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 至近距離からあてられた久方ぶりの不機嫌オーラに、持っていたパンが皿の上で音を立てる。明日香は返事をしたあと口の中のものをゴクリと飲みこみ、ヘルヴァインの目をじっと見つめて言葉を待った。


 この超短時間で大男の身に何が起こったのか、明日香へ向ける眼差しと声に落ち着いた柔らかさが戻っていた。


 「今日、兄上と出かけただろう。何かされたり言われたりしなかったか?」

 「こらこら、項目が増えてるじゃないか。『言われたり』とはなんだ、短気な愚弟め。」

 「兄上は黙っていてくれ。」

 「あ、えっと…。」


 反対側にいる兄をジロリと睨みつける大男に向かって、実は高級娼館に連れて行かれました、とは口が裂けても言えない。

 明日香は部屋を出る間際に、なぜ高級娼館(こんな場所)に連れてきたのかをディアンに聞いていた。


 ----『ここにはいろんな御仁が来るんだよ。誰にも知られたくない趣味や欲求を持った各界の権力者たちなんかもね。』


 ----『万が一、店の者が口を滑らせて世間に知られたらどうなるか。彼らの中には全力で()()を潰そうとする者もいるだろう。だから店側は誰が何の目的でここへ来たのかには一切触れず、たとえ偶然知り得た情報でも決して外部に漏らさない。』


 ----『つまり()()()()()をするには何かと都合がいいんだよ。』


 部屋を出て、出入り口の扉へと向かう時は外套を深く被って顔を隠した。場所が場所なだけに、誰がどう見ても義兄といかがわしいことをしていたようにしか見えない。それこそ万が一誰かに見られたりしたら、どんな誤解を招くか分からないのだ。

 そうなった時の状況を想像するだけで胃がキリキリと痛みだした。


 「アスカ?やはり何か…」

 「いいえ。私は何もされていませんし、何も言われていませんよ。とても楽しいお出かけでした。」


 片目をパチッと閉じて人差し指を立てる義兄を思い出しながら、明日香はニコリと微笑んだ。


*


 ----『京香、明日香。ご飯できたよって、お父さんを呼んできてくれる?』


 ----『こら、喧嘩してないで早くお着替えしなさい!』


 ----『ごめんね、二人とも…。明日香、元気でね…。』


 その日の夜、明日香は暗い部屋のベッドの上で、クッションを胸に抱えて横たわっていた。昼間にディアンから聞いた話がずっと頭から離れない。ヘルヴァインの母親が息子にかけられた『呪い』のせいで自ら命を断ったと聞いた時、なぜか幼い記憶の中の母親を思い出した。


 ----お母さん、か…。


 両親が離婚して以来父親と過ごしていた明日香にとって、記憶にあるのは写真の中にいる母親の姿だけだった。かろうじて断片的に残る母親との会話も、すでにどんな声をしていたのかすら忘れてしまっている。人生のほとんどを父親と二人きりで過ごしていたせいなのか、母親が京香だけを連れて家から出て行ったせいなのか、今まで母親がいないことに寂しさを感じたことはなかった。


 ----ヴァインさんのお母さんが死を選んだのは、ヴァインさんを守る為…。


 途端に胸が締めつけられ、明日香は深い溜息をついた。愛する息子の為に自ら命を断ったヘルヴァインの母親には敬意すら感じる。同時に、父と自分を置いていなくなった母に初めて憤りを覚えた。


 明日香が胸のムカつきを抑えようと目をつむった時、扉の向こう側から微かに話し声が聞こえてきた。よく耳を澄ましてみれば、ヘルヴァインと見張りに立っている二人の兵士の声がする。明日香はベッドからするりと抜け出て扉に張り付き、聞き耳を立てた。


 「そうか。もう休んでいるならいい。頼んだぞ。」

 「はっ。お任せ下さい。」


 兵士の声を最後に会話が止まり、立ち去る足音が聞こえてきた。明日香は静かに息をつき、扉から身体を離してベッドへ戻ろうとしたところで足を止めた。


 ----もしかして、私が寝てからもこうして様子を見にきてくれてたのかな。


 まだ微かに足音が聞こえている。明日香はキュッと唇を引きしめ、少しだけ扉を開けて顔を出し、暗闇の中を歩く背中に声をかけた。


 「ヴァインさん!」

 「アスカ?なんだ、まだ起きてたのか。」

 「はい、あの…。」


 扉の側に打ち付けられた灯りが明日香の顔を照らしだす。光の下にいる明日香からは、闇の中に浮かぶ小さな光だけが見えていた。その小さな光がだんだんと近づいてきて、目の前で止まると同時にヘルヴァインのがっしりとした下肢が現れた。

