チョコレィト・キッス
昼下がり、僕はいつものように校舎の隅にある印刷室の方へ向かう。別に何を印刷するわけでもないし、そもそも生徒の使用は許可されていないのだが。それゆえに都合が良かったりする。
クラスの友人たちは、そんな僕の習慣をわかっているから、そそくさと教室を出る僕には声もかけず。学食に向かったり、あるいは僕とおんなじに教室外で昼食を取ろうとしたりする生徒の喧騒を、僕はするすると抜けていった。
やがて、ガコンガコンと紙を吐き出す、腹立たしげな印刷機の音。同じように蛍光灯がついているはずなのに、どこか薄暗い廊下を歩くと、首筋の汗を拭いながら、それをぼけーっと眺める中年教師が引き戸の窓ガラスにのぞく。半分物置と化した印刷室の中にあって、なんとも世知辛さを感じるワンシーンだった。
お疲れ様です、と会釈して僕はその一つ奥の教室に入った。締め切られたカーテンの隙間から差し込む日の光に、埃がキラキラと舞っている。
綺麗だとは思う。けれどそれと同じくらい、暗い教室で食事を取るのは嫌だ。僕がパチリと電気をつけると、儚い埃どもは輝きを失った。
この空き教室は滅多に使われない。机だって、全部後ろに寄せられてそのままだ。しかも、がたつく机ばかり。
中でも、多少マシだと選別した二つの机を、僕が授業など知るかとばかりに教室のど真ん中に置いた。それが一学期のことで、二学期に入った今でさえ、まだ動かされたことがない。
ぶら下げてきた弁当箱を机に置き、椅子を引いて座る。ぎしぃ、と。手前に座った。この前、女性は奥に座ってもらうのがマナーだと聞いた。
……相変わらず、遅いな。
頬杖をつく。
「せぇーん、ぱいっ」
「うわっ、なんだよ」
途端、視界が真っ暗だ。しっとりとした指先が僕の両眼を塞いでいる。反射的に引き剥がそうとして「ダメですよ!」ダメでした。
「めんどくさいなぁ。棚守だろ、棚守。早くはなせよ」
「あーっ! なんてひどい! こういうのは、ふふーん、誰でしょう? って聞くまででさましきびじゃないですかぁ」
「それを言うなら様式美だろ。あざと過ぎか」
「てへっ、褒められちゃいました」
「……やっと、はなれたか」
自由になった目元を拭い、振り返る。やはり棚守だった。相変わらず、結ぶほど長くもない髪をわざわざ後ろにまとめている。
「しかしどうして」
「どうして?」
そしてこいつはいつも。
「どうして、今日はそんなに髪が濡れているんだ?」
「えっ? あぁ、なんだ、そんなこと」
こいつはいつも、どこかおかしい。
女子高生が昼休みに、風呂上がりみたいに髪を濡らしているのの、どこが「そんなこと」なのか。普通の女子高生ならば、すわイジメかとなるところだが、横髪を上機嫌に指に巻きつける彼女は違う。
「先輩に会うなら、身嗜みを整えるのは当然じゃないですか」
つるん、と。指を振って横髪を靡かせる。濡れて重い髪は中途半端に浮き上がって、ペチャリと棚守の頰に張り付いた。ダサい。
棚守はつんと口を尖らせて。
「……見なかったことにしてください」
「お前のことは見たそばから忘れるようにしてるから大丈夫だよ」
「はぁ、良かったぁ。これで忘れろビームは使わなくてすみましたね」
「なんだそりゃ。そんな得体の知れない変な女は帰ってくれ」
「またまた、照れ隠ししちゃって」
いや、帰れや。
棚守は僕の内心など跳ね返すドヤ顔、自然な動きで僕の前の席に座った。いつだか、校舎に運命の人の匂いを追いかけてきたとかで昼休みの僕を見つけてから。この変な女は毎日、僕の静かな昼食に割り込んでくる。
「ほんと、毎日何しに来てんだよ」
「ナニしに来てるんです」
「いかがわしいな」
「いかがわしいじゃないですか。学校の空き教室に、うら若き男女が二人きり!」
「近頃の少女漫画の読みすぎだ」
「むっ、今少女漫画をバカにしましたか?!」
「いいや。僕がバカにしてんのは常にお前だけだよ」
「私は少女漫画を教典として日々生きているので、そうすると間接的に少女漫画をバカにしてることになりますが」
「やめろ。バカにしたからって急に頭良さそうになるな」
言ってることは結局、意味がわからないけれど。
