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みのりと申します。
三作目の作品です。
楽しんで頂けると嬉しいです。
どうぞよろしくお願い致します。
『--だからもしこの手紙を読むことがあったら、あなたにお願いがあるの。私の代わりに彼を助けてあげて!』
『あなただけが頼りなの!お願い!彼のこと、よろしくね!』
わなわなと手紙を持つ手が震えだす。文字にはその人の性格が出るとはよく言ったものだが、手触りの良い上質な紙に浮かぶ少し癖のある筆跡が、書いた本人のそれをまさに表しているようだった。いや、今さら文字など見ずとも今自分が置かれている状況を考えれば、普通の思考回路の持ち主でないことは確かだろう。
----何よこれ…。てことは、私がここにいるのは単なるとばっちりだったってこと!?
知りたくなかった。知らないままでいられたら、なんのためらいもなく帰ることができたのに。目まいがして倒れそうになるのを必死で堪えていると、この手紙を手渡した男が心配そうに顔を覗きこんできた。
「顔色が悪いぞ、大丈夫か?なんて書いてあるんだ?」
呆然としながら顔を上げ、男と目が合った瞬間指先から力が抜け落ちた。
*
雲ひとつない青く澄んだ空から、陽の光が眩しく降り注いでいる。緑山の向こうから音を立てて吹きこんでくる風が真夏の空を舞い上がり、哀しみに伏せる者たちの濡れた頬を包みこんだ。
「それでは皆様、最後のお別れを…。」
聖職者の声が静かに響き渡る。漆黒の棺の中に敷き詰められた純白の花々が、永遠の眠りについた一人の貴婦人の最期を美しく飾っていた。
貴婦人の名は、キョーカ・フィークス。
今から十二年前。当時十八歳だったフィークス夫人は、出身国も身分も親類縁者も全てが謎に包まれたまま広大な領地『アルン』を治めるフィークス伯爵家に迎えられた。
三十歳という若さでこの世を去ったフィークス夫人の早すぎる死に、夫であるフィークス伯爵は悲嘆に崩れ、残された幼い子供たちは棺に縋りながら声を上げて泣き叫び続けていた。
*
人気のない森の中を一頭の黒馬が地を蹴り上げ疾走していた。すでに夕方に差しかかる時間ではあるが、陽の高い時期だけにまだ辺りは明るい。それでも、馬に跨り森を駆け抜ける男の視界は真っ暗に閉ざされていた。
貴婦人が埋葬されたところを見届けてすぐに、男は自身が治める辺境の地『ラナート』に戻った。城に着くなり馬に跨り、森の奥へと走り出して今に至る。虚無の中、闇に落ちた瞳の中に弱々しく浮かぶ一点の光だけを頼りに真っ直ぐに走り続けた。
「ヘルヴァイン!待てってば!」
「…。」
「おい!ヴァイン!聞こえてるんだろ!?いいから一旦止まれって!!」
疾走するヘルヴァインの後ろから追いかけてきたもう一人の男が、馬を横に付けて大声を張り上げた。耳元で喚き散らされながらもヘルヴァインは速度を緩めることなく走り続け、開けた場所の少し手前まで来たところでようやく馬の足を緩めて立ち止まった。
風に運ばれてくる微かな水の匂いに触れると十二年前のあの頃を思い出す。あれ以来、この場所へ来ることはなかった。
無意識にこの場所へ来てしまったのは、まだ現実を受け止められない自分がいるからだろうか。己の未練がましさに苛立ちを感じていると、追いかけてきた男が溜息まじりに重い口を開いた。
「お前なぁ…いくら自分の庭だからって領主が護衛も付けずに急に城を飛び出すなよ。」
「…。」
「彼女のことは…残念だった。ここへ来たのはお前なりに思うところがあるからだろう?」
「…。」
男の声に応えることもなく、ヘルヴァインは無表情のまま手綱を握りしめた。短く揃えたダークブラウンの髪が汗に濡れ、こめかみの傷跡に沿って滴り落ちている。グイッと乱暴に汗を拭き取っていると、遠く後ろの方から数頭の蹄の音が近づいてきた。男が向けた視線の先には血相を変えて駆けてくる護衛兵の姿があった。
「ほら、アイツらもあんなに必死になってお前を捜しに来たんだぞ。気持ちは分かるが軽率な行動はとるな。」
「俺の気持ち?フン、別に何も感じてはいないさ。俺はただ辛気臭い気分を晴らしたくてここに来ただけだ。」
「あのなぁ…。」
「ナルキス。」
ヘルヴァインはジロリと視線だけをナルキスに向け、低い声を出した。森の樹々が光を遮りまばらに影を落としているせいか、ヘルヴァインの硬い表情を一層深くしているように見える。
「アイツらを連れて先に城へ戻れ。これは命令だ。俺はもう少しここで時間を潰してから…」
「きゃあぁぁ!!」
ヘルヴァインの言葉を遮るように、突然布を引き裂くような女の叫び声が森中にこだました。ヘルヴァインとナルキスが反射的に声がした方へと視線を向ける。同じ方向から微かに男の薄ら笑う声が聞こえ、ナルキスは眉をひそめた。
「何だ今のは…湖の方からか!?」
「女の声だったな。ナルキス、行くぞ。」
ヘルヴァインは言い終わると同時に手綱を捌き、一気に駆けだした。樹々の間を駆け抜け、光が降り注ぐ空間へと突き進む。前方に湖が見えたところで、今度は男の叫び声が耳を貫いた。
「があぁぁぁっ!!」
樹々を抜け、湖の側まで来て馬の足を止める。馬上の男たちは目の前の光景に唖然としたまま立ち尽くし、目を見開いた。
「〇△□っ!!」
「いっ、痛ぇぇぇぇ!!た、助けて…痛ぇよぉぉぉ!!」
「×〇◇、〇□…!」
----なんだ?どうなってるんだ、これは!?
