二日目……①
一面、あたりは緑の草原。地平線は遠くへ、人影はおろか動物の姿すら一つもない。だだっ広い平野がどこまでも続いている。午前の日差しは真っ直ぐに差して、持ってきていたパラソルの上へと降り注ぎ、濃い影を私の周囲に形作っている。
まるで絵画の中のようなのどかな景色。緑の絨毯の中に、ぽつりぽつりと立っている背の高い木々達と、緩やかに吹き渡る風に揺れるその緑を眺めながら、私は思わず嘆息した。
「こんな綺麗な景色を作れるってことは、きっと穏やかなところもあるって証拠だと思うんだけど……。全然そうは見えないんだよねぇ」
頭はアレでも立派な女神であるアマモは、私に自慢するためだけに、こんな風に美しい空間をたびたび作ってくれる。それは広大な海の上であったり、打ち捨てられた鋼の廃墟であったり、吹雪の吹き荒れる山中であったりと様々だったが、共通しているのは、全く人がいないということだ。
彼女が人間をいったいどう思っているかについては、実はいまだ私にも正確には理解できていない。物語ではよく、神様というものは人を物凄く憎んでいるとか、あるいは愛しているとか、逆に全然興味が無いとか、極端な例で語られるものだが、彼女ことアマモはどの例にも属さない気が私はしていた。
言動こそ無慈悲で、人なんて虫けら以下の存在だと公言してはばからない彼女だが、かといって積極的に人を害すること自体はそう多くはない。少なくとも、私と一緒に時を過ごすようになってからは、一度も人を傷つけたことは無かった。
ただし、その身にときおり纏う殺気は本物で、彼女の前で死を覚悟したことは一度や二度では到底きかない。結局、私という人間が彼女のそばで生活できているのは、奇跡の産物でしかないのである。
「やっぱりあの子の考えは人知を超えているなぁ……」
私はそうぼやきながら、和やかな草原の雰囲気にすぅすぅと寝入ってしまった親友、ミハネの顔を覗き込んだ。彼女を連れて帰ったばかりか、新しく創造したこの空間で私とともに過ごすことを許すだなんて、今までのアマモからはかけ離れた行動に思えた。とにもかくにも自由気ままな彼女とも、朝から晩まで一緒に生活すること一か月、それなりに気心は知れたように思っていたが、今回ばかりは本当に複雑怪奇としか評せない。
なにより――一週間後に行うと定められた、私による茶番じみたコンペティション。あの場においては、ただただミハネを生還させることしか考えていなかったため、アマモの提案をほぼうのみにしたが、今こうして内容を冷静に振り返ってみると、あまりの率直さに自分でもびっくりしてしまう。
「単にミハネと張り合えそうな分野が、それしか無かったからなんだろうけど……。もうちょっと真面目に考えてれば……」
やり切れなくなって頭を抱え込んでいると、独り言がうるさかったのか、ミハネがすっと起き上がった。
「ごめん、起こしちゃった?」
月並みなセリフを吐く私に、彼女は手を振って応えると、「凄いよね」と言葉を漏らした。
「女神がどうとか言われても、さっぱりだったけど、こんなの見せられたら信じるしかないよ。この景色って、世界のどこかに『ある』わけじゃないんだっけ」
感極まった声でそう話しかけてくる彼女は、明らかに現実離れしたこの異空間に少しも物怖じした様子は無い。それどころか、堂々と昼寝をしていたくらいなのだから、もはや怖いとか嫌とかいった負の感情は、少しも覚えていないのだろう。高校から異空間へと連れて来られていまだ二日目、彼女の順応能力には目を見張るものがあった。
一週間に渡る謎の勝負が決定したあのすぐ後、いつものごとくアマモが遊びに出かけた隙を見計らって、私はミハネに一通りのことを説明したのだが、どんなに私が荒唐無稽なことを言っても、うんうんと頷いてしまうのだ。
私達の通う高校のあった元の世界と、ここは異なる空間であること。女神であるアマモに私は何の偶然か気に入られてしまい、一緒に生活していること。学校を休んでいた間、ここでずっと二人きりで過ごしていたということなどなど……。どれも一般的な常識に照らせば、一笑に付されて当然の与太話にしか聞こえないはずだが、彼女は全て真剣な表情で聞き入れる。
アマモとの勝負が終わらない限り、元の教室はおろか家にすら帰れないだろう、という点には、さすがにショックを受けたようだったが、衣食住は保証されている、と付け加えると、『なら、死ぬことはなさそうだし、大丈夫か』ときたものだ。
いやいやちょっとは怖がってよ、とあまりの潔さに、逆に不安に駆られる私に、彼女はにっこり笑いかけながら言った。
『だって、トワがいるから』
私は少し思い違いをしていたかもしれない。彼女はクラスの委員長だから、私に優しくしてくれていると信じ込んでいたが……もしかして。
「トワ。ねぇ、起きてる?」
ふいに現実のミハネの声が私の耳を打つ。
彼女の横顔に見惚れて、あらぬ妄想を繰り広げていた私は「うへっ」と情けない声を上げつつも我に返った。
「ご、ごめん。全然聞いてなかった」
「もう……。こんな時でも、ぼぉっとする癖は変わらないんだから。それで勇者についてなんだけど」
少し頬を膨らませた彼女はあらためて、いったい私のいう勇者が何者なのかと尋ねてきた。確かにその辺りの詳細な解説はまだだった。高校生になるまでの私の病状について、調べたと彼女は言っていたが、それと勇者という概念は密接に関わっている。
