馬の耳にソロモン
あたたかな春の昼さがり、坂道を自転車をこいで登ってくる青年。ここは名古屋市の北東部にある丘陵地の住宅街。
坂を登りきり、自宅まであと角をひとつ、と顔を上げた時、近所のおばさんが困り顔でうろうろしているのが目に入った。
「あっ太郎ちゃん!タロちゃん、タロちゃん!」
犬を呼ぶように連呼するなよな、と思いつつも表情には出さず愛想笑いをする。
「どうしたの、おばちゃん。」
「うちのトラちゃんが、この辺でいなくなっちゃったの‼」
「いつも抱っこしてたでしょ?」
「そうなんだけど、ここへ来たら、急にカラスがギャーギャー騒いでて、トラちゃん、びっくりして暴れて手から飛び出したのよ。」
このおばさんちの猫は、サバトラの中ネコだったよなぁ、と太郎は思い出している。黒江さんだっけ…。
自転車を降り、黒江さんと並んで歩きながら辺りを見回す。この辺りはカラスが多いので、付近の猫達は、側溝を通り道に使っている。さっき黒江さんと会ったあたりで飛び出したのなら…。
太郎は見当をつけると道路にはいつくばる。こっち側は、また坂の下まで溝が続いている。左側はそこの角で、ゴミ除けの格子がはまっているから、ここで見えるはず。
見えない。
と、なると右側、坂の下か。
「おばちゃん、ちょっと待ってて。」
言い置いて坂の下まで、小走りで降りていく。降り切った交差点の角。そこの曲がり角も溝には格子がはまっている。少し手前から、ネコを驚かせないように静かに近づき、這いつくばって溝をのぞき込む。
居た!
サバトラで四肢の白いブチの中ネコ。黒江さんとこの『トラキチ』だ。
太郎と認めると小さな声で「ミャ」と鳴く。
「よしよし。もう大丈夫だよ。こっちおいで。」
溝に顔を突っ込むようにして、手を伸ばしトラキチを抱きかかえて引っ張り出す。
「トラちゃん、トラちゃん!」
黒江のおばさんが走ってきた。
「大丈夫だった?怖かったねぇ。よしよし…。
「ありがとねぇ、タロちゃん。今度お菓子でも持っていくからねぇ。」
お菓子はいいから、その『タロちゃん』と『トラちゃん』が同列に聞こえるから、やめてくれよ、思いつつ愛想笑いを返す。
自転車のところに戻り、家路につく太郎。一人、誰に言うともなくつぶやく。
「あ~、ネコやイヌとちゃんと話ができたらいいのになぁ…。」
独紋太郎。18歳。目下の悩みというより、生涯の夢は、動物と話がしたい、それに尽きるようだ。
この春、地元名古屋の私立大学に入学。文系の私立大学に入るのがやっとでは、何か理系で機械を作り夢を実現するなんて及びもつかない。
(それに、翻訳機械で云々じゃなくて、フツーに直に話したいんだよなぁ。)
ドリトル教授や、昔話の聞き耳ずきん、自分の変わった苗字と同じ、ソロモン王の指輪とか、幼い頃に知ったそうした『神話』はずっと太郎の心の中にあった。
「おびえてるトラキチにも、言葉が通じたらひっかかれずに済んだろうし…。」
太郎は、先ほどトラキチを溝から引っ張り出すときにひっかかれた左手の甲の傷をなめながら、ため息をつくと、ハンドルを握り直し自転車にまたがった。
夢を見ている。太郎、5歳くらいの自分なのか。雨が降っていたのを覚えている。ネコを抱えていた。よく遊んでいた近所の野良。ケガをしている。
太郎はネコに話しかけていた。ふいに大人の声がして、ネコを取り上げられた。
「……、……。」
太郎は何か叫んだ。
「ダメ!」と自分で言ったことはわかったが、ネコも自分もその後どうなったか、わからない。
息苦しさと暑さで目が覚めた。目の前に毛むくじゃらの肉マンがあった。飼い猫のアサシオだ。どうも猫は他人の息がかかるところが好きらしい。身を寄せ合って母親のふところで寝た記憶が心地よいのだろう。寒い季節はもちろん、暑い夏でさえ気が向くと、ひとの寝ている胸の上にやってきて寝ている。それも鼻面をつきあわせて。
クルル…、クルル…、
幸せそうな喉鳴りの音が聞こえている。
「…おはよう…、おまえか…。」
意識のはっきりした太郎の胸の上に、どっしりと太った飼い猫が乗っていた。
「どいてくれないか?ボクが起き上がると、おまえをはねのけちゃうよ…。」
聴いているのかどうか、アサシオは目を細めて大きくあくびをし、両の前脚をそろえて伸びをする。
「ツメ、痛いんだけど…、」
脚を伸ばしたまま、子猫が親猫に対して授乳を促すモミモミを始めるアサシオ。
「もっと痛いって!ツメを研ぐな‼」
アサシオを跳ね飛ばして起き上がる太郎。体の大きいくせに、さすがは猫。もうそこらにいなかった。
ベッドから降りて窓を開ける。4月の終わり頃、少しあたたかな風が頬に気持ちいい。
「あ、今日モリのクラブのコンパに誘われてるんだっけ…。」
「太郎~っ、起きたならゴハン食べちゃいな~!」
階下から母の呼び声。あくびをしかけた口をもごもごさせながら返事をし、階段を下りていく。
台所では、母が大型の炊飯器のコンセントを外し、車に積み込む用意をしている。
「父さんはもう店?」
「うん、とっくに出ちゃったよ。ソーセージと玉子焼いてあるから。」
「ありがと。」
「じゃ行ってくるから、戸締りしっかりしといてね。」
「わかった。」
(戸締り優先で、しっかり『勉強』してこいと言わないのがいいよね…。)
一人つぶやく太郎。
太郎の両親は、父が3年前、市役所を早期退職してから、自宅にほど近いところに喫茶店を開いている。学校やオフィスがそこそこある郊外駅の近くなので、のんびりしたいという父の思惑とは別に、ランチなんかで繁盛している。母も息子の進学が残っているのに、なんでこんな時に辞めるの?と、たいそうな剣幕で言い争いをしていたはずなのに、いつの間にか母の方が一人で店を切り盛りしているような勢いだ。元々が生命保険の外交員でバリバリ仕事をしていた人だから、やるとなったら止まらない。
朝食を詰め込むようにして食べ終わると、口をモグモグさせながら、キッチンと隣り合わせになった居間の隅、窓際にある大き目のケージに入っているヨウムに餌をやりながら話しかける。
このヨウムは南の方の産の大型の種類のものだ。母方の伯父が貨物船の船乗りで、土産に買ってきたものだったが、伯母と従姉妹がもてあまして数年前から、太郎の家に引き取って飼っている。
言葉を覚えるタイプらしいが、伯母が教えた彼女の名前の『ピーコちゃん』しか繰り返さない。おまけに餌をやっている最中に指に噛みつく。太郎も母も被害にあっている。父とアサシオは寄り付かないので無事なようだ。
「ピーコちゃん、元気かい?」
餌はヒマワリの種などの大粒の鳥用種子だ。このピーコちゃんがやってきた当時、ちょうどニキビに悩んでいた太郎は伯母や父にヒマワリの種が効くから食べてみたらと言われ、憤慨した覚えがある。
「ピーコちゃん、もっとおまえがしゃべれたらいいのになぁ…。それにどうして指を噛むのか教えてくれよ。」
『私の食事のジャマをするからよ。』
「え?」
今、ピーコちゃんがしゃべった?
「ピーコちゃん、ピーコちゃん?」
答えない。クチバシで器用に種をくわえ、パキッと割って中身を飲み込んでいる。
(今? しゃべったというか、問いかけに答えた⁈)
しばらく見つめていたが、もう何も変化はなかった。
自転車に乗り、庭の出入り口の掛け金を止める。植込みのかげ、ちょうど陽のあたるところにアサシオが寝そべっている。四肢をこちらに投げ出し、腹にいっぱい陽があたるようにして寝ている。家猫ならではの安心のしようだ。
この住宅街の一角の小さな森になったような太郎の家も、実は父の理想のひとつだ。外国の絵本に出てくるような『森』に住みたかったそうな。若い頃から、郊外に物件を探し、山中に捨てられた別荘のようなここを見つけた時は狂喜したらしい。
実際、いわくのある物件だったらしいが、そのおかげで父にも手が出せたようだ。時間をかけて手を入れ、庭造りをし、小さいながら、敷地の中心にある建物が森(実際は数本の立木)の中にあるような雰囲気を作りだしている。
母に聞いた話だが、公務員住宅に暮らしている平凡な公務員と思っていた父が、太郎が小学校にあがる年に引っ越そうと言って、ここへ連れてきた時はびっくりしたそうな。その隠密性とさらにとびぬけた行動力に、気味悪がったりもしたが、ちょっと惚れ直したと言っていた。確かにびっくりする話だが、このくらいのチョイ悪というのがいいらしい。
「行ってくるよ、アサシオ」
ピーコちゃんのように何か話すかと期待したが、何も言わない。しかたなくゆっくりとペダルに体重をのせていく。
夜の街を歩いている。光と音。呼び込みの声。
「お兄さんたち、オッパブどう?」
「居酒屋の御用ないですか?」
「こっちこっち!」
「社長!」
「オレたち社長じゃないし…。」
「まぁ、社会勉強。」
「行こうって言ったのモリだぞ…!」
まわりをおっかなびっくり見廻しながら歩いている。太郎と友人のモリ、そしてヨシノリの3人。高校時代からのつき合いだ。吹奏楽部に入ったモリの誘いで、部のコンパに参加した帰り。モリによるとあまり人づきあいのない太郎と、漫画・アニメオタクど真ん中のヨシノリを人前に出そうというはからいだった。
「ここが“錦”か。地元にいても来たことがないや。」と太郎。
「コンパは良いにしても、こっちは別に…。」
冷や汗まで流しながらヨシノリが言う。声がかすれている。
「いやぁ、しっかり大人にしてくれそうな店があったら、おまえら押し込んで頼んどいて帰ろうかな…。」
「おまえなら、やりかねんから、やめてくれよ。」
「お、おれ帰る!」
ヨシノリが踵を返そうとした時、先頭を歩いていた太郎が立ち止まり、ヨシノリが背中にぶつかった。
「おい、太郎、おまえまで一緒になって止めるなよ…。」
「いや、違う…。いや、やっぱりそうだ!」
モリが太郎の視線を読み取って言う。
「なんだ、太郎、あの店が気に入ったの?」
