売り手市場である。それが給金の高騰を招き、結果として奈良に住む者の暮らしを良くしていたのだが、このままでは経済危機になることが目に見えていた。
そこで考えたのが労働力の増加である。
平安京も工事が日々続いているため労働力は欠かせない。ただ、そうした工事に携わる人たちへの待遇はお世辞にも良いものではなかった。命ぜられ、税として、義務として工事に参加している。いわば徴兵と同じである。最低限の賃金は出るが満足いくものではなく、その賃金の支払いも滞りがちになっている。不満は常にくすぶっていた。
そこにやってきた奈良からの誘いの知らせ。仕事は同じだが待遇が違う。
情報は直ちに京都中に広まり、奈良へと移住する者が頻発した。
硬軟双方の対応のうち硬だけが成功したことは京都の態度を硬化させるに役立つだけだった。
仲成は京都をそのうち倒れる政権と考えていたが、奈良はイレギュラーであり、京都のほうが正当な権力である。
都市としての発展度は奈良が上だが、それ以外のあらゆる要素において京都が上であることは無視できないことだった。
京都は正式に奈良の勢力に対抗する姿勢を見せた。
まず、大同五(八一〇)年三月、嵯峨天皇は蔵人所を設置。藤原冬嗣と巨勢野足をそのトップである蔵人頭に任命し、清原真野らを蔵人に配した。
嵯峨天皇の政権の弱点となっていたのは、天皇に仕える忠臣なら多くても天皇の秘書役を果たす者の人材を欠いていたことである。
欠いていたのは当然で、桓武天皇は元々そのような存在を置かない独裁者であり、平城天皇には仲成という有能な秘書がいただけでなく、プライベートの支えとしては薬子がいた。つまり、わざわざ考慮する必要がなかったのである。
嵯峨天皇は桓武天皇のように秘書不在で政務を遂行できる超人ではない。しかし、桓武天皇の定めた皇位継承者として見られていても、兄との年齢差を考えれば帝位が転がり込むなどまずありえないと思われていたからか、桓武天皇は安殿親王に対する仲成や薬子のような存在を用意していない。
つまり、側近と呼べる者がおらず、宮中では孤独をかこっている。
その嵯峨天皇が自身のサポート役を探すとすれば、正式な役職として若い貴族を任命するしかなかった。
それは皮肉なことに、仲成の設けた世代による分割の結果である。嵯峨天皇は若年層のリーダーではあったが、それは嵯峨天皇が天皇だからであり、リーダーシップが強いからではない。そのため、若年層の中でリーダーシップの強い藤原冬嗣と巨勢野足の二人を自分の秘書役に任命することは、若年層という派閥を自身の勢力とするのに有効な手段であった。
そしてこれは、高齢者が大臣職を独占しているため出世できずにいる若い貴族達に新たな出世の場を用意することとなったのである。
自分たちの権力行使の場である陣定は権力を弱められていただけでなく、大臣と対立する組織となってしまっていた。と同時に、陣定で活躍することと出世することが反比例するようになってしまったのである。結果は陣定の形骸化。再びこの会議が権力を持つようになるのはもう少し先である。
だが、蔵人は違う。あくまでも天皇をサポートする秘書職であり、権力に接する機会はあるが権力そのものはない。そして、大臣と対立するどころか、その働き如何ではより上への出世へとつながる職である。
結果、蔵人を希望することが若い貴族達の間に広まり、出世へつながる職としての観察使はいよいよ形骸化するようになった。
いや、形骸化ならばまだいい。六月には観察使そのものが廃止され、その代わりに参議を復活させたのである。
これで、平城天皇が心血を注いだ政策の全てが消滅した。
あとに待っていたのは若い貴族の希望、そして、地方政治の腐敗の再開である。
それはただちに税の高騰を招いた。法による税の高騰ではない。地方に派遣された貴族達の命令による税の高騰である。
それを止めるものは誰もいなくなった。貴族はそれを喝采したが、庶民は増税に苦しむこととなった。
