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明日香とグランディスが剣の稽古を始めた頃、ユーグとリムラは訓練場を離れて明日香の自室へと向かった。リムラは主人のいない間に部屋の空気を入れ替え、着替えを用意しておく。ユーグは身体を拭く為の湯を沸かしに、水を汲んで厨房へと向かった。
----これでよし、と。
窓を閉め、乱れがないかを点検してから部屋を出る。扉の前に立つ兵士に挨拶をして廊下を歩いていると、今頃は厨房にいるはずの兄が血相を変えて走ってきた。
「お兄ちゃん!廊下は走っちゃダメじゃない!」
「はぁ、はぁ…わ、分かってるよ!でもそんなの気にしてる場合じゃないんだ!大変なんだよ!」
ユーグは肩を上下に激しく揺らしながら、カラカラになった喉に急いで唾を流して声を絞り出した。
「この前中庭で揉めた、背の高いドレスの人がいただろ?」
「うん。えーと、確かサルミナさん…だっけ。綺麗な男の人だよね?」
「そう!その人が訓練場に来て、アスカさんと対決してるんだ!」
「えぇ!?」
「早く行くぞ!すでに大勢の人が集まってるから、近づくのに時間がかかるかもしれない!」
ユーグは言いながら身体を返して走り出し、リムラもあとに続いた。
*
訓練場へ続く通路は、人がやっと一人通れるほどの隙間だけを残して埋め尽くされていた。遠くの方から聞こえてくるダンス曲が止まり、耳元で歓声が上がる。ユーグは耳を貫くような音量に顔をしかめながら、後ろにいるリムラに声をかけた。
「リムラ、ついてきてるか!?」
「う、うん!大丈夫…きゃあっ、ごめんなさいっ!わっ…」
身体の大きい兵士に肩がぶつかり、少女の細い身体がグラリと揺れる。ユーグが慌てて戻ろうとすると、突然目の前の人垣がふたつに割れてリムラは尻もちをついた。
「アイタッ!」
小さな尻をさすり、キョロキョロと周りを見渡す。不自然に広くなった空間と皆の視線が後ろに向けられていることに首を傾げながら、駆け寄るユーグの差し出した手を掴んだ。
「リムラ、大丈夫か?」
「うん、大丈…ん?」
よく見れば、妹を心配するユーグの視線もなぜか後ろに向けられている。リムラは視線の方へ振り向いた瞬間、『あっ』という顔で声を上げた。
「ヘルヴァイン様!」
「リムラ、大丈夫か?」
「はい!すみません、アスカさんの側を離れてしまったせいで…」
「お前たちのせいじゃない。…あれだな。」
ヘルヴァインは目線を上げて、前に歩み出るサルダンの姿を捕らえた。その少し離れた場所に、明日香とグランディスが並んで立っている。二人の身なりから剣の稽古中にサルダンに捕まったのだと理解し、無言で訓練場の出入り口へと向かった。
つい先ほどまで混雑していたとは思えないほど道は開かれ、皆が固唾を飲んで壁と同化している。中には領主の暗い気配をいち早く察知して、不運が降りかかる前にさっさと姿を消す者までいた。
サルダンの歌声に苛立ちながら険しい顔で大股に歩く。大事な恋人を大勢の男たちの見世物にされた不快感が、いつもの不機嫌オーラを増幅させていた。
----俺に無断でよくもこんな真似を!!これに関わった者全員まとめて…
歌い終わったサルダンへの大歓声にヘルヴァインの怒りの線がプツリと切れる。場を鎮める為に大きく息を吸いこんだところで、後ろからナルキスが止めに入った。周りに大勢の部下がいることを考え、口調を正す。
「お待ち下さい、ヘルヴァイン様!」
「ナルキス、なんのつもりだ。邪魔をするな。」
ナルキスはギロッと睨みつける主に一礼し、スッと近付いて囁くように耳打ちをした。
「いいから、怒るのはちょっと待てって!次はアスカちゃんの番だ。彼女の歌声を聞きたくはないのか!?」
「あとで俺だけの為に歌ってもらえばいい。彼女の歌声を他の奴等に聞かせるなど言語道断だ。即刻やめさせる。」
「おいおい…。アスカちゃんのあのヤル気に満ちた表情を見てみろよ。」
ナルキスに促されてチラと明日香に視線を向ける。前に立ち、拍手を受ける明日香の楽しそうな横顔を見てグッと拳を握りしめた。
「ここで止めたりなんかしてみろ。彼女は喜ぶどころか、せっかくの気分を台無しにされたとか言って、それこそ二度と歌ってもらえなくなるぞ。」
「…。」
「な?お前には今夜、特別な歌声で歌ってもらえばいいんだから、ここはひとまず我慢しろ。」
ナルキスがスッと身体を離してニヤリと微笑む。ヘルヴァインは苛立たしげに深呼吸を繰り返し、黙って明日香の歌声を待った。
*
拍手が止み、静寂が訪れる。
明日香は冷たい空気を胸いっぱいに吸いこみ、覚えたばかりの童謡を歌いはじめた。明るく、楽しく、速いテンポでリズムよく。歌い手も聞き手も自然と笑顔になれるこの歌は、誰もが幼い頃から聴き親しみ、親から子へと受け継がれてきたものだった。
----コイツ…。
グランディスは目を見張り、歌っている明日香の背中をじっと見つめた。リズムに合わせて揺れる髪は光を受けて艶めき、楽しそうに歌う姿に誰もが目を釘付けにして言葉を失った。
----めっちゃくちゃヘタじゃねぇかッ!!
