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翌日の朝、ナルキスは両腕に荷物を抱えて執務室へと向かっていた。蓋付きの箱に入れられ、上質な布で大切に包まれて保管されていたそれは、もうずいぶん長い間誰の目にも触れさせず、持ち出されることもなかったものだった。
それほど大事に扱われていたものをすぐに持ってくるようにと侍従を通して命じられたのは、まだ夜も明けきらない時間だった。ナルキスはフゥと息をついて、腕の中の荷物に視線を落とした。
----これを持ってこさせるってことは、やはりあの娘は…。
執務室の扉をノックして中に入ると、椅子に座って頬杖をつくヘルヴァインが目に入った。相変わらずの硬い無表情でどこか一点を見つめている。あまり眠れなかったのか少し顔色が悪いように見えたが、ナルキスは朝早くから叩き起こされた不満を少しだけ含ませるような声音で声をかけた。
「おはようございます、ヘルヴァイン様。ご所望のものをお持ち致しました。」
「…。」
「おいおい、疲れた顔してても挨拶ぐらいしろよ。なんだ?昨夜はそんなに理性がぶっ飛んだのか?」
「…部屋へは行っていない。」
「ほー、そうか。ま、大体理由は察するけどな。」
無言でジロリと睨みつけるヘルヴァインに目もくれず、ナルキスはテーブルの上に荷物を丁寧に置いた。
「ご苦労だった。」
「そんなに苦労はしてないさ。で?これを持ち出したってことは、何か確信があるからなんだよな?」
ナルキスは建前上の挨拶を終えると、あっさりと砕けた口調に戻した。側近とはいえヘルヴァインとは二十年以上の付き合いである。感受性の強い思春期の頃から共に過ごした間柄なだけに、公の場以外ではこちらの方が互いの意図が読みやすかった。
ヘルヴァインはチラと荷物の方を見て、重い口を開いた。
「あぁ、まぁな。で…」
「うん?あぁ、あの娘ならあのあと風呂に入って夕食を食べたあとすぐに寝たそうだぞ。最初は警戒していたみたいだが、食事を見た途端大人しくなってすんなり言うことを聞いていたそうだ。野良猫みたいだよな。」
「…そうか。」
「!!」
ナルキスは目の前の男の表情に目を見張った。無意識なのか、普段はほとんど微動だにしないヘルヴァインの頬が微かに緩んでいる。固まったまま息を呑む部下からの刺すような視線に気が付き、ヘルヴァインは訝し気に見返した。
「なんだ?」
「いや…なんでもない。で、どうするんだ?これを持って彼女の部屋へ行くのか?」
「一応持っては行くが、見せるかどうかはその時に決めようと思っている。まだ言葉が通じないうちに見せてもかえって混乱させるだけかもしれんからな。」
「なんだ、だったら今持っていく必要ないじゃないか。」
「だから、その時に決めると言っているだろう。見せた方が安心するかもしれないと判断したらそれを彼女に見せる。…それだけだ。」
ヘルヴァインがフイと視線を外して椅子にもたれる。その様子を半目で見下ろしながら、ナルキスは呆れたように溜息をついた。どんなに些細な理由でも、何か後ろめたい気持ちがあれば咄嗟に視線を外す癖は昔から変わっていない。
----あの事があってから殆ど笑わなくなったヴァインが、確かに一瞬だけ表情を崩した。見間違い…なんかじゃないよな。
「ナルキス。」
「え!?あ、あぁ、なんだ?」
「あの兄妹には連絡が付いたか?」
「あぁ、昨日すぐにムルス村に遣いをやった。今朝迎えの馬車と護衛兵を送ったから、今日の夕方までにはこちらに着くだろう。それより…なぁヴァイン。お前、あの娘をどうするつもりだ?」
「別にどうもしない。なんの心配をしているのか知らんが、俺は同じことを繰り返すつもりはない。」
ヘルヴァインの鋭い眼差しがナルキスの瞳を捕らえる。これ以上何も聞くなという無言の圧力に、ナルキスは一旦引くことにした。
「そうか、ならいいんだ。とにかく一度彼女の様子を見に行くんだろう?そろそろ朝食を終えているだろうから、会いに行ってみるか?」
「そうだな。とりあえず、名前ぐらいは聞いておかねばならん。」
ヘルヴァインはひとつ息をつき、ゆっくりと立ち上がった。昨日連れて帰った女は、できるだけ他の者の目に触れないよう城の奥にある一室へと通してある。女の身の回りの世話をする限られた者以外は部屋の周りにも足を踏み入れないようにと命じ、さらに部屋の前には兵士を交代で立たせてあった。
