15
厚い雲が照りつける陽射しを和らげながら雨の匂いを運んでいる。明日香が偶然見つけた休憩所には陽の光があまり入らないせいか、こういった天気の日は一層薄暗さを増す。そのおかげで休憩がてら仮眠を取るにはうってつけの場所だった。
グランディスと会った日の翌日。明日香は灯りを片手にさっそく休憩所の中を覗いてみると、床に寝転がっている兵士の姿が目に入った。
「グラン!よかった、いました!」
「おわっ!…なんだアスカか。急に大声出すなよ。」
「こんにちは、グランさん。」
「えーと、リムラだったな。ま、とにかく二人とも座れよ。」
グランディスは身体を起こして床に座り、明日香とリムラを椅子に座らせた。申し訳なさそうに遠慮するリムラに『俺は床の方が落ち着くんだ』と真顔で言うグランディスの心遣いが聞いていて気持ちいい。
明日香は灯りを地面に置いて、さっそく本題に入った。
「グラン、何でもいいです。知っていることを教えて下さい。」
「知ってるといっても、他の奴も知ってることだからあんまり期待するなよ。」
「分かりました。」
明日香は頷き、チラとリムラを見た。リムラにはグランディスからヘルヴァインに関する話を聞くことになった、と伝えてある。しかし、その時のリムラの表情がどこか浮かない様子だったことがずっと胸に引っかかっていた。今日は互いの言葉の補佐の為に一緒に来てもらっている。
「領主様はずっと独身なんだが、過去に何度か結婚の話が出たこともあったんだ。ところが、その相手には必ず不幸が訪れた。」
「不幸が?それは、例えばどんなものですか?」
「婚約を結ぶ結ばないに関わらず、これまで結婚話が出たのは少なくとも五人はいたそうだ。」
「五人も。」
「少なくともな。だが、すべて上手くいかなかった。いや、続けられなかった。結婚相手になる女たちは皆、病にかかったり、原因不明の発作で気がおかしくなったり、事故に巻き込まれて命を落としたりしたんだ。中には夜眠ったまま、翌朝には息をしていなかった女もいたらしい。」
明日香は息を呑んでグランディスを見た。昨日グランディスが大丈夫だと言っていたのはこのことか、と明日香はゴクリと唾を飲みこんだ。
「偶然なんだろうけどな。それでも全員に不幸が起こるものだから、いつの間にか領主様に悪い噂が囁かれるようになってな。」
「ヘルヴァイン様と結ばれると不幸になる、と?」
「あぁ。だが領主様には元々結婚願望はなかったらしく、この噂を逆に利用したんだそうだ。女避けの為に。」
「女避け…。」
ふむ、と明日香は口元に手をあてた。ヘルヴァインについてナルキスからは何度も『無愛想な男』だと聞いているが、一度も『薄情な男』だとは聞いたことがない。そんな男が、自分の妻になろうとした女たちの不幸を自分の盾として利用したりするだろうか。
「ま、それも誰かが悪意をこめて言い出した話だろうがな。領主様を知ってる者ならすぐにデマだって分かる。それにここ数年は婚姻関係の話が出ても何も起こってないようだしな。」
明日香が黙ったまま頷くと、グランディスは俯く明日香の横顔を見て、ふと思い出したことを口にした。
「そういえばアンタの姉さんと領主様って、昔恋人同士だったんだろ?」
「…は?」
「グランさん!」
「なんだ?」
明日香は目を見開き、すぐにリムラに視線を向けた。俯き、表情を曇らせる少女の姿がかすんで見える。ドクドクと鳴りだす心臓に不快感を覚えながら、明日香はギュッと拳を握りしめた。
「それ…本当ですか?」
「昔のことだし俺も話で聞いただけだが…。その様子じゃ知らなかったみたいだな。」
その瞬間、明日香の頭の奥で線が切れる音が鳴った。
*
アーゾン城城主の執務室で、ヘルヴァインは送られてきた書類に目を通していた。朝から部屋にこもって机に向かっているというのに、いつまで経っても机の上が片付かない。何度読んでも頭の中に内容が入ってこないのは別のことが気になっているからだと分かっている分、溜息をつくしかなかった。
書類に署名をしようと羽根ペンを持っても、手に力が入らない。昨夜はほとんど眠れなかったせいか、その皺寄せが猛烈な眠気となって急激に押し寄せた。夜眠れないのはいつものことであり、それで仕事に支障が出ることなど一度もなかったはずなのに。
かすむ視界とグラつく頭に顔をしかめ、ヘルヴァインは羽ペンを置いて椅子にもたれた。
深く長い溜息をつく。昨日から瞼を開けても閉じても思い浮かぶのは明日香の傷付いた表情だった。
