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 ナルキスはヘルヴァインに『助けてくれ』と視線を向けるが、部下を守る義務があるはずの主はそっぽを向いて見て見ぬふりを決めこんでいる。ナルキスは少し前の己の態度に後悔しつつ、肩を落として前へと歩み出た。


 ナルキスが明日香をじっと見てどうするべきかと悩んでいると、明日香は自分の腕をポンと叩いた。ナルキスは小さく頷き、グッと腕を伸ばして襲いかかる。そのまま明日香の腕を捕まえようとした瞬間、腕を取られ、身体を思いきり引き寄せられ、身体が宙を浮き、気が付けば床に叩きつけられ腕を捻り上げられていた。


 「だあぁぁ!!」

 「あ、ごめんなさい!大丈夫ですか?」


 明日香はサッと身体を起こし、ナルキスから一歩下がって距離を取った。唖然とした皆の視線が倒れたナルキスの背中へと向けられている。ほんの一瞬のうちに起こった出来事にシンと空気が静まり返り、ナルキスはノロノロと立ち上がって身体をはたいた。


 「大丈夫ですか?」


 明日香は乾いた声で握手の手を差し出した。そしてナルキスが黙ったままその手を取った瞬間、グッと押しこんでナルキスの身体を床に沈めた。


 「なあぁぁぁぁ!?」

 「きゃっ。どうしました?大丈夫ですか?」


 明日香はまたも乾いた声で一歩引いてナルキスを見下ろした。


 ----なんだ今のは!?


 ナルキスは信じられないといった顔で明日香を見上げた。特に何もされていないはずなのに、明日香の手を握った途端、絶対的な力で押さえつけられたような、抗えない圧力を腕に感じたのである。

 無様に両膝をついてしまったものの、女を相手に『痛い』とか『やめてくれ』とは口が裂けても言いたくはない。それでも目の前の華奢な女にあっさりと床にねじ伏せられたことに、感じたことのない興奮を覚えた。


 ナルキスの恍惚とした瞳が明日香に向けられる。明日香はもう一度手を差し出し、ニコッと笑ってナルキスの手を取り立ち上がらせた。


 「あの…なんですか?」


 立ち上がってすぐに、ナルキスは明日香の両手をそっと包んで漆黒の瞳を真っ直ぐに見つめた。溜息まじりに唇を動かし、甘い声で何事かを囁いている。そして最後の言葉と共に瞳を閉じ、包んでいた明日香の手の甲に唇を落としたところでヘルヴァインの拳がナルキスの頭に落下した。


 「ダッ!!」

 「ちょっ、大丈夫ですか!?」


 さっきからこの言葉しか言っていないような気がする。


 明日香は突然口論を始めた大人たちから距離をとり、箱に蓋をしようと振り向くと、今度は目を輝かせてこちらを見る兄妹の姿が目に入った。

 リムラは両手の拳をブンブンと振りながら興奮気味に声を上げた。


 「アスカさん、すごいです!ナルキス様をあんなにあっさり倒してしまうなんて!!」

 「はは…ありがとう。」

 「本当に!アスカさんて実はものすごい力の持ち主なんですね!その身体のどこにそんな力があるのですか?」


 さっきまで落ち着きを見せていたユーグまでが興奮気味に言葉をまくし立てている。まだ幼さの残る二人には女が体格差のある男を倒す光景は余程衝撃だったのか、キラキラと尊敬の眼差しを明日香に向けてきた。


 「ある程度は自分の力も必要だけど、合気道は呼吸力を身に付けて相手の力を利用する武芸だから、きちんと稽古を積めば誰にでもできるのよ。あとは、素早い身のこなしかな。」

 「あの、私にもできますか?普段の力仕事で体力なら自信あります!」


 リムラがムンッと片腕を上げて、力こぶを作った。


 「うん、できるよ。ただ、基礎を身に付けていない人にはいざという時の護身用しか教えられないけど。それでもいいならやってみる?」

 「教えて下さるんですか!?きゃあ!やったぁ!!」

 「あっ、ずるいぞリムラ!アスカさん、私にも教えて下さい!!」

 「うん。それじゃあ私は二人から言葉を、私から二人に合気道を教え合おっか。」


 兄妹は勢いよく首を縦に振り、満面の笑みではしゃぎだした。

 『また来ます』という言葉を残し、四人は明日香の部屋から出て行った。


*


 四人が出て行ったあと、明日香はテーブルの上に残された服の入った箱を見つめながら、目の前の現実に底知れぬ恐怖を感じていた。


 ----京香とキョーカ。一体どうなってんのよ…。


 できるだけ弱いところを見せないように平然と振る舞ってはいたものの、一人になるとやはり不安で心細くなる。どう考えてみても明らかにここは自分の知る世界ではない。日本という国などないと言われたことが何よりの証拠だった。


 ----だったら、なんでこの服はここにあるんだろう。…なんて、冷静に今の自分の状況を考えればわかることでしょうが。


 フッ、と思わず鼻で笑ってしまう。『こんなの知らない、分からない』と言いながら目と耳に蓋をしても、どうなるものでもない。明日香はソファに身を預け、遠い記憶を思い返した。