ナルキスは荷物を持って先に立ち、主を通す為に扉を開けた。ヘルヴァインは部屋から出ようとしたところでピタリと足を止め、視線を向けてくる部下を視界の端に置き、前を向いたまま表情を変えずに声を落とした。
「ナルキス。俺がこれから何を言おうと一切顔色を変えるなよ。何事でもないように振る舞え。絶対にだ。」
「なんだよ急に。分かった、もし万が一動揺しそうになったら極上の笑顔で誤魔化すようにするよ。」
「よし、行くぞ。」
*
ヘルヴァインとナルキスは女の部屋をあとにして、一旦執務室へと戻ってきた。ナルキスの腕には布に包まれた荷物が抱えられている。女の部屋に持っていったものの結局包みを解くことはなく、ナルキスは黙ってテーブルの上に置いた。
二人の間に沈黙が落ちる。女の部屋を出てから今に至るまで何も話そうとしないヘルヴァインへの苛立ちが頂点に達し、ナルキスはプルプルと拳を震わせ声を荒げた。
「お前なぁ!ふざけるなよ!!」
「だから先に言っておいただろう。」
「何が『顔色を変えるなよ』だ!急にあんなもん見せられて驚かない奴がいるか!なんでもっと具体的に教えておかなかったんだよ!!」
「…。」
顔を真っ赤にして抗議するナルキスを横目に、ヘルヴァインはソファに座って目の前にある荷物を見た。元の持ち主が自分に残していったふたつ目の古傷に、ヘルヴァインはスッと視線を外して目を伏せた。
「あれは、昔彼女から教えてもらったんだ。」
「キョーカに?」
「そうだ。といっても、俺が知っているのはほんの少しだがな。もう二度と口にすることはないと思っていたが…まさかこんな日がくるとはな。」
フッ、と自嘲を含んだ己の言葉に、ヘルヴァインは眉間に皺を寄せた。忘れるどころか未だ鮮明に記憶に残るひとつ目の古傷が、こんな形でえぐられることになるとは夢にも思わなかった。
そしてつい先ほど聞き出した女の名が、ヘルヴァインをさらに記憶の闇へと落とすことになった。
「アスカ・タチバナか。まさかキョーカと同じ『タチバナ』とはな…。」
「…。」
フィークス伯爵の妻キョーカ・フィークス。全てが謎に包まれていた夫人について多くの者が知っていることは、彼女の元の名が『キョーカ・タチバナ』だということだけだった。
「昔のキョーカに瓜二つだってことだけでも驚いたのに、まさか名前まで一緒なんて…。これって絶対偶然じゃないよな。」
「あぁ。きっと彼女たちの間には何かある。ただ…」
ヘルヴァインは言葉を切って黙り込んだ。その妙に深刻な表情で口元を擦る友人の姿に、ナルキスは片眉を上げた。
「どうした?何か思い当たることでもあるのか?」
「いや。彼女は…アスカは二十二歳だったな。キョーカは三十歳。親子にしては年齢が近すぎるから、年の離れた姉妹か、もしくは近い親戚か何かだろう。だがキョーカには確か…いや、とにかく詳しいことは兄妹が来てからだな。」
「そうだな。言葉が通じないんじゃ、俺たちではどうしようもないからな。」
ナルキスはふと思いつき、ニヤリと笑ってヘルヴァインを見下ろした。やはり驚かされた腹いせだけは今のうちにしておかなければならない。ナルキスはわざとらしく肩をすくめ、心の底から安堵したと言わんばかりに声を上げた。
「ま、それにしても良かったじゃないか。」
「何がだ?」
「ほら、さっき『同じことを繰り返すつもりはない』って言ってただろ?」
「…それがどうした。」
「いや、だってさ。二十二歳の彼女からすれば、三十四の俺たちなんてオジサンじゃないか。お前の気持ちがどうこうじゃなくて、彼女の方がお前をそういう目で見ることはないってことだよ。」
「…。」
「そう思ったら、お前もいくらかは気が楽になるだろう?まぁ、俺たちみたいなオジサンにとっても軽く遊ぶ分には若い方がいいが…やっぱりないよなぁ。」
もう一度、チラとヘルヴァインを見下ろしてみる。口を結んだままジロリとこちらを睨みつける表情を見て、ナルキスは満足したように腰を伸ばして深呼吸をした。
「それじゃあ、俺は自分の仕事に戻るよ。またあとでな。」
朝から引っ張り出されていたせいで、通常の仕事が放ったままになっている。自分の執務室に戻る前にテーブルの上に置いた荷物を片付けようと手を伸ばすと、ヘルヴァインがそれをサッと手で制した。
「いい。このまま置いていけ。兄妹が来たらもう一度持っていく。」
「分かった。それではヘルヴァイン様、何かございましたらいつでも私をお呼び下さいませ。」
胸に手をあて一礼して去っていくナルキスの後ろ姿を見ることなく、ヘルヴァインは目の前の遺物に視線を落とした。