太郎たち3人の数メートル先の交差点の角にある店。折しも、コトを済ませた客を送って女の子が入り口まで出てきていた。モリが見た時には女の子は既に階段を降りて店の中に入っていってしまっている。しかし、太郎は始めから“彼女”を目撃していたようだ。
「あ、あれ、今のって…。英米科の谷口さんじゃないか⁈」
「おまえ、オクテのように見えてそういう情報は早いな。」
感心したようにモリが言う。
フリーズしている太郎とヨシノリをおいて店の前まで行き、入口の階段脇に置いてある看板や店のメニューを調べて戻ってくるモリ。
「現役JDの店、として学生証のコピーやら就学証明書みたいなものがベタベタ貼ってあるぞ。」
「…!」
「…!」
さらにフリーズする太郎とヨシノリ。
「私立M大外国語学部英米科一年、黒塗り、沙和。って写真目線アリ、と学生証のコピー目線、苗字、住所黒塗り、ってのが貼ってあったぞ。」
端で見るからに石の彫像になってしまった太郎。横からヨシノリが質問する。
「JDって、女子大生ってこと?」
「18歳がリミットでも、JCやJKと肩並びでいかがわしさを演出してんじゃないか?」
「JCやJKは犯罪だぞ…。」
ヨシノリがくちごもる。彼の動画やDVDのコレクションにはおなじみの文言でも、現実に目の当たりにすると興奮度が違う。
石になった太郎と、真っ赤になって震えているヨシノリ。二人を見て、連れて帰る潮時と判断し、モリはタクシーを呼び止めようとした、その時ー。
太郎が、ものも言わずに店へ入っていく。モリが止めようとしたが、うるんだ眼と何ものをも差しはさませないような表情に、ひるんだ隙に階段を降りていってしまった。
その場に取り残され、顔を見合わせるモリとヨシノリ。
通された部屋は、一畳くらいの喫茶店かスナックのボックス席をカーテンで仕切ったような個室だった。椅子はなく、ビニル張りのマットのようなものが敷かれていて、手前の土間部分には荷物置きか?カラーボックスとカゴ。そこだけベニヤ張りの壁にハンガーが2本かかっている。
「いらっしゃ~い!ごめんなさい、待たせたぁ?」
大きめのプラスティックのカゴに、おしぼり、アルコール消毒スプレー、乳液、ライター、タバコなど、なんやかやと七つ道具を入れたものを持ち、カーテンを開けた女性、谷口沙和だった。
「わ~、うれしいなぁ、指名してくれたんだって? おじさんの相手ばっかりだったから、ほんっとううれしいしぃ。」
間違いない。この女性だ。
「あの…、」意を決して太郎が口を開く。
「英米科の谷口沙和、さんですよね。」
「なに? あんた、学生課の人? ただのおせっかい?」
一瞬にして空気が張り詰める。
「わたしのこと『谷口沙和』と知ってて指名した? 友達に自慢する? 学校でツンツンしてる女を金で自由にした?」
「いや、その…、ちがうんです。」
「何が違うの?」
先程の営業ボイスが、ドスのある低い声になり、ひざを崩して座りなおす沙和。カゴの中からタバコを取り出すと火をつける。一息吸うと大きく煙を吐き出す。
太郎と目を合わさないように壁の方を見ながらつぶやくように言う。
「営業妨害。帰ってよね。」
大きくため息をつく。
「高校の頃は、誰にも会わなかったのに…。やっぱり大学は学生も多いから、ヘンなのが来るわ。」
「…! 高校生の頃からこんな仕事…、」
「こんな仕事⁈ 他にどんな仕事があるのかしら? 女一人で生きていくために⁈ 時給930円のセブンイレブンかい⁈
高校生ならJKってブランドがあって、現在は有名私立大の女子大生、これがあるからただのオッパイとオ〇ンコに、スケベ面したオヤジどもが高い金払うんじゃない!
せっかく手に入れた営業ツールだよ! 稼げる間稼ぐわ!
しわくちゃ婆ぁになった時、誰が面倒みるっての‼」
矢継ぎ早にまくしたてられ、声も出せずうなる太郎。それでも言うべき事は言わないとと、必死で声を出す。
「で、でも、ちゃんとした仕事をしていれば、か、必ず…、し、至誠天に通ずるって…、」
「何わけわからないこと言ってんの? あんたたち男は、精子を生だししたいだけでしょ!」
こんな時でも、言葉尻を捉えてうまく返す。やっぱり頭のいい女性だ、そう太郎が感心しているとー。
沙和は部屋の入口の壁についているインターホンに叫んでいた。
「助けて! マネージャー! ヘンな客だから、つまみ出して!」
太郎が件の風俗店に入っていってしまい、所在ないモリとヨシノリは、その店の見える位置にあるコンビニで立ち読みをしながら太郎を待っていた。ただ、繁華街のこととて、漫画や雑誌には軒並み封がされたりひもがかかっていて、立ち読みもできない。かろうじて前の客がムリヤリひっぺがしてボロボロになってしまったまま置いてある週遅れの週刊誌を二人で回し読みして時間をつぶしていた。
長期戦になるかな、とモリが一人ごちた時、その店の入り口がざわついているのが目に入った。
「太郎だ。」
「え?」
白カッターに蝶ネクタイ、黒ベストの茶髪と金髪の若い男二人に両脇を抱えられて、太郎が店の入り口から外へ連れ出されている。
太郎はというと、それほど暴れている様子でもない。モリとヨシノリが駆け寄ると、ヨロヨロ歩いてくる。
「大丈夫か? 太郎…。」
「太郎…!」
放心したような顔をしている太郎。顔色は真っ赤だが、鼻水と涙なのかぐしゃぐしゃに濡れている。まっすぐ歩いてはいるが、意志があって進んでいるのかどうか定かでない。
「ある意味『抜かれた』な…。」
「おい、モリ…!」 ヨシノリがこづく。
友人二人を残し、一人歩いていく太郎。
モリが叫んでいる
ヨシノリが叫んでいる
何か叫んでいる
ーー大丈夫か? だと?
そんなに大声で叫ぶなよ
聞こえているよ
うるさい奴らだ
アレ?
オレってモリとケンカしてたっけ?
なんかヘン
いや大丈夫だ
家に帰るだけだ
ついてくるなよこどもじゃないし
なんかヘンだ
酒、今頃まわってきたのか?
そんなに飲んでいないのに
女の子にふられた
いや、それ以前だ
門前払いというやつだ
おせっかい?
何の役にも立たない
おためごかしの親切?
吐いた
地下鉄の駅か
音が遠い
耳鳴りがする
頭が痛い
遠くで誰かが叫んでいる
うるさい
聞こえているキーンと遠くで音がする
吐いた
階段?
みぞ?
ドブ? いいや、
電車とホームの間だ
ほうら線路が見えてる
駅員?
いいよ、乗ってるとまた吐く
降りるよ、降りますって
階段を登り、駅を出た
うちまで歩く
風が気持ちいい
おもいっきり深呼吸する
しまった
吐いた
のどが痛い
すっぱい
さっきまでキレイな雑炊だったのに
水? 胃液ってやつか
赤くてキレイ
血か?
オレってそんなに飲んだのか
目が回っている
沙和さんの毒気にあたった
キレイな花にはトゲがあるってか
入学式で見かけたキレイなコ
どことなく野性的で
ネコみたいだ
ネコはかわいい
ときにはこんなデブネコもいる
やぁ、アサシオ
おむかえ、ご苦労
おまえはいつも無口だね
え? 気をつけろ?
なにに?
おまえ、ネコのくせにしゃべるとはなまいきだ
めがまわっている
へやのなか
かえってきた
みずをのんだ
あれ? とうさんだっけ?
アサシオがいれてくれた
すこしおちついた
とうさんふとった
あさしお?
夢を見ている。
いつも見る夢だ。
泣いているボク。
雨が降っている。
いつも遊んでいたノラ。
ケガをしている。ーー車にひかれたーー
ボクの手から取り上げた大人。
何か言っている。
なんだっけ。
いつもここで目が覚める。
聞こえてくる。
「かわいそうだけど、たすからないな…。」
いけない!
何かいけない!
わからないけど、この人、
いやなことをする!
何?
なに?
胸が痛い。
すごく痛くなってきた。
知ってる。
ボクは知ってる。
大人の手が動いた。
「すまん!」
「ダメ~~~‼」
飛び起きる太郎。
自分の部屋だ。眼をあけて寝てしまったのか? 両の眼から涙を流している。
『あの大人』は野良の首を折った。助からないのならと、ひと思いに殺した。骨の折れる音を聞いた。覚えている。
あの野良は生きていたかったかも知れないのに…。勝手な判断で、あの大人は野良を殺した。
あの時、ちゃんと野良の言葉がわかれば、それをあの大人に話して聞かせてやることができれば、野良は病院へ連れていってもらって命が助かったかもしれないのに。
…いや、ほんとうに助からなかったかもしれない。
太郎はおもいっきり首を振って否定した。
「ちがう!あのコは生きていたかったハズだ!」
「太郎~! 起きてるなら朝ごはん食べちゃいな~!」
母の声がする。
ベッドを降りる。鏡を見た。眼は真っ赤で、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだった。
「カオ、あらわなくちゃ…。」
自販機の紙カップが5つ。太郎が飲み干したコーヒーの跡だ。今は6杯目を飲みながら空いたカップでピラミッドを作ったり、ただ積み上げてみたりと、手元の無聊を慰めている。
太郎の通う私立明慈大学の第一学食。3つある学生食堂のうち、一番大きく一番古い建物だ。
11時を回っている。昼食時も近いということで賑わっている。
部活ごとに集まっているもの。ゼミの仲間うちの集まり。女の子同士。男同士。
第一学食はカップルは少ない。どちらかというと体育会系ガッツリタイプの比率が高い。
太郎自身、恋愛には疎いほうなので、カップルが少ないとか、そんなことを理由にここを好んでいるわけではなかった。…わけではなかったのは、昨日までだった。
ただの憧れだったのに…。ちょっといいなと思っていただけなのに。
谷口沙和が風俗店で働いていると知った瞬間、胸がしめつけられた。これは何だ?
愛情? 恋愛感情? 義務感? 守りたい? おせっかい? 勝手な思い込み?