 明日香の両親は姉妹が五歳の頃に離婚した。姉の京香は母親と暮らし、明日香は父親と暮らすことになった。離婚の理由はわからない。大学生になったばかりの頃一度だけ離婚の理由を聞いたことがあるが、父親が困った顔をしながら『どうしても互いに相容れない部分があったんだ』とだけ言ったことを覚えている。娘には話したくないのだと、それ以来聞くことはなかった。


 幼い姉妹にとっては両親の離婚よりも自分たちが離れ離れになることの方が余程辛くて悲しいことだった。母親が京香の手を引いて出て行った日のことは、今でも記憶に残っている。京香は母親の手を離そうともがきながら、涙を流して何度も振り返っていた。そして明日香はそんな京香の姿が見えなくなるまで、何かを叫びながら泣き続けた。


 その姉が、四年前に亡くなった。現場の状況から川に身を投げた自殺だったと知らされた。深くて流れの速い川だったせいか遺体は見つからなかった、と警察から連絡を受けたのは、事故からすでに数日が経ってからのことだった。


 ----京香が亡くなって、お父さんも亡くなって。お母さんはどこで何しているのか分からない。顔もほとんど覚えてないし…。


 一人ぼっちになってしまった、という哀しみからようやく立ち直りかけた矢先の『キョーカ』の存在。しかしそのキョーカも、すでにこの世を去っていた。


 明日香はもう一度蓋を開けて、中にある服を取り出した。服の裏側についているタグを見れば、やはり見慣れたロゴマークと記号が書かれている。服を綺麗に畳み直し、箱の中に戻して深い溜息をついた。


 ----間違いない。これを着ていたのは京香だ。四年前に発売されたこのTシャツ…。確か、京香が亡くなったのは四年前の夏だった。川に飛び込んで…ここへ辿り着いた?


 明日香は『あっ』と声を上げた。自分がここへ来る直前まで起こっていた不可解な出来事を思い出し、順を追うように思い返した。


 ----そうだ、あの声。あれ、どこかで聞いた声だと思ったら()の声に似てたんだ。じゃああの声はもしかして…京香の声だった?


 途端に背中に寒気が走る。亡くなったと思っていた姉にずっと呼ばれていた。そう想像するだけでも鳥肌が立つのに、一番声が強く聞こえた直後に自分もこの世界に来てしまったのである。


 ----昨日は確か、買い物の途中だった。セール巡りをしてて…そう…そうだ。それで途中で休憩しようと思ってアイスティーを買って、小さい噴水の横にあるベンチに座って…そしたら…。


 『ア…カ!お願……!は…く来…、…を…すけてあげ…!』


 明日香がベンチに座って休憩していると、突然頭の奥でいつもの声が強く鳴り響き、強烈な目まいに襲われた。ふらつく足で立ち上がり、まるで糸で操られているマリオネットのように足を動かし噴水の前に立った瞬間、誰かに腕を引っ張られて水の中に落ちた。


 ----あの時、確かに誰かに腕を掴まれたような感覚がした。そのあと、目を開けたら深い水の中にいた…。噴水の底があんなに深いわけないのに…てことは、噴水に落ちたと同時にあの湖の中に()()()()ってこと?


 まさか、と思わず口を覆う。すぐに馬鹿げた発想だと首を横に振るも、実際に湖から出てきたのは間違いない。他でもない自分自身に起こったことなのだ。

 明日香はふと、ユーグの言葉を思い出した。いろんなことが京香とキョーカが同一人物だと示しているのに、ひとつだけ腑に落ちないことがある。


 ----『キョーカ様は三十歳でした。』


 三十歳。明日香より八歳も年上であることが、その決め手を欠く原因だった。


 ----京香が亡くなったのは四年前、十八歳の時。そしてこの服を着たキョーカがここへ来たのは十二年前だって言ってた。十二年前ということは、キョーカは十八歳でここに…え?()()()…?


 明日香の心臓がドクリと脈打ち、瞬く間に早鐘を打ち出した。全身の血の気が一気に下がり、手足が冷たくなっていく。唇に触れる指が震えているのを感じながら、明日香は恐ろしい可能性に頭の中が真っ白になった。


 ----てことは、もしかして時間の流れが違う!?そんな…でも、そう考えればつじつまが合う。ここは私の世界の()()の速さで時間が経ってるんだ!


 ふと、三十歳の京香を想像してみた。もし京香がこちらの世界で三十歳になってから元の世界に戻ってきたとしたら、心身は三十歳なのに年齢は二十二歳ということになる。


 ----大変だ。早く帰らないと、どんどん時間がずれてしまうじゃない!大学を卒業するまであと半年と少し。つまり、こちらの世界では大体一年半ぐらい。それまでに帰らないと…とにかく、早くヘルヴァインさんにこのことを伝えないと!


 明日香が急いで箱に蓋をして布で包んでいると、扉をノックする音がした。


 「アスカさん、お待たせしま…」

 「ユーグ!リムラ!ちょうどよかった、ヘルヴァインさんに伝えたいことがあるの!」

 「ヘルヴァイン様にですか?でしたらまだ執務室におられますからご案内できますよ。先にご都合を伺ってきますので待っていて下さい。リムラはアスカさんの側にいてくれ。」

 「はーい。」


 一礼して部屋から出ていくユーグの後ろ姿を見つめながら、明日香は手の中にある布をギュッと結んだ。

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