棚守との会話は、こうした意味のわからないことで九割九分九厘が占められている。しかも、会話をするだけして、昼飯は自分の教室で食べるからと帰っていくのだ。
昔に聞いたことがある。何をしに来てるのかでなく、何故来ているのかと。彼女の話の、残り一厘。
「先輩くらいですから」
「は?」
「普通なの、先輩くらいですから」
「お言葉だけど、おかしいのはお前だぞ、棚守」
「私は普通ですよ。私が言うんだから、当然私は普通ですよ」
「お前は歩くメートル原器か」
自分が普通ですなんて胸を張って言えるの、あいつくらいだろう。
棚守はそんな高尚な冗談の通じてなさそうな、ぼけっとした顔で言う。
「みんながおかしいんですよ。人のことおかしいだなんて、普通言えないですもん」
「いや、それでもお前はおかしいからな」
「先輩だけですもん。私を普通だと思ってるの」
「え? 話聞いてた?」
「聞いてますよ。聞いてくれてるじゃないですか」
要領を得ない彼女の言葉を要約することには。
どうやら、『変な女』であるらしい自分の話をちゃんと聞いている僕は、それだけで彼女の普通を認めているらしい。
なんだ、要約してもよくわからない。
「それって、普通だろ」
「まぁ、そうですけど」
「そうなんじゃないか」
「……てへっ?」
以上、彼女にたった一厘残ったわけのわかる話、おしまい。
わけのわかる部分ですらわけわからないのだから、現在進行形で僕の耳を通り過ぎていく謎の恋バナの楽しさなど分かるはずもない。
男の二股と女の二股のどっちが罪深いか? 僕はスレたOLのお昼ご飯にでも付き合わされているのだろうか。
「別に、どっちも悪いだろ。どっちにしろ不誠実なのは変わらないんだから」
「んー、それなら。自分から二股しに行ったんじゃなくて、別の人と付き合ってる時に、告白されちゃったら?」
「いや、付き合ってるなら断るだろ」
「でも、その子が結構アリ寄りのアリな感じで。あれ、意外と今の子より良くね?! みたいなみたいな」
「なんだそりゃ」
もはや浮気させたいだけだろ。
しかし、棚守は頭がおかしいなりに、おかしいことを真面目に考えていたりする。机の上、指先で円を描きながら僕を覗き込む棚守は、まさにその状態だ。
僕は「早く昼飯にしたいのに」という念をこめて弁当箱をカタリと言わせ。
「まぁ、本当にその子の方が好きだと思ったなら。付き合ってる子と別れるのもアリだろ。寝取り寝取られだの言うけど、冷めた気持ちで彼氏彼女って関係に執着するのは、むしろ不誠実だと思う」
「ほほぉ、良いですね」
「そうか? 前に結衣先輩に言ったら、怒られたくらいだけど」
「えぇ、まぁ、それもそれであり的な」
「全肯定botか」
もしかしたら、彼女はソーシャルネットワークに毒された悲しき少女の一例なのかもわからない。
勝手な哀れみの視線の先で、彼女は腕を組み、なにやら頷いている。
「いけるかな?」「いけるよ」「いや、いけないかな?」
ぶつぶつぶつぶつ、信号機を初めて渡る幼稚園生みたいだ。
やがて。
「よし、決めました!」
「うん、そろそろ帰る時間だしな」
なにを決めたのか知らないが。
棚守は不適な――あほっぽいとも呼ぶ――表情で、制服のブレザーのうちから取り出した。
コンビニとかでよく見る赤い板チョコを。
決闘状よろしく僕に突き出した。
「あげます!」
「は?」
「わたし、今日のお昼のデザート、これなので!」
「は???」
「先輩がこれを、やっぱりお昼のデザートにしてくれたら、それはもういやらしいことに!」
「は?????」
すごい勢い任せでまくしたててくるから、なんなら板チョコで僕の口元をペシペシしてくるから、つい、手で受け止めてしまう。しまった。
「では、そういうことなので!」
「あっバカおまえ!」
気付いた時には、彼女は廊下に駆け出している。
追いかけて返さなければと椅子を蹴倒して、棚守がちらりと出口の脇に視線をやったのを見て。その行動はつまり、そこに誰かがいたということで。
棚守はもう、駆けていってしまった。手遅れだった。
僕は自分の倒した椅子を起こし、座り直す。棚守から渡された板チョコを机に放り出して、裁判長の槌の音を待つ被告人の気持ちで出迎える。