冷静に分析しようとすればするほど、混乱してくる。だから少しでも情報を集めたかった。午前の二限分をさぼってここで待っている。
「よう、太郎。待った…ようだな。」
声をかけてきたモリが、空いた紙カップを見てつぶやく。
「いや、何も手につかないから、ここの賑やかさがいいんだ。」
太郎の向かい側に腰を下ろしたモリがタバコに火をつける。
太郎を観察するように見ながら、ふーっと大きく煙を吐き出す。
「知らん方がいいかも知れんぞ。」
「いや、知りたい。わからない方が怖い。」
大きくかぶりを振る太郎。しぼりだすように声を出す。
そんな太郎を横目に見て、モリが灰皿にタバコを軽く当て、灰を落としながら話し始める。
「わかった。
うちのブラスバンドにも英米科は何人かはいるから訊いて回ったんだが、わかったのはこのぐらいだ…。
谷口沙和。まぁ同じ一年生だ。父は他界。もともと土建屋さんの一人親方だった。一人親方ってのは建築業なんかで社長イコール従業員て感じで個人で仕事を請け負う自営業者だ。大手の下請け、孫、ひ孫請けなんてことも多いらしい。この父親がバクチ好きで、けっこうな借金つくって死んじまったらしい。谷口沙和が高校生になったばかりの頃だそうな。母親は、彼女にはお兄さんがいるらしくて、二人を成人させるまではと頑張ってきたらしい。が、現在、身体を壊して入院中。兄が代わって面倒を見りゃ美談なんだが、父親似でバクチ好き。で、さらに借金を増やしちまったと…。そこで、一人、谷口沙和が働ている。
わかっているのは、まぁ、こんな感じだ。」
聴いている太郎の顔がみるみる赤らみ、眼がうるんできている。
「落ち着いて考えろよ、太郎。いくら好きでも赤の他人だ。お前が躍起になることはないぜ。」
伝法な口調になるモリ。太郎はしかし、聞こえていない風情だ。
「おまえの性格はわかっているつもりだ。何とかしてやりたいと、今、アタマん中グルグルしてるだろ?やめとけよ、おまえがつぶれるぞ。」
「得体の知れん女のせいで、友だちを失いたくないからな…。」
太郎の顔色が変わった。
「モリ、親友でも言っていいことと悪いことがあるぞ…。」押し殺したような声で太郎が言う。
「ほら、それだ。おまえ争いごとキライなくせに、夢中になると周りが見えなくなっちまうだろ。高校の時も年に一回ずつくらい、あったよなぁ…。」
「……。」
返す言葉がなく、うつむく太郎。こいつには行状全部知られてるなぁ。
腕っぷしが強いわけではない、熱血漢でもない。ただ大勢の友だちの中で、かまわれなくてもいい、賑やかなところに一緒にいられるのが心地良い。家族のそろう居間の隅で寝ていると幸せそうなイヌかネコのような性格の太郎だった。
それでもたまさか女の子を好きになることもあり、そんなときにはもう周りが見えない程、行動的になる。
そして、また、失恋した反動も大きい。そんなところを見てきた仲の良いモリやヨシノリからは、動物好きで普段ヒト科の女に見向きもしないことと合わせて『発情期』と言ってからかわれている。
顔をあげると、2本目のタバコに火をつけながら、太郎のことを見ているモリと目があった。
「発情期か…。」ボソッとつぶやく太郎。
モリが続ける。
「冷たい言い方だが、おまえに何ができる? 学校やめて働いて面倒みるのか? 今、中退してもロクな仕事につけんぞ。
よく考えろよ、太郎。おまえは彼女が好きになった。だから彼女の役に立ちたい、何とかしてやりたいと思ってるだろ? でも一歩引いて考えてみろよ。それはおまえの自己満足だぞ。
怒るなよ…。
オレはおまえにつぶれて欲しくないから、忠告してる。高校の時から、そういう一途というか、突っ走るおまえを見てきたからなぁ。友だちとして、傍で見ているオレたちの方がつらいぜ。ヨシノリもオレも、おまえが好きだから言いにくいことも言うぞ。」
うなるばかりで、太郎には返す言葉がなかった…。いちいち癪なほどもっともだ。
でも、モリめ冷たいこと言いやがって、勝手なこと言うなよ。ヨシノリも同じ意見かい…! 頭の中が堂々巡りを始める。…確かにグルグルしてる。
やおら立ち上がる太郎。
「考えるよ…、考えりゃいんんだろ!」
そう吐き捨てて学食を出ていく太郎。灰皿にタバコを軽くあて、モリがため息をついた。
太郎は考えた。考えた末に行動に出た。それは、『お兄さんを説得する』ことだった。
モリに言われた通り、現在の自分にはどうすることもできない。金もない、力もない。ならば、彼女に何がしてやれるか?
彼女の苦境はひとつには金だ。彼女の父が死亡、母が入院中、兄が遊び人、彼女自身が働いている。
順繰りに考えていけば、彼女のお兄さんがちゃんと働いてくれれば、沙和さんの負担が少なくなる。最低でも風俗で働かなくても良くなるはずだ。
二十歳前後の若者としては、しごくまっとうな考え方だった。それが、どれだけまっとうで、ひとによってはそのまっとうな考え方がどれだけ煙たがられるか、太郎には思いもよらなかった。
そして、目指す相手はそういうことを最も煙たがる人種の一人だった。
5月のアタマ、よく晴れ渡った空。少し汗ばむくらいの陽気だった。
名古屋の西南部、港区の土古町。『どんこ』と読む。かつて山口 瞳氏がその著作「草競馬流浪記」で「名古屋土古の砂嵐」と記したように草競馬=地方公営競馬の行われる、ここ名古屋競馬場は地元の人にはその地名から「どんこ」として親しまれていた。名古屋の競馬スポットは、主に尾頭橋と土古で、タクシーに乗ってこの地名を言えば、すぐに察して連れていってくれる。前者はJRAの場外馬券売り場WINSがあり、後者はもちろん名古屋競馬場、通称どんこ競馬場であった。
広い敷地。高い建物は、レースの行われるコースに面したスタンドだけなので、空が多角的に見え開放的な気分になる。
「さて…。」
と、つぶやいた太郎。しかし何かあてがあるわけでもない。わかっているのは、沙和の4つ上、23,24歳くらいの男性。ということだけだった。そして開催日にはここ「どんこ」によくたむろしているとの噂だけ。片っ端からその年かさの男に声をかけて歩くか?
そう考えていた時、人の集まっている場所に目がいった。次のレースに出走する馬を見せる下見所。いわゆるパドックだ。そしてパドックの事務所風に見える小さな建物の向こうに見えるのは…。
「あれ? 祠かなぁ。競馬場の中に神社があるのか。」
興味をひかれた太郎、そちらの方に歩いていく。
太郎は知らなかったが、それは馬頭観音だった。元々は、馬の病気平癒や、災厄をさけるためのものだったが、競馬場にあっては、レースの無事を祈り、はては馬券の的中を願ったりする不逞の輩が小銭を置いて行ったり、外れ馬券をおみくじよろしく供えて帰ったりするところになっていた。
「お兄さんがみつかりますように。」
神妙に手を合わせる太郎。ふと見ると、祠の陰に一匹の猫がいた。
元は白だったのだろうが、すすけて灰色っぽい地の毛色にブチの虎もようが入っている日本ではよく見かける野良の一匹だった。
「やぁ、神さまの使いかな。おまえに言っても仕方ないけど、谷口太一さんって人知らないかな?」
「他猫にものを尋ねるなら、何か寄越しな。」
「⁈」
思わずあたりを見回す太郎。
「ネコがしゃべった⁈ …というより、オレ、ネコの言葉がわかるのか?」
「何言ってんだ、兄ちゃん、オレの言ってることがわかるんか。人間にしちゃ気が利いてるじゃねえか。
ま、この競馬場でオレの知らないことはねぇよ。」
「あ、あの、じゃあさ…。」
「おっと、まず、」
「あっ、ごめんなさい。」
太郎は売店まで走っていき、ネギマを3本買ってきた。
串からネギと肉を外しながら尋ねる。
「谷口太一さんって人、知りませんか? ここによく来るって話を聞いたんですが…。」
肉だけよってハグハグとかぶりつきながら、ブチ猫が答える。
「あぁ、ろくでなしが集まってくるここでも特にろくでなしな奴だ。オレはいっぺん蹴とばされたしよ。」
「…は、はぁ。」
「ほれ、パドックの右のカド見てみな。白いジャケット着て、となりの男の機嫌をしきりにとっている、あいつだ。
あぁして、馬券の買い目を教えてコーチ屋まがいに、あとでおこぼれに与ろうってんだ。」
「コーチ屋? おこぼれ?」
「若いの、知らないなら、知らない方がえぇよ。
ここから後ろ振り向いてすぐ帰りな。その方が幸せってもんだ。」
「そういうわけにはいかないんです。」
いつの間にか野良ネコにていねいな言葉使いになっていた自分にも気づかず、太郎は立ち上がった。
その男、太一と一緒に話していた初老の男は、次第に口調が激しくなっていった。どんどんケンカ腰になる。とうとう初老の男は捨て台詞を吐いて、パドックから離れていった。
後に残された太一は、競馬新聞を丸めて自分の肩をたたきながらブツブツ言っている。
(話しかけにくいなぁ…。)
「あ、あの、谷口太一さん…ですか?」
「お?」
「ボク、沙和さんと同じ大学の…、」
「お~、そうかそっか、沙和の友だちな! なぁなぁ、ちょ~っと投資しないか?~あ、え、と、」
「独紋太郎です。」
「おぉ、そうそう太郎くんな。」
「このレースな、3番がな、グリグリの本命だけど、危ないんだ。代わりにな、この6番は、印は無いんだが、絶対にアタマを取る。だからここと、こう、4点まで流せば、万々歳よ!」
とまどう太郎の目の前に競馬新聞を拡げてまくしたてる。
「あの、お兄さん、競馬なんて初めてなんで…。」
「あぁ、そっかそっか。よしっオレに任せな。オレが買ってきてやる。いくら持ってる?」
太郎が財布をポケットから出した途端にひったくるように取り上げ、札だけ全部つかむと、
「お、ゴール板の前で待ってな!」
太郎が言葉をかける間もなく、券売機の方へ駆け出して行った。
わけがわからず、立ち尽くす太郎。しばらく待っても戻ってこないので、そのゴール板を探して歩きだす。
草競馬のメロディが場内に流れ、女性の声で『お早くお買い求めください』などのアナウンスが流れる。次第にメロディがアップテンポになり、それが途切れた時、列車の発車音のようなベルが鳴った。
ゴール板とは、これのことか?
たどりついた時、ゲートが開いた。砂煙とともに、目の前を馬が駆け抜けていく。
「え? ゴールなのに止まらないの?」
「おいおい、一周してここへ戻ってくるんだよ。」
そばに居た男が、あきれたように答えてくれた。礼を言う太郎に、しかし、その男はもう向こう正面を走っている馬群に気を取られていて素っ気ない。
やがてもどってきた馬たち。周りがざわつき始めた。
「行けーっ」
「バカ野郎っ浜口余計なことするんじゃねーっ!」
「そのまま、そのまま!