あまりの衝撃に身体がビシッと硬直する。それは、グランディスが元の歌を思い出しながら正しい音程で歌おうとしても、明日香の奏でる旋律に引っ張られて自分まで音を外してしまうほどだった。
誰もが知っている歌だからこそ分かる。
明日香の歌声には、誰もが歌える歌を、誰一人歌えなくする破壊力があった。
----なんでそんな『見たか!』みたいな顔してんだよ…。
二番までキッチリと歌い上げ、後ろを振り向く明日香の漢らしい笑顔が眩しく映る。力強く立てた親指に自信の程度が表れているようで、グランディスはフハッと吹き出し、親指を立ててコツンと拳を当てた。
「どうでした??」
「すんげぇ衝撃だった。」
「本当ですか!?」
----褒めてねぇよ!
嬉しそうにニコニコと笑う明日香に呆れた笑顔を向けたと同時に、グランディスはハタと我に返って訓練場を見渡した。
----これは…まずいな。
歌い手が歌い終わったというのに、誰も拍手を贈ろうとしていない。その場全体が完全にそのタイミングを失ったように静まり返っていた。
*
----勝ったわ!!
扇子で隠した口角を上げて、サルダンはニンマリと微笑んだ。
----まぁ、あの女への恨みを晴らすには全然足りないけれどね。
チラと赤髪の男に目を向ける。男が手を叩こうと両手を上げるよりひと呼吸早く、サルダンは声高々に口を開いた。
「ホホホ!誰も拍手を贈って下さらないところを見ると、この勝負は私の勝ち…ということでよろしいですわね?」
「はい、もちろんです。サルミナさん、とてもお上手でした。」
「あら、ずいぶんあっさりと負けを認めますのね。」
「私も久しぶりに大声で歌えてすごく楽しかったので、悔いはないです。」
明日香はニコリと微笑み、ルシークに向けて小さく頷いた。ルシークがそれを受け、軽く咳払いをする。喉の調子を整えて勝者の名を呼ぼうとした瞬間、どこからかゆっくりと手を叩く音が聞こえてきた。
パンッ、パンッ、パンッ、パンッ…
静かな空間に、次第に大きく響いていく。その音に煽られ、訓練場のあちらこちらから拍手と口笛の音が鳴り響いた。
「いいぞーっ!!最高だぁ!!」
「アスカ様ー!素晴らしい外しっぷりでした!!」
「初めて聞いた歌みたいでしたよーっ!!」
「なんか可愛いぞー!!他の歌も歌って下さーい!!」
ドォッと揺れるような歓声が沸き起こる。サルダンは両手を上げてヘラヘラと手を振る明日香をジロリと睨みつけ、声を荒げた。
「ちょっと!今の勝負は…」
「アスカの勝ちだな。」
低い声が音を連れてゆっくりと近付いてくる。大男の手から聞こえるその音が最初に鳴った音だと気付き、サルダンは目を見開いた。
「ヘルヴァイン様!あの、もしかして…」
ヘルヴァインはサルダンの前を素通りし、明日香のもとへと歩み寄った。突然の領主の登場に一時騒然となるも、その大きな手が叩かれているのを見て、さらに大きな拍手の音が飛び交った。
「アスカ。」
「ヴァイン!聴いてくれましたか?」
「あぁ。とても…個性的で素晴らしい歌声だった。」
----ちょうどいい言葉で誤魔化したな。
グランディスは頬を緩めて明日香の頭をなでる大男を半目で眺めながら、この場を立ち去ろうとするサルダンに目を向けた。
「サルダ…サルミナ様、どちらへ行かれるのですか?」
「フン…もう結構よ。失礼するわ。」
「おいおい、なんだアイツ。喧嘩ふっかけといてさっさと逃げるつもりかよ。」
ドレスの裾を持ち、ルシークを連れて足早に出入口へ向かうサルダンの背に、どこからか声が向けられた。潜めようともしないその声音には、完全に相手を馬鹿にする態度が表れている。サルダンはピタリと足を止めて声のする方へ振り向いた。
「つーか、そもそも最初から勝負になるわけねぇよな。相手は領主様の恋人だぞ?」
「まったくだ。大体お前は男だろっつーんだ。ドレスなんか着たところで身体のデカさまで隠せねぇってこと、いい加減に気付けよなぁ。」
「領主様もお気の毒だよな。顔がちょっとばかし綺麗でも、男に毎度毎度くっつかれるなんて…。俺だったら一日ももたねぇよ。」
クスクスと嘲笑う声と蔑む言葉が徐々に広がっていく。顔をしかめ、肩を震わせながら再び足を踏み出そうとするサルダンの腕を、細い腕がグイッと引き寄せた。
「いけませんか!?」
明日香はサルダンの腕に手を絡め、腹から声を張り上げた。