その庶民の不満の声は仲成に届いた。
と同時に、平城京は京都だけでなく、重くなった税から逃れる庶民であふれかえるようになった。
「奈良に行けばいい暮らしが待っている。」
「奈良に行けば平城上皇が助けてくれる。」
「奈良に行けば税に苦しまなくていい。」
奈良に集う庶民の目に、平城上皇はただ一人の救世主として映るようになった。
これで仲成は考えるようになった。
「これならば京都を倒せる。」
それは何かを覚悟した目だった。
この仲成という男、妹の薬子の色香を利用して天皇にすり寄っては権勢を振りまいた大悪人と描かれているが、果たしてそれだけだったのだろうか。
京都にいた頃の仲成は自分の評判を無視してでも結果を出そうと奔走し、悪評で満たされようとそれを無視する孤高の意志に満ちていた。ただ、本心から孤高を気取っていたのではなく、孤高を気取ることでしか精神を維持でなかったからそうしていただけである。
それが奈良では一変した。京都にいた頃と違い、庶民からの支持を得ているのである。その支持は平城上皇に向けられており仲成個人には向けられていないが、仲成にはそれで充分だった。
これは、自分たちの暮らしが目に見えて好転したかどうかの違いであり、政策も、結果も、京都にいた頃と奈良にいる頃とで大きな差異はない。
ただ、京都では嫌われようと孤高を気取って政務にあたっていたのが、今は支持を得て政務に当たれるようになった。
結果は出しゃばり。
矢面に立って政務に当たることはまだいいが、それにも限度というものがある。奈良におけるトップはあくまでも平城上皇であり、仲成は上皇の側近の一人に過ぎない。だが、仲成はその限度を超えてしまったのである。
それでもこのときは問題とはなっていない。問題となるのはもう少し先である。
おそらく統治者としての能力は平均以上のものがあったと思われる。ただし、飛び抜けて素晴らしいわけではなく、目を見張るほどでもない。
平城天皇の権威を利用してではあったが、その政策実施は見事であったと言わざるを得ないし、結果を出したことも評価しなければならない。
だが、この人物には、現状を分析する能力はあっても、自分自身への分析力は欠けているのである。
もし仲成自身が自分の能力を分析できていたらこのような行動を起こさなかったであろうと断言できるが、それができないから、自分が主導権を握る場面になると途端に迷走しだしたのではなかろうか。
仲成に統治者としての点数を付けるとすれば、平均点以上ではあるが合格点ではない、せいぜい五〇点といったところだろう。
それが悲劇の始まりであった。
その知らせを聞いた者は誰もが耳を疑った。
九月六日、平城上皇の名で平城京への遷都を告げる詔勅が出た。
しかも、平安京の廃止と一緒にである。
この知らせを聞いた奈良の都の庶民は狂喜乱舞し、京都では動揺が走った。
これは単なる遷都ではない。最終目的は嵯峨天皇から政権を奪取し、再び平城上皇が権力を握ることにあると誰もが推測ついた。ただし、これは兄弟間の権力争いなどというレベルではない。
奈良に集う反政府勢力が平城上皇のもとに集まり、京都に対して牙を向けたのである。
平城上皇はどのような思いでこの命令を出したのであろうか。
間違いなくこの首謀者は仲成である。だが、仲成が勝手に命令したのではない。
平城上皇がそれを理解した上で、自分の名で命令したのである。
どうやってたきつけたかはわからないが、仲成の言葉に平城上皇は乗った。
もしかしたら兄の意見に薬子が賛成し、薬子が賛成したからと平城上皇も乗ったのかも知れない。もっとも、薬子が政治的な口出しをしたかどうかについて確たる証拠はない以上、これは推測である。
その知らせを聞いた京都は素早い対処ができなかった。
いくら政権の正当性がこちらにあると主張しようと、庶民が群れをなして奈良へと向かっている現状は無視できぬものがあった。
そのため、京都は時間稼ぎを試みる。