「あ~~~っ ちくしょ~! 八百長競馬め!」
いつの間にかゴール前はけっこうな人だかりになっていて、太郎はその殺気だった男たちの中で一人冷や汗をかいていた。
着順が馬場の真ん中の電光掲示板に表示される。グリグリの3番が一着。お兄さんのおすすめの6番は掲示板にも上がっていない。
人が散っていったが、お兄さんは戻って来ない。仕方なく太郎はパドックの方へ歩いていった。
パドックには次のレースに出走する馬たちが周回していた。辺りを見回すが、太一はいない。
ため息をつきながらパドックの柵にもたれかかる太郎。
「だから言ったろう? 若いの。」
いつのまにか足元にさっきのブチ猫がいた。
答えることもなく、柵に寄りかかり、組んだ両腕にあごをのせたままぼんやりと馬を眺めている太郎。
その時ーー。
「あ~あ、やだなぁ。」
「あんたはいいわよ、人気なんだから、適当に一周してくるだけだから。」
「だってずっと先頭だよ。疲れちゃうじゃん…。」」
「そうだよ、わしの方が疲れるさ。おまえに競りかけて、途中で賑やかししないかんのだから。」
「わたしの屋根なんか若いコだから、おかまいなしにハナを取りに行くよ。一コーナーで泥だらけよ。」
「人間の言うままに走らなきゃ、しょうがないわさ。」
太郎は大きく口を開けたままだった。馬たちの話てるっことがわかる。
「…⁈ ?」
「オレの言うことがわかるなら、連中の話だって聞き取れるだろ。」足元のブチが言う。
「そりゃ、そうかも知れないけれど…、まさか…?」
その時、さっきから鼻息荒く興奮している様子の牝馬が、先ほどの人気馬に挑みかかるように列を乱して近づいてきた。
「あんた、そんなに退屈なら直線で、ケツ蹴っ飛ばしてあげるよ!」
「あぁ、ボクを抜かさなきゃいいよ。二着になったら人間が怒るから。」
目を丸くしている太郎。その時、肩を叩かれて飛び上がった。
「いや~、すまんすまん、直前で厩舎情報が入って6番のヤリは無くなったらしい。
6番の馬が本馬場に入った時、立ち上がっちゃっただろ? あれがサインだったんだよ。」
太郎にとっては、太一の話す内容の方が馬たちの会話よりチンプンカンプンだった。
「それよりこのレースな!」
太一が拡げた新聞を見ると、なるほど先ほど疲れると言っていた馬、10番に◎の印が集中している。泥だらけを嫌がった馬、2番は印が無い。そして興奮していた牝馬、3番は△と▲が少しついている。
「あの、お兄さん。」
「お~、なんだ太郎ちゃん。」
『くん』づけが既に『ちゃん』になっている。
「この10番の馬と、2番、3番、この辺はどうでしょうか?」
「ん?ほぉ、ふんふん…!」」
「おまえ、なかなかいい読みしてんじゃん!」
今度は『おまえ』だ。
「2と3はいいぞ! でもなぁ、この10はな~、いっつも逃げて直線でズブズブなんだよ。ま、んでも沙和に免じて、ちょっとだけ買ってやるよ。」
太一がさっき太郎から取り上げた枚数より減った3、4枚の千円札を振り上げながら言う。
(それ、ボクのお金なんですけど…。)
「よしっ最終レースだ! 一緒に見ような!」
「ほれ、おまえの分な。」
太一から馬券を渡される。馬連で、2番、3番、10番の百円ずつのBOX馬券だったが、太郎は馬券のシステムなど知らないので、自分がパドックで聞いた馬たちのゼッケンの番号が記されていてホッとした。
太一の方はというと、2、3と7枠の2頭を組み合わせて、計6点の馬連のBOX馬券を500円ずつ買っていた。先ほどの2頭、7枠の2頭共々印が少ない。太一は穴狙い派のようだったが、この時の太郎はそんなこと知らない。
レースが始まった。10番が先頭に出ると、一コーナーで2番が競りかけていき、二番手につける。そこに7枠の2頭と対抗になっている1番が続いて隊列が落ち着く。
(あ、ほんとに泥だらけだ…。)
「よぉ~し、そこらへんで10番歩いていいぞ。1番は余計なことするなよ~!」
四コーナーを回って、直線を向く。脚色の衰えない10番が2馬身、他の馬を引き離しにかかる。2番はくいさがっているが、7枠の2頭はもう余裕がない。そこへ大外へ持ち出した3番が襲い掛かる。
ゴール板を10番、3番、2番と駆け抜けていった。
「あ~‼ ちくしょお~~っ なんで今日に限って歩かねぇんだよぉ‼」
「あの、お兄さん、これ当たってますよね。」
「え?」
太郎が指し示した馬券をひったくる太一。
「お~、そうじゃん! 太郎ちゃん、やったじゃねぇか! さすが沙和のボーイフレンド!」
『ちゃん』とボーイフレンドに昇格した。(どこかでドラクエのファンファーレが聞こえた気がする)
10番が本命だったが、3番、2番と人気薄だったので、馬連の3ー10は5000円ちょっとの配当になった。
そして、馬券とお兄さんは戻ってこなかった。
太郎は一人、しょぼくれたオッサンたちと一緒にオケラバスに揺られながら、お兄さんの説得に新しい可能性を見出していた。
朝靄がかかっている。轍の跡だけ草の生えていない砂利道が続く。道の両側には木製の柵。その向こうには、靄の切れるところまで草原が見える。霧で見えないだけでもっと続いていることだろう。
そこかしこに馬が草を食んでいる。お腹の大きい母馬に寄り添う仔馬。二頭でじゃれあっているのもいる。
太郎は北海道に来ていた。
「ここが放牧場ってとこか…。」
朝早くホテルを出て、タクシーに乗り、降ろされたところから一人歩いてきた太郎。
「霧でよく見えなかったけど、受付とかってあるのかしらん。
ま、訊き込みしながら行けばなんとかなるでしょ。」
太郎の言う『訊き込み』は、馬に対して訊く、ということだった。
あれから太郎は『語学留学』の旅に出た。あやふやな動物たちとの会話を確かなものにしたい。馬やほかの動物たちにも方言はあるのか。
地元名古屋には東山動植物園という知られた動物園があった。さっそく年間パスポートを買い、毎日通った。
そして、土古は言うに及ばず、南関東の四競馬場。関西の園田。高知、佐賀。土日にはJRAの中山、東京、京都、阪神。
傍から見たら、あそこの息子は大学へ入った途端にギャンブル狂いになってしまった。そう思われて当然の展開だった。
もちろん、お金も無い。父に相談したら母がわめきだすのを抑えて、何も言わずに金を貸してくれた。普段と何も変わらない様子で、
「出世払いだ。」と、笑いながら。
穏やかな父だったが、不思議な力強さを感じた。父と母のやりとりは、いつものことだったが、母に何も言わせない圧力のようなものは頼もしくも怖くもあった。
ふいに携帯が鳴った。
「もしもし、」
「太郎か? どうだ調子は?」
モリからだった。
「…うん。だいぶ自信がついてきたよ。
関西の馬がやっぱり関西弁っぽいイントネーションで話すのは、笑っちゃったけどね。」
「こっちもヨシノリと二人で、だいぶ勉強したよ。初心者向けの競馬塾なら開けるな。」
「はは…。」
「そろそろ帰って来い。おまえの計画を実行するなら、秋競馬の始まるこれからの季節だ。客も多くなり、配当もそれに応じて大きくなる。」
「うん、ありがとう。あとばん馬も見たら帰るよ。」
「北海道にいるのか? 気をつけて帰って来いよ。」
電話を切った時、声がした。
「お客さん、馬が驚くので携帯の電源はお切りください。」
飛び上がる太郎。周りに人が居ないと思っていたので、よけいに驚いた。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて振り返ったそこには、いつの間に近寄ってきたのか、かなりの馬格をした一頭の馬が立っていた。
500キロを超えているだろうか。かなり立派な牡馬。身体の張り具合から、現役の競走馬と見えた。
「ほぉ、人間、おまえさんオレ達のしゃべる言葉がわかるのか。」
「は、はい。あの、騒がせてごめんなさい。」
「いいってことよ。オレだって言葉がわかると思って話しかけてねぇから。からかうつもりで、人間のセリフを真似てるだけだからよ。
「はぁ…、周りに他にヒトが居ないと思ってたんで…。」
「そりゃそうだ、ヒトじゃねぇからな!」
高らかに笑う牡馬。いや、いなないたのか。太郎もつられて笑った。
「オレはワンダースパイス。おまえさん達のつけた呼び名だけどな。」
「ボクは独紋太郎と言います。」
朝靄が腫れていき、陽が中天にかかるまで、二人(?)は話し込んだ。ウマが合うとはこのことか。やがて通りかかる観光客の増えてきた頃、再会を期して別れた。
既に涼しい風の吹き始めた北海道。帰途についた太郎。
「名古屋はまだ蒸し暑いんだろうなぁ…。」
帰ったら早速、モリ達とお互いの情報共有をして、計画に備えなきゃな、と考える。
ーー太郎の計画。それは太一と出会った日に思いついたものだった。
動物の、馬の言葉がわかるようなら、あの日のように馬券を買い、金を得ることができる。それで沙和さんの借金を返すことができるのじゃないかと考えた。
ただ問題があった。太郎は『競馬』を知らない。どうやって馬券を買うかさえ知らなかった。この語学留学の間、あちこちの競馬場で観察した結果、おぼろげながらわかってきたが、自分ひとりで効率の良い馬券の買い方をするなんて思いもよらなかった。かろうじて、勝つ馬がわかるということで単勝馬券を買うことだけ覚えた。
なので、具体的な買い方の組み立て=競馬のやり方を、モリとヨシノリに頼み込んだ。
ヨシノリは、ゲームでそっちの方面はお手の物のようで、現実に金を動かすと聞き、喜んで乗ってくれた。
モリはーー、保護者として放っておかなかった。
太郎は車窓に映る風景を眺めながら、沙和のことを想う。(太郎は飛行機が苦手だった…。)
「…喜んでくれるだろうか?」
美しいが、少しきついカオをした沙和の表情がやわらぎ、太郎に微笑みかける。はじめて会ったときの営業スマイルでなく、にらみつけられた怖いカオでなく、あの女性の普段の表情からの自然な優しい微笑み。太郎の口元もほころび、沙和に笑いかける。
いつのまにか太郎は眠っていた。
「う~ん、まぁ、ねぇ。おまえ、関係ねぇならそれでいいじゃん。」
「お願いします、お兄さん。詳しく金額が知りたいんです。ボクを信じてください。」
どんこ競馬場。パドック近くのスタンドにあがる階段に座っている太一と太郎。
「第一、どうやって金作るんだ? おまえ、学生だろ?」
「まだ言えないんですが、友人三人とで今、プロジェクトを考えています。」
「なんだ? 競馬の情報会社でも作るんか?オレにも一口乗せろよ。」
身を乗り出す太一。
「ち、違います。…でも、馬券でなんとかできるんですよ。」
「お~~、そっかそっか。若い奴はプログラミングとかいろいろできるから、なんか必勝法見つけたんだな!