暖かな雰囲気の漂うこの場には似つかわしくない暗い話だし、私としてもできれば忘れたい嫌な記憶が多分に含まれていたが、ここは包み隠さず伝えることにした。
「どこから話したものかな……。端的に結論から言うとねぇ。アマモは私にとって、命の恩人。私が生まれた時から、まともに身体すら動かせない病気だったってのは、知っているでしょ? 狭い病室の中で、ずっと眠っているだけだった私を救い出してくれたその人が、アマモだったの」
医者の全てが匙を投げ、どこの病院も私の治療を諦めた。筋肉、神経、何から何まで私の肉体は役立たずで、歩いたり喋ったりなんて夢のまた夢。ずっと、一人きりの病室、ベッド上に横たわるだけの毎日を過ごしてきた。
「こう言っちゃなんだけど、動けない程度の病気の人って割といると思うんだよねぇ。先天性に限らなければ、世界中に何万人と。そんな中、私は一応、最新鋭の設備が整った病院で、それなりの看護を受けてきた。だからきっと、それだけなら不幸だって騒ぎ立てるほどの身分じゃ無かったんだろうけど……」
前置きをしないと、その先はどうしても言えなかった。数か月経った今でも、思い出すに嫌で怖くて吐き気がしてたまらなくなる。死ぬほどなんてものじゃない。だって、死んだら楽になれると当時の私は本気で考えていたのだから。
「私は目が見えなかった。耳も聞こえなかったし、匂いなんて当然。触覚も、温度も……私の五感は何一つだって世界を感じてくれなかったの。それなのに――思考だけは、はっきりしていた。そのせいで出ていたらしい脳波を読み取りやがったお医者様の一人が、私を新開発の睡眠学習装置だかなんだかに接続。絶対に体験できない知識や物語達を、勝手に頭に埋め込まれた。いずれ医療が進歩して、私の病を治療できた際に困らないように――ってね」
私の自意識は暗い暗い闇の中、なのに外の世界の情報は言葉という形のみで伝わってきた。
触れないのに、人肌の温かみを知る。見られないのに、草花の美しさを知る。通えないのに――学校の楽しさを知る。
「トワ……? ねぇ、大丈夫?」
ミハネの心配する声が、沈みかけていた私の意識を呼び覚ます。
そう……もう、過去のことだ。今はもう普通の女子高生。かつ、一応勇者。私には、アマモがいたから。
「ごめん、ちょっと……ねぇ……。とにかく、私の世界はどん底のそのまた下だったんだけど、ある日突然、あの女神が語り掛けてきたの」
鮮明な記憶――。
どれだけ死にたくても、自殺すらままならない無様な私。無間に思えた人生に絶望を塗りこめられていたその頃に、彼女の声が天から響いた。
『勇者にならない?』
ああ――。思えばアマモに話しかけられたのはそれが一番初めで、私はまさにその瞬間、彼女に一目惚れをしたんだ。
「勇者って言っても、つまりはアマモの玩具なんだけどね。ごく普通の子供達に異常な筋力や感知能力、異世界の知識を与えて、勇者を名乗らせる。で、自分を魔王的な悪役に見立てて、その気にさせた高校生達とここみたいな異空間でドンパチやって遊ぶわけ。すなわち勇者は特別でもなんでもなくて、それこそ数十人はいたんだって――今はなぜか全然見ないけど。
そんなアマモの暇つぶしに、偶然私という不良品が混じった。元がマイナスでも、女神様の奇跡は素晴らしく効き目があって、短い間だったけれど、ああして高校に通うことすらできるようになったの。そう考えたら、ミハネと会えたのもあの子のお陰なのかもなぁ……」
最後に、ずっと隣で聞いてくれていた彼女の名前を出して、私は長話を締めくくった。つらつらと並べると、何とも下らない、つまらない人生だ。自分で喋っていても気がめいってくる。私がそう冗談めかして笑いかけると、ミハネは苦しそうな、あるいは悲しそうな、何とも言えない微妙な表情をして、黙り込んだ。
そりゃ何も言えなくなるよね……と反省して、私は草むらの上に敷いたシートに、ごろりと寝転がった。相変わらず空模様は呆れるほどの晴天で、緩やかな気温はじっとしているとすぐに眠気が襲ってくる。アマモが創ったにしては、本当に良い空間だ。
しばらく二人して何もない地平線を眺めていたところ、ふいにぐらりと背をくっつけている地面が震動したような気がした。あくまでほんの少しの違和感――けれど、勘違いや気のせいでは決してない、現実味を持った揺れ。
私は即座に起き上がると、素早く周囲を見渡した。こと異空間においては、些細な変化でも油断は禁物だ。アマモのいたずらは実に唐突かつ狡猾で、ぼぅっとしていて痛い目を見たことは一度や二度ではない。
例を挙げるなら……海上を船に揺られていたら、ビルほどの高さはあるイカが大渦とともに出現したり、工場跡の廃墟の景色に見入っていたら、大型の機械が合体変形して巨大ロボになったりとかだ。しかもそれら全てが、私を狙って容赦なく、イカ墨とかキャノン砲とかで攻撃してくるのだ。しかも、本人はそれで私と遊んでいるつもりだから、始末に負えない。
……まぁ、彼女に殺されるのなら本望ではあるが――初めて顔を会わせた時に、私からそう言ったし。でも、もうちょっとイチャイチャしていたいというのも、また本音で……。