22
「何をしている!!」
低い圧のある声にピクリと反応し、明日香は足を止めた。完成したばかりの折り鶴を握り潰されたような不快感に前を向けば、護衛兵に囲まれ馬車の扉を開けて待つヘルヴァインが、不機嫌そうにこちらをじっと睨みつけていた。
「何もしていません。ネクターさんとお話ししていました。」
「話?あまりに遅いから何をしているのかと思えば…。まぁいい、早く乗れ。」
「…はい。」
足が重い。溜息まじりに手を差し出すヘルヴァインの険しい眼差しが、前へと踏み出す気力を根こそぎ奪い去っているような気さえしてくる。明日香は次第に荒くなる呼吸を抑えながら、隣で心配そうに見下ろすネクターの方に向き直った。
「ネクターさん、ここまでありがとうございました。」
「いえ…。本当に大丈夫ですか?」
「はい。」
「アスカ!」
「分かってます!!」
ヘルヴァインの責めるような苛立ちのこもった声音が耳に障り、明日香は思わず叫び返した。暑さでグラつく意識と疲労のせいか胸が息苦しい。
声を上げた瞬間、強い目まいで視界がぼやけ、項垂れた首が落ちる感覚に襲われ、全身の力が抜け落ちた。
「アスカ様!」
「アスカ!?」
遠くで地を蹴る音を聞きながら、明日香はネクターの瞳と動く口元を最後に目を閉じた。
*
頬を撫でるような暖かい風に髪が泳ぎ、明日香はこそばゆさを感じて目を開けた。力強く背を伸ばす雑草が柔らかな陽射しを受けて瑞々しく艶めいている。その凛とした美しさをぼんやりと眺めたあと、鉛のように重い身体をゆっくりと起こして腕で支えながら辺りを見回した。
ふと、微かな水の匂いと生い茂る草木の香りが鼻をつき、どこか覚えのある空気を思い出した瞬間、頭の奥が軽くなった。
----あれ?これって、あの時の湖じゃない?
自分のいる場所に気が付いたのも束の間、すぐ側から自分を見下ろす女の気配に振り返った。
『明日香、ごめんね。』
『え…京香?京香だよね!?』
『明日香を巻きこんでしまった。あなたには関係のないことなのに…。』
『巻きこんだ?…って、どういうこと?』
『私のせいでヴァインは…。もう彼を救えるのは明日香しかいないの。』
『何それ、分かんないよ!ヘルヴァインさんに何かあったの!?』
『お願…、彼を…てあ…。もう…には…、…。』
『待って京香!ねぇ!ちょっと!きょ…』
*
『京香…!』
「気が付いたか?」
声に出なかった自分の言葉にハッと目を開けると、見知らぬ部屋の天井が目に入った。荒い呼吸の熱さに熱を出しているのだと気付き、明日香は諦めの溜息をついた。
「ヘル…ヴァイン様…。」
「馬車に乗る前に倒れたんだ。覚えているか?」
静かに首を横に振る。感覚では振っているつもりなのに、頭はほとんど動かせなかった。
「そうか。それにしても、気分が悪いのならどうして早く言わなかったんだ。」
ツキンと胸に痛みが走る。眉間に皺を寄せ、悪意のない無神経な言葉を落とすヘルヴァインを見上げながら、明日香は熱でドロドロに溶けそうな頭の奥が冷たくしびれていくのを感じた。
----最低…なんなのこの人…!