「今日も元気ね、棚守さんは。自分がもう若くないんじゃないかって思っちゃう」
「……何言ってんですか、結衣先輩。先輩も女子高生なんですから、若いに決まってますよ」
「そう。ああしてあっかんべぇをして去っていくくらい、私も幼稚ってこと? えぇ、嬉しいわ」
くそっ、何をしてくれてるんだ棚守のやつ。後悔を塗り込めるように顔を撫で下ろす。
結衣先輩は後ろでゆるくまとめた黒髪を指先に絡めつ解きつ、教室と廊下の狭間から僕を見下ろしていた。温厚な微笑みの下に激情を隠す、トリカブトの似合う彼女だ。不用意な言葉が、いつ彼女を撃発させるか分からない。
――そう、『彼女』を。
僕がこの教室で待っていた、正しくガールフレンドという意味での彼女が今、とてつもなく不機嫌になっている。
とすれば、するべきことはただ一つ。僕は背筋を伸ばし、結衣先輩に向かって頭を下げた。
「すみません、結衣先輩。結衣先輩はやっぱり若いっていうより、大人っぽくて素敵です!」
「ふぅん。やっぱり、私って年増なのね」
「結衣先輩は若いし大人っぽいしでカンペキです!」
流石に調子が良すぎるだろうか。
いつの間にかコピー機の音も止まっていて、僕は時計のコチコチという音を聞きながら、ひたすら木の床の継ぎ目を見ていた。うまい言葉は、どうにも思いつかない。
そんな僕にとっては福音のように。
「……ふふ、やっぱりあなたって可愛いわ」
結衣先輩の言葉は降ってきた。はっとして顔を上げると、結衣先輩は引き戸を閉めて教室の中へ入ってきたところ。知らず握りしめていた手を緩めると、さっき目を塞いできた誰それと同じように汗ばんでいる。スラックスで拭いた。
「半分はからかってるだけなのに、真面目に相手してくれるなんて。優しいわよね」
「そりゃあ、半分本気なんでしょ?」
肩の力を抜いて問いかけると、結衣先輩は肩をすくめてウインクして見せた。無花果のシャンプーを匂わせて僕の隣を通り過ぎると、さっきまで棚守が座っていた席を整頓する。
あの騒がしいやつがいたとは思えないくらいぴっしりと机を整えると、彼女はようやく席についた。
「怖かった?」
「そりゃあもう」
「ごめんね」
「いえ、こちらこそ。待たせてすみません」
「待たせて、ねぇ」
机の上に置いた牡丹色をした巾着袋の口を緩めて、するりと弁当を取り出す先輩。その手先に目を奪われながら、僕も合わせてランチョンマットの包みを開く。
「そういえば、棚守さんは何を置いていったの?」
目を伏せたまま問いかけてくる。
「なんでもないですよ」
慌てて視線を逸らして答えた。
「そう」
結衣先輩は弁当の蓋を開けた。
「浮気」
「え?」
卵焼きやきんぴら、お弁当用の小さな鮭の切り身。和を感じさせる彩り。
「浮気、するの?」
「しませんよ」
その隅っこに添えられた柴漬けの色合いだけが、どこか毒々しく。
「でも、棚守さんの方が好きなら、するんでしょ」
「……あぁ、またそれですか」
僕は開けかけていた弁当の蓋を閉じた。
「しませんよ。だって僕は、棚守のことは好きじゃないですから」
「いっつも、私が来る前に棚守さんと楽しそうにしてるくせに」
「あれは、棚守が勝手に来るだけで」
まぁ、強く追い払ってもいないけれど。
なぜって、この通り疑り深い結衣先輩は、棚守と話した後の僕を必ず問い詰めてくる。今回のように直接会わずとも、必ず彼女の気配を嗅ぎつけて、問い詰めてくる。
その時の、いや、今この時の、ちょっとむくれた表情は、なかなか見れるものではない。男として、彼女の自分にだけ見せてくれる表情を大事にしたいと思うのは、きっと間違っていない。
「あの棚守ですよ。恋人にしたいなんて思うわけない」
「変な女だから?」
「えぇ、もちろん」
「なら、私だってそうだけど」
「そうですかね」
いつも通り食い下がってくる結衣先輩を受け流し、僕は弁当の蓋をいよいよ開けた。
卵焼きやきんぴら、お弁当用の小さな鮭の切り身。和を感じさせる彩り。ただ、先輩の好物である柴漬けだけは入っていない。代わりに、白米の上に梅干しの乗った、紅白弁当だ。
「さすが先輩。今日も僕と同じメニューですね」
「だって、あなたのことならお母様のことまでわかるもの」