まず、平城遷都を受け入れるとし、桓武天皇の忠臣としても名を馳せていた坂上田村麻呂と、今や誰も疑う者の居ない嵯峨天皇の右腕である藤原冬嗣を筆頭とし、その他の有力貴族を奈良へと派遣した。名目は造宮使、すなわち、都作りの責任者としてである。
だが、彼らの目的は平城上皇と仲成の二人に接触することである。
特に、冬嗣と仲成は同じ藤原家であるだけでなく、年齢も一つしか違わない気心の知れた同士であるはずという思惑もあった。
とはいえ、それは嵯峨天皇の思いこみである。
奈良時代の藤原家が四つに分かれていたというのは先に記した。
種継亡き後、種継の所属する藤原式家は衰退の一途をたどっていた。
一方、種継亡き後勢力を伸ばしてきたのが冬嗣の所属する藤原北家である。
対外的には同じ藤原家であったが、この二家の対立は、少しでも事情を知っている者なら藤原氏でなくても知っていることであった。
それを嵯峨天皇は知らなかった。
仲成と冬嗣との会談は行なわれた。ただし、それは憎しみ合う同士の感情のぶつけ合いであって冷静な話し合いとはならなかった。
仲成は藤原北家に嫉妬し、冬嗣は仲成個人の権勢に嫉妬する。
数多くの戦場を渡り歩いてきた坂上田村麻呂も、このつまらぬ意地の張り合いは早々に愛想を尽かした。
しかし、幼稚な感情のぶつけ合いであろうと、今は国家分裂の危機である。
坂上田村麻呂はただちに伊勢(現在の三重県)、近江(現在の滋賀県)、美濃(現在の岐阜県)に使者を派遣し、街道の封鎖を命じた。この地点は何れも東国へとつながる街道にあたった。
坂上田村麻呂は武人である。武人であるがゆえに、このときの奈良の情勢を理解できたのではないかと思われる。
仲成は武装蜂起も考えていると。
これがもし他の者ならば、そのような考えなど空想と笑い飛ばすであろう。だいたい京都と対抗しうる武力など奈良にはないではないかと。
だが、坂上田村麻呂はこの時代の最高の武人であり、これまで戦地を巡り歩いた経験を持っている。それも正規軍相手ではなくゲリラ相手の戦闘を数多く経験している。
坂上田村麻呂が考えていたのは京都と奈良とが武力衝突することである。とは言え、この時点の奈良の兵力は、あるにはあるがさほど強力なものではない。しかし、人の数は増えている。それも、現政権に不満を持つ人の集団が。
こうした人たちが武器を手にして蜂起したらどうなるか。
民衆がゲリラと化し、蜂起が長期化して内乱となる。
正規軍同士の正面衝突なら京都が勝つだろう。だが、奈良にも勝算はある。それは、正面からぶつからないこと。つまり、京都に抵抗し、小競り合いを続けながら東へ逃れることである。
ではなぜ東か。
理由は簡単で、奈良から西に出るとそこは京都軍の勢力範囲だからである。
観察使によって生活が良くなったことを民衆は忘れていない。そして、その観察使が無くなったことも忘れていない。となれば、そうした民衆を味方にしつつゲリラ戦を繰り広げたまま軍勢を増やし、東で一大勢力を築いて京都に攻め上るというのは、今の奈良がとりうる一つの手である。
もっとも、仲成がそこまで考えていたのかどうかは怪しい。
どうやらこの人は嵯峨天皇の政権が自然に崩壊して奈良に政権が平和的に移ると考えていたようであり、仮に武力衝突となってもちょっとしたぶつかり合いで終わると考えていたようである。
戦争を知ったうえで平和的に物事を進めようとするのは何の問題もない。だが、戦争を知らずに平和的に物事が進むと考えるようでは統治者としてマイナスである。仲成は、庶民生活の向上という統治者の必要条件は満たしたが、戦争に対する知識という充分条件を満たしているわけではない以上、先にも記したとおり、平均以上だが合格点ではない、五〇点の統治者と言わざるを得ない。
坂上田村麻呂は、会談が物別れに終わったことを確認すると同時に、仲成を京都に向かわせるように説得した。どうやって説得したかは不明であるが、仲成はこれに乗った。
