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見開かれた明日香の目に、ヘルヴァインのこめかみの傷がぼんやりと映っている。少しカサついた何かがしばらく明日香の唇に押し当てられたあと、ゆっくりと離れていった。
ヘルヴァインは明日香の頭の後ろを支えていた手を離し、再び頬に触れて苦しそうにつぶやいた。
「すまない、その…あぁ、クソッ!君にこんなことをするつもりはなかったんだ!」
頬に触れていた手で咄嗟に顔を覆い、息苦しさに顔をしかめながら深く息を吸った。
「君を妹として大切にしようと決めていたのに!それなのに…本当にすまない。」
「あの…」
「君の気持ちも考えずに…。いい歳をして君のような若い娘に手を出すなんて!」
「あの、ヴァインさん?ちょっと私の方を見て下さい。」
「俺は取り返しのつかないことをしてしまった…。俺まで変態兄になってしまった…。」
「急に『俺』になってますし、ディアンさんへの悪口まで出てますよ。そうじゃなくて、落ち着いて下さい。」
「君が俺みたいな中年男を男として見ることなどないことは分かっているのに!」
「もう!」
明日香はヘルヴァインの手を外し、顔を挟んで自分の方へと向けた。それほど力は入れていないが、無理矢理向かせたせいで頬が『ムニュッ』となっている。武器ともいえる自慢の強面が目の前でヒョットコのように変形し、明日香は思わず吹き出した。
「アハハハハ!変な顔!」
「お、おひ、はふは?」
「アハハハハ!ちょ、喋らないで下さい!」
「ふぇ?」
「だ、だから!もうダメ、もう無理!」
明日香はパッと手を離してひとしきり笑ったあと、呼吸を整えてからヘルヴァインに向かって正座した。背筋を伸ばし、闇色の瞳を真っ直ぐに見つめて静かに口を開いた。
「さっきのこと、後悔していますか?私にキスをしたことです。」
「…。」
「もし後悔しているのでしたら、忘れます。」
「…忘れる?」
「はい。」
サァッと風が吹き、明日香の髪がフワリと流れる。明日香はヘルヴァインに視線を向けたまま毛布をキュッと握りしめた。
「ヴァインさんが軽い気持ちでしたわけじゃないのは分かっています。でも、だからこそ後悔しているのでしたら私は全て忘れて今まで通りに…わぁっ!」
ヘルヴァインは明日香が言い終わる前に腕を引いて抱きしめた。毛布越しに華奢な身体が震えているのが伝わってくる。
----情けない!
明日香を抱きしめる腕に力がこもる。身勝手に唇を奪った挙句、愛しい女に『忘れる』と言わせてしまった自分の不甲斐なさに無性に腹が立った。
「後悔などしていない。それどころか、私は今まで何度も君に触れようとしてしまったんだ。」
「え!?」
「さっき急に…君が恋人を作ると言っていたことを思い出した。そうしたらもう我慢できなくなったんだ。それなのに、君にそんなことを言わせてしまうなん…」
明日香はヘルヴァインの首に両手をかけ、目を閉じて唇をそっとふさいだ。ヘルヴァインの頬に明日香の息が触れる。明日香はすぐに身体を離し、顔を真っ赤にして俯いた。
「アスカ…?」
「わ、私も今のキスを後悔していません。だからその…んっ…」
熟れた甘い果実にかぶりつくように、ヘルヴァインは明日香を抱き寄せ深く唇を重ねた。細い顎をそっと引き、わずかに開いた隙間からグッと柔らかい塊を沈める。腰に手を回して背中をなで、何度も角度を変えて明日香の口の中の全てを優しくなでてから、唇を離して強く抱きしめた。
「アスカ…。アスカ…!愛してる。君を妹としてなんて…もう見られない。」
「ヴァインさん…。」
「君は自分の国に帰りたいと言った。ならば、せめて私を君が望んだ『帰るまでの恋人』にしてくれないか?」
「あ、それなんですけど、もし私が帰らないと言ったらどうします?」
『ん?』という声と共にヘルヴァインの動きがピタリと止まる。明日香の両肩に手を置いて身体を離し、マジマジと明日香を見下ろした。
「君は帰りたいんじゃなかったのか?」
「いえ、正確には帰るとか帰らないとかではなく、帰れないなんですけど…。」
「どういう意味だ?もう少し分るように説明してくれるか?」
明日香は身体をずらし、湖の方に向いた。ヘルヴァインも明日香と同じ方向に目を向ける。静かに水面を揺らす湖を眺めながら、明日香はつい先ほど気が付いたばかりのことを話しはじめた。
「私はこの湖から出てきました。だから逆にこの湖に飛びこめば自分の国に帰れるかもしれないと思っていました。でも…」
明日香は少し間を空け、明後日を見るような目で湖を見つめた。さすがは『とばっちり』から始まっただけのことはある、と心の中で拳を震わせながら、自分で出した結論を説明する為に乾いた声で続けた。
