43.
「最早、選択の余地は無くなりましたね」
下目に錦織が告げた。
翌る日の教室に、仄かな夕焼けのオレンジが照らし出される。埃が舞い散り、こんなにも汚れた教室で授業を受けてたと思うと吐き気がした。
時計を見やれば、長針が間もなく頂点を指そうとしていた。
「…さて、行きますか」
五時の時効を知らせるチャイムの音と共に、椅子から立ち上がり教室を後にする。
作戦実行日。
俺は今日の為に計画を練り上げた。
あの一件から俺達はより思考回路を巡らせ、手段など選ばない過激な暴挙を実行しようとしていた。
イジメという行為がどれだけ残虐なものなのかを、加害者に恐怖をもって味わせてやる。
遡ること、数日前───
「頼む。制服を貸してくれないか?」
真剣な眼差しを伏せて、頭を下げる。
「え…はい?」
錦織は最初こそ女の子らしい動揺を見せたが、ほんの一瞬のことである。余声は続かず、乾きに移行した。
「…勘違いするな?これはれっきとした作戦に使われる物だ。安心しろ」
身をよじり怪訝な表情をしながら、数歩ずつ引き始める錦織。
「勘違いしてますし、安心してません。けれど…
否定の言葉が発せられたが、
…いい加減、こういうのには慣れました」
柔らかな微笑。その様子からして、もう吹っ切れているらしい。
「お…おう。そうか、協力感謝する」
予想外の反応と相まって、錦織の変化には驚かされる。普通に考えると、こういったやりとりに慣れを感じているのは、かなりまずい事だろう。近しくなった存在の影響を往々に受けるというのは、まさにこういう事。
まあ…彼女には悪いが、問題解決の為にかえって都合がよいことは確かであった。
「ところで…」と通常モードに移行した錦織が言葉を紡ぐ。
「制服は明日貸しますけど…一体、何に使うのですか?せめて…使用用途くらい教えて頂かないと渡しにくいものがあります」
幾ら受け入れたといっても錦織はれっきとした女の子だ。このまま立ち去るような事をしたら、只の変質者と変わりがないことぐらい俺でもわかる。
「…そうだな。これをこうして…」
無音のエレベーターに揺られていた。ただ決まったレールを命令通りに上昇させている。
横手には錦織、そして途中合流した如月。
被害者である如月をわざわざ作戦の渦に巻き込むのは、リスク極まりない事は確かだ。不甲斐なさも感じるさ。それでも本人がいないと成立しないのだ。
更に心を傷めるかもしれない。現状復帰が難しいほどの失意に陥るかもしれない。けれどもこの状態を分断できるだけの効力がある事を俺は信じていた。
数十秒も待たないうちに目的の階へと到着した。
如月の緊張をほぐそうと錦織がそっと声を掛ける。
「大丈夫…如月さん。貴方は強い子よ。この場に来たのだから。安心して。すぐ終わる」
小さく頷きを返した如月は、肩を強張らせながらも錦織に身を寄せた。その様子は母親と子のようで、これから起こす事案とは酷く相反していた。
ほんの僅かな時間だった。少し離れて錦織が、
「きちんと…責任を考えて下さい」
先程の柔らかな口調とは裏腹に、太く信念の通った声音で言った。
「…わかってるよ」
顔を見ずに端的に答えた。
責任など学生が背負えるものではない気がするが。
作戦のターゲットはイジメの当事者である女子三人組だ。錦織のリサーチによって名前は既に割れており、それぞれ吉田、小林、田中という名前らしい。
仲良しトリオなのか全員同じ部活に所属しており、教室エリアの最上階に部室はある。不幸中の幸いかな。一度に成敗するには都合がいい。
俺は錦織と顔を見合わせ、
「…早速だが位置についてくれ。錦織は小型スピーカーの設置を頼む。如月は廊下袖にて待機。俺は状況を見て下層階に駆け降りるであろう三人組を追う」
錦織は如月に肩を触れながら同時に小さく頷いた。
「ターゲットが現れ次第決行するつもりだ。異論はないな」
個々の教室を完全に淡いオレンジに染め上げた五時半という時刻。俺は肝心の部室より教室二つ分離れた廊下角から、今か今かと心臓を荒ぶらせていた。
そして遂に部室からターゲットが顔を出すのを確認した。同時に如月は俯きながらもゆっくりと近づき、小話をしながら出てくる女子三人組にぽしょりと声を掛けた。
「…あ…あの、入部届け…見てくれましたか…?」
如月は事前にこの部活の入部届けを出している。これは本人の意思ではなく、俺が仕組んだものだ。如月が置かれている"イジメ"の状況というのは変に切る事ができない友人関係だという。錦織が引き出した情報で、一体どうやって如月から聞き出したのかは分からない。
談笑に口を挟まれ気に障ったのか、やや不機嫌で一人の女子生徒が答えた。
「…んん?ああ、如月さんか。あー…今、忙しいから明日にしてくんない?」
「…え、でも今日までって…」
続いて横の女子生徒が、
「如月さん、不備があったからさー。はい、これ。新しい紙だから」
目が潤み始めた如月を見て、全く同様する事なく去っていく三人組。
又しても如月に辛い思いをさせてしまった。腹の奥から黒々しい怒りが込み上げ、奴らを早く潰したいとさえ思った。
瞳に暗く影を落とした如月が廊下を一歩、また一歩と弱々しい足取りでこちらに向かってくる。夕闇に包まれ始める辺りの光景は彼女の心情さえ表している様だった。触れるだけでも消えてしまうだろう。
如月は廊下の角にいた俺を見つけると、歩調を変えることなくゆっくりと近づく。視線を床に落としたまま小声で、
「なんか、空気みたいです…」
そう言って真横を通り過ぎていった。
俺は声を掛けることをせず、ただ目の前の標的に照準を合わしていた。恐らく、これ以降如月と会うことは無いだろう。
三人組グループが丁度俺とは反対側の角に差し掛かった頃。
奴らの悲劇は始まる。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
突然、フロアに響き渡る断末魔。
それは生々しく一瞬にして消え去っていく。想定しうるに何かが落ちた音だ。それも人間そのものが。
当然、三人組グループも恐怖の落下音に気付いたようで手摺から緊迫して様子を伺う。数秒後、彼女らは揃って顔面蒼白となった。
只でさえ有り得ない事が起きたと、瞬時に認識したことだろう。一体誰がと思う暇も無くそれは見覚えのある物体だった。
高校生にしては小柄な体格、茶髪にツインテ、急速に落下した衝撃でその身体はぐしゃりと折れ曲がっている。
「…え…は…はっ…う…嘘」
「…あれ、如月…だよね…ねぇ!」
リーダー格らしき女子生徒は過呼吸で声らしい声を出すことが出来ず、もう片方は現実を確認するべく声を荒らげる。さらにもう一人は口元を両手で押さえ、動けずにいた。
哀れだ。実に哀れだ。
彼女ら一人一人には当然、後ろめたく感じる日々もあったことだろう。けれどもグループという強固な守りは個々の意思さえも固めてしまった。奴らはイジメという名の同調圧力に流されたのである。
「ッ…ッ…ッ……」
べそをかきながら一人が足早に階段を降り始めた。
こんな時にだけ本能に素直であるから、憎たらしく思う。続いてよろけながら取り巻きが追従した。
エレベーターの方が迅速に降りられるというのに。