もしかしたら、京都の無条件降伏を見届けることを考えたのかも知れない。
だが、これはあまりにも迂闊だった。
仲成にとっても、仲成不在の奈良にとっても。
京都に着いた仲成は、ここで嵯峨天皇の退位を聞くと思いこんでいたようである。
だが、仲成が聞いたのは全く別の言葉だった。
九月一〇日、嵯峨天皇は遷都拒否を宣言。それだけでなく、奈良の勢力を反乱勢力と認定し、坂上田村麻呂に反乱勢力の逮捕を命じたのである。
これが京都の反撃の開始であった。
この知らせを聞かされた仲成は何のことか理解できなかった。
そして、理解できたときには、反乱の首謀者として逮捕されていた。
仲成逮捕の知らせは軍勢よりも前に奈良に届いた。
京都から届けられた第一報は、藤原仲成と藤原薬子の二名を反乱の首謀者と認定し逮捕するというものである。そこには平城上皇の名も、その他の貴族の名も、奈良の寺院の名称も記されていなかった。
あくまでも犯罪者の逮捕がメインであって、奈良の都の勢力を追討することが主目的ではない。だが、そんな名目など誰も信じなかった。
だいいち、仲成はともかく薬子が何をしたと言うのか。
平城上皇のそんな言葉など、京都にとってどうでもいいことだった。
メインは平城上皇であって薬子ではない。だが、上皇を逮捕するなどこの時代の法では許されないこと。
つまり、今の平城上皇にとって薬子だけが生き甲斐であることは公然の秘密であり、薬子を京都に連れて行けば平城上皇もついてくるに違いないとの算段である。
とは言え、仲成と違って薬子は何かをしたわけではなく、逮捕する名目もない。
そこで京都は次々に薬子の犯罪を作り上げた。
平城上皇の愛人であることを利用しての不正蓄財。
平城上皇をたぶらかしての政治への口出し。
兄とともに反朝廷の軍勢を集めた。
そしてついには反乱を始めたのも仲成ではなく薬子ということにされた。
時とともに犯行の度合いは高まり、薬子は極悪犯罪者へと祭り上げられていった。
もちろん、それが事実かどうかは誰もが知っていた。
薬子は名目でしかなく、主目的は奈良の勢力の殲滅だということを。
あくまでも薬子逮捕を命じる京都の姿勢を聞いた平城上皇は狼狽し、奈良の都の庶民は逃走を始めた。
ただし、このときの薬子の様子は伝えられていない。
名指しで犯罪者とされ、逮捕されようとしているのである。平然としていられるはずはない。
誰もがわかった京都の目的を、薬子も、平城上皇も、わからないわけがなかった。
平城天皇は狼狽の後、かつての自尊心を取り戻したかのように薬子逮捕に猛然と反発し、軍勢を起こすと宣言した。
薬子逮捕に従って薬子を差し出しても、すぐに第二・第三の要求が突きつけられる。そして待ちかまえているのは奈良の勢力の殲滅である。
生き残る方法はただ一つ、立ち上がるしかない。立ち上がって京都に対峙することだけが自分たちの生き残る方法である。
それは早ければ早いほど良かった。
九月一一日、平城上皇挙兵。
その知らせを受けた嵯峨天皇は、奈良にいる貴族達に対し平安京に出仕するよう命令する。無論、従わなければ反乱軍と見なされるとした上で。
これに従う貴族は多数現れ、平城京の宮廷は一瞬にして寂れた。
ただし、京都に着いた彼らを待っていたのは歓迎ではなく牢獄であった。
何と言うことはない。従う従わないに関係なく、奈良の都の者は反乱軍として処罰されるのである。
その知らせはただちに奈良に届き、平安京へ行こうか、奈良へ留まるかで迷っていた貴族達は態度を決めた。平城上皇に従っての反乱参加である。
生き残る方法はそれしかなかった。
平城上皇の動きは坂上田村麻呂の読み通りであった。
平城上皇は軍勢、軍勢といっても大した数ではない、しいて言うなら凶器を持った集団を率いて東に向かった。
しかし、東は坂上田村麻呂の命じた街道封鎖が効いていた。
数的には大したことのない人数で門を固めていても、坂上田村麻呂によって訓練された兵士たちであり、また、当時の技術の粋を集めた門である。平城天皇の寄せ集めの軍勢で突破できるものではなかった。