「京香は川に飛びこんでこの湖から出てきました。そして、私は街中の噴水に落ちてここから出てきました。」
「あぁ、そうだったな。」
「では、その逆は?もしここに飛びこんだとして、私はどこから出るんでしょう…。」
ヘルヴァインをチラと見上げてみる。『あ。』という顔をして湖を見たあと、チラと明日香を見下ろした。
出発地点が違っても、出てくるのは同じ湖だった。しかし湖から入れば、元の世界のどこへ着くのか分からない。
氷が浮かぶ北極の海なのか、野生動物のオアシスであるサバンナの水場なのか、水深数千メートルの深海なのか。アマゾンの奥地にある水たまりという可能性もある。
どこに出るか分からない以上、飛びこむことなどできない。そもそも帰る方法としてこれが正しいのかも分からない。つまりは、帰れないも同然である。
「確かに君の言う通りだ。ということはつまり…。」
「京香に無理矢理連れてこられた時点で、すでにこの世界に永住確定だったんです。」
最初から片道切符だったのだ。二の句が継げず視線を落とす二人の間に沈黙が落ちる。ふと目が合い、しばらく見つめ合ったあと二人同時に噴き出した。
それなら、とヘルヴァインは明日香の手を取り、細い指先に唇をあてた。
「私は君より十二歳も上だが…君さえよければ私を君の恋人にしてくれると嬉しい。もちろん期間限定ではなく、ずっと。」
「いいんですか?ヴァインさんは確か自由主義だったような…。」
「その話はもういい。それこそ早く忘れてくれ。それにあれは、そういう意味じゃない。」
軽く顔をしかめるヘルヴァインにクスクスと笑いながら、明日香は掴まれている手をキュッと握り返した。
「冗談ですよ。私の恋人になってくれますか?」
「あぁ。もちろん、喜んで。」
ヘルヴァインは明日香の頬をそっとなでて目を閉じた。
*
「そろそろ日が傾いてきたな。風も強くなってきたしそろそろ帰ろう。」
ヘルヴァインは胸元にいる明日香に声をかけ、頭にキスをした。二人で毛布にくるまりしばらく身を寄せ合っているうちに、いつの間にか空の向こう側が暗くなりはじめていた。
「そうですね。…あ。」
「どうした?」
「この香り。そういえば、この前ヴァインさんの部屋でこの香りの入った入れ物を見つけたんです。古いもののように感じたのですが、大事にしているものなのかなって。」
「あぁ、あれは私の母のものだったんだ。」
「お母さんの?」
ヘルヴァインは小さく頷き、フイと視線を前に向けた。
「昔、父にもらったものらしい。高価なもので、自分にはもったいないと言ってとても大事にしていたよ。」
「そうだったんですか。」
「私が十三の時にフィークス家に入ってすぐ、母が自ら命を断った話は知っているだろう?私は身ひとつで出ていったから、せめてあれだけはと思って持っていたんだ。…うん?どうした?」
ヘルヴァインは胸元を優しく締め付ける感覚がして明日香を見下ろした。何も言わず、両腕を背中に回して顔を埋めている。そのくすぐったい優しさに目を細め、小さく息をついた。
「今思うと、私はキョーカに母を重ねていたのかもしれない。」
「え?」
「母も笑顔の裏にいつも影を負っているような人だった。だからキョーカを放っておけなかったのだろうな。当時、まだ若かった私はそれを愛だと思いこんでいたのかもしれない。君と出逢えたからこそ、それに気が付けたんだ。」
ヘルヴァインは柔らかい頭をなでながら、ふとあの日の夜のことを思い出して吹き出した。
「それにしても気持ちよさそうに寝ていたな。」
「朝起きた時ものすごくスッキリしてました。」
「そうだろうな。寝ていたから覚えてないだろうが、悪い顔をしながら『子猫が怖いなんてかわいい』って言ってたんだぞ。」
「本心ですよ?」
「私にかわいいなんて言うのは君ぐらいだ。まぁ、そんなによく眠れるのならいつでも寝に来るといい。」
「え!?」
明日香が思わず声を上げる。顔を真っ赤にする明日香に、ヘルヴァインは頬を緩めて微笑んだ。
「ハハ、心配するな。この前のように、私は隣の部屋で寝るから安心しろ。さて…」
ヘルヴァインは毛布を外して立ち上がり、明日香に手を差し出した。明日香を立たせて肩に毛布を掛けていると、胸元からぼそぼそとつぶやく声に気付いて手を止めた。
「なんだ?」
「あの…今夜、ヴァインさんの部屋に行ってもいいですか?」
明日香が顔を真っ赤にして俯いている。羞恥と緊張で震える表情にドクリと心臓が脈打ち、呼吸が乱れて頭の中が真っ白になった。
「アスカそれは…そういう意味で言ってるのか?」
「…。」
明日香が顔を背けたまま小さく頷く。ヘルヴァインは明日香を抱きかかえ、周囲に待機している護衛兵に帰りの合図を出した。