「いやぁ、こんなに愛されてるのに、浮気なんて考えられないなぁ」
「……そうよ。考えさせないんだから」
適当に誤魔化そうとする僕に不服を残しつつも、先輩は折れたようだった。いつものように自分の弁当箱を僕に差し出してくる。代わりに、僕の弁当箱を渡した。
先輩の好物の柴漬けを僕が食べて、我が家の定番である日の丸弁当を先輩が食べる。これは、そういう儀式。
けれど、その途中で先輩の視線は異物を捉えた。
「じゃあ、それはどうするの?」
「あぁ、これですか」
棚守の置いていった板チョコだ。どうせ放るなら、机の中に放り込めば良かったと今にして思うのだが。
「食べたら怒るわ」
「でも。捨てるのも勿体無いですよ」
「なら、私が食べる」
はしっと結衣先輩に取られてしまった。細い指先が安っぽい包装を剥がしていく。
ぺりぺり、ぺりぺりと。
先輩が満足するならそれでいいかと、むしろ、一人で板チョコを一枚食べたら、それはそこそこなカロリーだよなと。考えているうち、包装は完全に剥がされて、薄いアルミを残すのみ。
「あら?」
その時、包装の下に隠されていたらしいノートの切れ端が、先輩の手元に滑り落ちた。
「なんですか、それ」
「そう、あなたも知らないの」
何か書きつけてあるのだろうが、ちょうど裏返しに落ちているのだろう。うっすら黒い線が透けているくらいだ。
僕の言葉に片眉をあげた結衣先輩が、その紙片を拾い上げて、読んだ。
読んで、読み返して、畳んでブラウスの胸ポケットにしまう。
「…………なんて?」
「私宛だったわ」
「先輩宛?」
ぱき、ぽき。
先輩がアルミの上から板チョコを割っていく。丁寧に、一カケずつ、割り分けていく。
「あの子、今食べてるのかしらね、このチョコ」
「食べてないんじゃないですかね。いつも意味のわからないこと言うやつですし」
「どうかしら。あの子、あまーい子じゃない?」
「甘いっ……ていうと。まぁ、少女漫画の読みすぎかって思うことはありますけど」
「そうそう、そういうとこ」
割り終えて、先輩の手がぴっとアルミを裂く。中身のチョコは少し溶けているようで、アルミの裏は少し茶色い。当然、それを摘む先輩の指にも溶けたチョコがつく。
「ここで問題です」
先輩はその桜色の唇で、啄むようにチョコをかじる。小さく割ったチョコをまず一口噛み割って、残りを二口目でしまい込む。指に残ったチョコを、ちらりとのぞいた舌で舐り取り。
「私は、甘いと思う?」
思わず生唾を飲んでいた僕は、その質問に肩を跳ねさせた。
その様に結衣先輩はクスリと笑って、けれど僕の答えは待っている。さっきと同じ失敗は許されないと、彼女の深い笑みから感じていた。
「甘いと思います」
「そんな、ふわふわと夢を見る痛い女じゃないわ」
「甘くないと思います」
「あら、私との恋に甘さはないの?」
どちらも想像できてしまう。すると、僕はもう先輩のさじ加減でどうとでもされてしまうということだ。
静かな部屋、わずかに耳に届く、先輩の咀嚼音が、僕の脳まで噛み締めているよう。
ぞくりと。背筋を走る――
「はい、時間切れ」
「え?」
「ほら、食べ終わっちゃったから」
そう言って、結衣先輩は口をあーっと開けてみせる。普段見ることのできない彼女の粘膜に、思わず覗き込んでしまうと、すぐに手で隠されてしまった。
恥じらって見上げる瞳、妖しい瞳。
「それじゃ、答え合わせ」
覗き込もうと前に出ていた僕の頭が、彼女の手に引き寄せられる。彼女もまた、口元を隠していた手を下ろし、顔を近づけ。僕の視界には、彼女以外にいなくなる。彼女の鼻息を頰に湿らせ。
僕と結衣先輩は、キスをした。
唇と唇が触れ合うだけのバードキス。確かめるように、舌先で自分の唇を舐めると、カカオバターの脂を感じた。
「どう? 甘かったでしょ」
初めてのキスだった。なかなかさせてくれなかったのに、初めてのキスが今だ。
おでこの触れ合う距離で僕を見つめる結衣先輩を改めて見つめ返して、やっとキスをしたという実感がやってくる。もちろん、興奮はあるのだが、置き捨てられた板チョコの匂いが、僕の気持ちを昂りきらせてはくれない。
あぁ、だって、このキスは。
「いいえ、苦いです」
このキスは。
「とっても、苦いです」