さっきは確かに女の叫び声が聞こえた。そして自分たちは襲われているであろう女を助けに来たはずだった。しかし今目の前では、全身ずぶ濡れの女が己の身体の倍はあろうかという男の腕を捻り上げて組み伏せている。女は何かを叫びながらさらに力を込めて男の腕を捻り、空いている方の腕で首を締めあげた。
「グ…がぁぁ…あ…」
男は声にならない呻きを最後に白目をむいて地に頭を落とした。女は男が気絶したことを確認してから腕を解き、荒い呼吸に肩を揺らしながらゆらりと立ち上がった途端、膝の力が抜けてその場にへたりこんだ。
「おいおい、どうなってるんだ?あの子、一体…。」
ナルキスの呆気に取られた声に、ヘルヴァインはハッと我に返って女を見た。湖の側で呆然と座りこむ女の後ろ姿に遠い昔の記憶が蘇る。途端に心臓が早鐘を打ちはじめ、すぐに馬から飛び降りて大股に女のもとへと歩み寄った。
「おいヴァイン!不用意に近づくな!チッ、ったく…おい、誰でもいい。あの男を片付けておけ。それから城に戻ってすぐに湯浴みと女用の部屋を用意するように伝えるんだ。行け!」
「はっ!」
背後で指示を出すナルキスの声を聞きながら、ヘルヴァインは女のすぐ側で足を止めた。女が気配を感じて振り返りざまに身構える。頬に貼りついた長い髪が光を受けて艶めき、漆黒の瞳に恐怖と闘志を漲らせてヘルヴァインを真っ直ぐに睨み上げた。そして構えたまま素早く立ち上がって数歩下がった。
その射抜くような眼差しを向けられ、ヘルヴァインは愕然として立ち尽くした。
「キョーカ…。」
*
薄暗い部屋の窓際に立ち、ヘルヴァインは薄雲に覆われた月の顔を冷めた眼差しで見上げていた。身内の葬儀の日は、親類縁者は喪に服して一日静かに過ごさなければならない。自分のことをよく理解している有能な側近ナルキスの判断によって一室に娼婦を用意されていたが、ヘルヴァインは部屋には向かわず窓から入りこむ冷たい風で身体の熱を放った。
----クソッ…なぜだ!なぜまたこんなことになるんだ!!
固く握った拳を壁に叩きつけ、目を閉じて闇の中に入った。それでも、やはり今日この城に連れて帰ってきた女の顔が頭から離れない。
追い払おうとすればするほど浮かんでくる女の顔に胸が締め付けられ、深い溜息をこぼした。
----なんだあの娘は…。他人の空似?それにしては顔も声もキョーカにそっくりだ。何より、着ていた服の雰囲気や状況があの時と似ている。
ドサリとソファに身体を預けて暗い天井を眺めた。侍従が置いていった大きめの灯りも、天井まで照らすつもりはないようだ。
----キョーカと初めて出逢ったあの湖の側で、キョーカに瓜二つの娘が現れた。そして俺はまた…。
すでに蓋をして忘れ去ったはずの情熱が、ガタガタと音を立てて蓋をこじ開けようとくすぶりだす。過去の出来事に似た状況に陥ったことで、もうすでに冷静でいられなくなっている自分に言いようのない焦りと苛立ちを感じはじめていた。
目をつむり、深呼吸を繰り返す。胸を締め付け続ける感覚に顔をしかめながら、己に言い聞かせるように今朝の葬儀を思い返した。
----彼女は死んだ。今日、彼女の最期を見送っただろう!この目でしっかり見届けたじゃないか!なのになぜまた連れ帰ったりしたんだ!
クソッ、と悪態をつき、棚から葡萄酒を取り出しカップに注ぎ入れた。一気に呷り、すぐに注ぎ足す。極上の葡萄酒の味も分からないまま呷り続け、ふと、ある日の光景を思い出して微かに唇を動かした。
----まさか、再びこれを口にする日が来るなんてな…。
思わずクツクツと笑い声がこぼれ落ちる。カップをクルクルと軽く回し、ゆっくりと飲み干した。