ならば街道を外れればよいのではと考えるのは早計である。
平城上皇らは街道を進む以外に選択肢など無かったのだから。
このときの平城上皇の移動手段、これは輿である。輿を利用しているのは平城上皇だけではなく、薬子や、平城上皇に従う貴族も輿を利用していた。皇族や、武人ではない貴族が、兵士に混じって徒歩で移動するなどあり得ない話であった。スポーツを楽しむ貴族ではあっても、貴族同士という場面でない限り自分の力での移動などなく、庶民とともに行動するとはあり得なかった。
それは威厳を示すには効果があるが、戦闘をしようという軍勢の移動に向いてはいない。その上、整備された街道なら移動可能であるが、街道を外れた山道を移動するなど不可能である。
また仮に、皇族や貴族としての誇りを捨て、輿を降りて徒歩で移動すると仮定するのにも問題がある。
今の平城上皇に求められているのは素早い行動である。一刻も早く行動して反京都勢力を自身の元にまとめなければ生き残る手段が無く、そのためにはありとあらゆる時間の節約を計らなければならぬというのに、移動に時間のかかる街道外を選ぶ選択肢など無かった。
そのどれもが坂上田村麻呂の読み通りであった。
平城上皇の派遣する先遣隊は、そのどれもが田村麻呂によって道がふさがれていることを連絡した。
素早い行動を迫られた平城上皇であるが、東への歩みはゆっくりとしたものとせざるを得なくなった。
平城上皇の挙兵を知った嵯峨天皇は、ただちに坂上田村麻呂に上皇の東向阻止を命じる。
田村麻呂は出発に当たり、かつて蝦夷征伐の戦友だった文室綿麻呂の禁錮を解くことを願い出る。
京都の頑迷な決断に反発したことが平城天皇側に荷担していると見なされていたため牢に入れられていた綿麻呂は、田村麻呂に感謝し、再び副官に就き軍勢を指揮することとなった。
とはいえ、綿麻呂の心情は複雑なものがあった。
京都のあくまでも奈良を認めないとする態度に不信感を抱いていたこと、そのために、仲成を牢に入れ、薬子はありもしない罪を捏造されて逮捕されようとしていること。しかも、その逮捕のための人員の一人が自分。
田村麻呂は現在の感覚でいくとシビリアンコントロールの利く武人である。貴族に列せられてはいるがあくまでも武人であることに徹し、本人の意見があろうと、自分に命令する文人がいれば、それが自分の意見に反していようとそれに従う。
一方の綿麻呂はそうではない。自身が貴族であり、武人であるという意識は乏しかった。命令とあれば軍勢を指揮し戦地に赴くが、その命令を決める側にいる人間だという意識が強かったのである。
シビリアンコントロールは軍事政権に比べればはるかにマシだが、完全無欠ではない。シビリアンコントロールの恐ろしさは、戦争を知らない文人が軍を指令監督する可能性が存在することにある。
戦争を知っている者は、文人よりも、戦争をいつどのように始め、戦争をいかに終わらせるべきかということを知っている可能性が高い。そのため、文人に従った結果、始めるべきではなかった戦争を開始し、終了させなければより良い結果が得られた戦争を終わらせなければならなくなったことは歴史上数多く見られる。
綿麻呂は前者の心情にあった。
この戦争は始めるべきではないと確信していた。手段のためなら目的を選ばないとばかりに一個人が情け容赦なく犯罪者にさせられる。それが我慢できずに嵯峨天皇に反抗したら、平城上皇派とされて逮捕され、出獄できたと思ったら今度は戦線に遣られる。
綿麻呂の表情は憂鬱をそのまま絵に描いたようなものだった。
田村麻呂と綿麻呂が出発した日の夜、仲成の死刑が執行された。弓矢による射殺である。
これは極めて珍しいことであった。
たしかに律令には死刑という制度がある。桓武天皇もそれを実行している。
だが、それは有名無実になって久しい。
