第四話 夢か現か
(……あ、これは死んだな)
こちらを窺う巨大な黒い獅子のような生き物を前にして、ガクガクと笑う膝とは裏腹にシアの脳は冷静にそう結論付けた。
あれは魔物だ。
それもこんな村ではまずお目に掛かることなんてできないほど高位の魔物。
黒い毛皮に猫に似た姿の、しかし獅子よりもずっと大きな体躯と鋭い牙を持ったあの生き物のことは、話で聞いたことがあった。
シアがいずれはなりたいと思っている冒険者と呼ばれる彼らをもってして、上位でなければ戦いにもなるまい。
相手はきっとそんな魔物――『黒獅子』だ。
いったい、あんな魔物がどうしてこのような辺鄙な村にいるかは知らない。魔物が出現する規則性は未だに解明されておらず、そもそもそんなものが本当にあるかさえ疑わしいとされているのだ。無学のシアに分かりっこない。
『黒獅子』の全身は痛々しく焼け爛れ、身体中から多量の出血が見られるため、もしやすると縄張り争いで負けて棲息地から離れたこんなところまでやって来たのかもしれない。
ただ、今はそんな考察などどうでもよくて、重要なのはシアの目の前に迫った死の脅威である。
半死半生とはいえ『黒獅子』が動けば、数秒後にシアは亡骸となり貪られているだろう。当然、この期に及んで助けなど期待できない。
たとえ村の者総出で相対しても、この満身創痍の相手に一つの傷すら増やせず、皆殺しにされてしまうはずだ。到底勝ち目などない。
(そうか……俺が死んだら、次は村が……みんなが殺されるっ!)
そのことに思い至ったシアは足を竦ませながら、それでも懸命に村の方へ後退りする。持ち前の逃げ足を生かしてどうにか村へ帰りつき、村人たちに逃げるように告げなくてはいけない。その一心であった。
――『黒獅子』が自分の後をつけて、村に辿り着く危険を考える余裕さえなかったのだ。
『グゥ……グルゥゥゥ』
シアに存在を気取られていることを気付いているのだろうが、不思議と『黒獅子』は唸るばかりで手を出してこない。
深手を負った身でも、戦闘になれば万が一にもシアに勝ち目はないことくらい分かりそうなものだが、何故、一思いに襲ってこないのか……。
その姿はまるで、シアを警戒しているようにも見える。そんなこと、あるはずもないのに――。
(な、なんにせよ、襲ってこないなら助かる。は、はやく村に……)
こちらを睨んだまま幹の陰から動かない『黒獅子』から目を離さず、シアはなおも後退りを続ける。
だが、黒い巨大な獅子を怖れるあまり、シアの足元はお留守になった。
「あ――」
踵から半端に石を踏みつけたシアはバランスを崩し、為す術もなく尻から地面へと座り込んだ。
『グルワァァァっ!』
すると好機と見たのか、今まで様子を窺ってばかりいた『黒獅子』が即座に動き、シアへと猛烈な勢いで迫る。
そしてその俊敏な動きに身動ぎすらさせてもらえなかったシアの喉元に、鋭利な牙を突き立てられ――。
『グゥゥゥ――ウルゥ? う……ウガァァァっ!」
ディープ・ティガは迫った時以上の素早さで身を引くと、シアからすぐさま距離を取った。
「……へ?」
『ガァ……、アガァァ……』
呆然とするシアを他所に、苦しそうに顔を地面に押し当ててのた打ち回る『黒獅子』。一体、何があったと言うのか。
まるで毒でも摂取したかのような暴れようだ。
「な、なにが……」
『グゥ……グゥゥゥゥ』
戸惑うように緩慢な動きで身を起こした『黒獅子』の口元から、何かがボロボロと地面へ落下する。
それは、『黒獅子』の象徴とも言うべき鋭い牙であった。頑強であるはずの鋭利な牙が惨めにもほとんど砕け折れ、あるいは溶けるかのように液状化していた。こんな現象は見たことも聞いたこともない。
(よ、よく分からないけど……この隙にっ!)
明らかに戦意を失いかけている『黒獅子』に背を向け、シアは一目散に駆け出した。もはや背中から襲われるなんて考えている暇もなかったのだ。
『グルワァァァっ!』
しかし、戦意を失いかけているからといって、それを見逃すような魔物は滅多にいまい。
『黒獅子』は一っ跳びでシアを追い越し前に躍り出ると、目の前に鋭い眼で立ち塞がった。
「くっ!」
『ガァ!』
そしてガバリと大口を開けて、こちらに喉の奥まで晒す。その口の中に、小さな光球が生まれた――。
「――っ?」
その光球から真っ直ぐに一筋の線が射出されると、突然の事態に硬直していたシアへ容赦なく迫った。それは紛れもなく、一介の人間など完全に消し飛ばして余りある威力だっただろう。
「うわぁっ!」
シアは自分の身体を守るため、咄嗟に両腕を前に翳すがそんなものは何の役にも立つまい。
哀れ、光線が直撃したシアはあっけなく消し飛ばされる――ことはなかった。
「……へ?」
『グ、ぅ?』
なんと消し飛ばされたのは、『黒獅子』が生み出した光線の方であった。
シアの右腕に当たった光線は弾かれ、まるで冗談かのように呆気なく消失する。これにはシアはおろか、光線を繰り出したはずの『黒獅子』でさえ呆けた顔を晒した。
「さ、さっきから一体どうなってるんだ? なんでこんな……」
呆然と呟くシアに、牙も光線も通じなかった『黒獅子』は業を煮やしたのか、地を蹴って勢いよく飛び掛かってくる。
そしてシアを圧殺せんとばかりに押し倒してくるが、不思議と痛みを感じなかった。
『黒獅子』が突き立ててくる爪も、万力のように押さえつけてくる巨腕も、なんらシアの脅威になりえなかった。むしろシアにそうして触れている『黒獅子』の方こそ苦しんでいるようだ。
シアに触れた部分がジュクジュクと音を立て、灼熱に炙られるかのように煙を出し蒸発しているように見える。
それでも意地になったかのように、『黒獅子』は身体を溶かされながらもシアを押さえ続けるが、しかしそれにも限界が来たようだ。
『グゥ……グゥガァァァっ!』
突如として『黒獅子』が奇声を発し、シアから離れて青白い炎に包まれのた打ち回る。
『黒獅子』を覆いつくす青白い炎は一向に鎮火せず、暴れる哀れな魔物を燃やし続け――そして呆気にとられるシアを他所に、骨すら残さず燃え尽きてしまった。
本来であればいるはずのない『黒獅子』がこの山にいたことを証明する物は、もはや堆く積もった灰しかない。だがその灰さえ、あっという間に風がどこかへと運び去ってしまう。これでは証明も不可能だ。
「……これは、夢か? 俺は……夢でも見てたのか?」
シアの口から零れた自失の言葉に、当然ながら応える者はなかった。