 ヘルヴァインは扉の前に立つ兵士たちに向けて人差し指を小さく振り、顔を背けるよう命じた。


「眠れないのか?」


 明日香は扉を開け、目の前に立つ大男を見上げた瞬間息を呑んだ。暗闇の中、下からぼんやりと照らされる強面は一層迫力を増している。恐怖の絵面に腰を抜かしそうになりながら、明日香は声が震えそうになるのを堪えて返事をした。


 「いえ、眠れます。『お休みなさい』を言おうと思って。」


 安易に声をかけたことを後悔しつつ目を伏せる。瞼に焼き付いた恐怖絵に消しゴムをかけていると、頭上で微かに噴き出す音が聞こえて顔を上げた。


 「フフ、そうか。それはありがとう。」

 「…え?」


 不意に胸がドクリと音を立てる。高鳴る鼓動が次第にジンと痺れる痛みに変わり、ジワジワと全身に広がった。


 ----え?あれ?


 「お休み、アスカ。」

 「あ、お、お休みなさ…い…。」


 頭の上に大きな手がフワリと触れる。優しく微笑みながら頭をなでるヘルヴァインの表情に、ついに頭の中が真っ白になった。


 「さ、早くベッドに戻りなさい。」

 「は…い。分かりました…。」


 閉まる扉の隙間にヘルヴァインの微笑みが映る。扉が閉まった瞬間、明日香は扉にもたれてズルズルと滑り落ちた。

 心臓がバクバクと音を立て、呼吸が乱れだす。グルグルと回る視界と高鳴る胸に脳内処理が追いつかず、震える膝に顔を埋めた。


 ----は!?ちょっと待って!何これ!?何あれ!?


 鳴りやまない胸の鼓動と熱くなる顔に目まいを感じ、明日香は慌てて深呼吸を繰り返した。


 ----違う!これは違う!そんなわけない!


 なんとか頭の中を冷やそうと、合気道の技の動きをフル再生させる。そして膝の震えが消えた瞬間スクッと立ち上がり、急いでベッドの中に飛びこんだ。冷えたシーツが熱い頬と身体にひんやりと心地良い。おかげで少し冷静さを取り戻した。


 ----ビックリした!どんな仕掛けになってんのよ、あの顔!一瞬で変わりすぎでしょーが!


 暗闇に照らされた強面が、瞬時に微笑みに変わる。まるで手品を見た時のような感覚に、じわじわと笑いが込み上げた。


 「フフフッ。」


 ----うん、ちょっと驚いただけよ。今日はいろいろ知りすぎて、ヴァインさんのことが心配になっただけ!気のせい気のせい!


 フゥ、と息をつき、目を閉じる。頬に残る淡い熱に大きな手の温もりが重なった。


*


 三日後。ヘルヴァインは目の前にある請求書の束に署名をし終え、椅子にもたれて深く息を吸った。


 今朝は早くから会議の間へ向かい、みっつの会議を終えた。その後訓練場でひと汗かいてから軽く食事をとり、書類仕事を始めて今に至っている。少々の差異はあれどもいつもと変わらない忙しい一日を過ごしているはずが、絶えず溜息が出るほど物足りない気分になっているのには理由があった。


 ----なぜ避けるんだ?


 三日前の夜、明日香の部屋の前で言葉を交わした時は何も変わった様子は見られなかった。ところがその翌朝、会議の休憩時間に挨拶がてら部屋まで様子を見に行くと、顔を合わせるや否や、素っ気ない態度ですぐに扉を閉められたのだ。


 そして今朝、朝食を食べている時はディアンとだけ会話をし、城内で偶然すれ違いそうになると踵を返して走り去り、会話の練習をしないかと声をかけるとフラリアと約束していると言って断られた。その会話の練習の為に空けていた時間を剣を振る時間に変え、気を取り直して昼に食堂へ向かうと、すでに明日香の姿はなかった。


 「子猫ちゃんならとっくに食べ終わって出て行ったぞ。ひと足遅いとは、さすがは愚弟だ。」


 そう言いながら熱い茶を啜る兄の為に、『もっと飲め』とカップの底を小突いてやりそうになる。味気を感じない食事を終えて仕方なく執務室に入ったが、うっとうしそうな眼差しを向けてくる側近しかいない空間には息が詰まりそうになった。


 「おい、何なんだよお前は。溜息ばっかり、こっちまで息が詰まってくる。」

 「なぜお前の息が詰まるんだ。悩みなど無縁だろうに。」

 「お前に言われたくねーよ!って、悩み?お前に?」


 ナルキスは目を丸くして持っていた報告書をサッと机に置いた。無愛想・無表情・無関心・無神経の四冠を持つ友人とは二十年以上の付き合いだが、この男の口から『悩み』など単語すら聞いたことがない。


 「悩みというほどではないが…。」


 口元をさすりながら目を伏せる。寝衣姿で上目遣いに見つめる明日香の表情を思い出し、頭の奥がチリと疼いた。

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