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アーゾン城に来てから七日が経った。明日香は今日も朝からリムラに連れられて中庭へと向かっている。
「おはよう。」
兄妹から言葉を教わりながら外を歩くこと数回目。遠巻きに自分に向けられる視線にも慣れ、昨日からはやっと挨拶の声をかけてもらえるようになった。
この日もリムラと共に周りのものを指さしながら単語を教わっていると、一人の若い兵士が声をかけてきた。
「おはよう、お嬢さんたち。」
「お、おはようございます、兵士さん!」
「お、上手だね!」
「本気ですか!?」
「本当ですか、な。」
「あ、ほ、本当ですか。」
「そうそう。うん、本当だよ。」
兵士はニッと笑って親指を立てた。印象的な大きな緑色の瞳を瞬かせ、ゆっくりとした口調で明日香に行き先を聞いた。
「あ、えっと、私たちは、今から、中庭に、行きます。」
「それならちょうどよかった。俺も中庭の方へ行くから一緒に行ってもいいかな?」
「はい。いいですよ!」
明日香がニコリと微笑むと、青年は断られなかった安堵からパッと明るい表情を明日香に向けた。
「俺はラシッド・バーシム。十九になる。君たちは?」
「私はアスカ・タチバナです。二十二歳です。」
「あ、すみません!年上の方に失礼な口を利いてしまいました!」
驚くラシッドの早口についていけない明日香に、リムラはコソッと耳打ちをした。
----あぁ、そういうことか。
「ラシッドさん。アスカさんが、気にしないで普通に話して下さい、と仰っています。」
「そっか、よかった。じゃあ…俺もアスカさんって呼んでもいいかな。」
「はい、いいですよ。ラシッド、彼女はリムラです。十五歳です。私の先生です。」
「そうなんだ。リムラ…か。よろしく、リムラちゃん。」
「よろしくお願いします、ラシッドさん。」
----あれ?もしかして…話しかけてきたのってこれが理由?
ニコニコと笑うリムラと頬を染めるラシッドの周りに小花が咲き乱れている。人前で堂々と異性にアプローチをかける人など見たことがなかったせいか、見ているこちらの方が妙に気恥ずかしい。
明日香はコホンと咳払いをしてラシッドに視線を送り、三人は肩を並べて再び周りを指さしながら中庭へ向かった。途中からラシッドが加わったせいか、すれ違う兵士たちが次々と挨拶の声をかけてくる。明日香は一人一人に返事をしつつ、チラと視線だけをラシッドに向けた。
----やっぱり、お兄ちゃんが側にいたら声かけられないもんね。
ヘルヴァインとの約束通り、明日香が部屋から出る時は必ず兄妹が同行していた。その兄であるユーグが村の畑の収穫作業を手伝う為に昨日からムルス村に帰っている。ユーグは発つ前に代わりの者に同行してもらうようヘルヴァインに頼もうとしたが、明日香はそれをやんわりと断った。
その結果、ラシッドのように兵士たちが積極的に声をかけてくるようになったのである。
----リムラもいるし、別に何かされるわけじゃないし。できるだけヘルヴァインさんには迷惑かけたくないのよね。
ふと、ヘルヴァインの顔が思い浮かんだ。京香の義弟だと知った時はかなり驚いたが、それよりもヘルヴァインの自分への態度の方が気になった。決して目を合わせようとはせず、なぜか強張った表情でこちらの額を見ながら話そうとする。そんな男の態度を思い返し、明日香は無意識に溜息をついた。
----もしかして、お兄さんと京香との結婚に反対だったのかな。どこの馬の骨とも分からない女なんか、って。だから私にあんな怖い目を向けるのかな…。
胸にツキンと痛みが走る。気に入らない女がいなくなった矢先にその双子の妹が現れれば、動揺するのも無理はない。
----でも、だったらなんで助けてくれたんだろう。あえて日本語を話してまで…。
ますます理由がわからない。明日香が眉間に皺を寄せてうんうんと唸っていると、リムラが目をパチパチさせて覗きこんできた。
「アスカさん、どうしたんですか?中庭に着きましたよ!」
「わっ!すみません。」
「じゃあ、ここでお別れだな。またな、アスカさん、リムラ。」
「はい。ラシッドさん、お仕事頑張って下さいね。」
----あれ?いつの間にか『ちゃん』が消えてる。
リムラの言葉に嬉しそうに立ち去るラシッドと、手を振ってその背を見送るリムラを交互に見ながら、明日香は瞬時に日本語に切り替えた。女子たるもの目の前に転がっている恋愛話を捨て置くべからず、である。