なぁ、太郎ちゃん、オレとおまえの仲じゃん。うまい話なら仲間ハズレにするなよぉ。」
「大丈夫です。沙和さんとお兄さんの借金を返せるようにします。そうすれば、沙和さんも風俗で働かなくても…、」
顔を曇らせる太一。気になった太郎が問いかける。
「…いやな、あれで沙和は楽しんでいるかもよ。」
「そんなこと…!」思わず立ち上がる太郎。
軽く手をあげてなだめる太一。
「う~ん、兄のオレが言うのもなんだけどよぉ。沙和は小さな頃から妙に色っぽくてな、小学校の3,4年生でとりまきがいっつも5~6人、多いときゃ10人以上居たぜぇ。大人も含めてな。オレの睨んだところ、そのころにゃ処女も卒業してたと思うよ。」
「せ、性的虐待じゃないですか! まさか、お、お兄さんも…?」
「おいおい、いくらオレでも妹にゃ手ぇ出さねえよ。…まぁ、そんなオレでもドキッとすることがあるよ。…それでなるべく近寄らないようにしてるってのもあるけどよ。」
「……⁈」
混乱した太郎は言葉が出ない。いつも調子のいい太一も、そんな太郎を気遣ってか、何も言わずに居なくなっていた。
「2500万円⁈」
モリとヨシノリが素っ頓狂な声をあげる。モリの下宿。三人で集まって作戦会議というところだった。
「うん…。お兄さんから訊いたところでは、そのくらいあれば、いったんはキレイになるそうだ。」
「内訳は、お母さんの入院費が年間600万、お父さんの残した負債が800万、お兄さんが作ったサラ金などの負債が600万、さらにお兄さんが借金を返そうと友人と始めた怪しい健康食品の会社で500万、いうことでいいのか。」わりと冷静なモリ。
「実際には、沙和さんが稼いでいるといっても、お母さんの入院、治療費で手一杯だそうだ。」
「で、お兄さんは借金取りから逃げ回っている、と。」
「うん、パチンコ店、公営ギャンブル場あちこちに出没してるけど、そこそこ幇間よろしく他人から金をせびって、たまさか見つかる借金取りに渡して何とかしのいでいるらしい…。」
「太郎おまえ、幇間なんて言葉、よく知ってたなぁ。」と、モリ。
「落語好きだからね。まさか現実にそんな人に出会うとは思わなかったけど…。
「というか、そんな人が、ドラマやマンガのように警察に捕まったりしないで存在してるってのが不思議だよ…。」ヨシノリの素直な感想。
「いや、サラ金なんかの方は泳がせているけど、健康食品の方は、被害者の会ができていて、弁護士とか動いているから危ないらしい…。」
「…で、それを得々とお兄さんは、おまえに話してくれた、と。」
「うん。」
「会ったことないけど危なっかしい人みたいだな。作戦が成功した時、金を渡すのは当然沙和さんに、だな。」
「そうだね。」
「絶対にそうしないと危ない!」と、ヨシノリ。オタク故、現実の世界には消極的で、こういう時のアンカーになってくれる。
モリが何本目かのタバコに火をつける。ため息のように大きく息と煙を吐く。ヨシノリと太郎はペットボトルのオレンジジュースを交互に注いでいる。太郎がペットボトルのふたを閉めようとすると、モリが
「オレにもくれよ。」 口をとがらす。
三人の中でも一人だけ酒もタバコもやり、一番大人っぽいが、けっこう甘いものもいける。こんなところにも三人の高校時代からのつき合いが続いている一因があるのかもしれない。
モリが口を開く。
「で、具体的に馬券だが、なにより太郎が馬の言葉がわかり、それで勝つ馬がわかるということがアルファでありオメガである。
だから配当は大きいが、3連単は避けようと思う。三連複も考えられんでもないが、勝つ馬以外が2頭というのは、太郎の通訳も含めて、あいまいさを極力排除したい。馬同士の一ー二着と考えると馬単が一番お薦めだと思う。
二次的な要素として、大きな配当を当ててしまうと払い戻しで目立つ。これもオレとしてはちょっと避けたい。」
太郎とヨシノリは、うなづきながら聞いている。一気にしゃべったモリは二人の顔を見つつ、
「どうだろう。」
「いいと思う。」 太郎。
「うん、三連単の最高配当で、2900万ていうのが2012年に出ているけど、いくら太郎が馬の言葉がわかると言っても、それまでずっと待つってのも大変だよ。」 ヨシノリはデータ面から賛成する。
「したがって、太郎には申し訳ないが、二段階くらいで実行したいと思う。」
「そんなこと、お安い御用さ。
馬と話すことは、もう普通にできるし、勝つ馬と、その二着三着に入るコたちとの会話の微妙なところも読み取れるようになってる。」
「頼もしいな。配当の確かさで、JRAの馬券を買う。種類は馬単。軍資金はーー、」
モリが太郎に視線を向ける。
「バイトしたものと、この旅行でたまっちゃったお金がある。その10万円を充てたいと思う。もちろん、モリとヨシノリが一緒に動いてくれる際の交通費なんかはボクが出す。」
「たまっちゃったって? 太郎一人で馬券買ってたりしたのか?」 ヨシノリが驚く。
「うん、でも単勝だけだし、100円ずつだからね。」 照れ笑いする太郎。
「おまえ、もう一人でほっぽり出されても喰っていけるんじゃないか。」 モリがからかう。
「やめてくれよ~。けっこう競馬場の雰囲気に慣れかかってるんで、怖いんだよ…。」
「気をつけろよ。」
「え?」
「そのお兄さんみたいなのにまとわりつかれたりすると、おまえ、いい金ヅルにされちまうぞ。」
「…う、うん。」
「そこまで考えていなかったろ…。このお坊ちゃんが。」
「そんな言い方すんなょ。」
「ヨシノリは、家が商売やってて色んな人が出入りしてるから、おまえより大人だけど。太郎、
おまえは完璧に近いボンボンだからな。」
返す言葉もない太郎。今回のことも、モリ、ヨシノリの友情による協力がなかったら、どうしたら良いか、はじめの一歩も踏み出せないところだった…。
「だから、お兄さんには気取られるなよ。あくまで三人だけの秘密だ。お兄さんや沙和さんには、何か必勝法でも見つけたと言っとけ。」
「…ああ、そうする。」
モリが続ける。
「10万を例えば、10倍、次にそれを20倍以上か…。」
「地道にもう少し時間をかけるか…?」
「それと太郎の『必勝法』はかなり信頼度が高いが、もっと精度が欲しいところだな。」
「精度? というと?」
「当事者である馬に知り合いを作るってのはどうだ?」
「今でも太郎は、ヒトと同じくらい動物と話ができる。それでも人間に置き換えてみろよ。初めて会った奴と10分足らずの間に、そこでの会話を聞いて勝ち馬を探るより、知り合いに訊く方が早いだろ。」
「そうか…。そう言われりゃそうだな。」
「どうだろう?太郎、すぐっていう話じゃないわけだ、何度か通って準備するつもりなら、馬の『知り合い』を作っては…、」
「…そうか‼」
太郎の目の前に、悠然とした青毛の巨体、ワンダースパイスの姿が浮かんできた。
「心当たりがあるのか、太郎。」
「あぁ、」
生返事をする太郎。あの時の会話を思い出していた。
「…そうか、女のためにな。」
「なんか女っていうと生々しいですよ。」 太郎が照れる。
「いや、いいんじゃない。オレだって好きな牝が居る。ヒトと違ってつける自由が無いがな。」
「おまえがうらやましいぜ。」
「そんな…。」
「いいってことよ。オレだってGⅠひとつ取ってるからな。あとひとつふたつ走って種牡馬だ。ハーレムだぜ…!」
ものすごく下卑た笑い方をしたように見えた。
「ローズも今年いっぱいで引退して肌馬だ。どうせなら、あいつにもGⅠ取らせてやりたいなぁ…。」
「え? ローズ…なんですか?」
「なんでもねぇよ!」
(あとでヨシノリに調べてもらお。)
こわもてのこの牡馬が、少年のように照れているとわかって親しさが増したように思う太郎だった。
「ワンダースパイス。彼となら牧場で話したことがある。パドックじゃなかったし、怖そうな牡馬だったけどいい牡馬だと思う。」
「よっしゃ。」 さっそく検索にかかるヨシノリ。
「ワンダースパイス。牡・7才。中・長距離適性馬。GⅠ、フェブラリーステークスを取っている。自走はみやこステークスの予定。放牧明けで暮れの中京、GⅠ、チャンピオンズカップのステップレースだ。」
「出走条件は満たしているから、休み明けの足慣らししてから、GⅠというところか。」
「厩舎の意向ではそこで引退みたいだよ。」
「あと2つか、ちょうどよいローテーションになるな。ラストが地元の中京というのも良い。太郎
おまえ持っているな。」
「そんなもんかなぁ。」
三人はレースの日程をもとに、具体的に遠征の話などを詰めていった。
「オレは歩くよ。」
「え!?」
11月、みやこステークスの当日、京都競馬場のパドック。再開を喜ぶ太郎に投げられたワンダースパイス。の言葉だった。
「どうした太郎?」
「…だってワンダーが勝たないって…。」
「あせるな太郎、そのための知り合いの出るレースの選択だろ。ちゃんと1~2着馬の情報を訊きだせ。」
「あ、そうか…。そうだったね…!」
京都競馬場のパドックはほぼ円形だ。まるでタイプライターのように、馬について一周して、いそいで戻ってまた一周ついて回る忙しい三人組の姿があった。このレースで休み明け初戦のワンダースパイスは、それでも人気だったので、熱心なファンがついて回っているように見えたかもしれない。
「ワンダーは、足慣らしで厩舎側に心配させないように掲示板に載るくらい、4,5着で周ってくるそうだ。勝つのは5番のソッコータルタル、2、3着が1番のバンバンリバティ、14番のサウンドスルーあたりだそうだ。ただ、勝つはずの5番が少しスタミナに不安があるのと、7番のグレートブランデーがだいぶスケベ心があって余計な事をしそうだということだよ。」
モリが思案顔でうなづく。
「16頭立てでも、4頭が馬券候補なら、なんとかBOX馬券でいけるか…。」
その時、ワンダーが通りがかりに声をかけた。
「勝ち馬のことなら任せな。」
「え!?」 と、太郎が聞き返す。
「何頭かってのは大変だが、1頭をフォローして勝たせるなら、なんとかなる。オレに予定はないし、勝つ予定の奴を勝たせることならお安い御用だ。」