無愛想に腕を組むヘルヴァインの姿がだんだんとにじんでいく。
「ネクターから話は聞いた。店を出た時から様子がおかしかったそうだな。なぜすぐに言わなかった?リムラもすぐ側にいただろう…おい、なんだ?」
「…。」
「なぜ泣いてるんだ?どこか辛いのか?」
ヘルヴァインは身を乗りだし、明日香の顔を覗きこんだ。熱で真っ赤に腫れた目元から涙が溢れ、傷ひとつない白いこめかみを伝って髪を濡らしている。明日香は朦朧とする意識と押し寄せる悔しい悲しみに身体を小さく震わせた。
「う…うぅ…。」
「どうした?」
「あなたは…どう…ていつも…そう…って…」
「なんだ?いいから無理して喋るんじゃない。」
「あ…なた…は…!」
荒くなる呼吸と嗚咽で胸が苦しくなる。身体を動かせず、涙と唾液でぐちゃぐちゃになった顔を隠すこともできない。それでも言わずにはいられなかった。
「いつも…怖い顔で…私を見る…ですか…。」
「いや、そんなつもりは…。」
「さっき…店…出てすぐ…歩いて…た…。」
「それは…。」
「一度でも…振り向…くれま…たか…。」
自分の言葉にさらに涙が溢れだす。押し黙り、困惑の表情を向けるヘルヴァインを睨むように見つめて唇を震わせた。
「そんなに…私が…気に入…ないなら…もう関わらな…。放って…て下さ…。」
「そうじゃない!そうじゃないんだ、私はただ…いや、すまない。何でもない。」
「ゴホッ、ゴホッ…う…何…。」
ヘルヴァインはグッと言葉を呑み込んで拳を握りしめた。何も言えることもなく黙って明日香を見る。すでに目も開けていられなくなった明日香の口元がパクパクと動いていることに気が付いた。
「どうした?何か…」
身体を屈めて明日香の口元に耳を寄せる。唇からもれる熱い息が耳に触れた瞬間、頭の中が真っ白になった。
「ヘ…ヴァイン…な…て大嫌い…。」
*
----何…?身体が浮いてる…。しんどい…でも…この匂い、すごく安心する…。
頬に触れる布の感触と汗の匂い。身体を包むように回された固い何かがいつの間にか柔らかい何かに変わっていることに気が付き、明日香はゆっくりと目を開けた。
「う…ん…。あれ…ここ…。」
「あ、アスカさん!」
心地良い温もりを感じながら薄く目を開けると青い瞳が視界の端にぼんやりと映った。明日香は目だけを動かして瞳の主を見つけ、日本語で話しかけた。
「あれ…ユーグ?どうしてここに…うっ、ゴホッ、ゴホッ!」
「大丈夫ですか!?まだ熱が下がってないんです。あまり喋らないで下さい。」
「熱…。」
----そうだ。確か急に気分が悪くなって…
オリヴァー夫人の店を出て、ネクターが日除けになってくれていたところまでは覚えている。
----それから馬車に乗って…ない。なぜかヘルヴァインさんがすごく怖い顔してて…それで…
じわじわと喉に違和感を感じて喉元に触れようとするが、身体中が痛んで腕に力が入らない。寝込んでいる間、咳の度に無理矢理身体を強張らせていたせいだろう。
腫れた喉の痛みとこめかみが脈打つような頭の痛みに顔をしかめて、静かに口を開いた。
「う…喉が…水…。」
「ここにありますよ。少し身体を起こしますね。」
乾ききった喉は水が通るだけでツキンとした痛みが走る。明日香は再びベッドに横たわり、ユーグに目を向けた。
「とりあえず山は越えたようでよかったです。運ばれてきた時は本当に驚きましたよ。」
「あの…私…どうやって…。」
「覚えておられませんか?出先で倒れられたのですよ。ヘルヴァイン様がここまで運んでこられたんです。」
「えっ!?…ゴホッ、ゴホッ!」
「あー、ダメですよ。急に身体を起こしちゃあ。」
「ゴホ…あの、ヘルヴァインさんが運んだの?」
「そうですよ。詳しいことはリムラが戻ってから聞いて下さい。今アイツは…あ、ちょうど戻ってきたようです。」
静かに扉をノックする音にユーグは返事をして立ち上がった。扉の前でリムラに耳打ちをしてから入れ違いに出て行くと、リムラは扉を静かに閉めて明日香のもとへ歩み寄り、日本語で声をかけた。
「アスカさん、気が付かれてよかったです。ご気分はどうですか?」
「リムラ…。うん、まだダルいけど大丈夫。ごめんね、急に倒れちゃって。」
「いえ…私こそ、気付けなくてすみませんでした。思えばオリヴァー夫人のお店にいる時から少し様子がおかしかったですもんね。」
「そのことなんだけど、ネクターさんと馬車の近くまで戻ったところまでは覚えてるんだけど、あのあとどうなったの?」
「あの時、バイラン様のご実家が近くにあると仰って、そちらへ一旦お連れすることになったのです。」
「そうなんだ…。」
一瞬見覚えのない天井があると思ったのは夢じゃなかった。クラクラする頭で一体どれぐらい寝込んでいたのかと考えていると、突然リムラが身を乗りだして声を潜ませた。そんなことをしなくても日本語など誰にも分からないのでは、と呆れる明日香の表情など目に入っていない。
「で、ヘルヴァイン様が自らアスカさんをベッドに運ばれて、そのままずっとお側にいらしたんですよ!」
「へぇ…。」
「私がお側にいますから大丈夫ですよって言ったんですけど、ヘルヴァイン様は『私のせいだからアスカの側にいる』と仰ったんです。ところが…」
「何?」
リムラは目を輝かせ、潜ませた声に力をこめた。なぜか頬まで赤くなっている。
「アスカさんと何か言葉のやり取りをされたあと、急に『城へ戻る』と言いだされたんです。皆が今動かすのは無茶だと止めたんですけど、ヘルヴァイン様は聞く耳持たない感じでアスカさんを優しく抱き上げられてこう仰いました。」
----『私が城まで抱きかかえているから大丈夫だ。早く馬車を用意しろ。』
リムラはスクっと立ち上がり、まったく低くない低い声を出してフワリと両腕で空を抱えた。