----やはり言いすぎたか。
昨日の中庭での出来事を思い返す。姉妹についてあえて酷い言葉を選んだのは、ナルキスの度重なる挑発に苛立ち、うっとうしく絡んでくるのをやめさせる為だった。しかしどんな理由があろうとも、一度口に出してしまった言葉は二度と消すことはできない。ましてやそれを本人に聞かれてしまっては。
顔を合わせる度に明日香を傷付けている気がする。その原因を作っているのが他でもない自分であることを自覚しているだけに、目をそらすこともできない。謝りに行くべきか、とこめかみを押さえたところで、決裁済みの書類を整理しているナルキスが抑揚のない冷めた声を出した。
「おい、手が止まってるぞ。今日一日、書類の確認だけで潰すつもりか?」
「うるさい。分かっている。」
「そうか。なら、なんで仕事に手が付かないのかも分かってるんだな。」
「…うるさい、と言っただろう。それよりオリヴァー夫人から請求がきてないようだが、まだ何か届くのか?」
ヘルヴァインは身体を起こし、まとめられた請求書の束を指でつついた。ここにあるものはすべて確認し、署名を済ませてある。この中にオリヴァー夫人の店のものがないということは、まだ未納品の品があるということだった。
ヘルヴァインの声に軽い苛立ちを感じ取り、ナルキスは書類に視線を落としたまま涼しい表情で言葉を返した。
「あぁ、オリヴァー夫人からの請求書は俺が預かったからな。そこにはない。」
「なんだと?」
「なんだよ。俺がアスカちゃんに服をプレゼントしたんだから当然だろ。可愛かったよなぁ、昨日のアスカちゃん。もうひと組買ったそうだからそっちも見せてくれないかな。」
「お前!どうしてそういちいち余計なことを…!」
「は?余計だと?お前は彼女が普段どんなものを着ているか知っているのか?ここへ来て以来、使用人と同じものをずっと着ていたんだぞ。それも誰かが散々着まわしたあとの古いものだ。」
「…だからなんだ。」
「そんなことにすら気付かないお前が、俺に何の文句があるっていうんだよ。それとも何か?まさか男が女に服を贈る意味を考えろとか言いだす気か?」
「そうじゃない。彼女には必要なものがあれば言えと言ってある。」
ナルキスはハッと笑い、持っていた書類を放り投げた。その仕草にヘルヴァインは片眉を上げ、ジロリと睨みつける。たとえ一枚の紙であっても大事な仕事を雑に扱うのは、ナルキスが本気で苛立っている時の癖だった。
「お前、アスカちゃんが自分からあれが欲しい、これが欲しいと言うような子に見えるか?キョーカみたいに!」
「口が過ぎるぞナルキス!!何が言いたい!?いい加減に…」
椅子に手をかけ、立ち上がると同時に扉をノックする音がした。ナルキスはドサリと椅子に座り直すヘルヴァインに鋭い視線を向けてから扉を開けに向かった。
「アスカちゃん!?どうしたんだ?あれ、今日は水色なんだね。とてもよく似合ってるよ。」
「こんにちは、ナルキスさん。この服もとても素敵です。ありがとうございます。」
明日香がニコリと微笑み頭を下げる。ナルキスはいつもと微かに違う声音にピクリと反応し、スッと視線を動かした。そして明日香の後ろで暗い表情をしているリムラに気が付くと、チラと後ろに視線を向けた。
「とにかく入って。何か用かい?」
「はい。ヘルヴァイン様に用があります。」
明日香は椅子に座ったまま固まるヘルヴァインに向き直り、真っ直ぐに見つめて歩みを進めた。机の前で立ち止まり、硬い表情を向ける大男をじっと見下ろす。ヘルヴァインが視線をそらそうとしたところでカッとなり、両手で机を叩きつけた。今回ばかりはこちらを向いてもらわなければ気が済まない。
ヘルヴァインはゆっくりと椅子にもたれかかり、溜息をつきながら明日香を見上げた。
「なんだ。」
「京香と恋人同士だったのですね。」
「なっ…!」
ヘルヴァインがすぐさまナルキスを睨みつける。慌てて『俺じゃない!』と首を振る部下に心の中で舌打ちをして、過去を持ち出された居心地の悪さに顔をしかめた。
明日香は後ろへ振り向いてリムラを呼び、隣に立たせた。言いたいことはたくさんあるのに言葉が追いつかない。明日香はリムラに自分の言葉をそのままヘルヴァインに伝えさせることにした。それなら今まで黙っていた後ろめたさも軽くなるだろう、という互いの合意のもとだ。
明日香は視線をヘルヴァインに刺したまま、リムラに向けて囁きはじめた。