太郎がモリとヨシノリに通訳する。
「よし、それなら当初の予定通り、馬単で2点。少しでも点数が少ない方がいいし。」
「うん、ワンダーを信じるよ。」
レースはワンダースパイスの言った通りの展開になった。4角で抜け出したソッコータルタルがアタマひとつリードする。2、3着はどちらかだと言ったバンバンリバティ、サウンドスルーがそれを追う。ちょっと脚色の鈍ったソッコータルタル。その時、大外からまくってきた馬がいる。
グレートブランデーだった。一発大物喰いのつもりでチャンスを狙っていたらしい。しかし、先頭を行く3頭のすぐ後ろ、ラチ沿いの馬群の中から黒い影が飛び出してきた。ワンダースパイス。グレートブランデーの内側から外へ外へと被せるように合わせ馬になる。2頭の前方への力がナナメに外へ向く。
「てめぇなにしやがる!」
「おっと、ごめんよ。歳でね、少しよれちまう…!」
騎手も叫ぶ。
「おい、この下手くそ!」
「だってワンダー、言うこときかねぇ!」
この2頭の喧騒をよそに、先に行った3頭がゴール板を過ぎる。ソッコータルタル、バンバンリバティ、サウンドスルーの順だった。ワンダーもグレートブランデーと並んで、しっかり4、5着という順で予定通り?掲示板にあがった。
ゴール板前でへたりこむ太郎。モリが抱き起こす。
「しっかりしろ太郎。まだ一段目だ。オレ達にはまだ二段目のロケットがあるぞ。」
「う、うん…。」
「なんか育成ゲームより生は迫力だなぁ。しかも事前に馬の事情がわかってると、凄い臨場感だ。リアルVRだ…!」
ヨシノリが興奮してわけのわかったようなわからないようなことを叫ぶ。
「そうか。馬の側の事情か…。」
モリが太郎を見つめて言う。
「いっそのことあの馬も仲間にするか?」
「へ!?」
翌々日の火曜日。栗東の厩舎村に三人の姿があった。メディアなどの取材や企画された応援ツアーでないと一般の人は入らせてもらえない場所だ。伝手を探してみたら、それが……あった。
なんと、お兄さん、太一がコーチ屋まがいのことをして競馬場をうろうろしている間に知り合った場運車の運転手が紹介してくれて厩舎を訪問することができたのだった。
実際に、おこぼれをもらう目的で、輸送、食糧などの関係者がそうしたうろんな連中にかすかな『情報』を『確実な筋』からのものと称して流すこともあるらしい。
太一は一人前にそっちの人間になっているようだった。
「思いよ~、まだ?」
大きな段ボール箱、りんごだった、を抱えた太郎。
「体のごついモリが持ってもいいだろ~。」
「すべてはおまえのためだって、わかってるよな…。」 取り合わないモリ。
三人はワンダースパイスのファンという触れ込みで厩舎を訪ねてきた。モリはちゃっかり厩舎の人へのお土産の菓子折りの入った紙袋だけ持っている。ヨシノリは、オタクの対象がそのまま競馬へスライドしたかのように、馬の描かれたキャップを被り、競走馬のTシャツに大型のデジカメをぶら下げている。
モリが足を止めた。
「ここだ、ここだ。」
ワンダースパイスは元気だった。
「大丈夫ですか? けっこう荒っぽいことをしてたように見えたんですが…。」
「あれぐらい大したことないさ。牧場で走り回っていた頃、あぁやって遊んでいたもんさ。」
「…なら良かった。」
「今日は、…次のレースのことだな。」
察しがいい。
「ええ、今回はいきなりだったんで驚いちゃいました。だから、ワンダーさんの気持ちを知っておきたくて…。」
ニヤッと笑ったような気がした。
「次も走らんぜ。」
「…!?」
「ま、そう慌てなさんな。」
「…だって、」
「来月のチャンピオンズカップってのを走って引退ですよね。」
太郎の通訳を介してモリが口を挟む。
「そうだ。一昨日の負けから、走らずに引退か、有終の美を飾るかって新聞なんかがうるさいけどな。」
「そうなんですよ。だから、ワンダーさんの本音を知りたいんです。他の有力馬が居るなら、それが信頼できるなら、そちらに賭けたい。」
「女のためにな…。」
「…もう、それなんだから…!」
「いや、悪かった。言おう。
来月のレース、オレは勝たない。その代わりと言っちゃなんだが、勝つ馬を教える。
…そして、太郎、おまえさんに頼みがある。
…好きな牝がらみだが、聴いてくれるか。」
見た目だけでも威風堂々としたワンダースパイス。先のレースでも自分の言葉を言った通りにやってのける実力。太郎には彼が馬には見えず、昔の任侠映画の俳優のように映った。そんな男に頼まれたら二つ返事で引き受けるしかない。
「ローズ、なんとかさんですね。」
「ローズベリーだ。同じレースで引退が決まったらしい。」
さらにしばらくの間、三人と一頭の密談は続き、陽も傾く頃に三人は厩舎を辞した。
その帰り途上、モリが話しかける。
「太郎、えらいこと頼まれたなぁ。」
「うん、でもワンダーさんが頼ってくれてうれしいな。」
「牝馬って、引退したら肌馬として牧場で楽に暮らせるわけだから、そんなに実績なんて必要ないんじゃないのかな?」
「そうでもないらしいぜ。まず実績や血統、それにお金だな。それらが揃ってよい種牡馬の種をもらって仔を産み、さらにその仔がGⅠなどの大きなレースを取って初めて、肌馬として評価されるらしい。そこまでいってやっと余生を牧場で過ごせる。
そうならなかったら、さっきワンダーが言ってたように、コンビーフやベーコン、それならまだ良くて他の家畜の飼料用につぶされておしまい。いつの間にか居なくなってるのがオチだそうだ。」
「ぞっとしないね。」
「もちろん乗馬用とか、他にも道はあるらしいが、ほんの一握りだ。例えば相撲取りが引退して全てちゃんこ屋とか第二の人生で成功すると思ってるのか? 大学の相撲部出身なんてのも一部だし、中卒で体ボロボロになったデブが、40歳前後に一般社会に放り出されて何ができる?
すげぇ差別発言だが、競馬の馬も外から見える以外のところにブラックな部分が多いわさ。それもこれも全部、ヒトのやってることさ。」
相変わらずモリの言い方はシニカルだ。
太郎は、念願だった動物たちと話をすることができるようになって、余計に人間が動物にしている仕打ちに直面してしまい、戸惑いを覚えていた。
また、あの夢だ。
動物の言葉がわかるようになった今、あの死んだネコのこともわかるんじゃやないか。
夢の中で、あの場所へ急ぐ。
居た。
あの野良を手にした『心無い大人』だ。
でも、ものすごく悲しそうなカオをしている。
「すまん!!」
いきなり大声で叫ぶ。
大人の手の中の野良が動かなくなる。
悲しそう、というのはわかるのに、この人が誰なのかよくわからない。
じっと目を凝らして見てみる。
さっきの大声で近所の人が集まってくる。
太郎を『大人』から遠ざけようとする。
もう一度振り返ってカオを確かめる。
その『大人』は、太郎自身だった。
飛び起きる太郎。全身に汗をかいていた。身体がだるい。寝ていたはずなのに、疲れがとれた気がしない。全力疾走した後のような気分だった。
「こんなんで大丈夫か…? オレ…?」
その少し前、未明の栗東。中京競馬場へ向かう当日輸送の馬たち。
順に、馬運車へとひかれていく。
その中に、ワンダースパイス、ローズベリーの姿もあった。
ローズベリーに近づき、話しかけるワンダースパイス。
「引退レースに花を添えてやるから、良い肌馬になれよ。
おまえはあと200メートルのスタミナがあれば、今日のゴールもアタマで駆け抜けられるはずだ。
それをオレが作ってやる。
GⅠの勲章があるのとないのとじゃ、雲泥の差だからな。つけてもらえる種牡馬も悪けりゃ、その後も悪い。死ぬときゃ農耕馬同然の扱いか、豚の餌かも…。
そうそう人間の勝手にゃさせん。」
「ま、中には毛色の変わったのも居たがな…。」
太郎の顔を思い浮かべるワンダースパイス。
「何をするつもりなの? 無茶なことはしないでね。あなただって脚を折ったりしたら…。」
恥ずかしそうに、うつむき加減に答えるローズベリーだった。
「な~に、心配しなくていいさ。オレはダート王だ。砂の上での頑丈さは誰にも負けないよ。」
厩務員にひかれ、馬運車に乗り込むローズベリー。それを見送ったワンダースパイスのカオを見たら、今度は太郎が冷やかすだろう。
12月はじめの日曜日、中京競馬場。
太郎、モリ、ヨシノリの三人と谷口沙和の姿があった。傍から見れば仲の良い若者たちが競馬場でデートでもしているかのように見えた。
「お兄さん、来ないですね。」 そわそわしている太郎。
「ちゃんと連絡したのか太郎。」
そんな二人のやりとりを冷ややかに見ながら、沙和が言う。
「借金取りや債権者のいそうなところにのこのこ出てくるわけないわ。来てたとしても隠れてるわよ。」
「なるほど。」 冷静な判断はさすがに身内だ、とモリがうなづく。
「では、とりあえず沙和さんに信じてもらうために…。」
午後の最初のレースで、太郎がパドックで『インタビュー』して、馬券を買う。その実績を沙和に見てもらう。
太郎の言った通りの馬が掲示板に上がった。
「へぇ、たいしたものじゃない。」
掲示板と手にした馬券とを見比べて沙和が言う。その表情が今にも舌なめずりしそうに輝いているのに気付いたモリ。そっと太郎をこづいてその沙和の様子をうかがわせる。
「な、太郎、気をつけんとホンっとに喰いものにされるぞ…。」
「うう、う、うん…。」 歯切れの悪い太郎。
「では、メインレースのパドックの時間に待ち合わせしましょう。」
モリの言葉で三人と一人は別れる。
キャップを目深にかぶり、新聞で顔を隠した男がこの様子を見ていた。
太一だった。
「へ~ぇ、やるじゃん。太郎ちゃん、と仲間たち…!」
彼も人混みの中へまぎれていく。
当日の枠順。
第20回チャンピオンズカップ GⅠ
1枠 1番 アンアンドリーム 牡 5歳
2番 サウンドスルー 牡 7歳
2枠 3番 ワンダースパイス 牡 7歳
4番 モンビクトリー 牝 5歳