「ちょっとリムラ!さっきラシッドにめちゃくちゃアプローチされてたよね!?」
「え、そうですか?」
「ちょっとちょっと~!絶対気付いてたでしょう?あんな分かりやすい態度を取られて気付かないわけないし!」
恋が始まりそうな甘酸っぱさにはしゃぎながら、肘でリムラの肩をクイクイと押す。ニマニマと笑いながら見てくる明日香を、リムラはキョトンとした顔で見返した。
「え?あれぐらい普通じゃないですか?」
「へ?」
「だって自分の好みの女性だったら、他の男性にとっても好みである可能性が高いじゃないですか。だから誰よりも先に自分のことを知ってもらう為に、男性は積極的に女性に声をかけるんですよ。もちろん女性からも。」
「え?ということは、さっきのラシッドの態度って…。」
「特に珍しいことではありませんよ。」
明日香はマジマジと目の前の少女を見つめた。言われてみればラシッドがどんなに熱い視線を送っていても、リムラはまったく動じることなくニコニコと話し続けていたような気がする。
そういえば、と明日香は執務室でのことを思い出した。
----ナルキスさんも私の手を握って、サラッとキスしてきたっけ。
明らかに本気ではないとは分かっていたが、それがこの国の文化なのだと思えば納得がいく。むしろ自分のような不慣れな者からすれば、そういうものだと早いうちに知ってよかったかもしれない。
「そうなんだ。それじゃあこの国の人は、自分の気持ちをハッキリと態度に表すのが普通…」
明日香は自分の言葉にハタと声を詰まらせた。同時に、再び恩人の顔が脳裏に浮かぶ。
----え?あれ?てことは、ヘルヴァインさんの私への態度って…。私、相当嫌われてるってこと?
「アスカさん?どうしました?」
「え?あ…いえ、なんでもありません。行きましょう。」
明日香は言葉を切り替え、微笑んだ。
*
中庭の片隅にあるベンチに座り、明日香はぼんやりと行き交う人々を眺めていた。訓練上がりでボロボロになっている男たちも、大量の布を運ぶ女たちも、修理した武具を届けに向かう鍛治職人も、何度見ても見慣れない光景も、今は何も頭に入ってはこなかった。
「アスカさん、本当に大丈夫ですか?さっきからぼんやりして…もしかして体調が悪いのですか?」
隣で心配そうな表情をしているリムラの声にハッとして、明日香は慌てて焦点を合わせて振り向いた。
「えっと、大丈夫です。すみません。」
「いいですよ、今日はもう日本語で話しましょう。ご気分が優れないようですし。」
「あ…うん、ごめんね。」
明日香は小さく溜息をつき、笑顔を浮かべて口を開いた。
「ねぇ、ユーグとリムラは京香に日本語を教えてもらったんだよね。じゃあ、京香に言葉を教えたのは誰?二人が教えたの?」
「いいえ、私たちは教えてもらっただけです。その頃にはキョーカ様はもう言葉を覚えておられましたから。」
「そうなんだ。」
「キョーカ様に言葉を教えたのは、キョーカ様のお世話係をしていたフラリアという名の女性です。」
「フラリアさん?その、フラリアさんという方はどこにいるのか知ってる?」
「はい。フィークス伯爵家のお屋敷におられると思いますよ。でも…。」
リムラは口を噤み、目を伏せた。世話係であるフラリアの主人はすでにこの世にはいない。主人を失ってまだ屋敷に留まっているかどうかは分からない、というリムラの表情を見て、明日香は少女の肩にそっと手を置いた。
九年前。フィークス伯爵領アルンにある街の片隅で、ユーグとリムラは肩を寄せ合いうずくまっていた。人々が兄妹の目の前を通り過ぎる中、偶然通りかかった京香が立ち止まり、幼い二人を保護したのである。
----それ以来、京香から日本語を学びつつ京香の話し相手をしてた、か…。
幼い頃に別れて以来一度も会っていなかった為に、京香がどんな風に育ち、どんな大人になったのかは分からない。ただ、兄妹から京香との思い出話を聞いてみると、日本語を話す時はいつもリラックスしていたようだった。
----意を決して川に飛びこんだのに死にきれなかった。挙句にこの状況。一度は終わらせようとした人生だけど、なんとなく…寂しかったのかな。
「そっか。じゃあ、そのフラリアさんという方は京香のことをよく知ってるんだよね。」
「はい。」
「私も…いつか会えたらいいな。」
「そうですね。その時の為にも早く話せるようになりましょう!」
両手をキュッと握りしめるリムラの笑顔につられて、明日香も笑顔で頷いた。