どんなに重大な罪を犯し、律令に則って死刑を宣告されても、1ランク下の刑罰となるように配慮され、流罪になるのがここ十数年の通例だった。
それが、逮捕からすぐの死刑執行である。
法に照らせば国家反逆罪で死刑判決が下されるのは正しい。だが、それは法の運用からすればイレギュラーである。
仲成はなぜ死刑となり、通常である流罪とならなかったのか。
理屈としては、事実上、奈良の権力の最重要フィクサーとなっている仲成を解き放つことは危険であったという点が挙げられる。何しろ、地方の不平分子を集めて軍勢を率いようとしているのである。そのタイミングで流罪としたら、相手のメリットになる以外の何物でもない。
ただ、これは名目的なものである。
実際には冬嗣の私怨ではないだろうか。
仲成と冬嗣の関係は今や嵯峨天皇も知ることになったもの。
そこに現れたのが、犯罪者として牢に入れられた仲成。
ブッシュがフセインをどう扱ったかを考えれば、冬嗣が仲成をどう扱ったのかもわかる。
ただ、仲成は独裁者でも大量虐殺犯でもない。ただ単に冬嗣と対峙する存在であったというだけである。そして、冬嗣のこの判断は、冬嗣の生きている間ずっと批判され続けるものになっただけでなく、死刑執行に対する国内世論を形作る役も果たすことになった。
このときの仲成の死刑を最後に、三五〇年もの間、ただの一度も死刑が行われないという時代が続く。
これが途切れたのは保元の乱(一一五六年)。藤原氏の全盛期も過ぎ、源平の争いに日本中が巻き込まれる時代であるが、それでも死刑の復活は国論を大いににぎわせることであった。
九月一二日、平城上皇と薬子の一行は大和国添上郡田村まで来たところで、全ての道がふさがれていることを知る。
「もはやこれまでか。」
平城上皇には武人としての訓練も経験もないが、それでも今の自分たちが勝てるかどうかを理解するぐらいはできた。
結論は一つである。
敗北。
もはや勝ち目のないことを悟った指揮官ができること、それは、自分たちの被害を最小限に食い止めることである。
平城上皇側にできるその方法はただ一つ。薬子を京都軍に差し出すことである。
ところが、それはどうあがいても平城上皇にはできないことであった。
犯罪を犯して捕まった女性の取り扱いは決まっていた。
判決が下るまでは獄吏たちにレイプされ続け、判決が出てからは、懲役刑なら牢の中で、流罪なら流罪先で、やはりレイプされ続ける日々である。
薬子というこの時代の日本で最高の美女、それも、高貴な血を引く令嬢という要素は、レイプから逃れる要素ではなく、よりレイプされるという要素になる。
「覚悟はできております。」
「薬子、すまぬ……」
それを知らない平城天皇ではない。
自分の愛した人を犯させない方法はもはやこれしかなかった。
藤原薬子、服毒自殺。
平城上皇に抱きしめられながら、薬子はその命を閉ざした。
同日、平城上皇、出家。
奈良に入城した坂上田村麻呂が目にしたのは、髪を剃り落とした平城上皇と、平城上皇に抱きしめられている薬子の亡骸であった。
奈良の都はこの日を最後に、都としての機能を失った。
理論上の奈良時代はもう終わっていた。だが、事実上の奈良時代が終わったのはこの日である。
首謀者二名の死をもって終わったこの反乱を、嵯峨天皇はまるで無かったかのように扱った。
全ての責任は仲成と薬子の二人に着せられ、その他の貴族は冷遇こそされたが、命も財産も保証された。
それから一四年を経た弘仁一五(八二四)年八月五日、平城上皇崩御。
薬子の死から一四年間、平城上皇は一人の女性とも接しなかった。
それが平城上皇なりの愛の証であった。
嵯峨天皇はすでに退位し、時代は淳和天皇の時代になっていた。
その淳和天皇の名によって、関係者の赦免が行われた。
ある者は中央政界に復帰し、ある者は死後の名誉回復が行われた。
ただし、仲成と薬子の二人を除いて。
当作品の続編「北家起つ 〜藤原冬嗣の苦悩〜(http://ncode.syosetu.com/n8934i/)」