3枠 5番 ニホンゴワーズ 牡 6歳
6番 アムロビクター 牡 4歳
4枠 7番 カテヨリキ 牡 5歳
8番 バンバンリバティ 牡 4歳
5枠 9番 ローンレジェンド 牡 4歳
10番 グレートブランデー牡 5歳
6枠 11番 ローズベリー 牝 6歳
12番 ソイスターオー 牡 5歳
7枠 13番 ソッコータルタル 牡 7歳
14番 ダンピット 牡 4歳
8枠 15番 グランドシティ 牡 4歳
16番 ロゼジャルダン 牡 6歳
パドックで太郎は大忙しだった。
ワンダースパイスの頼みというのは…。みやこステークスでレースを作る手応えを感じたが、ローズベリーを勝たせるためにもう少し根回しは必要と考えた。普段の調教や引き運動で出会う連中だけでは、関東の馬もいるので足りない。16頭フルゲートになれば、パドックで声をかけるのも時間が少ない。
何より仲間にケガをさせたくなかった。できるだけみんなの了解をとりつけたい。
太郎はメッセンジャーを引き受けた。栗東で顔見知りの連中は、ワンダースパイスの頼みということで割と心良く返事をしてくれた。だが、ワンダーはこのレースで引退する。となると次にどこかのレースで会った時にお返しするということはできない。人気上位、体調十分の何頭かは露骨に嫌そうな顔をして、黙ったままだった。
ただ一頭、強い味方が居た。ワンダーの同枠馬、二頭だけの牝馬のもう一頭、モンビクトリーだ。
人間なら20代後半のグラマラスな色っぽいお姉さんといったタイプだ。本来の太郎では苦手なタイプだが、ここでの援軍はありがたかった。
お返しを期待する連中は、彼女の約束にしぶしぶ応じた。同じレースで走るということは、この先も距離など条件が同じところで走る可能性は大きい。そして彼女はまだ引退しない。
だが、一頭、首をタテに振らない馬が居た。みやこステークスでワンダーに金星狙いを邪魔されたグレートブランデーだ。
もう一度、話しかけようとしたその時、「止まれ」の合図があり、騎手が騎乗、本馬場へとパドックを出ていった。
「とりあえず、やるだけやった…。」
放心状態の太郎。モリが後ろに立つ。
「行くぞ、太郎。オレたちの本番だ。」
「うん、そうだね。」
その様子を見ていた太一。
「なんかあいつウロチョロしていたな。どいつが狙いかわかりにくいが、どうもワンダースパイスと一番長くひっついていたようだな…。ということは本命が堅いか?」
パドックから本馬場へ抜ける地下の馬道。
ワンダースパイスが歩様を落としてすぐ後ろにいるモンビクトリーに話しかける。
「すまんな、モン。オレにゃもうお返しができんが…。」
「いいのよ、わたし、こういうワクワクするの好きだから。種牡馬になったら、つけてね。」
「人間たちがどう考えるかは、わからんよ。」
「あら、あなたの好きなローズちゃんだって距離適性は同じなのよ。どっちに転ぶかしらね。」
高笑いのようないななきを残して、足早に前に行くモンビクトリー。
その頃、暮れのGⅠ、中京開催の最後とあって、混雑の度合いの違う券売所の前で太郎達はバラバラになってしまっていた。
金を持っているのはモリだが、買い目は聞いていたので心配ない。太郎は一人で、人混みの中を落ち合うと決めたゴール板の方へ泳ぐように進んでいた。
ヨシノリは人に押されてつかんだ手が沙和のものだったので、赤くなりながらもエスコートしていた。
「ヨシノリ、さん。」
「は、はい!」
「私も馬券買うからちょっと待ってて。」
背の高い沙和と並んで歩くヨシノリは、まるで母親に手を引かれてついていく子どものような気分になった。
モリは太郎に聞いていた通り、ローズベリーからモンビクトリーへの馬単を買った。前回の投資で100万近くになっていた元手をこの一点に。30倍つけば、計画は完遂だ。
沙和は単勝を何枚か買っていた。買い目は一緒に聞いていたはずなのに、なぜか…。
太一はワンダースパイスから、ブン流しに出た。
「あとでちゃんと教えろ、と、締め上げてやんねぇとな、太郎ちゃん!」
人混みの中で寒気を覚え、キョロキョロ辺りを見回し、首をかしげる太郎。
スタンドの正面やや左に設置された発馬機。その後ろで輪乗りをしている出走馬たち。
ワンダースパイス、ローズベリーに耳打ちする。
「いいか、何が起きてもおまえはいつも通り、先へ行き先頭で駆けろ。後ろは振り向くな。」
「…ねぇ、ワンダー、無茶しないでね。」
それっきり押し黙るワンダースパイス。
ファンファーレが鳴った。
場内放送が始まる。
「競馬ファンの皆さま、お待たせしました。暮れの中京の名物となりましたチャンピオンズカップGⅠ、ダート1800メートル。ダート巧者の古馬混合の一戦。今年で区切りの20回目を迎えました。
人気を集めているのはダート王、2枠3番ワンダースパイス。この一戦を勝って引退を自ら祝福といったところでしょうか。
そして2番人気は中央、地方のダートタイトルを総なめ、7枠13番ソッコータルタル。この馬も大ベテラン。
8枠16番ロゼジャルダン、4枠8番バンバンリバティ、このあたりが単勝10倍以下の人気どころ。
おっと、忘れてならないのが2枠4番のモンビクトリー、グラマラスなダートの女王。ワンダースパイスと並んで2枠の人気を集めています。
もう一頭の牝馬ローズベリーは逃げ馬ですが、ここ4走は二けた着順が続いています。解説は国際スポーツの木村さんです。いかがでしょう?」
「そうですね~、いつもならローズベリーが逃げてカタチを作るんですが、今の体調と今日のメンバーではちょっと力が足りないでしょう。彼女もこのレースで引退が決まってますからね、無理させないんじゃないですか…。」
「さぁ、続々とゲート入りが続いています。最後に16番ロゼジャルダンがおさまり、態勢整いました。
係員が離れて、
スタート!
おおっと! ワンダースパイス発馬直後に立ち上がってしまいました! 寺西騎手落馬! 競争中止!
審議のランプが点きました。
馬はカラ馬になって馬群についていきます。
いや、やはり逃げたローズベリーに迫る勢いで速度をあげます。
そして、ああっ先頭集団の中でよれていますワンダースパイス、
これは危ない! レースが危ない!
進路妨害ですが、騎手はいない!?
いずれにせよ、レース後にお知らせがあります。お手持ちの勝ち馬投票券はお捨てにならないように
お願いします!」
持っている馬券がすべてワンダースパイスからのものである太一は、立ち尽くしていた。
ローズベリーの後ろで蛇行して、馬群を遠ざけるワンダースパイス。2コーナーを回り向こう正面に出たところで、コーナーを利用して大外から近づくモンビクトリー。
「ワンダー、本当にやったわね…!」
「おぉ、おまえは先に行け! 太郎との約束だ!」
「泥っぱねだらけよ。パックにもなりゃしない、もう…!」
「すまねぇ。でもあいつに勝たせてやりてぇ。」
「あんたこそ、ここで脚でも折ったら台無しよ! そんなにローズが可愛い?」
「あぁ…。先頭を走っている姿を見な、競走馬らしいウマだぜ。いい牝だ。」
「ゴール前、ちょ~っとだけ差してあげようかな。」
「おまえ!?」
「お~怖! 妬けるなぁ。すごくいい眼であのコ見てるじゃん。」
「……。」
3コーナーを回って、3、4コーナー中間。4コーナーに差しかかる。
「いつもこの辺で競りかかられると、後ろを気にして競り負けるからな…。」
「ちょっと! スピード落ちたわ。スタミナ切れ?」
「歳もあるが、逃げて沸かせてお役目御免を見越して、ろくにトレーニングさせてねぇからな…。」
「本っ当によく見てるのね、あのコのこと。」
「おまえより年上だぞ、少しは敬え。
みんなには頼んだけど、屋根がいることだし、もうひと仕事、いやふた仕事…。」
「…!?」
4コーナーを曲がる力に負けて、内ラチに接触しかけるローズベリー。
中京の4コーナーは、カーブと同時に下っていき、直線に向いた途端に登りになる難コースだ。スピードの乗っているほど、カーブでの負担は大きい。
そこへローズベリーのさらに内に入り込み、柵と馬体の間でクッションになるワンダースパイス。身体が柵にこすれていく。
「ぐっ!」
「ワンダー!?」 驚くローズベリー。
「さぁ、ラスト1ハロン、勲章持ってお母さんになりな…!」
「…でも、もう、息が…、」
その時、反対側から馬体を合わせてきた馬がいる。
「モン!?」
「弱音はかない! このプライドの塊の男が見栄捨てて、あんたを勝たせようとしてんだから!
こうして身体をはさんで一緒に走ったげる、少し息が入るでしょ!」
「うん…!」 ローズベリーの声が弾む。
ゴールが近くなる。
「あと100、いけるな!?」
「楽になった。」
「モン、いいか! 1、2、の3で離す、押し出せよ!」
「わかった。」
「1、2、の3!!」
バッティングセンターの回転盤にはじかれたボールのように2頭にはさまれ、押し出されたローズベリー。もう一度加速する。
それを見送るワンダースパイス。
すぐに厳しい眼に変わる。
「モン、ありがとな。」
「高いわよ。」
「忘れねぇよ。おまえもいけっ。」
「あんたは?」
「カラ馬はただの競争中止だ、ゴールは意味がねぇ。
…おめぇのことも愛してるぜ。」
「もは余計!」
笑い声を残してモンビクトリーの視界から消えるワンダー。
直後…。
「4コーナーで3頭もつれたか? そのまま重なるようにしてコーナーを回り、3頭譲らず直線へ!
さぁ、最後の攻防だ!
おおっと、ここでローズベリー再び2頭を突き放した!!
その後をモンビクトリーが追う、牝馬同士の決着になる?
あ!!!
ここでワンダースパイス転倒!
大きく横に倒れた! 後続を巻き込んでいく!
2頭、3頭と競争中止だ!
離されて後ろにいた馬が、大きく回り込んで後を追います!
ああ、グレートブランデー避け切れず、倒れたワンダースパイスにつまづいたか?
騎手共々転倒!
先頭はローズベリー、追うモンビクトリー、
差は縮まりません、
逃げ切ってゴーール! ローズベリーGⅠ牝馬として引退だぁっ!
3着に難を逃れたバンバンリバティ、
しかし、この競走は審議となっております。お手持ちの勝ち馬投票券は確定までお捨てにならないよう
にお願いします。」
ゴールを過ぎ、キャンターで足をゆるめるローズベリー。そばに寄るモンビクトリー。
「やったわね。ローズ、GⅠ取ったじゃない。」
「うん、あなたたちのおかげ…。 ワンダーは?」
「いいから、あんたはウイニングランよ。」
鼻先でローズの身体を押すモンビクトリー。
「でも…。」
「ここで勝ったローズベリーにモンビクトリーが駆け寄っていく。まるでローズベリーを祝福に行くようです。鞍上の藤原騎手、勝利した佐山騎手にお祝いのグータッチです。」
「すまんな佐山、今日のモンのやつ、ぜんっぜん言うこときいてくれなくてよ!」
「いやローズだってそうだよ。それにしてもワンダーの野郎、あんな内から突っ込んできやがって…。鐙が外れて落っこちそうだったぜ。がっついているのは屋根がいなくてもあぁなんだなぁ。」
「うん、本当に驚いたよ。カラになったら、適当に馬群についてきて、そのうちに遊んで消えちまうのに。」
「まぁ、これでワンダーも引退だし、その前にあれで骨折でもしてりゃ…。」
いきなり走りだすローズベリー。慌てる佐山。
「おわっ! こらっローズ、こっちだ、こっち、どこへ行くんだ?」
観客席の正面少し左、ちょうどスタート位置のあたりから何頭かの馬が転倒していた。既に立ち上がっている馬もいる。
騎手たちは救急車に乗せられていく。
ローズベリーが駆けてきた時には、倒れているのはワンダースパイスだけだった。傍らにひょろっとした若い人間の牡が居る。
太郎だった。直線でワンダーが転倒したとき、思わず馬場に入ってきてしまっていた。柵を乗り越えるのに手間取らなかったら、人為的な競走妨害で無効レースになり、せっかくの計画がパーになるところだったとも気づかずに…。
白衣を着た獣医らしい初老の男性がワンダースパイスの身体を調べている。
「脚は大丈夫だな。左わきに血がにじんでいるのはコーナーでラチにぶつかったところか。まず大丈夫のようだが、起き上がれんか?」
「あの、腹を蹴られたと言ってます…。」
太郎がワンダーから聴いたことを、おそるおそる医者に告げる。
「…? お、確かに熱を持ってるし、あ~、肋骨が何本かやられてるな。うんうん、これはなんとかなる。心配せんでいい。」 馬に聞いた? 獣医はいぶかって太郎に尋ねる。
「君は…?」
「あ、すいません、思わず入ってきちゃいました…。」
「バイト君とかじゃないのか、…というより君、馬の言葉がわかる…のか?」
「少しだけですが…。」 はにかむように太郎。
そこへ太郎に気が付いた係員が近づいてきた。
「あなた困りますね。さ、こっちから出てください。」
獣医がそれを止める。
「いや、彼は私の知り合いでね。ちょっと手伝ってくれんか?」
「え…? あ、はい、いいですよ。」
獣医は太郎に興味を覚えたらしい。太郎もワンダーのことが心配だったので、誘いにのった。
さっきから佇んでいる牝馬、ローズベリーに気づいた太郎。声をかける。
「あなたがローズさんですね? ワンダーのことなら心配いりません、お医者さんがみていてくれます。
ファンが待ってますよ。」
太郎がローズを促す。ローズベリーが振り返ると、スタンドから歓声が上がる。佐山騎手が手綱をかるく引くと、ローズベリーはスタンドの方に向かって挨拶にいく。遅咲きのウイニングラン。倒れたワンダースパイスに駆け寄ったことが観客にはまるでドラマのように思えて、より心が動いたらしい。歓声が割れんばかりにおこった。
太郎は思う。沙和さんに馬券を渡したりするのは、モリの方がしっかりやってくれるだろう。自分より確かだ。
やってきた小型の馬運車にワンダースパイスを乗せる手伝いをする太郎。ハンモックのような腹帯を巻き、負担の少ないようにしながら馬体を起こし、移動させる。
その間中、ワンダーは痛みを訴え、文句を言っていた。愚痴を言う怪我人は馬も人も変わらずうるさい。太郎は少し後悔しながら付き添っていた。
「グレートの野郎…!」
避け切れずつまづいたグレートブランデーは、みやこステークスのうらみを一蹴り入れていったのだった。
ゴール板の近くで、事故処理の様子を見ていた沙和とヨシノリ。
「太郎さんて『いい人』よね…。」
「ハ、ハハ…。まぁ、そうですね。」
「バカよね。はっきり言って。」
「……。」 言葉に詰まるヨシノリ。
「兄貴も似てるわ。小さい頃から、私の面倒みるんだって、一人ではりきって、そのクセちっとも役に立たなくて、お人好しで、他人の口車にのって借金こさえて…。
周りの人に迷惑かけるだけの『いい人』ね。あなた親友なら忠告してあげてね。」
「はぁ…。」
「私、兄貴のこと嫌いだけど恨んではいないわ。借金のために身体を売るって…、悲惨? 可哀そう?
ちゃんちゃらおかしいじゃん。
私、セックス好きよ。淫乱なの。ふしだらで破廉恥よ。漢字で書ける?」
顔を白黒させているヨシノリ。太郎ほどでなくとも純情な彼には、現実に聞く女性の本音の吐露についていけない。
その様子を見た沙和。
「ふっ、ごめん、ごめん。
でも好き者なのはホントよ。
だから風俗で働くのは、苦にならないし、向いてるの。天職っていうやつ?」
ヨシノリをちらっと見て微笑む。
その時、モリが近づいてきた。胸をなでおろすヨシノリ。
「確定したようです。これ、太郎からのプレゼント。金額が大きいので、平日のウインズでの払い戻しが良いと思います。」沙和に馬券を渡すモリ。
「私もこれをプレゼントしたいわ。」
モリに5枚の単勝馬券を渡す沙和。馬名の印字される単勝馬券だった。
「……?」
モリが怪訝そうなカオをしていると沙和が続けた。
「重ねた順に頭の文字を読んで、と太郎さんに伝えてね。」
その単勝馬券は、12番、11番、4番、8番、7番の順だった。
「お~い! 太郎ちゃんの仲間たち~、なんでちゃんと教えてくれなかったの~!!」
ことさら親しげにネコ撫で声で駆けよってくる太一。
「あれ?太郎ちゃんはどうしたの? ねぇねぇ、しっかり取ったんでしょ。いろいろ教えてあげたんだから、ご祝儀つけてやってよね~。」
モリはせっかくつけたタバコの火が太一につかないようにおたおたしている。ヨシノリは早々に距離を取っている。
「兄貴、」 沙和が声をかける。
「はい?」 振り向く太一。
「お知り合いの人たちだけど…。」
ゴール板前に集まってきた人達と見えたが、あまり競馬に縁のなさそうな雰囲気の人間が何人か混ざっていた。
その中の濃紺のスーツを着た一人が名刺を出して、太一に渡す。
「谷口太一さんですね。健康食品詐欺被害の方の弁護を任されました前田と言います。
ちょっとお話を…。」
前田と名乗った男の後ろにいる何人かのお年寄りは、たしか…太一たちが集めた『販売会』や『説明会』で見たような気がする。
さらにその後ろに、
「あ、アホムの木戸さん…。
アイスルの高田さん…。
オーローンの山崎さん…。」
太一がすぐに名前を思い出せないヤバい系のサラ金の男もそこに混ざっていた。
「妹さんから連絡をもらったんでね。返済の用意ができたと…。」
「いや、あの、その、今日は日が悪いんで、また、日を改めまして…、」
踵を返して走り出す太一。
いっせいに追いかける債権者、借金取り。呆然とそれを眺めながら立ち尽くすモリ、ヨシノリ。
「いいんですか? 一応お金はできたのに、お兄さん…。」
「いいの。少しは薬になるかも。それにまだお金じゃないし。」 馬券をヒラヒラさせる。
「太郎さんによろしくね。気持ちはいただいたから。好きになるかどうかは別だけど、ちょっと興味はあるって言っといて。」
コートの裾をひるがえして、人混みの中に消えていく沙和。最終レースの時間が近づき集まってくる人が増えてきた。
顔を見合わすモリとヨシノリ。
「オレたちも帰るか。」
「太郎はいいのか?」
「メールでも入れときゃわかるだろ。オレたちの役目は済んだ。」
「なぁ、さっきの馬券のメッセージって?」
途中になったので気になっていた。
「ソ、ロ、モン、バ、カ…、だとさ。」
「怖いけど、アタマの回転も早い女性だねぇ。」
感心したようにヨシノリがつぶやく。
「好みか?」
「いやいやいや! ぜったいダメ!」 両手で×を作りおおげさに否定する。
「ハハ…。オレもだ。蓼食う虫はソロモンタロウ一人さ。」
中京競馬場の医療室。大きなくしゃみをする太郎。
「あぇ~~、ぐすっ。モリ達がうわさしてっかなぁ。先に帰るってメールあったし。」
「大丈夫かい、独紋くん。」
「大丈夫です、ご心配なく。」
「それで、どうかな、君のその特技。活かしてみる気はないか? 転科するなら私が世話できるし、将来の動物たちのためにもなる。」
ワンダースパイスの応急処置も済み、あらためて自己紹介をし、治療中の他の馬にインタビューしたことで、太郎の『通訳』が本物だと確信した獣医は、太郎をしきりに誘っていた。
「君はまだ一年生だろ。転校も転科も問題ない。文系だって君のその素養があれば大丈夫だ。医学部なんて受験が大変なだけで、入ってからの勉強の方が大事さ。熱意があれば克服できる。」
熱心なその獣医、土性さんと言った。彼の熱意と沙和への約束を果たしたことで放心状態にあった太郎は気持ちが大きく動いていた。
走りながらぼやく太一。
「あ~~、もう太郎ちゃんたら! 今度はしっかり買い目を教えさせないとな!
そうだ、あいつ沙和に惚れてるんだよなぁ。沙和をダシにして縛り付けとかなきゃ、せっかくの金ヅルだ…!」
またひとつ大きなくしゃみをする太郎。
医療室に併設された馬房。ワンダーの首をさすりながら自分は鼻をすする。
「そうだ…、思い出したよ…。 野良の最後の言葉。
ちゃんと聞き届けたんだよね…、父さんは…。」
いつも見る夢の『大人』は、若き日の太郎の父の姿だった。
事故で助かりそうにない野良ネコ。苦しそうにしている。脚にまとわりついて狂わんばかりに自分を叩きつづける幼い息子。
楽になりたい、言葉にならない野良の気持ちを聴いた父は……。
「じゃあ…! 父さんも?」
疑問が浮かんでくる。聞いてみたい。
首を回して太郎を見つめるワンダースパイス。
「どうした太郎?」
「何でもない、痛む?」
「いや、楽になってきた。ありがとうな。」
いろいろな考えが浮かんでくる。それを少しずつ整理しながら、太郎はいつまでも馬の身体をさすっていた。